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【短編小説】T字路の突き当たりは海

 軽快なエンジン音を響かせて鮮やかなモンツァレッドのバイクが一台、ショッピングモールの駐輪場に入ってきた。タンクに描かれたアルファベットから、イタリア製の高級スポーツ車と分かる。
 ライダーはバイクを駐輪場の端に停車させるとエンジンを切り、ヘルメットとグラブを脱いだ。ミラーをのぞき込み、指を数回髪に通してヘルメットでつぶれた部分を直す。軽く日に焼けた三十代後半か四十代に差し掛かったばかりぐらいの男性だった。年齢の割には引き締まった体型から、習慣的になんらかの運動をしていることがうかがえる。
 バイクにまたがったままサイドスタンドをブーツのかかとで蹴り降ろすと、彼は駐輪場と隣り合わせの駐車場に目をやった。目線の先には一台、国産の白いクーペが止まっている。運転席には二十代後半くらいの整った丸顔をした女性がサングラスをかけて座っていた。
 男性が軽く右手を挙げると、クーペはエンジンを始動させて、駐輪場に横付けするように車を移動させてきた。男性がすばやくドアを開けて助手席にすべり込む。
 「ごめん、待っただろ?」
 「それほどでもないよ」
 軽く口角が上がった優しげな笑顔で彼女が小さく首を振る。彼を乗せるとクーペはショッピングモールの駐車場を出て、海辺へ向かう県道を南に走り始めた。進路の先には灰色がかった雲が海上に浮かんでいる。薄灰色の重い雲は、この土地が冬のまっただ中にあることを告げていた。
 県道はこの地方都市の中心部から二十分ほど真南に走ると、太平洋に突き当たって大きなT字路になり東西に分かれている。東向きには、道に沿って寂しげな砂浜が広がり、走る車も少ない。西は数キロ走ると大きな漁師町にたどり着く。
 クーペは突き当たったT字路を左折して東へと進路を取った。数え切れないくらいこちら側へ来たような気がする一方で、逆方向へは二人の時は一度も舵をきったことはなかった。数分走って空港の滑走路に近い、川の河口そばのモーテルの駐車場にクーペはすべり込んだ。駐車場の一番奥に停めると、付かず離れずの距離で二人はフロントまで歩き、鍵を受け取るとエレベーターに身をひそめた。ここまでほとんど会話らしい言葉はなかった。
 既に何度も来たことがある部屋に入るなり、彼女が口を開いた。
 「いつも不思議なんだけど、どんな理由で土曜の昼間に一人で家を出てこられるの?」
 「バイクに火を入れてくるっていってる」
 「こんな天気のくずれそうな日でも?」
 「うん」
 「間違いなくばれてると思うよ、嘘」
 屈託なく笑いながら彼女は断言した。彼の表情に薄い影がさした。

 彼が浴びる二回目のシャワーの音にまじって、外から雨音が聞こえ始めた。真冬でもこの土地では雪になることは少ない。
 部屋を出る前に、入念に会っていた痕跡を洗い流しておかなければならない。
 帰りの車の移り香は大丈夫だろうか―。
 シャツのボタンをとめる彼を見ながら彼女は、職場で耳にした、彼の妻がとても彼のことを愛しているという噂を思った。彼の妻も以前は同じ会社にいたので、自分の先輩にあたるといえばそうかもしれない。彼と恋愛結婚して、結婚と同時に退職していったと部長に聞いた。狭いこの土地では、すぐに誰かから誰かをたどれる。時々、その濃密で粘着質な人間の距離感にうんざりすることがある。
 彼は奥さんにどんな顔を見せているんだろう。自分の知っている、自信家なのに変に詰めが甘い姿だろうか。
 降り始めた雨はモーテルの駐車場を出る頃には結構な雨脚になった。激しくワイパーを動かしながら来た道を戻る。対向車のタイヤも派手に水しぶきを上げていた。
 雨の土曜日。夕方のショッピングモールは買い物客が増える。今戻ると誰かに見られるかもしれない。もう少し後のほうがいいね―。彼女がT字路に近い路肩の駐車スペースに、道路から運転席が見えにくいように海に向けてクーペを止めた。暗くなるのを待つ。
 カーオーディオのボリュームを下げながら、彼が口を開いた。
 「美晴はなんで俺とこんな関係続けてるの」
 「続けていていいとは思わないけどしょうがないかな、って」
 「しょうがないって?」
 二人が「こんな関係」になって三年ほどになる。直接のきっかけは、長引いた残業の後、なんとなく二人で飲みに行ったことだ。初めて二人で組んだ企画の成功の見通しが立ち、高揚感と酔いに任せて話をしているうちに、お互いの職場では見せない顔に気付いた。
 「奥さんすごく小村さんのこと愛してるんだってね」
 直接聞かれたことには答えず別のことを美晴は言った。
 「どう考えたって小村さんの浮気に奥さん気が付いてると思う」
 彼の顔に戸惑いの色が広がる。脳裏に「浮気」と「不倫」の違いってなんだろう、という疑問が意味なくよぎった。ま、どっちもよくない行いには間違いないな。
 「じゃあ、なんでなにもいわないの」
 「うーん、多分、それが奥さんの愛し方だから」
 「愛し方?」
 小村にとっては「愛してる」はドラマや映画の中だけでしか使われない言葉だ。実際にそんな言葉を口にするのは東京在住のドラマや映画にかぶれた地方出身者だけだよ。以前、美晴が冗談まじりに「愛してるっていってみて」といった時、彼はそういった。強く思い込んだ感じがいかにも小村らしかった。
 ばれてないわけがない、この人こんなにスキだらけなのに―。職場ではほぼ完璧だ。でも仕事を離れると思いがけず意外な面を見せることもある。今日だって、雨の中をバイクでどうしてたって言い訳をするんだろう。そんなオンの完璧ぶりとオフの無防備な姿のギャップも魅力なのか、美晴は彼と続いている。彼の妻と美晴は案外、同じ理由で彼が好きなのかもしれなかった。
 美晴は、こういうあまり他人にいえないような異性との付き合い方を自分がするようになるとは思っていなかった。こんな後ろ暗い付き合いは、安っぽいドラマか都会で生活している人たちだけの話だと思っていた。
 「あたしは若いころ、学校を卒業したら二年ぐらいで普通に結婚して、普通に子ども育ててるんだろうなって自分の将来を考えてた」
 海面を叩く雨粒を見ながら、美晴はつぶやいた。東の空からは夕闇が迫ってきている。
 「こんな狭い田舎で、こんな秘密めいた付き合いをするなんて」。美晴は軽く苦笑を浮かべて、言葉を続けた。小さな諦観が口調と表情ににじんだ。
 「釣った魚に餌をやらない、じゃなくて、釣った魚を大きめの生け簀にはなして、自由だと勘違いさせるんですよ。で、飽きたら料理しちゃうの。そんな愛し方するのかも、小村さんの奥さん」
 不思議と彼の妻がこう考えていると確信できた。やはり似たもの同士かもしれない。
 「怖いこというなよ。美晴こそ、『普通』を望むなら俺よりまともなのを見つけて結婚すれば?」
 突き放した、強がりめいたことを小村が言う。本当はあたしがほかの誰かのものになるのは悔しくてしょうがないくせに。あたしのことが惜しいくせに。彼の心の動きは読みやすくて、そんなところも愛らしく思えなくもない。
 「結婚っていう形に落ち着くとあたしの中でなにかが終わる気がする」
 美晴の強がりが小さく暴走した。
 「好きな人が結婚して、夫っていう形におさまっちゃうと、魅力を感じられなくなるかもしれない。家族には恋しないし、ときめいたりしないんじゃないかな」
 安定がほしい一方で、不安定なものにも引き付けられる自分のあやうさ。自分の口から出る言葉が、奇妙に自分の中の矛盾に気付かせる。
 「時々会って、瞬間的にベストの自分を見せているほうが、あたしは長く続く関係が築けると思う。四六時中一緒にいて、すっぴんの顔とかトイレ行く姿とか見せて幻滅させるのも嫌だし」
 自分から発せられる、思ってもない言葉に引きずられ始めた。数秒沈黙して、気持ちを立て直す。安定も不安定も、自分がどちらを望んでいるのか今は分からない。一番の望みは現状維持だ、少なくとも今のところは。
 「私も小村さんに飽きたら、ちゃんとします。小村さんと違って若い分、まだやり直せますから」
 美晴が敬語になった。小村にはもう彼女がこの話を続けたくないことが分かる。
 「そろそれ帰らなきゃいけませんね」
 「そうだね」
 車を発進させ、T字路を北に折れた。
 「さっきのT字路、西へ向かったことないね」
 「向こう側へ行くと、たまたますれ違った対向車に奥さんが乗っていて、見られた小村さんがすべて失うんです。信頼とか家庭とか、あたしとかを」
 暗くなり雨もやんだ。とりあえず彼はバイクで家へ帰れる。とりあえずは。

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