見出し画像

【短編小説】die See

 海面を切り裂くように船は進む。少し波が高かったが、空は晴れて海況は悪くなかった。
 「初めての外海なのにまるで船酔いしないとは、さすが船長のぼっちゃんだ。行く末は船乗り決定ですね」
 舵を握っている父に、オットーが言う。長く父の右腕を勤めている。
 「それは分からないさ。息子の将来は息子のものだ」
 父が応える。そのやりとりを聞きながらアドルフが操舵室の窓から右斜め前を見た時、海面をなにか大きなものの群れが泳いでいるのが見えた。
 「ファーティ(パパ)、あれ」
 父が双眼鏡を手に取り、アドルフが指差した方向を見る。
 「ザトウクジラの親子たちだな。一頭は生まれて間もないようだ。この海域で見かけるのは珍しいな」
 初めての外洋の景色の新鮮さに、アドルフは忙しくあちこちに目をやる。さらに別のものがその目に映った。
 「パパ、あっちにもなにかいるよ」
 今度は左舷の真横を指差した。父がその方向にも双眼鏡を向ける。
 「オルカの群れだ。多いな」
 「ぼっちゃん、目も良いじゃないですか。やっぱり船乗り決定ですよ」
 オットーが感嘆の声を上げた。
 「あのザトウの親子、オルカに襲われるかもしれませんね」
 オットーの言う通り、オルカはまっしぐらにザトウクジラの群れに向かっているようだった。
 「食べられちゃうの?」
 アドルフが不安気に父に目を向けた。
 「自然の摂理といえばそれまでだが…。オットー、船足を上げろ」
 「了解です」
 少し速度を早めた船はちょうど、ザトウクジラとオルカの群れに割って入るような形になった。思わぬ邪魔に驚いたのか、オルカの群れは海中に姿を消した。ザトウクジラを襲うのはあきらめたようだった。
 「これで良かったかい」
 父はアドルフに微笑んだ。その父もオットーも、前回の大戦で海軍の輸送任務に就き、生きて帰ってくることはなかった。

 「機関停止!」
 「浸水止まりません」
 「艦首で火災!リーベルトがやられました」
 艦内各所から発令所に被害報告が相次ぐ。連合国の駆逐艦の爆雷攻撃で、アドルフの潜水艦は甚大な損傷を受けていた。
 潜望鏡の少し前の床にはジーヴァニッヒが倒れている。至近距離で爆発した爆雷の衝撃で艦が大きく揺さぶられた時、運悪く頭を天井の配管にぶつけたようだ。不自然に曲がった首は、多分彼がもう息をしていないことを示している。
 「艦長、艦の沈降が制御できません。現在、深度一一〇メートル」
 副長のホルストが深度計を見ながらアドルフに告げる。
 「敵のスクリュー音は遠ざかりました。本艦の位置を見失ったのかもしれません」
 海中の音を拾うヘッドセットに集中しながら、測音手のミュラーが報告する。潜行中は彼の耳だけが艦の耳であり目だ。
 「沈降が加速。現在、深度一二五メートル」
 深度計の数字は一九〇メートルまでしか刻まれていない。それ以上だと、水圧に艦が耐えられなくなる。旧型でかつ各所に被害を受けているこの艦では、一九〇メートルまで達しなくても圧壊する可能性があった。
 艦は動力系統に致命的な被害を受けていた。蓄電池からモーターに電力供給できず、スクリューが回せない。漂いながら沈んでいた。
 「機関室、状況は?」
 艦内通信で呼び掛ける。
 「機関員はなんとか全員無事です。修理に全力を上げています」
 機関長のホフマンが応答する。
 「使えそうな蓄電池を繋ぎ直して推進力を取り戻せ。それ以外の者は浸水被害の拡大を防げ。けが人にも処置を」
 アドルフが矢継ぎ早に命令を下す。
 「艦首の火災は鎮火。魚雷は無事です」
 水雷長のノイマイヤーが報告する。
 「艦が頭から沈んでいます。できるだけ重量物を後ろへ移動させて下さい」
 じりじりと動く深度計の針を睨みながらホルストが声を上げる。水平を維持しないと、さらに沈降は前のめりに加速してしまう。艦前方からさまざまな物資が後部へ運ばれていく。けが人に混じって、ジーヴァニッヒとリーベルトの遺体も運ばれていった。
 機関室からの復旧報告をひたすら待つ。防水作業に当たっている乗組員たちもずぶ濡れだ。流れ込んだ海水は冷たく、歯を鳴らしながら水漏れ箇所に毛布を突っ込んだり、角材で壁を補強している。それでも浸水と沈降はおさまる気配がない。
 帰らなかった父たちのことが頭をよぎった。彼らはどんな最後を迎えたのだろう。深く暗い海へ、輸送船と運命を共にしたのだろうか。「ぼっちゃんは絶対、船乗りになるべきですよ」。オットーの愛想の良い笑顔と、言葉にはしなかったがそう期待していたであろう父の顔が浮かぶ。父の後を追うように海で生きる道を選んだ。海で過ごした時間はとっくに父よりも長くなった。ただ、時代が悪かった。二度目の大戦が起き、アドルフの乗る船は戦うための船になった。親子二代、海で命を落とすことになるのだろうか。
 「深度計、振り切りました。もう艦が…」
 ホルストの悲痛な声が、アドルフを現実に引き戻した。艦はもう、いつ圧壊してもおかしくない。金属のきしむ音が大きく響き始めた。
 「機関室、どうだ?」
 「艦長、どうにも時間が…」
 ホフマンが肩を振るわせながら返答する。懸命に作業を行っていた全員に絶望感が漂う。万策尽きようとしている。アドルフも艦長として、最後の決断を下す必要がある。
 「ホルスト、機密書類の処分を」
 暗号表や作戦計画が万一にも、圧壊した艦から流れ出て敵の手に渡らないようにしなければならない。周囲の全員がアドルフに視線を注ぐ。全員が次にアドルフが発するだろう言葉を分かっていた。「ご苦労だった。君たちとともに戦えたことを誇りに思う。これより全員の軍務を解く」だ。あとは死が待つだけということ。冷たい海水で溺れるか、艦が持ちこたえたとしても中の酸素が尽きるか。アドルフが口を開こうとしたその時、
 「艦長、艦前方に何か巨大な気配が…」
ミュラーが先に言葉を発した。
 「なんだ?敵の潜水艦か」
 ホルストが問う。
 「いえ、なにか巨大な柔らかいものが、極めて遅い速度で上方へ動いています。このままだと、本艦が突っ込みます」
 続いて、艦がなにかに乗り上げたように「ミシッ」と低く鈍い衝撃で揺れた。
 「着底でしょうか」
 ホルストがアドルフを見る。
 「いや、この海域でこの深度では底に達しない。隆起している地形もないはずだ」
 ホルストが再び深度計に目をやる。
 「針が戻っています。一九〇、一八六、一八三…。わずかずつですが浮いています」
 「Aufwärtsströmung(上昇流)!」
 ミュラーが声を上げる。海底から吹き上げる潮の流れに艦が乗ったのだ。
 「機関室、復旧急げ!全員も防水作業継続!」
 アドルフが最後の檄を飛ばす。海中の複雑な潮の流れが一縷の望みとなっていた。か細い奇蹟だが、この機を逃してはならない。
 奇蹟は続いた。
 「動力復旧。最低出力ですがスクリュー回せます」
 「上げ舵一〇度。浮上しろ」
 ホフマンの報告に間髪入れずアドルフが命じる。全員が歓喜の声を上げた。
 「深度一六〇!。一五五!。一五〇!」
 ホルストが続けざまに叫ぶ。極めてゆっくりではあるが、艦は海面を目指していた。心細すぎる光明だが、全員がこの奇蹟を神に感謝した。
 永遠にも感じられるような数分ののち、艦は海面に帰ってきた。アドルフは潜望鏡を上げる。海面を見渡そうとしたその時、艦がきょう何度目かの衝撃に揺さぶられた。疑うまでもなく、至近距離への着弾だった。急ぎ潜望鏡をのぞく。
 艦は敵の駆逐艦と艦首を向かい合わせるかたちで浮上していた。敵艦が主砲塔を旋回させ、照準を直しているのが分かった。爆雷でなく砲弾で仕留めるつもりらしい。浮かんでいること自体が奇蹟のこの艦では回避行動は取れない。ただし、敵艦と正対していることに万に一つの可能性があった。魚雷を放てば、当たる確率が高い位置にいる。
 「ノイマイヤー、魚雷発射用意! ホフマン、再潜行できそうか?」
 もうこれ以上、奇蹟は望めないかもしれない。さんざん連合国側の船を沈めてきた自分たちにだけ、そんなに都合良く幸運が訪れるはずもない。それでも今できることは、奇蹟を祈りながら魚雷を放つことだけだ。生きて帰るには、分が悪い賭けをするしかなかった。

 少しののち、煙を吹き上げて傾いている駆逐艦が一隻、取り残されたように浮かんでいるほかは、海は静けさを取り戻していた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?