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泣き笑いのエピソード・後編~ピンチも多いとどうでもよくなるんだよね(笑)

ここまでのお話。

さて、続きです(今回は長女1歳くらいまでの話でおしまいなんですが、長文です。ごめんなさい・笑)

5か月で認可園に無事転園でき、落ち着くかと思ったら「冬の集団保育の洗礼」で病気ばかり(泣)。それなのに仕事ではありがたくも重たいプロジェクトにアサインされて…ほんとうに綱渡りの日々に、「勝手に自宅を職場化」してしまうわたしでした(これは非合法wなので、当然ながら有休中の勝手な行動です。出産した平成2年度は有休なんて足りなくなって欠勤して、ボーナスから引かれてましたね。あの頃は看護休暇なんてものは存在しませんでしたし、病児保育もファミサポも何もありませんでした

たまたま保育園、自宅、職場、ついでに印刷会社さんも全部至近距離だった当時。幸いにして、チーフだったという職権乱用(?)で、アルバイトのアシスタントに自宅まで色校正持ってきてもらったり、印刷会社さんに直接取りに来てもらったり、チームメンバーを呼び出して、自宅で編集会議したり(インターネットも普及してませんからねw。パソコン通信と言われるニフティサーブに入ったのは、翌年w。夜な夜なニフティのワーキングマザーフォーラムとか、勝間和代さんがやってたムギ畑とかを読んでました・笑)

在宅勤務制度があったわけでも、わたしがマネージャーだったわけでもなく、単なるチーフ(主任みたいなもん)だったけど、
だって、子どもが保育園に行けないんだもん(泣)。
それでもわたしが関わらなくちゃまわらない仕事があれば、子どもを連れていくか、みんなに来てもらうかしかない
(夜職場に娘を連れていくことも、ありましたよね。みんな遊んでくれたなあ)
あとは親か病児保育ってことになるのだろうけど、病児保育なんてなかったし、親にはあまり頼みたくないって思っていたんですね(これは親というより夫婦の問題)。

でもこれは、勝手にやっていたことだし、もちろん扱いは出勤扱いではありません。お休みしてる状態のままです。(フレックスタイムで、月間総労働時間管理だったので、足りない分が賞与から引かれる)

そうでなくてもピンチだった、ギリギリの日々の中で

1月のとある日曜日の午後。
ふと見ると遊んでいたはずの長女がリビングの床で寝落ちしているのです。
新生児の時から、どんなに眠くても自動的には寝てくれない長女が、寝落ちするなんておかしいわけで(母の勘)、触ってみると、まるでドラマのように「熱っ!」と。

40度、ですよ。
体温計が壊れたかと思いました。いきなり、前触れなく40度?なにそれ?

あわてて駆け込んだ休日診療所で「はしかですね。ここでは無理なので、入院の準備をして日赤に行って下さい。」と。ガーン…!

当時、はしかの予防接種は1歳からでしたので、まだもちろん受けてなく、しかしいったいどこで拾った?っていうか入院ってどうすんの??
携帯電話が普及していない時代です(笑)
夫はいったいどこで何をしていたのか、とかまったく覚えてないんですが(多分取引先とゴルフとかだな)、とにかく家に帰って支度して、タクシー飛ばしました(中村日赤まで)。

結局、長女は入院を免れて、うちに連れて帰っては来れて、しかも根本的に丈夫だったらしく、予後はすごくよくて4日くらいで元気に。

が、
はしかです。
いくら順調でも簡単に登園させてはもらえません(保育園はパニックでしたよ。そりゃそうよね。0歳児全員感染恐怖あったでしょうからね。保育園の保健師さんが冷静な対処をしてくれていたのをよく覚えてます。彼女は若い保健師だったけど、すごく優秀であったかい人でしたねえ。)

約2週間休みました。
わたしも。

ありえないよね。
新メディア、とらばーゆ創刊日をはさんで、編集チーフがいないって。
(ちなみに雑誌といっても求人誌なので、編集チーフの役割はそれほどでもありませんが・汗)もちろんメンバーが家まで来てくれたり、無償在宅ワークはしていたのですが、それにしたって立場から言ってもありえない。

わたしはいったい何してるんだろう…?
なぜ、親に頼らなかったんだろう。夫と何を話していたんだろう。
その時の自分の意志決定がまったく思い出せないんです。

ただ言えることは、この時まさに、「人にゆだねること」の練習中だったんだなあということです。

そして、とにかく名古屋支社で(ワ―ママが)わたししかいない、ということが、良くも悪くも「試行錯誤」を許してくれることにつながっていたのかもしれません。若い人の多い会社で、女性は結婚しても仕事してたけど、妊娠したら退職していて、前例がないから誰もわからない。わたしがそうするしかない、と言えば、そういうものなのかと思うという雰囲気もありました。まあみんな遠巻きに見ていた、と言ったほうが正解なのでしょうね。
わたしの必死さに圧倒されたのか、面倒だったのか(笑)。だからなのか、わたしに続いて翌年から次々と産育休取る人が出始めたのですよ。会社はいい迷惑だったかもしれないけど、ね・笑)

実は、呪われた1月2月はこれだけじゃ終わりませんでした。こうなるとわたしより、子どもより、大変だったのはチームのみんなだって思いますよね?もちろんそうなのですが、でもそこは、自由人な上司と私の間で、プロジェクトを引き受けた時から準備ができていたので、わたしの仕事に大穴があくことはなかったのです。お飾りなのか?そうかもしれませんが(汗)、
実は、上司に「とらばーゆ創刊プロジェクトの編集チーフね」と言われたとき、さすがのずうずうしい私も「自信ありません」と一応言ったのですよ。そういう言い方だったかどうかは忘れましたが。だってムリじゃん、と思う程度の判断力は、いくら産後でぼーっとしていたとしても、ありました。けどね、上司ははるかに上手(うわて)でしたよ。彼の中にはとっくにわたしの使い方のイメージがあったんです。

1つは、
「担当記事は持たなくていい。方向性を決める、メンバーが迷ったら相談に乗る、上司とメンバーの間をつなぐのが仕事」という役割。上司と私は1歳しか違わないし、そのユニークな性格で、わたしは違和感なかったけど、アルバイトの若いメンバー(20代前半)との間にはギャップが結構ありましたから通訳が必要でした。これはわたしの得意領域。

そして2つめ、こちらの理由のほうが大きかったんだろうなと思うのは
「とらばーゆというメディアの広告塔として発信役をやってほしい」ということでした。
彼は広告戦略に長けた人で、
「今まさに、出産経験をして育児に奮闘しながら仕事している女性が、とらばーゆの担当編集チーフであることそのものが、重要なんだ」って考えたということです。ずるいよね(笑)。てなわけなので、新聞やらテレビやら雑誌やらに、適当に使われ、インタビューされまくっておりました。

この2つのミッションであれば、メンバーの相談には電話でだって対応できますし、取材は調整も出来ました(生放送が入ったときは仲のいい後輩が子守りに来てくれたり、夫が休みを取ったりしてましたっけね、みんな面白がってました・笑)

別に上司が「温情派」だったのではなく、「こうやって使うと組織にとって最大価値が出せる」と考えられる人だったのです。
よく、職場の人間関係が良くて、みんなが優しくて、だから続けられたんです、とかいうのとはまったく違うんだよなあ。これ(そしてそれは、同情されることが大嫌いなわたしにとって、一番よい在り方でもありました)。

ところが、2週間の休みから復活したその10日後くらいにまた…娘の微熱がずっと下がらないので、一度病院にいって血液検査したほうがいいですよ、と保育園で言われて、軽い気持ちで市民病院で検査してもらったんですけどね。家に帰ってきたばかり、くらいの時間に病院からうちに電話がかかってきましてね、
「絶対安静にして、明日もう一度来てください」なんて言われたものですから、それは本当に凹みました。大ピンチでした。
「風邪のウイルスが肝臓に入って炎症を起こしています。とにかく絶対安静で」って。本人すごく元気なんですが、そこからまた1週間動けませんでした。ここまで休めば、もうさすがに「わたしがいてもいなくても、関係なく仕事はまわる」状況になります。
つまり、わたしいなくてもいいよね、迷惑だよね(自分の心の声)です。これは一番つらかった。そのどん底からはい出せたきっかけはまた、意外なところにありました。

なぜわたしはそのとき、自分で全部抱え込んだのか、今はよく思い出せません。夫が非協力的だったのか?いや、そういうわけではなくて(彼は仕事を辞めろとは一度も言ったことありませんし、わたしを責めたこともないです)ただ、彼もその頃からずっとこの後も忙しすぎたのと、経営が徐々にひっ迫してきていてどうしようもなかったのですが。
ともかく、わたしがいなくてもとりあえず仕事が流れるような体制に落ち着きながらもまあ、ぐずぐずだましだましで仕事にいっておりました。

そこからしばらくしたのち、確か2月の後半くらいに、とらばーゆの創刊記念パーティが開催されました。社員、アルバイト一同と、お世話になったたくさんの外部スタッフ、印刷会社、広告代理店、営業代理店、もちろん東京から偉い人も来てのパーティで、わたしたちの立場はホスト側。
でもまあ、身内のお疲れ様会の性質の強い場でした。カジュアルだけど盛大で華やかなそのパーティ、夜ということもあり、わたしは行くのをやめようかと思っていたのですが、上司から「絶対に来るように」という命令だったので、娘を夫に託して出席しました。

創刊以来、飛ぶ鳥を落とす勢いで大ブームになり、売り上げも販売部数も絶好調で、メディアにもたくさん取り上げられていたこともあり、パーティの雰囲気はノリノリ。編集のみんなもハイテンションでした。
…唯一、わたしを除いて。

だってわたしは、その状況に「何一つ貢献できていない」と思いましたし、華やかであればあるほど、居場所がなく、だれも何も言わないのに「責められているように思い」、会場の隅っこでぼんやりとしていました。そこにふらりと自由人の上司がやってきました。

そして一言、別にわたしの顔を見るでもなんでもなく、あさってのほうを向いたまま、わたしに淡々とこう言って去っていきました。

「俺はさ(独身だから)よくわかんないけど、子どもは病気をするもんなんだろ。…辞めるなよ」

泣きました。そして、この一言で、わたしは踏みとどまる決意が固まりました。なんとか、とにかくこの場で辞めずにがんばろう。いつか、誰かに何かを返せるように。
…そう思いました。

ちなみに、この上司は、こういうとすごい人格者みたいですが、まったくそういうタイプじゃないのです(笑)。いろいろあるんです、書けませんが(笑)。でもまあ、人生で2回くらい彼の言葉に救われているので、残りの傍若無人(笑)はまあ、いいかなって。

その後もわたしの仕事は落ち着かない状態が続きながらも、長女は1歳を過ぎたら嘘のように丈夫になり、1年で5年分の病気をしたかのように休まなくなりました。そして、わたしも徐々にペースが出来てきて、遅ればせながら社内の編集者のコンテストで賞をもらったりもして、少しずつ自分なりの働き方、仕事の面白さを再構築できていったのです。ここまで長かった…!

今回のシリーズはこのへんで。
このあと次女が4歳半違いで産まれ、そこから夫死別っていうシャレにならない事件やら何やらがあり(苦笑)、仕事も迷走してのドツボにハマった30代が続くんですけどね。まあ、今思えば全部がよきネタです(笑)。

これを読んでわたしが特別な人とか、すごい人とか誤解されるとほんと困るんですけど、そこに球が飛んできたからバット振り回すしかなかった、んですよ。そんな目に合わないほうがいいに決まってます(笑)。でもこれらが今、わたしの仕事には全部生きているので、まあよかったかなって思うこの頃です。

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