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小説 恋だけ

これが恋

 深い緑色の地模様のあるカーテンとカーテンの隙間から漏れる日差しがミイの顔に届いた。眩しさに朝の陽ざしを感じた。ミイは知らない匂いに包まれ目覚め、ぼんやり日差しの根元をたどると見知らぬ庭が見えた。
 男の声が聞こえてきた。
「ごめん。下痢しちゃった。悪いが午前の仕事を変わってくれる?午後は大丈夫。宜しく頼む。」
 ミイは漠然と、呆然という言葉が今の為にあると思えた。聞こえてくる男の声の顔が浮かばない。部屋を見回すとホテルに思えた。初めて見る天井、ミイは戸惑いながらも深呼吸をし目を瞑った。知らない匂いのする薄い羽毛布団に手を入れた。
「ああ。」
 下着は無かった。シャワーの音が聞こえてきた。ホテルならベットの脇のナイトテーブルにホテルの案内ファイルがあると閃き、身を乗り出してファイルを捜した。在った。窓から優しく風が吹き、カーテンの隙間が広がり、はっきりとファイルの表紙の字が読めた。
『山の上ホテル』
 今、自分は男とホテルに居る。ミイは落ち着けと自分に語りかけ何とか思い出そうと必死で記憶をたどったが、北風が吹いた。その時、シャワーの音が止まった。
『騒いではダメ。寝ているように装おう。』
 記憶にない男に恐怖を感じながら、ミイの脳が体に指令した。
『いざとなれば男を蹴飛ばし逃げる準備も。怖くない人でありますように。』
と祈った。
 男がバスルームから出て近づいて来た。そしてミイの寝ているベッドに座った。そして優しく薄い羽毛布団の上からミイの体を撫で続けた。ミイは微動打もせず寝ている振りをした。
 男は親しそうに横に寝転がり、羽毛布団の中に手を入れてきた。ミイは勇気を振り絞り、
「辞めて。」
と消えそうな小声で言った。
「ミイ、おはよう。」
 先ほどの電話で話す声と違う、明るく穏やかな男の声であった。その男の親しげな名の呼び方にミイは嫌悪を抱いたが、男の顔を見る勇気はなかった。
「ここは?」
「ホテルだよ。」
 薄暗い部屋の中で、チラッと男の顔を見た。男は20代後半のキリッとした端正な顔立ちであった。ミイは少し安堵した。
「もう一度しようか。」
 男は、はにかむように笑いながら、楽しそうにに言った。ミイは、昨日よほど親しくしていたと分かった。
「ううん。」
 消えるような声でミイは拒み、シーツを引き上げて胸にきつく巻いた。沈黙が生まれた。その沈黙の中、ミイは記憶をたどった。
 昨夜は高校時代の友達である智実が営む六本木のクラブに高校の仲良し3人と遊びに行き、夜は智実のマンションに泊まる予定をしていたのを思い出した。
 智実の店で客の数人と数個のショットグラスに1杯だけウオッカを入れて、他のグラスには水を入れ、誰がウォッカグラスを飲んだかを当てる、ロシアンルーレットゲームを何度もしたのを思い出した。ミイは3,4杯ウォッカを飲んだ。しかしこの男がそこに居た記憶はない。
「じゃあ、ミイの頬にキスだけでもさせてくれる?それで我慢するから。」
男の声は心地よいほど女の扱いに慣れていた。
「ダメ。」
はっきり断り、布団の中に顔を埋めた。男は昨夜の親密さを表すように、
「昨日俺は君の全身を洗わされたよ。気持ちの良いタオルで。あれ気持ちいいね。」
「タオルって?」
「手袋のボディタオル。」
そのボディタオルは智実へのトルコ旅行土産として渡すはずだった。
「智実は?」
「覚えてないの?」
 ミイは顔を隠したまま小声で言った。
「覚えているわ。でもちょっとところどころ思い出せない。」
「ミイが俺を誘ったんだよ。君に選ばれてすごく嬉しかった。それは覚えているでしょ?」
「私が選んだの?どこで?あっもう言わなくていい。」
「あんなに仲良くなれたのに、昨日みたいに頬にキスして欲しいな。」
 ミイはあまりに女馴れしたしつこい男に思え、
「昨日したでしょ?」
「俺にキスしたことは思い出して。」
 男の言葉は説得力があった。それはミイから誘ったゆえの自信と分かってきた。ミイは自分に呆れながらも可愛い男と思え、シーツから顔だけだし男が望むように頬に軽くキスをした。
 力で押さえてくるかと思ったが男はそれ以上何もしなかった。ミイは自分が誘いこうなったと、さらに自覚した。しかもキスをすると不思議にも安心感が生まれ、うっすらと心にときめきが芽生えた。優しい接し方をする男である。素敵な男だったと思えた。
 ミイは少し笑うかのように、
「いい頬の感触ね。あまり覚えて居ないのだけど、なんとなくキスして気持ちいいわ。」
「君が話した岡本太郎の話を実現したんだよ。避妊もちゃんとしていたよ。ミイのお父さんは面白い人だね。本当にミイの人生を大事に願っていらしたんだろう。」
 ミイは岡本太郎と父の話を聞き、全てを理解した。
「今、何時?」
「8時だよ。」
「シャワーを浴びてくるわ。」
「一緒に浴びよう。」
この言葉に昨日の延長を感じ、ミイはイラッとし、
「今日は自分で洗いたいの。」
 さらりと冷たく告げた。寝たまま羽毛布団の白いカバーシーツを体に巻き、ベッドから出てバスルームに入った。智実に上げるはずのトルコの絹のボディタオルがバスルームのタオル掛けに掛かっていた。横に雑然とミイの下着とストッキングも掛けられていた。
「これで洗わせたんだ。」
 ため息が出た。どうせ『肌がツルツルになるから男もすべきエチケット』とでも言ったのだろうと想像できた。そのボディタオルは使わず、ホテルのフェイスタオルで自分の全身を泡だらけにして洗った。
 シャワーは泡と共に、すべてを流している気がした。自分に対するいら立ちも、記憶のない情けなさも、過ぎた時間に思えた。どんな時間を過ごしたのか知りたい気持ちと、智実や友達たちへの説明の為に、この男から少しは話を聞かないといけないと気付いた。
 ミイは本当の自分に目覚め、バスタオルを巻き、棚にあったホテルのバスローブを着、紐をギュッと絞め、下着とストッキングをたたんで持ち、鏡の中に余裕ある女の笑顔を見てからバスルームを出た。

 バスルームから出ると、ベットルームとソファーセットは別の部屋に置かれている部屋であり、地模様の厚いカーテンとレースのカーテンはお揃いの柄。その奥に狭い庭が見えた。とても閑静なホテルの部屋だ。この部屋を選ぶことから、よほど遊び慣れている男を誘ったと笑えもした。
 バスローブの裾をキチリと合わせ、ベッドとは別の部屋に置かれたソファーに、庭に背を向けてミイは座わった。男はベッドに座ったままビールを飲んでいた。
「ミイも飲む?飲むとすっきりするよ。」
 ミイは男に馴れ馴れしくミイと呼ばれる度に懺悔が押し寄せた。
男は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、グラスに注ぎ、ミイが座るソファーの前のテーブルに置いた。そしてベッドに戻り座った。ミイは一気にグラスのビールを飲み干した。
 その時、庭の窓から強い風が部屋に入ってきた。カーテンが大きく捲れ、太陽の日差しがベットに座る男の顔を照らした。ミイは胸がときめく衝撃を受けた。ミイの心に爽やかな風が届き、怖さは消えた。
 ミイは自然に笑みが浮かび、普通に話し始めた。
「ビールをありがとう。二日酔いで少し頭痛もするわ。ねえ教えて。私どうして貴方とここに居るの。」
 男は少し参ったなぁと言う様子で笑いながら話を始めた。男の説明はこうだった。
 昨夜は六本木で夜11時頃に知人の店のオープン祝いを兼ね、男の大学の同期会をしていた。
 その時にミイが女3人と店に入ってきて、十数人が座る同期会の男達の中からその男を選び、横に座り、頬に優しくキスをし、耳元で店を出ようと猫の鳴き声で誘った。男はすぐにその話に乗り、2人で店を出たと言う事だった。
「今は酔った女に、と俺にも良心の呵責があるが、誘い方の大胆さと猫のマネをしていた可愛さに理性が飛んだ。全く覚えていないのなら、俺が謝るべきかも知れないね。」
ミイはこの男が話した通りだろう理解した。岡本太郎と名を聞いた時に自分から望んだことだと納得していた。
「ううん、きっと確かに私が誘っているわ。岡本太郎さんって画家さんが居らしたでしょ?フランスの公共のバスできれいなフランス女性と目と目が合って、そのままホテルに行き、名も知らないままと。それこそが本物の恋だという話を聞いたか読んだかして、ずっとその恋に憧れていたの。どんな恋だろうって。それを実践したのね。
 避妊も話したのね。そう、父が亡くなる病床で私に……。こうすれば自分を守れる。レイプされた時でも自分を守れと。」 ミイは男をみながら少しお茶目に話した。そして日差しを浴びて眩しそうにしている男を見ながらクスクス笑い始めた。
「貴方ってとてもステキね。貴方を見て私はどんなに酔っぱらっていても自分の好みをちゃんと捕まえるって自信を持ったわ。私が誘っておいて全く覚えて居なくて。」
 ミイはため息をつき、男を見つめた。ミイの血が沸き立つのを感じた。そっと立ち上がり男の座るベッドに歩き、そして手で男の頬を撫でキスをした。耳元に唇を移し、
「どうする?これは私の意志よ。」
 男はにこやかな笑顔でミイをベッドに引き寄せた。
「昨日、君に選ばれて頬にキスされた時に、恋に落ちたと感じた。」
「私はまだ恋に落ちてないわ。でも身体は貴方を覚えているみたい。私の唇が貴方を誘いたいみたい。はっきりと貴方を覚えておきたいわ。」
 ミイは微笑みながら大きな目で男の目をじっと見つめた。男はミイを引き寄せ、口をふさいだ。

 ミイは心地よい眠気から覚めた。男はミイの乳首を摘まみ、弄り硬くし、キスし柔らかくしと遊んでいた。ミイの身体がまた男を欲しくなり始めた。ミイは男の頭を撫で、
「もうダメ。」
 ミイは親しげな微笑みで男の手を軽く払い、素早くテレビの上に掛かっていたベージュのワンピースを着た。そしてドア前に落ちていたベージュのハイヒールを履き、部屋の隅に放られていたベージュのハンドバックを持った。ベッドに居た女とは別のいつものミイに切り替えた。
「もう行かないと。今何時?」
「もうすぐ11時になる。これ俺の名刺。ミイのLINE教えてくれる?」
「ううん、恋だけがいい。」
「いやだ。一緒にごはん食べたい。」
男は可愛らしくミイに言った。
「ううん。下痢と言って会社休んだでしょ?」
男は笑った。
「聞いていたのか。急に休むのには下痢が一番だよ。下痢していたらどうしようもないからね。」
「私が誘ったから部屋代は私が払うわ。」
「俺が払う。」
「いいえ、私が誘ったもの。でも……フロントにはちょっと行きたくないかな。じゃあ、キスをもう1回。それで良いわね。」
ミイは男の傍までゆっくり歩き、手で男の頭を撫で、頬に軽くキスをした。 
 耳元に
「ねぇ、昨日の私と今の私とどっちが好き?」
囁きを残し、ドアに向かった。
「今!次は俺から誘う。」
ミイの背中に告げた。ミイは嬉しそうに振り返り、男にミイの笑顔が焼きついた。
「そう?元気でね。」
ミイはドアを開け、違う空気を吸った。ホテルの廊下を歩きながらコメディ映画を観た後の思いでいた。恥ずかしさが少し唇に残り、不思議な満足感があった。旅した心は、楽しさで満ちていた。

 

恋の埋火

 その日の夜、夕闇が迫り始めた7時頃、六本木は雨が降っていた。土曜日の六本木なのにいつものざわめきは無く、閑散としていた。
 六本木の交差点にある喫茶店『アマンド』の横に、流れるように下る坂道がある。そこを5分ほど下った所に、クラブや飲み屋が集まる商業ビルがあり、4階にカラオケスナック『マイン』が昨日オープンした。
 高山が、エレベーターで4階に着くと、多くの花で飾られたフロア―は前夜と違い明るかった。『マイン』に入ると、多くの花が飾られた中、オーナーの久美子が着物の袖を引き上げ、拭き掃除をしていた。
「ママ、いい?」
「あら、高山さん、いらっしゃい。」
「昨日は、迷惑かけたかな?」
「昨日?なんの事?水商売は水に流し何でも忘れるのが仕事よ。」
「猫を連れ去ったから謝りに来た。」
「可愛い猫だったね。でもあの後、猫探しになっちゃってちょっと大変だったのよ。」
「合田に聞いた。ビールくれる?」
「合田さんが心配していたわ。高山のする事じゃないって。」
「そうだよなぁ。今までの俺のする事じゃないな。」
高山は、嬉しそうに話した。
「俺、頭がおかしくなっちゃった。今日もあの可愛すぎる猫を捜しに来た。」
「惚れちゃった?」
「あの猫が気になって、一日中頭から離れないから捜しに来た。」
「ミイちゃんと言っていたわね。隣の店のママの知り合いみたい。ママが後から来て、ずいぶんミイちゃんのスマホを鳴らしまくっていたわ。あと合田さんが凄く怒っていらしたわ。」
「ごめん、俺、盛りのついたドラ猫になっちゃった。」
高山は思い出しながらニヤッと笑い両肘をカウンターに付き顔を乗せ、
「ママ、岡本太郎って知っている?」
「大阪万博の太陽の塔を作った芸術家でしょう?」
「岡本太郎がパリへ留学中に、バスの中できれいなフランス女性と目と目が合ってそのままホテルに行って名も知らないって。それが本物の恋だと岡本太郎が言っていたのを実践した。」
「えっ?」
久美子は手が滑りカウンターにビールをこぼした。
「名刺も受け取らないし、名前もミイしか分からない。」
久美子はこぼしたビールをペーパータオルで拭きながら、
「気を悪くするかも知れないけれど、これっきりなんじゃない?」
高山はビールを少し飲みナッツを口に入れた。
「だろうな。朝起きたらミイは全く覚えていなかった。あんなに酔った女と悪かったかなぁと俺も良心の呵責があった。
 俺が完全に理性を失ったなぁ。こんなことをペラペラ言うのも、今日の俺はどうかしてると思うが、胸が一杯で猫捜しに来た。」
「貴方が遊ばれたのね。」
「そうだよ。選ばれて光栄に思う。」
 高山は嬉しそうに久美子に伝えた。久美子はバーボンのボトルを取り出し水割りを作った。高山はそのグラスを手に取り氷を見ながらため息をついた。
「会いたいんだ。昨日ここにミイが入って来て、一目見た時に空気が止まった気がした。ミイが隣に座った時、俺は周りの手前迷惑そうな顔をしたが、内心嬉しくて堪らなかった。
 ミイが小声で猫の鳴きまねをしながら俺の頬にキスした時、どうやって誘おうかと思ったら、ミイが俺を誘ってくれた。それで俺はすぐに連れ出した。誘われてものすごく嬉しかったんだ。岡本太郎の気持ちそのままかな?」
「合田さんが貴方には彼女がいるって心配していたわ。」
「居るよ。もう3年近く付き合っている同僚。合田ならしないだろう。」
「ミイちゃんとは、このまま遊びにした方がいいわよ。」
「いや会いたい。昨日の今日で恥ずかしい思いはあるけど、だから今日ココに来たんだ。」
「ミイちゃんが隣の店に勤めているのなら簡単ね。」
「隣の店に勤めているんじゃないのかな?久美子ママから聞いてもらえないか。」
久美子は着物の袖を直した。
「わかったわ。様子を見てから聞くわね。今日は貴方も冷静じゃないみたいだし、同僚の彼女さんが居るのにダメよ。一時の恋の炎かもしれないでしょ?
 昨日の今日だから燃え上がっているだけなら、ミイちゃんが可哀想。少し落ち着いてからにしましょう。でもそのミイちゃんが羨ましいなぁ。高山さんにこんなに思われるなんて。」
「ミイが勤めているなら毎日会いたい。楽しみができた。」
 素直にニコニコ笑う高山に対し、久美子は少し呆れながらも応援したくなっていた。
「お勤めしていると良いわね。あれだけの美人だと隣の店ではなさそうね。よほど高い店でしょうね。同伴して、最後までずっと待ってテイクアウトするの?高山さんが、ホステスに惚れ込んだ男の典型になるの?」
 久美子はホステスに入れ込んだ男のパターン通りになる覚悟の高山がおかしかった。これ程の男が、そんなことをするのかと信じがたかった。
「普通の男だよ。毎日テイクアウトしたい!」
「1週間したら冷めるわ。」
「早く冷めて欲しい。今日は1日中身体が熱かった。思い出し笑いをしてニヤニヤしっぱなしだった。ところで気がせくから隣の店を覗きたいけれど。」
「あそこは一応クラブだから土曜日はお休み。ここのようなカラオケスナックでは無いわ。」

 翌週の金曜日、午後8時過ぎに高山が『マイン』に来た。店内は何組かの客でカラオケで盛り上がり賑わっていた。
 出迎えた久美子は高山をカウンターに座らせ、ホステス2人に高山以外の客に氷とミネラルウォーターを出す指示をしてから高山の横に座った。高山は久美子の言いにくそうな顔に気づいた。久美子は高山にビールを注ぎながら、
「猫の熱は少し冷めた?」
 高山はビールを飲み干した。久美子がまたビールを注いだ。高山はまた飲み干した。
「いや仕事が手に付かないほどだ。今週、何回もこのビルの前まで来た。」
久美子は、カウンターの木目を見ながら話し始めた。
「あのね。隣の店のママは、智実さんと言うのだけれど、ミイちゃんと小学校から同級生だって。
 小学校からエスカレーターの私立の女子校で、先週は高校時代の仲良しさん達が智実さんの家に泊まるという事で集まったそうなの。年に何回かはそうしているらしいわ。
 ミイちゃんはとにかくお酒に強くて、今まであんなに酔ったことが無かったのに、この前はあんなに酔っぱらって、ああいうことに……。
 智実さんがミイちゃんに電話をして聞いてくれて、ミイちゃんから『ありがとう。会いたいと言って貰えてとても嬉しい。でも思い出で。』って。」
 「……」
言葉を無くした高山に、久美子は言い難そうに、
「智実さんは気さくでざっくばらんな人なの。小さい頃からミイちゃんのことを何でも知っているみたいで、ミイちゃんは高校生の頃にお父様を亡くしてお母様がお兄さんとミイちゃんを育てたらしいわ。
 ミイちゃんは、1年前にお兄さんのお友達と婚約していてもうすぐ結婚だって。」
 高山は目を瞑った。そして『ああ』と深い落胆のため息をついた。沈黙のあと、
「……ママありがとう。ミイの気持ちまで聞いてくれて。迷惑かけたね。」
「ううん残念ね。役に立てなくてごめんなさいね。」
「猫に飼い主が居たんだね。」
「あんなに可愛い猫だもの、そりゃあ居るわよ。」

 六本木のスナック『マイン』が開店して、1か月が経った。真夏の東京の夜は蒸し暑い。昼に熱せられたコンクリート反射熱と、雑居ビルの裏側に並ぶ沢山のクーラーの室外機からの熱が街中に籠っていた。その日、合田が久し振りに『マイン』を訪れた。
 合田が店に入ると魚を焼く匂いがした。カウンターに高山が一人で座り、水割りを飲んでいた。他に客は居ず、ホステス1人がカラオケのマイクなどの拭き掃除をしていた。久美子はカウンターの奥で料理をしているようだ。「ママ、合田です。ビールをお願いします。」
着物にエプロンをした久美子が出てきた。
「あら合田さんお久し振りね。今日も暑かったわね。京ちゃん、お客様がいらしたら『いらっしゃいませ』は言ってね。合田さん、ごめんなさいね。」
「気にしなくていいよ。今日も蒸し暑かったね。地下鉄の駅からここまで歩いただけで汗でびっしょりだ。
おい高山、昼に話があると言っただろう。黙って先に帰るのは無いだろう。」
「ああそうだったか?忘れていた。悪かった。」
 高山はまるで気のない返事で黙り酒を飲んでいた。久美子が合田に耳打ちし、
「このところずっとこうなの。」
合田は高山の頬を見て痩せたと感じた。
「夏バテか?元気ないな。」
 高山は薄笑いを浮かべたが、言葉も返さない。
「あのさ、私の患者でお前に手術を頼んだ佐藤さんだが、手術の執刀医を他の医師に変えたと聞いて不安らしく相談された。来週手術だよな。なぜお前が手術をしないんだ?」
 高山は何も言わすに水割りを飲み続けていた。
「おい、ちゃんと話せよ。」
高山が肩の力が抜けているように手をぶらりとさせ、
「自信がない。自信が無くて手術をしていいのか?」
合田はあまりに憔悴しているような高山に返す言葉は無かった。合田は高山のやつれた横顔を見ながら、
「分かった。その理由なら今のお前を見れば分かる。はっきり言ってくれてありがとう。でもそれを私が佐藤さんには言えないから、お前の口から、直接佐藤さんに言ってくれ。今はお前の患者だ。頼むぞ。」
「ああ悪かった。明日ちゃんと話す。」
合田は高山のこの言葉には気力があると受け取れた。
 久美子が焼いたアジの開きとご飯とみそ汁を持って来た。
「お前ここで何を食べているんだ?」
高山は平然と、
「晩飯。」
合田はこれが高山の今の状態だと判り、高山と話すのを止めた。
「じゃあ私は帰るから。佐藤さんの件はよろしく頼んだぞ。」
「分かった。明日必ず話します。迷惑をかけて悪かった。」
高山はそう言い、軽く合田に頭を下げた。
合田は憤慨を隠せず、ビールに口を付けただけで店を出た。久美子も追いかけてきて合田に、
「この頃の高山さんはああなの。もうすぐ立ち直るでしょう。」
「驚いた。まるっきり生気を失くしてる。あんな高山を見るのは初めてだ。」
「別に……大丈夫と思うけれど不安よね。ますます最近は会話をしなくなっているわ。黙って飲んでご飯を食べて帰る。痛々しくて見てられないわ。」
「もしかしてあの猫か?」
久美子は合田の顔を見て、目でうなずいた。
「もう会わないと断られたの。時間が解決するでしょう。」
「初めての失恋か。どうしようもないな。」
 合田は高山の居る『マイン』を見た。エレベーターが開き合田は乗った。久美子はエレベーターが閉まるまでお辞儀をしていた。
 合田は高山が言った『自信がない』と言う言葉がいつも傲慢と思えるほど強気で、自信家であった高山の口から出たことが信じがたかった。
 合田が六本木の道を歩いていると、街中が猫だらけに見えた。しかしあの猫だけが、高山の心にどれほど深く住み着いたと知った。5分も歩かぬうちに合田の額から汗は流れ出ていた。立ち止まりポケットからアイロンのかかったハンカチを出し、汗をぬぐった。そしてスマホで電話した。
「お母さん?今から帰る。ケーキを買って帰るから、子供たちを寝かさないで。」
 その電話から、子供たちの楽しそうにしている様子が伝わってきた。幸せを感じた合田であった。

 その翌日の午後、白衣を着た高山は患者である佐藤とその妻の待つ病室に入った。佐藤は80歳近い高齢者だ。高山は説明が足らず、執刀医の変更したために心配をかけたことを謝罪した。すると佐藤の妻が、
「内科の合田先生から、高山先生なら安心だと聞いていたので、他の先生を不安に思うわけではないのですが、やはり気になり心配で……。」
高山はこの不安げな高齢の妻に詭弁を言えなかった。
「すみません。私の個人的な都合です。佐藤さんに安心して手術をお受け戴きたいので本当の事を話します。私が今、失恋で精神状態が安定せず、手術に自信を無くしているんです。ですから今月は手術をしていません。それで執刀医の変更をお願いしたのです。」
 佐藤はベッドに寝ていたのに飛び起きた。
「先生の失恋ですか?わしの病状が悪くてではないのですね。」 
「はい、そうです。私が失恋で、心の不安定な状態が続いています。」
「先生は正直でよろしいと思います。失恋のあてない心ですか。懐かしい。」
とニコニコ微笑んだ。佐藤の妻も微笑んで高山を見た。佐藤は、
「私は78歳です。もう70歳まで生きれば十分と思っていましたが、何とかもう少しでも長く生きたいと思っています。人間は欲深いですなぁ。合田先生から高山先生をご推薦して戴き、お任せすると決めていたのに、急に執刀医が変わると聞いて、何かあると思い暗い気持ちでいました。理由を伺いホッとしました。その方をよほどお好きなのですね。」
 高山は素直に笑顔を見せ、こくりと肯いた。高山は正直に話した。
「自分で自分が馬鹿だなぁと思います。今までは勉強でも仕事でもスポーツでも、努力さえすれば何とかなると思ってきました。勉強は知らないことを勉強するほど分かるようになるのが楽しくて、努力をすることが楽しかったんです。人一倍努力することが、自分で自分を褒められるから好きでした。
 しかし世の中には努力してもどうにもならないことがあると今頃知ったようです。諦めないといけないと解っていても、諦められないままなんです。」
 高山は佐藤の手を見つめた。しわだらけで皮膚のたるんだ高齢者の手を美しいと思えた。
「佐藤さん、こういう事を聞くのは失礼だとは思うのですが、どうやって乗り越えたらいいのでしょう?」
佐藤の妻は、しわだらけの顔で高山を見ながら、
「先生、たぶん今の私の気持ちと同じです。お爺さんの病気がどうなるんだろうと毎日悩んで、何もできないのに、不安ばかりが押し寄せてくる辛い日々ですよ。」
佐藤もまた、
「失恋とは少し違うが、わしも手術に耐えられるかと不安がいっぱいです。手術を受けてそのまま寝たきりになると、これにもっと苦労を掛けます。悩んでもどうしようもないのに毎日、どうしようもない不安が押し寄せてきます。不安いっぱいです。」
高山は二人をじっと見た。
「そうですか。患者さんはこの思いですか。どうしようもないこの不安は辛いですね。自分一人が運悪く、抜け出せないような闇夜に入ってしまったような思いでしたが、もしかして私は患者さんの不安に気付けたのかもしれませんね。」
高山は自分の手を見た。
「患者さんはこんな不安の中にか。こんな辛い思いですか……辛いなぁ。
 私は、佐藤さんの不安は手伝うことができます。私に手術をやらせていただけますか?コロコロ変わる私ですが、今も信じてくださいますか?」
佐藤夫婦は笑っていた。
「こんな老いぼれ、生きていても何の役にもたたないが、婆さんと少しでも長く居たいと思うだけです。」
 高山は佐藤の手を握り、
「私の精一杯で尽くしますから、こんな私を信じてください。今まで以上に頑張れると思います。」
「合田先生から、主人は高齢者だからこの手術は時間が勝負になると言われました。だから手術が早くて上手な高山先生に頼むのが安心だとお聞きしていたのでお願いしたいです。」
「この前までは誰にも負けない自信だけはありました。今はもっと全力を出し尽くせる気がします。」
「だがこんな老いぼれ、それほどの価値は無いが。」
「嫌です。少しでも長く生きてください。」
「はいはい分かりました。先生、こういう風にわしは生きなくてはならないのですよ。」
高山の笑顔が余裕に満ちていた。
「私も前以上に全力でやりますから、佐藤さんも全力で生きてやると奥さんに約束してください。今日はこんな話を聞いて戴けてありがとうございました。恥ずかしいなぁ。医師として失格するような話を患者さんにしましたが、佐藤さんに学ばせていただきました。ありがとうございます。」
 高山は佐藤夫婦に目を伏せて感謝を伝えた。佐藤がゆっくりと手を叩きながら、
「わしが頑張れ無くても、先生の恋のお相手と上手くいくようにあの世で導いて差し上げます。」
「嫌です。私はこの手術が上手くいき、爺さんが生きてくれたら、神様にお願いします。」
 高山は悩み苦しんでいた自分の欲が消えたと感じた。
「いつか佐藤さんのような夫婦になりたいなぁ。そういう人生が生きたいです。」
 すると、佐藤の妻が愚痴を言い始めた。
「偉いお医者様に、こんな風に言っていただけるような……私たちはもう昔々の見合い結婚ですからね。
 酷いんです。爺さんは私の姉が美人だと聞いていて、美人の姉が嫁に来るかと思ったら、ブスの妹が来たと言うのです。もう嫁いだ日にそれを言われて悲しくて。」
「本当だろうが。お前の姉さんは小町娘と言われたほどの美人だった。お前が来た時に俺はがっかりしたぞ。でも小町娘は病弱で、お前は元気で丈夫だからと、お袋がお前を選んだそうだ。」
 高山は笑いながら、窓を数センチ開け、直接、風が佐藤夫婦にあたらないようにカーテンを閉めた。カーテンが風でなびき、外の暑い風が室内に入ってきた。
「何でも話せる夫婦はいいですね。さあ、夏は暑いのが当たり前です。少し汗をかく方が代謝を良くします。
 佐藤さん、今日も歩いて下さい。寝たきりになると奥さんが大変です。
私も素早く手術をし、佐藤さんの体への負担を極力減らします。そうしないと奥さんに恋の成就を祈ってもらえませんから、物凄く必死でやります。」
「先生、宜しくお願いします。寝たきりにならないようにしたいが願いです。寝たきりになると娘に迷惑を掛けるので、ずっと合田先生にそれをお願いしていて。」
 高山はこの老婦人に信頼されているのが嬉しかった。3人の笑い声が病室に響いた。

 それから3ヵ月が過ぎた。
 智実はメキシコ産の色とりどりの小さなカボチャや、顔形にくり抜かれた大きなカボチャで店の中を飾っていた。
 昨年までは毎年ミイが店の飾りを手伝いに来ていたが、今年は宅配便で送られてきた。ミイはあの日以来、智実と会うことは無く、たまに電話で話す程度になっていた。
 智実は箱に入っていた紫と黒のブロード布を見て、高校時代にミイと出掛けたディズニーランドのハロウィン飾りを思い出していた。電話が鳴った。
「智実、久し振りね。カボチャ届いたでしょ?今年は手伝いに行かなくてごめんね。自分では上手くできたと思っているの。腐らないように加工してあるから、1カ月以上大丈夫なはず。」
「ありがとう。今、飾っているわ。今年のカボチャの顔は可愛いね。ミイが作ると何でも可愛くなるね。」
「可愛い方が好きだもん。ハロウィン用のお菓子もいろいろ入れたから、お店の女の子と食べてね。
 あと高校生の頃、智実と行ったディズニーランドのハロウィンを思い出して、カボチャの下に敷くのに、ブロードの光沢のある紫と黒の布に、薄いブルーや銀色のリボン飾りを付けたテーブルクロスやコースターを作ってみたの。?良かったら使ってね。」
「うん、おしゃれだよ。嬉しくてもう飾った。上手に出来てる。店がディズニーランドみたいにステキに飾れた。ありがとう。
 ねえ、見に来て。それと、あの男の人のことなのだけど……」
「それは思い出。じゃあ、切るね。」
 ミイに電話を切られた。あの日以降、高山は週に2,3度、智実の店に訪れていた。しかし智実はミイに高山が来ていることを伝えていなかった。智実が何も言わずに呼べばミイは来ると思えたが、それは友達を裏切ることになる。ミイを呼ばなくても高山が来ることで売り上げを出しているのだから、板挟みのような呵責を感じていた。智実はミイに高山が店に来ていることを知らせれば、絶対に来ない確信があった。高山に、
「ミイがココに自分の意志で来るまでは、高山さんが来ていることを伝えない。」
と告げていた。それでも高山はミイの話を少しでも聞きたがり、智実の店を訪れるのであった。

 智実がハロウィン飾りを終える頃、花屋が来た。
「急で悪いんだけれど、今日の花は、この飾りに合わせてくれる?」
自慢気に花屋に伝えた。
「入って驚きました。すごく豪華できれいですね。わかりました。白い花を基調にし、周りに深い色の花でこのハロウィンの色合いが映えるように仕上げます。ママの手作りですか?」
「ううん、友達が作ってくれたの。持つべきは友達ね。」
智実はそう言いながら、それが答えだと確信した。
 その時、店にノックの音が響いた。智実の店は酒屋や氷屋には店の鍵を預けてあり、すでに届いていた。何かの勧誘かと智実が扉を開けると、スッとした細身の美人が立っていた。
「すみません。『マイン』の客の合田さんに聞いたのですが、少し話を伺いたいのですが宜しいですか?」
 智実は女性の真剣な表情に気付いた。笑顔で招き入れ、女性をカウンターに座らせた。そしてグラスに氷を入れ、缶ジュースを2本冷蔵庫から取り出した。
「オレンジジュースとグレープジュースのどちらがお好き?」
 女性はキビキビした口調で、
「ではオレンジで。」
と答えた。
 智実はオレンジジュースの缶を開け、グラスに注ぎ、ミイが送ってくれたースターと共に女性の前に置いた。
 そして花屋が花をトラックに取りに行くので、30分後に来るように伝え、グレープの缶ジュース1缶を花屋に持たせた。
「開店前もいろいろ忙しいので、慌ただしくてごめんなさいね。隣の店の『マイン』は知っていますけれど、合田さんと言う方は存じませんが。」
「高山さんの友達の合田さんです。二人とも私の同僚です。」
女性は智実の目をしっかり見て話をした。智実はとても気の強い女性だと感じた。
「高山さんの事?」
「はい。ここに良く来ているそうですね。」
「ええ、週に2,3度は見えています。」
「彼は貴方の事を?」
 智実は笑いだした。ククッと笑えて仕方がなかった。
「ごめんなさい。笑ってしまって。私じゃないのよ。ちょっとタバコを吸っても良い?こういう話はタバコを吸わないと落ち着いて話せないから。」
その女性はいかにも嫌そうな顔をした。
「私は医師ですから禁煙をお勧めしますが、お吸いになりたいのならどうぞ。」
 智実はカチンときた。『社交辞令で聞いたのに。一言多い女。』と言う言葉を心にしまった。
「高山さんは最近ちょっとお具合が悪そうなので。合田さんに聞いたら、『マイン』で恋に落ちたと聞きました。その女性にお会いしたくて今日来ました。」
智実はタバコを2口吸った。
「相手は私ではなく私の友達です。本当の事を言います。嘘をついても仕方がないし、本当の事を知りたくて今日来られたのでしょう?」
「はい。」
「高山さんは、私の学生時代の友達に会いたくて週2,3回来られています。でも友達は彼に会うのを避け、毎年一緒に飾っていたハロウィンの飾りも宅急便で送ってきたくらいです。
 私は高山さんがこの店に来てくださることを彼女には伝えていません。高山さんが来られても、私は友達を呼ぶこともしていません。
 高山さんには『友達を裏切ることはできない』とちゃんと話しています。それでも高山さんは来られています。」
 その女性は目尻のシワ一つ動かさなかった。オレンジジュースに口を付け、のどを潤したのか、礼儀として一口だけグラスに口を付けたのか、
「つまり高山さんが『貴方の友達に熱をあげ、片思いをしている』と私に伝えたいのですね。分かりました。事実を教えて頂きありがとうございます。このジュースのお代をお支払いします。おいくらですか?」
「お気になさらずに。」
「いいえ、お支払いいたします。」
バックから財布を出し、財布から千円札をカウンターに乗せた。
「タバコは体に良くないですからお止めになった方が良いです。お肌にも良くないです。」
「そうですね。ご親切にありがとうございます。お客様のことを話すの水商売ではご法度です。それは知っていてくださいね。」
「はい、では失礼いたします。あの……今日、私が来たことは高山さんには……」
「分かりました。高山さんには言いません。貴方は、高山さんがどんな女と付き合っているかを知りたくていらしたのでしょう?
 友達には話すかも。高山さんのことを話して、ガチャっと電話を切らずに聞いてくれればね。彼女は今、高山さんのことを一言話しただけで電話を切る状態です。高山さんがお熱なだけで。」
 智実はその女性の突然の来店を快く迎えたつもりなのに、突然医師としてタバコを注意され、1回ならまだしも2回目の注意の時に上からの目線を感じた。それで高山の行為が本気過ぎてミイが困っている状態だと告げたくなったのだった。
『医師だからでなく女だから来たくせに。』
と智実は言葉にださず、目で語っていた。
 女性は冷静そのものだったが、気配を感じたのかサッと席を立った。
「私が高山さんの様子が変なのを心配して合田さんに伺ったら、『少し猫に狂っているけれど、もうすぐ直るだろう』と言っていたのですが、貴方のお友達は猫ですか?」
 智実は失笑を浮かべ、
「お医者様にはそういう女性は軽蔑されちゃうのかしら?彼女は少ししっかりしてなくて、でも物凄く友達思いです。
 彼女がこのハロウィンの飾りやカボチャを作って送ってくれました。毎年ハロウィンの店の飾りは手伝ってくれます。このコースターも彼女の手作りです。私の大事な温かい友達です。」
 その女性は顔色一つ変えず、別世界の人間のように店を出て行った。智実はカウンターに置かれた千円札をレジにしまった。

 智実は彼女が立ち去った後に腹立たしさが増していった。高山がこんな高飛車な女と付き合っていたのかと苛立ち、高山を見損なっていたと思えた。段々と腹立たしさが強まっていった。
 それは高山が本気でミイを好きだと思っていたからであった。なぜかミイの明るい人懐っこい声が聞きたくなった。
 智実はミイに電話した。ミイはいつものとぼけたような優しい声だった。
「さっきは電話を切ってごめんね。もうその話は終わらせて。」
屈託のないいつものミイの声だった。あまりに憤りを押さえられない智実は、
「あのね。頭に来ているの!少しで良いから話を聞いて!」
「えっ、さっきの事そんなに怒っているの?ごめん。
 あの人の件はもう聞きたくないだけ。智実に迷惑かけたことは分かっている。もう思い出なの。でも他に何か送った物に針でも付いていた?」
 ミイの少しボケてるような的外れの話し方を聞くと憤りが馬鹿馬鹿しく思えた。
「違うの。ミイに関わるから言うわよ。これは聞きなさい。あの男の彼女らしき女が今来たの。私が相手だと思って見に来たのよ。」
「ごめんね。あの日は酔っぱらっていてほとんど記憶が無いのだけれど、確か彼女がいると友達が怒って、『マイン』を出るのを止められたと思うわ。彼がそれを跳ね除けて、二人で店を出たと思う。」
 智実は確かに高山の彼女だと確信した。ミイが深いため息をついた。
「ミイ、どうしたの?ミイがため息をつくなんて。」
「実は私の婚約者に女性が居て別れたわ。男って婚約していても遊ぶのね。父は結婚してても遊んでいたけど。あっ私には言う資格が無いけれどね。」
「バレたの?」
「ううん。私はその女性に会う気なんて無いなぁ。記憶に残したくない。母が楽しみにしていた結婚だったのに。彼は客船の船乗りだから滅多に帰らなくて、私はこの家で母とずっと一緒に居られると思っていたのに。」
「それが結婚の理由だったんだ。」
「兄と同じ会社なの。旦那様が船に乗っている間は、私はずっと母と一緒に過ごせるでしょ?1年に3,4カ月家に居るだけだし、子供ができても母に手伝ってもらって、子育ても安心だと思っていたのに。」
「ミイは美人だし可愛いから大丈夫よ。」
「今は母の仕事を一生懸命に手伝って居るわ。」
「お母様はお料理教室をなさっていたよね。」
「そうよ。お料理教室やお料理のコーディネートよ。兄のお嫁さんも先生として手伝ってくれていて、私はその助手。だから今年のカボチャはちゃんと義姉に教わったから腐らないわ。」
「ああミイとのんびり話がしたいなぁ。ミイと話すと疲れが飛ぶの。ホッとする。」
 智美はミイの声を聞いているだけで、人懐っこい優しい笑顔が見えるようだった。
「ミイに会いたい。」
「今度会おうね。智実のマンションに泊まりに行くね。」
「いいよ。そうそうあの男の彼女らしき女にね、『私の友達は二度と会わないと思います。』と言ったわ。
 そしたら私のタバコを止めた方が良いって、2回も注意されたわ。分かっていることを2回も言わなくて良いでしょ?タバコが値上がりして止めたいのにね。」
ミイの笑う声が聞こえた。
「言い返さないと気が済まないのかもね。自分に自信があるのね。いくら好きと思っていても、いずれ心は変わり冷めるのに。」
「ミイは男性に冷めているね。」
「私は父が亡くなってから、母との生活でやっと安らぎを得たからね。母も私と一緒で楽しそうだしね。」
 時計が6時に近づいていた。
「今度泊まりに来てね。ミイに会いたい。」
「うん泊まりに行くね。智実に迷惑かけてごめんね。嫌な思いをしたのでしょ?」
「いいよ。友達だから。随分私もミイに迷惑かけているよ。高校時代!」
「そうだよね。もうあの男の人のことはもう。
あの日の私は父そっくり。それが本当の私かも知れない。
あの人は、自分の思いは自分で何とかするのがルール。私の所為で無い。
 それにその思いは成就したら冷めていくかもしれない。恋は冷めるのよ。
あれほど素敵な人を惹きつけておく自信はない。追ってもらえて光栄に思うわ。」

 

埋火燃ゆ

 2年が過ぎた。
 街のショーウィンドウは、クリスマス飾りで色どられ、夕闇にイルミネーションが映えていた。黄葉した銀杏の葉が歩道を覆い、車のテイルライトはクリスマスを祝うかのように一段と輝いていた。
 新御茶ノ水駅の地下鉄の出口に4基のとても長いエスカレーターが並んでいる。1番端の下りのエスカレーターの上の方から大声を出す男がいた。「ミイ!ミイ!ミイ!」
 グレーの皮のハーフコートを着た男が、大声でミイと呼び、エスカレーターの赤い手すりを、隣から隣へと体操の鞍馬のように乗り越え、一番端の下にいたミイをめがけて突き進んできた。
 その男は周りの注目している視線も、危ないと注意する声も気にせずに、エスカレーターを乗り越えながら駆け下り、ミイを抱きしめた。
「ミイに会えた。やっと会えた。」
 高山であった。ミイは唖然とし、そのままエスカレーターで地上に出た。その時にニコライ堂の鐘が響いた。
高山はすぐにスマホを出し、
「ごめん、知り合いに会ったからこのまま帰宅する。何かあったらLINEして。緊急なら電話でも良いから。すまないがよろしく頼む。」
と言うだけで切った。
「今日は帰さない。」
 ミイは夢を見るかの様子で高山に抱きしめられたままでいた。高山がクリスマスのイルミネーションでより輝いて見えていた。街路樹の銀杏がミイの顔に落ちてもミイの頭は真っ白となり、何も考えられなくなっていた。
「私も母に電話を。」
ミイは条件反射のように電話をした。
「ああお母さん、智実が下痢してお腹をこわしているの。今日ナナちゃんと智実の店を手伝ってもいいかな?いい?ありがとう。」
 高山はミイに会えた感激が抑えられず、人目を全く気にせずミイを抱きしめ続けた。行き交う人は抱き合う二人を見るなりニコッと微笑む者や、明らかに嫌な顔をする者も居た。
 しかし周りの様子は全く気にならない二人であった。
「行こう。」
「私、逃げ出しそう。」
「タクシー。」
 高山は、道の脇に止まっていたテイルライトの輝くタクシーに乗り、運転手に高額札を1枚渡した。
「近くて悪いけど、山の上ホテルに行ってください。」
「はい。」
 高山はタクシーの中でも強くミイを抱きしめていた。

 この前と同じ部屋に入り、再び高山はミイを抱きしめキスをした。ミイは恥ずかしさからか小刻みに震えていた。ミイがその様子なので高山は冷静になり、ミイをソファーに座らせた。高山はあの日のようにソファーから離れたベッドに座った。
「今日は驚いた。会えて嬉しかった。震えているね。どうしたの?俺が怖いの?」
ミイは微笑みながら、
「驚いちゃって。それに凄く緊張しちゃって、震えているのかな。」
 高山は冷蔵庫からビールを出した。コップに注ぎミイの前のテーブルに置いた。そして自分もビールを飲んだ。高山が、
「お腹は空いていない?」
とミイに聞いた。ミイは震える息を吐くような小声で、
「私は空いていないわ。貴方は?」
「さっき蕎麦を食べたばかりだから空いていない。エスカレーターでミイを見て驚いた。あっミイだ、と一目で分かった。」
「私、こんなにドキドキしたのは初めてだと思うわ。今もそのドキドキが治まらないわ。ビールでなくて強いお酒あるかしら?」
「ウイスキーもあったよ。」
 ミイは冷蔵庫に行き、小さなウイスキーをコップにそのまま移して一気に飲み干した。
「ふぅ、アル中みたいね。しらふではおれなくて。」
 ミイは少し笑い、冷蔵庫の傍に立ったまま手で自分の顔に触れ、髪をいじった。高山はそのミイを自分の目で見ているだけで、この時間が信じられなかった。
「ミイが目の前に居ることが夢のようだ。まず自己紹介をするね。」
「あっ止めて、言わないで。」
「……わかった。」
 高山はミイの言う通りに自己紹介を止めた。高山はミイを見つめているとミイの幻を見ているかのように思えていた。ミイの声が聴こえると夢の中でミイと会えているかのように思えていた。
「夢のようだ。本当にミイと居るんだね。」
 夜の12時にミイは目覚め、バスルームに入った。
「お願い。今日智実がお腹をこわしてナナちゃんと私が店を手伝って、智実の家に泊まると母に話したの。話を合わせて。お願い。」
智実は電話口でミイを叱りつけた。
「お酒を飲んだの?駄目よ。前みたいなことをしたらダメでしょ!」
ミイは言い難そうに、
「偶然、新御茶ノ水駅でこの前の人に会ったの。」
「えっ?高山さんに?」
「高山さんって言うの?」
「……分かったわ。高山さんなら。じゃあ家に泊ったことにしておくから。」
「ありがとう。」
 バスルームを出ると、高山がにこやかに微笑んでベットに座っていた。ミイは隣に座った。
「智実ママ?いつ君が来るかと会いたくて半年通っていたんだ。」
ミイは重い気持ちになりベッドに腰かけた。
「名前も知らないのが良いの。高山さん?」
「そうだよ。高山だよ。」
「何も知らないでいたいわ。今日も何も言わないで。」
「分かったことにしておく。」
高山がミイの頬に優しくキスをした。

 12月の午前6時は暗い。ホテルの小さな庭からの日差しも無い。高山のスマホが鳴った。
「ごめん、急用だ。今日の5時に会おう。」
「……」
「頼む。そうでないと行けない。」
「何なの?こんな時間に。あっ言わないで。知りたくない。急ぐのね。分かった。行ってらっしゃい。私は今から智美の家に行くから。でも今日会うのは無理。」
「いつなら会える?」
「もう無理。訳わからないけれど。こんな朝に?奥さんか彼女に叱られたの?」
ミイは不愉快さを露わにした。
「奥さんも彼女も居ない。仕事なんだ。いつなら良い?智実ママに頼んでも会えないから、約束してくれないと行けない。頼むから。」
高山は本気で頼んでいると感じたミイは、つい口から出てしまった。
「来週の金曜日の7時に『マイン』で。」
高山は嬉しそうに、
「ありがとう。急ぐけれど一緒に出よう。ごめんね。急がせて。」
 高山はフロントに電話し、
「タクシー2台をお願いします。あと冷蔵庫の中全部入れた計算ですぐにチェックアウトますので準備しておいてください。」
と伝えた。
ミイは急いで衣服を着たが、高山はもっと素早かった。
 高山はミイの支度を待ち、部屋を出て、エレベーターでフロントの階に降りた。高山はあっという間に支払いを終わらせ、そしてミイを抱きしめ、ホテル前で待つタクシーに高山が乗った。
 高山が去った後、タクシーが来て、ミイは白金台に住む智実のマンションに向かった。タクシーを降りると真っ暗な中、電信柱に街灯がこうこうと明るかった。マンションの一階の智美の部屋は真っ暗であった。

 ミイは智実の自宅の電話を鳴らし智実を起こした。智実はパジャマ姿で眠そうにミイを迎えた。
「こんなに早く来て、起こしちゃってごめんね。」
「偶然に会ったの?凄い縁ね。」
「新御茶ノ水駅の地下鉄のエスカレーターを、何本も乗り越えて私の所に来てくれたの。ドラマの中に居る気分がしてね。また何もかもが飛んじゃったの。」
「本当に好きなんだ。お互いに。」
「うん。でも一本の電話で、急いでホテルから出ていかれた。ホテルで置いてきぼりは嫌だから一緒に出て来た。こんなに朝早く、ごめんね。」
「高山さんは仕事だよ。ちゃんとした人。前から言っているでしょ?ミイが話を聞きたくないと電話を切るんだもん。」
ミイは黙って智美のゲスト用の部屋に入った。
 ミイが昼頃に目覚めると智実は誰かと電話していた。それが高山であると判った。
「良いわよ。大人じゃない。エスカレーターを乗り越えたって?凄いね。ミイが貴方の事を知りたくないと言うから伝えられないけれど、ちゃんと話し合ってね。じゃ。」
「彼?貴方と彼、そんなに仲良いの?」
「貴方と何回もエッチした男はお客様なだけ。というより今は話友達かな。ちゃんと彼と話しなよ。少しはどんな人か聞きなよ。」
「だってキスしてエッチして、ずっと触られていて感じていて、それだけで時間が過ぎちゃうんだもの。」
「馬鹿じゃないの?半年間、彼の事は聞きたくないと拒否しておいて、会ったらホテルでエッチをしてるだけ?好きなんだよ。」
「恋なの。」
智実はミイをからかうように、
「エッチしているだけじゃない?」
ミイはそれを真に受け、
「そうね。エッチしているだけの恋ね。恋かな?スポーツ?一緒に居る時間が全て恋。頭の中が真っ白になり、他の事なんて何も考えていないわ。恋だけ。」
智美は笑い転げている。タバコを吸いながら吹き出すように笑い続けている。
「分からないの。自分でも分からないの。でも来週、彼と約束したのは会いたいから。」
「またホテルでしょ?まるっきり高校生じゃない。いいわ。来週も家に泊まることにしておくから。高山さんにそれを頼まれたわ。ちゃんと店に来させて欲しいって。でも少しは高山さんと話しなさい。名前くらい聞きなさい。ちゃんとした人よ。高山さんは。」
「朝、電話掛かってきて、5分で出掛けちゃったわ。」
「そんなことを言うなら、彼のこと話すわよ。」
「言わないで。それを聞いたら会いたくないわ。知りたくないの。ああいう出会いだから嫌。知らない人のままがロマンよ。」
「エッチだけ知っている仲?ミイが思っているより純粋な人だと思う。ミイが婚約者と別れたことは伝えたわ。」
「なんで話したの?」
智実は淡々と、
「ミイが来るかもと、週2,3回来る人と他に何を話すの。ただ別れたらしいよと伝えただけ。」
「半年以上、1年以上かな?他に女がいると気が付いていても黙っていたバカ女とは言わないでくれたのね。」
「それ聞いてないわ。ずっと知っていたの?」
「言わなかった?ええ、ベッドの下にピアスの留め具が落ちていて、それが変えて落ちていたわ。多分その女性が私に気付かせたくて置いたのよね。
 歌にあるでしょ?ピアスの片方なら1回の遊びかもしれないけど、留め具を換えてはね。
 でも揉めたくないから知らん顔してたの。その女性の思い通りも癪だしね。黙って過ごした方が楽だもの。
 母に『他に彼女が居るのかな?』と少し話したら、母が物凄く怒っちゃって。に連絡して即破談。」
「ミイは、嫌だと思う感情が無かったの?」
「嫌は嫌よ。でも嫌いでなかったから、おとなしく傍にいて笑っていれば良いだけだった。とても大事にしてくれていたし、それほど好きだと思う感情が無かったのかもね。
 結婚はそういう方が楽と思っていたわ。高山さんと会ったのはその頃かな?やっぱりピアスが嫌だったのね。復讐したのかもね。」
 智実は高山と会う時のミイとは別人のように思えた。智実と会う時のミイはどちらなんだろうとも思えた。智実は、
「婚約者と別れたからフリーじゃない?高山さんと付き合ってみれば?素敵だし、あれほどミイを大好きなんだから。」
「高山さんは性格が激しいもの。それに高山さんには彼女がいたはずよ。」
智美は首を振り、
「あの彼女は振られたから、私の店に来たと思うよ。だから嫌味を言わずに折れなかったんでしょ?彼女は『高山さんに言わないで』と念を押されたから終わっているわ。未練を断ち切りたくて会いに来たんでしょ?」
「高山さんが今は本気でもいずれは冷めるわ。熱していたほど冷めるみたい。父は母を追い掛け回して結婚したけど。
 その後、母と家族は父にどれほど振り回されたか。父が生きている間ずっと父の勝手さに振り回され続けたわ。だから私は恋愛結婚を信じてないし、否定している。
 情熱的な男性は魅力的だけど、成就したあと冷めるよね。それが怖い。きっと情熱を他の女性にも持ちたくなるのね。
 私は見合いで家族を守る静かな愛を持つ人と一緒に育てた愛のある、静かで平凡な人生を生きたい。情熱的より温かい愛を求めたい。
 恋から始まる結婚は、自分の満足だけを求める人達の世界の気がする。母は見合いなら、相手や相手の家族の幸せを望む心があるだろうと思うって。私もそう思う。激しい情熱を持つ男性は、父のようで怖い。でも私の内面は父に似ているの。今回は最高の情熱を持つ相手に出会えただけ。」
智美は冷えたコーヒーをミイに渡した。
「これが貴方?恋より人生の安心と安定を考えるのね。」
「そうよ。それが一番大事。あの人に会った日は父にそっくりな自分なの。昨日もね。」
「うん。授業参観にいらしたミイのお父様は、素敵なお父様だったよね。」
ミイは口を一文字にしながら智実を見つめた。
「そうよね。素敵に見えたと思う。そして父だけは幸せだったでしょう。でも家族には、特に母には酷いと思う。結婚しても男として生きただけで恋ばかりして、自分だけオシャレして、それが女性に対する礼儀と言った人。仕事も自分がしたい事ばかりしていた人よ。最後は『ごめん、宜しく』と天国に行っちゃったわ。」
智実はミイに聞いた。
「高山さんとはどうするの?彼、本気よ。」
ミイははっきりと智実に伝えた。
「恋は本気よ。本気の恋だから燃えているのよ。」
ミイは満足げに自分の考え方をはっきりと伝えた。言い疲れたように、
「いいじゃない?私は母と安心して暮らしたい。もう父のように振り回す男性は嫌。お見合い相手と結婚するって、それは激しい恋愛をするような男性でない人との結婚だと知っている。落ち着いた人で、つまらない人かも知れないと分かっている。温かく、お互いを大事にし合う時間を積み重ねて生きていきたいの。自分の情熱を遂げたいと求める人は、その輪には入れないのでは?
 私は母もその人に守られて過ごせるのが願い。安心が欲しい。
高山さんとは、燃え上がる恋ができて嬉しいわ。とても素敵だし私の好みよ。それで十分なの。私は今は父のようになっているけれど、直に消え去る恋の思いだと思う。恋は冷めるのよ。そうでしょ?
 智実はミイの言うことが分かる気がした。
「そうね。恋は冷めるわ。その時の情熱が楽しい。恋を追いかける人も多くいるわ。ミイは怖いのよね。火傷の経験と同じ。貴方の人生だから貴方が決めれば良いわ。」
智実は少し考えながら、もう一度ミイの気持ちを確かめた。
「ミイは燃え上がっているのに、すごく冷めている。高山さんとは結婚したくないの?」
「結婚?無いわ。しかも私が誘ってよ。燃え上がる恋だからこそ、直に壊れる事くらい分かる年なの。10代なら何も考えもせずだったと思う。ただ凄い恋の真っただ中にいる。それは素晴らしい。」
「高山さんは今、10代真っただ中なのかもね。あんな素敵な相手はもったいないわ。」
「うん。素敵よね。大好き。素敵すぎる。だから自分に留めておく自信がないわ。何も計算しない恋にしておきたい。怖いんだと思う。父のように生きるのが怖いし、母を捨てちゃいそうだもの。私、母が死んでから後悔を背負うのが見える年齢なのよ。」
 ミイはさらりと割り切っていることを伝えた。智実が何回も同じように繰り返すので、苛立ちはじめ言い切った。
「智実、分かって。知る必要がない。恋なの。バカな私が作った素敵な思い出。彼が冷めていくのが私だって怖い。でもいつかは冷めるのよ。なぜそれが分からないの?それに出会いがミャアミャアよ。
 それで一生付き合えると思う?あんなに素敵な好みの男性と、エッチまで行った恋で十分素敵な青春の思い出だわ。それだけで十分!
 しかもまた会いたいと言ってくれて、満足、満足、大満足。私にこれ以上、高山さんの事を話したら貴方とは絶交よ。
 彼が求めているのはあの日の私。あの日の私は父に似た私。父の家族はどれほど大変かを知るわ。楽しいのと幸せは違う。それでは母が独りぼっちになる。母との時間には、駆け引きが無い安心がある。もうこの話は辞めて!
 それより、私が少し綺麗になったと思わない?この前、素敵な考え方を教わったの。『1日1ミリずつの努力』と言うのだけれど、毎日少しでも努力していると1ミリずつキレイになれると言う考え方。そうよねと思わない?だから私も毎日1ミリずつの努力を始めたの。」
「ミイらしい!話を変えたな。でもそれ素敵な考え方ね。1ミリずつだと10日で1センチじゃない?私にもできそうだわ。」
「ところで智実は恋人いないの?いつ来ても彼が居ないものね。」
「それは言わないでよ。今はお客様が恋人。1人に絞ると裏切られたりするでしょ?嫉妬したり、この仕事だと嫉妬されたりが面倒。お客様と親しく遊んでいるのが楽しい。お金を稼ぐ方がずっと楽しい。貯金通帳をみるのが大好きだもの。」
「それで私の事をよく言うわね。お客に親身になり過ぎ!」
「遊ぶ人は女性を大事にするの意味が違っているのかもね。だから遊べるのかも。
 父は母は絶対に必要、なのにいつも恋をしていたいのよね。自分の人生を大事にして楽しむばかりで、家族のことは考えてない。母の思いも気にしない。病床の父から
『コンドームは口で嵌めなさい。バナナで練習しなさい。遊びでの妊娠はいけない。ちゃんと避妊をして遊びなさい。もし不幸にもレイプされそうになったら、その時もちゃんとコンドームをはめてと頼んで、女性がはめてあげなさい。どんな時も男性任せにせず、自分で自分を守りなさい。口で嵌めれば、男性は面倒くさがらない。ちゃんとコンドームに穴が開いてないか、膨らませてチェックする癖をつけて。これは結婚相手にはしないこと。遊んでいると思われるからダメ』
と言われた。遊びで妊娠させちゃう男性が居ることが心配だったらしいわ。私は高校生だった。
 兄が失恋した時かな?父は兄に、
『次の女性を今の2倍好きになる努力をしなさい。それが礼儀。自分にそう言い聞かせなさい。』
とアドバイスした。それはステキに思ったけど、家族で一人浮いてる父だった。自分だけの人生を生きてる父で、他の家のジャガイモみたいな、やっと奥さんを見つけたようなお父さんが家族を愛しむように大事にしてて、家族の為に生きてて羨ましかった。私はそれが欲しい。」
「ジャガイモでも泣かせる男は居るわ。でもミイの気持ちは分かる。温かい家庭が欲しいんだよ。遊んでいては得られないのよね。」
 そしてミイを小学校から知る智実は、あの日のミイを高山が求めているのは事実と思えた。智実はミイを冷静な聡明な女に思った。

 

恋だけ

ミイが高山に会う約束の金曜日がきた。
午後6時過ぎに、ミイは智実の店で掃除機をかけて手伝っていた。久美子が来た。智実は親しげな笑顔で久美子を迎えた。久美子がミイに、
「ミイちゃん久し振りね。私のことは覚えていないかな?隣で『マイン』という店をやっている久美子です。よろしくね。高山さんからさっき電話があって、ちゃんと見張っておくようにと頼まれたわ。迷子猫になったら、また捜すのが大変だって。」
 ミイは久美子の話し方の不快さを聞き流した。あの日の自分を知るのだから仕方がないとも思った。
「なんか2人とも彼の味方みたいね。」
智実が一言、
「私はミイの幸せを1番願っている。」
 と言ってもミイはふてくされていた。久美子がミイの目を見て詰め寄った。
「貴方には遊びの恋でしょう。高山さんに会うのをずっと拒んでいたものね。でも彼はこの半年、ずっとミイちゃんを待ち続けたわ。その思いを私たちは分かるの。」
ミイは口を尖らせ、頬を膨らせ、怒ったようなため息をつきながらカウンターの椅子に座った。
「嬉しくは思っているわ。」
「とにかく私の店に来てね。またウォッカでベロンベロンに酔って、他の客にミャアミャア言うと大変だから。」
智実は、
「今日は高山さんと話して。お酒を飲まないで待っていてあげてね。」
ミイは2人に見張られていると感じた。

 夜8時を過ぎても高山は来なかった。ミイは智実や久美子の言いつけを守り、酒を飲まずに久美子の店のカウンターに座り、スマホでゲームをしながら待っていた。店に居る客は、会社勤めの三十代の男同士が3人でカラオケをし、店内に下手な歌が流れ続けていた。久美子とホステス2人が客が歌う度に拍手をして盛り上げていた。久美子がミイの座るカウンターに来た。ミイは久美子に、
「高山さん遅いですね。約束を忘れたのかしら?少しお酒を頂けませんか?」
「飲むのはダメよ。智実ママが、今日は高山さんとミイちゃんに話をして欲しいから、飲まないで待たせておいてと頼まれているわ。彼の仕事は時間通りには終わらないの。」
「拘束されているみたい……じゃあ、智実の店で待ちます。」
久美子はミイに対抗した。
「貴方ね。お説教になるけれど、彼は貴方に会いたいと願を掛けていたのよ。毎日毎日この仕事が上手くいったら、きっといつかミイに会えるって。」
ミイはそっぽを向いた。そして冷たく、
「それは自分の願いを叶えたいだけでは?ですから私には関係ありません。本当なら小説みたいですね。」
 久美子はミイを納得させようと、高山の思いを少しは理解させようと熱くなっていた。
「馬鹿ね。小説は一日で読めるでしょ?彼はこの半年、毎日毎日ミイちゃんに会いたいと思い続けてくれていたの。少しはありがたいと思わないの?嫌いな男に思われているのなら断ればいいわ。でもミイちゃんも高山さんが好きで寝たのでしょう?矛盾じゃない?」
 ミイはきつい目で久美子を見た。そして少し下を向いて黙ったままバックを持って立ち上がり店のドアに向かった。久美子は驚きバックをミイから取り上げた。
「何するのよ?」
ミイは静かな言葉で久美子に伝えた。
「帰ります。私は高山さんと遊びました。だからと言って待つ必要はありません。高山さんがそんなに私を思っているって聞かされたら、重くて避けたくなりました。うんざりです。」
「うんざり?人の思いが分からないの?」
「ママの方が失礼では?私にも思いがあります。私は私の思いが大事です。久美子ママは、高山さんが叶えたい思いばかりを大切にしてますね。お客様だからですか?それは私に対してとても失礼だと思いますが。」
 ミイのはっきりした言葉に久美子は驚いた。ミイの言葉に呆れた久美子は、
「ミイちゃんは人に思われて、恋焦がれられても平気なの?」
ミイは少し笑うように久美子の顔を真正面に見た。
「平気です。ママに説教されたくありません。
 私には男性の想いは関係ありません。私は男性の気持ちに動かされないと決めています。絶対に動かされたくありません。そして男性の気持ちに動かされてはいけないと思っています。私は私の想いを大事にします。
 そうでしょ?私のことを好きになってくれた男性の想いを考えたら、想いを叶えてあげないとと思っていたら、私の体はいくつあっても足りやしません。
『こんなに思ってくれてありがとう。』って男性の想いを気にすべきですか?
 相手が私を好きだとその想いを大事にすべきだというお説教ですよね。その男性の想いを叶えてあげなさいと?
 男性は好きな女性に何を求めますか?体でしょ?エッチしたがる心を愛と思い叶えてあげなさい?こんな私を想ってくれたと、男性の心が満足するように感謝して付き合いなさいっておっしゃるのね。
 もしその男性が私を本当に好きならば、自分の満足の為に私を求めるより、私の幸せを願ってくれるのが愛だと思います。
 追いかけるのは、その男性が自分の心の満足を求めているからです。だから私は男性の想いは一切考えないと決めています。私の自分の想いを大事にしてます。
 つまり今日は、私が高山さんと遊びたいから会いに来ただけです。それを高山さんが割り切れないのなら付き合えないわ。うんざり。『自分がこんなに貴方を思っています。』なんて歌だけの世界にして欲しいわ。」
 久美子は愕然とした。久美子は今までこのような思いを知ること無く生きてきた。女としての人生の差を感じさせられる言葉だった。久美子が傷つくと言うより、久美子はミイを傷つけていたことに気が付いた。
「そうね。貴方は私と違って美人だからこんなに違うのね。私は貴方の思いを気にしていなかったわ。高山さんほど素敵な人に思われたら、私なら嬉しいしかないもの。彼がとても素敵な男性に思えているから。」
「私も高山さんを素敵に思っています。でも彼がそんなに本気なら帰ります。今なら電車で帰れますから。」
 ミイは久美子からバックを奪い取り店を出た。久美子はミイを追ったがこれ以上引き留められなかった。ミイはエレベーターが来るのを待った。

 エレベーターが止まり高山の友達の合田が降りてきた。
「ああ良かった。合田さん、ミイちゃんが帰るの。止めて。」
合田はそれを聞いても態度を変えず、ニコニコ笑いながらミイに話しかけた。
「久し振り、今日は高山は遅れているから、あいつが来るまでミイちゃんのお相手を頼まれた。来てよかった。」
ミイは目に角が立っていた。
「帰ります。」
合田はミイにたじろぎ久美子に聞いた。
「どうしたの?何をこんなに怒っているんだ。」
「ごめんなさい。高山さんの想いだけを大事にして、ミイちゃんを大事にしてなかった。」
 エレベーターはミイを乗せずに階下へ移動した。その場で久美子が合田にいきさつを説明した。合田はミイに改めて聞いた。
「ミイちゃんは高山の本気がいけないのか。わかった。私から高山に言うから今日は待っていてくれ。」
 怒った様子のミイに気を使う合田と久美子であった。ミイはため息をつき仕方なさそうに首を斜めに傾げながら『マイン』に戻った。そしてカウンター席に座った。合田はミイの横に座り、もう一度ミイに聞いた。
「何で?なんで高山が、本気でミイちゃんを好きになってはいけないの?」
「遊びだから楽しいのよ。もう面倒だから話したくない。彼とは遊び。遊びでいいじゃない。こんなに煩く言われるのはもうたくさん。こんな小姑達の煩い男は関わりたくないわ。」
「わかったから、今日は私に免じて高山を待っていてくれ。私が高山の信頼を裏切ることになるから待っていてくれ。頼む。」
その言葉はミイに火を付けた。
「何を免じるの?私が高山さんに会いたいから居るだけです。見知らぬ男性に貸し借りを作りたくありません。」
「その通りです。的確な指摘です。ごめんなさい。」
ミイの言葉に驚き、謝る合田だった。
 ミイはカウンターに座りながらも断固として話を譲らなかった。久美子が困り果てたを飛び越してどうでもよい調子で、
「そうよね。ミイちゃんを檻に入れようとしたのね。これ程、真剣に責めたてられたら疲れるわ。もう楽しくお酒を飲みましょう。私達はミイちゃんでなくて高山さんに振り回されているのよ。」
 久美子はウォッカをショットグラスに次いだ。それを一気にミイは飲んだ。二杯続けて飲み『ふぅ』息を吐き、ニコッと笑った。合田は平静な様子のミイにこう言った。
「この前とは全然違うね。」
「お酒は強いわ。ブランディならボトル3本空けてもしっかりしてます。普通は酔いたくても酔えないわ。これが普通のわ・た・し。
 この前は風邪薬を飲んでいたから酔ったみたいだけど、普通はあそこまで酔わない。でも酔って楽しかったかな?ウォッカを飲むと喉がサァとして背中がスゥッと落ち着くから好きだわ。」

 12時を回った。カウンター席で久美子は少しうつらうつらと寝ていた。そこへ高山が店に笑顔で入ってきた。しかし高山の顔は急変し、合田に不機嫌に言った。
「おい、こんなに飲ませるなよ。」
合田も大分酒が回ったようだった。頭を下げ謝りながら、
「ごめん。私もだいぶ飲んでしまった。やっと確保した。やっとだよ。このジャジャ猫、逃げ出そうとして引っ掻きやがって大変だった。おい高山、本気になるな。本気になると逃げるからな。ミイちゃん、約束通り伝えました。」
 ミイはペルシャ猫のような風格を漂わせ、高山に向かいキスをするような口で合図をし、
「あっ私の遊び相手がやっと来た。じゃあ行こうね。ずっと待っていたの。なんで貴方を待たなくてはいけないのかと、悩みながら待っていたんだけど楽しく飲んじゃったわ。」
 高山はため息をついた。
「待たせて悪かった。ごめん。でも少し休んでいい?今、仕事が終わったばかりでお腹が空いている。ママ、焼きそばでいいから食べさせてくれる?」
 それを聞いてミイは少し口をとがらせ、しかしニコッと笑いカウンターから高山をみた。
 高山はミイの隣でなく合田の隣に座った。久美子ママはすっかり目を覚まし、急いでおしぼりやバーボンのボトル、氷を運び始めた。高山は合田に、
「大丈夫だ。確認していて遅くなった。」
「良かった。あのさ、久美子ママと私が、ジャジャ猫を怒らせちゃったんだよ。ジャジャ猫は正しいんだ。」
ミイは機嫌悪そうにしている。高山が久美子に尋ねた。
「どうしたの?」
「ミイちゃんの気持ちを考えずにお節介を言っちゃって、私がミイちゃんを怒らせたの。それで3人でウォッカをボトル半分以上飲んでたの。それから合田さんが監視してくれてたわ。」
久美子は首をかしげながら話を続けた。
「普通の女の人は嬉しいはずなのにね。智実さんに聞いたらお母さんの決めた人と見合い結婚するから恋愛はしないって。」
「なんだ?それ?」
合田は驚くように言った。高山は、
「分かってる。俺が猫の遊び相手なんだよ。遊び相手が猫を飼いたくて仕方がないからウザいんだろう。」
 高山は首を振りながら深くため息をつきミイを見つめた。その時に久美子が、
「この子って、倫理観がある優しい子なのかも知れないね。焼きそば作ってくるわね。」
久美子はカウンターの奥に消えた。合田は高山に聞いた。
「おい、純子の事はどうする気なんだ。」
高山は平然と合田に言った。
「知らないのか?純子とはミイに会ってすぐに別れた。どうしようもなく猫に狂ったからさ。でもミイと居ると冷たかった俺に温かい血の流れを自分に感じるんだ。と言うよりペットといるように、素直な自分で居られるって感じかな。人間らしくなれる。」
合田はため息をついた。高山は薄ら笑いを浮かべながらミイをみた。
「俺の壮絶な片思いだ。」
「純子はお前の様子が変だと一度聞きにきたことがあった。その後何も言ってなかった。てっきりお前と付き合い続けていると思っていた。でもな、ジャジャ猫は楽しいよ。
 面白い事言っていたぞ。『岡本太郎の次は、ジョン・レノンと洋子もいいなぁ。』と言っていたぞ。何でも『1週間ベッドで過ごすのが、次の叶えたい事』だって。面白いことを考える。」
「お前とか?」
高山は怒り目で合田を睨みつけた。
「怒るなよ。違うだろうが。お前とだと思う。魔性と言うか確かに魅力的だ。時々あの大きな目を見ているとドキッとする。お前が半年苦しんだのが分かる気がした。」
高山はニヤッと笑った。
「良いこと教えてくれてありがとう。いい考えが浮かんだ。正月休みを1週間取るぞ。」
「お前はこの遊びに本気だな。しかもいつも通り決断が速い。」
高山はグラスの氷を回しながら、
「そうだな。手術をしているから決断を即座にする癖が付いている。明日も休みにしてきた。」
「ミイに人生狂わされるなよ。」
 ミイはショットグラスを逆さにし、上にショットグラスを載せてピラミッドを作り遊んでいた。高山はそのミイを見つめながら、
「狂いまくり、どん底を経験し、1回転したよ。この正月にバッチリ決めてたい。」
「本気か?」
「本気だよ。この1週間いろいろ考えた。ミイに会って貰えなかった半年は辛すぎた。二度と繰り返したくない。しかし苦しんで人生を学んだな。その猫相手だからこっちも頭を使うさ。」
 ミイが合田と高山の話が落ち着いたようすを察し、高山の傍に来て横に座った。だいぶ酔った様子ではあるが以前とは違う。ミイは高山の口元を見つめた。高山が嬉しそうな顔になった。高山の手がミイの頬に触れた。
「待っていてくれてありがとう。」
 ミイは微笑みミャアと鳴く。するとミイはそっけなく立ち上がり、
「智実の店に行って待っているから、迎えに来てね。」
と高山の耳元で言い、高いハイヒールの後ろ姿で『マイン』を出て行った。その後ろ姿を合田は見て、
「付いて行きたくなるのが十分分かるが大変だぞ。よほど重い鎖か檻が必要だ。」
「大丈夫、これでも俺は偏差値だけは良いから。だから今まで競争心だけで勉強し仕事をしてきたってことが今回十分に分かった。要するにミイに勉強させてもらった。」
高山は余裕を感じるほどのゆとりを合田に見せた。
「お前が言うならそうだろう。だがなんでお前がこんな猫に振り回される?しかし振り回されているお前が羨ましくもあり、初めて可愛く思えるが。」
 久美子が焼きそばを2皿持ってきた。
「焼きそば出来たわよ。合田さんも食べて。」
 高山は焼きそばを食べながら、
「外国がいいかな?1週間のんびりシーツに絡まって過ごせるのはどこがいいかな?」
「本気なのか?お前はミイに会ってから変わったな。以前のクールな男はどこへ行ったんだ?以前はとてつもなく遠い存在に感じさせる奴だったよな。自分のおふくろの手術を自分でやると言い、教授に止められたな。」
「そんな頃もあったな。手術していると今でも物体としか思わないから。きっとミイに駄目を喰らって瀕死だったからなぁ。
 つまり以前見えていた物が見えなくなったのだろう。いや反対で以前は見えないものが見えてきたのかな?」
 合田は高山に親しみを持ち始めていた。だから高山に頼まれ『マイン』まで来たのだった。合田は高山に頼まれることが嬉しかった。今まで同級生でありながら遠い存在に思えていた高山から頼りにされ、存在を認められている事が誇りに思えていた。
「そうだなあ。真っ青な海は良いよなぁ。でも正月のハワイは混んでいるだろうし、俺はお見合い結婚だからそういうのに縁がないからな。ジョン・レノンと洋子か?」
 普通に冒険すらしたことなく暮らしてきた合田には、想像しようとも考え付かなかった。
「ああ、猫のいう通りにするのがいい。彼女のしたいようにする。」
「ちょっと羨ましいなぁ。カミさんに持ちかけたい気がするなぁ。」
「それがミイだ。一緒に居ると楽しい。あの猫と居ると楽しい人生になる。飼い主になりたい。」
 久美子はバーボンの水割りを作りながら話を聞いていたが、さりげなく、
「ねえ、筑波山はどう?筑波山なら私の同級生が老舗旅館をしているの。近いし年末年始もそれほど混んでいないだろうし、車で1時間もあれば行けて便利よ。渋滞も少し時間を外せばそれほどひどくないわ。しかも景色は絶景よ。朝、霧で包まれた関東平野が一望でき、筑波山に登るとご来光も拝めるし。そして夕日は富士山に沈むから本当に素敵なのよ。
高山はチャンスと思った。
「筑波山か近くて良いね。すぐに頼めると助かる。ママの知り合いなら、こんな時間に迷惑かけて悪いけれど、今聞いてもらえる?12月30日から1週間予約したい。今日決めないと、次にミイに会えるのがいつか分からないしね。智実ママはミイを裏切らないし、どうせまたミイは『智実ママの家に1週間泊まる』ってことにするだろう。」
「ああ、困った猫だね。」
「とっちめたくなる猫だ。」
「そうね。こんな時間だけれど、電話してみるわね。」
 久美子はカウンターに行き電話をした。そしてOKサインを見せた。
「ヤッター。ジョンと洋子の1週間だ。」
合田はこの話の成立が嬉しかった。
「おいおい、本当にジョンと洋子か?」
「さてミイを迎えに行こう。合田、今日はありがとう。恩に着る。」
そう言い高山は『マイン』を出た。

 店に残った合田と久美子は、台風が去ったような気持ちになった。久美子は10年近く高山を知るが、以前の高山からは想像できないと言った。合田も同じであった。
「高山は変わった。以前は手術が終わるとクールで、自分の仕事は終わったという感じだった。あいつは外科医は職人と思っているだろうけれど。最近は、今日もだが手術を終えた患者をすごく気にする。
 まだ麻酔が掛かっている患者に、自分が精一杯やったから頑張れって話し掛けるんだ。傷口を痛がりそうな患者がいると、軟膏に麻酔を入れて傷口に塗ってやったり、何でも高山のお父さんが外科医でそうしていたらしい。それを思い出したと言っていた。患者の思いに寄り添うんだ。
 あいつの手をかすかに握り返す患者も居るらしい。先日は他の科の教授が自分の手術をあいつに頼んだほどだ。以前も上手かったが今は凄い。一人一人の患者に自分の全てを尽すという感じで、それが患者に伝わり温かい医者になった。」
 久美子はミイが残したショットグラスのウォッカを飲み干した。
「愛よね。いつもクールだった高山さんが、ミイちゃんに会った翌日には別人になっていたもの。この前まで、ココでミイちゃんが来るのを待ちボロボロって感じだった。だから何とかしてあげたくなっちゃったのよね。ミイちゃんが羨ましい……、でもあの子は難しいと思うわ。」

 

古からの恋の山

 街は正月色に染まりセールの貼り紙で満ちていた。東京は歩道を覆っていた銀杏の落ち葉は消え、歩く人も車も消え、太陽の日差しがゆったりと広がっていた。
 高山とミイが再会した新御茶ノ水駅の地下鉄のエスカレーターを上がった出口に、薄いブルーのコートを着て、小さめの茶色のボストンバックを下げ、ベージュの高いヒールのブーツを履く一際目立つミイがいた。ベージュの大きめのマフラーに黒いウエーブの髪が合わさり、師走の冷たい風に優しくなびいていた。
 白い車が彼女の前を少し通りすぎて止まった。小さな音のクラクションが鳴った。ミイは駆け寄り車に乗った。グレーのジャージの上下に白いフリースを羽織った若々しい高山が居た。ミイは怒った口調で、
「遅い、遅い!何をしていたの。また待たせた。あら髪形変えたのね。真面目そうになったね。」
「ちょっと面接を受けたから、髪を切ったんだ。待ち合わせ時間より30分前だよ。」
「もっと早く来て、今日はずっと待っていたって感じでいて欲しかったわ。」
ミイは少し口を尖らせて話した。高山はミイの言葉を受け流すように、
「はい、次はそうします。どうしたの?イライラして。」
「母が今日は行っちゃダメと反対したの。正月は家に居なさいって。人が来るから家に居なさいって。」
「俺と遊びますって言えば?」
「何を言っているの?今日も貴方が先に待っていないから気分が悪いわ。今日は待っていてくれるかなと楽しみにしていたのに。」
ミイは駄々っ子のように高山をすこし睨みつけた。
「車を持っていたのね。」
「通勤に使う時がある。一応結婚条件に良い。」
「何を言っているの。遊びだから楽しいの!」
 ピシャリとミイは高山の言葉を封じ込めた。
「いつものミイじゃないね。どうしたの?」
「さっきも言ったでしょ?母がどこに行くのかをしつこく聞くの。いつもと違う。」
 車が発車した。速度を上げ高速道路に入った。
「ミイは俺の事をお母さんに話したの?話す訳がないか。だからお母さんがミイに何かがあると感じているのだろう。」
 ミイは高山の言葉で納得したように、
「そうよね。私が隠し事をしているから、母がそれを感じて不安かもね。」
「もうミイも大人だから自分の意志で何でも決めればいい。」
 その言葉にミイはまた苛立ちを高山にぶつけた。
「ちゃんと自分の意志で決めています。私の人生には口を出さないで。私だって貴方の人生に口を出していないわ。」
「今日のミイは怖いなぁ。ジョンと洋子だろ?愛が一番。そして自由が良いと思わないか?」
 ミイは癪に障った。
「車を止めて。降りる。」
「もう首都高に入っている。そんなに怒るな。」
「何か貴方の話がイライラする。私を扱おうとするのはやめて。今日の貴方は理性的で私の上に居るわ。」
「だって俺もミイも酒が入ってないでしょ?初めてミイとちゃんと話せたんだもん。」
 高山は言い返しニヤリとした。
「安心していればいい。大丈夫だから。」
「何が安心よ。男性のペースは嫌。」
 ミイは自分が悪いのを知っていた。
「ごめん。やつあたりかな?来る前に母がお見合いをしなさいって。相手は39歳、初婚。それを聞いて嫌になった。お見合いは良いの。でも随分年上でなんでこんな年の離れた人と?って。それで私もイライラしているの。」「そいつが一生ミイの面倒見てくれるんだ。偉い男だね。」
 ミイはその言葉を許さなかった。
「そうね。ズルいね。やっぱり帰るわ。でも偉い男ってどういう意味?」
「ミイが焼きもちを引き出そうとしただろ?こんなに俺はミイと居たいと思っているんだよ。その俺の前でミイの見合い話すれば怒るだろうが。」
「お互い承諾の上の付き合いでしょう。何回言わせるの?
 高山さんの今の思いが1年続くと思う?30年、40年続くと思う?私は貴方が好き、恋だと思う。貴方と一緒に居るといつもの常識から解放されている自分で、今がすごく楽しいわ。ああ面倒。どうでもよいわ。第一まだ27歳だもの。結婚はまだいい。」 
 ミイは車の中で背伸びをした。高山が、
「27歳か。見合いをすべき年齢だ。」
「そうよ。幾つに思えた?」
「30前。」
「酷い。」
「同級生の智実ママが店持つくらいだから、その位かなと思っていた。」
「智実は仕事上手なの。」
ミイは今までの話が無かったかのようににっこり笑い、
「遠足みたい。ねっ?」
「そういう言い方がミイだ。論理がない。『楽しみましょう』なんだよね。」
ミイは窓から外を見ながらつぶやいた。
「だから私は危険だと思うわ。でも今日の貴方って私をリードしてない?それはやめて。でも貴方が白いフリースを着ていて素敵に思えたわ。」
ミイの技のような褒め言葉だけで喜んでしまう高山だった。

 車は常磐道の下り車線の真ん中を飛ばして走っていた。
「車の運転が好きでしょ?運転が上手だもの。どんな曲を聴いているのかな?いきものがかりも聞いているのね。ジャズやクラシック、いろいろあるのね。あっ懐かしい映画音楽がある。フランシス・レイ、父が好きだったわ。これかけていい?」
「おふくろが好きで、おふくろが乗るといつもこれ。」
 常磐道は利根川を超えると緑の森の中を走る道となった。映画音楽が流れる中、谷田部インターで降りた。谷田部インターの周りは田んぼと畑と田舎風のスーパーやラーメン屋ばかりだった。走っていると右側の遠くに2つの山頂を持つ筑波山が小さく見え始めた。ミイがはしゃいでいた。
「あれが筑波山?」
「西の富士、東の筑波って、平安時代からいろいろな和歌が作られている山だよ。夫婦の山と言われている。久美子ママが、ここら辺の小学生は遠足でみんな筑波山に登るって言っていた。そうだ何か本でも買って行きたいな。」
高山が筑波山の説明をするとミイは、
「頭も良いのね。和歌なんて知っているの?今日の発見は、頭がイイだね。本いいね。雑誌がいいな。」
高山は頭が良いと久々に褒められたのが嬉しくて可笑しくて笑いながら、
「ミイと話していると楽しいんだよね。頭が良いと褒められるなんて小学生以来。うん、久し振りにのんびり本が読みたい。」
「私はいつも良い所捜しが趣味なの。『この人の良い所はココね』と心に留めて話していると不思議と楽しい話ができるから。それだけ。
 小学校2年生の時に、クラスの一人一人の良い所を捜して、全員のを書くこと授業があったの。話をした事が無い子まで書かないといけないから、一生懸命に捜したのよね。先生に提出して、先生が〇をくれたら本人に渡すのだけど。友達の良い所を捜すのが凄く楽しかった。みんなしたでしょ?貴方とだと心に留めとかないで口から出ちゃうのよ。」
「俺は無かったよ。良い先生だね。なんて書いてあったの?」
「いつもニコニコしてる。」
 ゆったりとしたちょっと茶目っ気のあるいつものミイがいた。田舎道を超えると急に近代的な街並みに変わった。
「さすがつくば市。田舎から急に近代都市だな。店も外車の販売店ばかりが並んでいる。東京からここまで1時間掛からなかったし、これだと早く着きそうだから旅館に電話しておこう。あれ凄いなぁ。あんなに大きなショッピングモールがある。凄い大きさだね。本屋もあるだろう。それにそのブーツで山は無理でしょ?」
「えっ?山に登るの?だって智実の家と言ってきたから、この格好でしか来られないわ。ここ、この前テレビのニュースでやっていたショッピングモールかな?東京ドームより大きいみたいだね。でもこの辺、田んぼと畑ばかりなのに建物は近代的ね。あれ、つくばエクスプレス?」
「橋脚が新しいからつくばエクスプレスだろう。つくばは研究学園都市だからね。10人に1人は博士だという土地柄らしいよ。」
 ミイはにこやかにすごく嬉しそうに高山を見ている。
「胸がときめくってこんな感じかな?」
 高山はこの言葉が可愛く思えた。
「ときめいているの?」
「うん、嬉しくて。貴方がエスカレーターを乗り越えてきてくれた時からなの。エスカレーターあるかな?また乗り越えてくれる?」
「しないよ。」
高山は笑った。

 筑波山が目の前にたたずむ、ただの野原と新しい住宅街に囲まれた巨大に広いショッピングモールの駐車場に入った。都会には無い広大とも言えるような広い駐車場だ。
 二人は車から降り、広い駐車場を歩きながら、ミイは、
「すごい、どうしてこんなに広い駐車場なの?あっ犬を売っている。こんなに広い犬屋さん初めてみた。散歩する道は田畑の田舎の道だし、ここで良い飼い主に買ってもらえると犬は幸せだね。」
「そんなこと考えるんだ。」
「そうよ。女性と犬は猫もだけど飼い主で決まるの。」
「女性もそうか?」
「そうよ。」
「ミイの飼い主はどんな人がいいの?」
「お母さんが決めた人。そう私が決めたの。高校生の時に決めたの。」
「なんで?」
高山はさりげなく聞いた。ミイは軽く答えた。
「父と母は大恋愛で結婚。オシャレな父でね。あのトルコ製のボディタオルは父が仕事でトルコへ行った時に、大量買いしてきてずっと愛用していたわ。この前のボディタオルは、今年のゴールデンウィークに、私が友達とトルコに行って買ってきたの。
 父は女性と遊ぶために自分をピカピカに磨き、常にきれいでいようとするほどオシャレな人だった。だから結婚しても女性と遊ぶのを辞めなくて、自分がしたい事ばかりをしていたわ。自分だけが幸せになりたくて、母と結婚したのよね。だから母は大変で、私はその母の苦労を見ていたの。」
「だからお母さんを幸せにしたいのか。」
「そうよ。父は亡くなる前にやっと反省して私に母を頼んだ。そして自分みたいな男とは結婚せず、家庭を大事にする人と結婚しなさいと言い残したわ。母の看病でやっと静かな安らぎに幸せがあると分かったみたい。」
「どうなんだろう。結婚した後も恋をした熱い思いが残るでしょう?」
「そうね。父は釣った魚に興味を無くす人だったのでしょう。いつも最初の頃のときめきが欲しい人だったのでしょうね。家族には形だけ気遣いかな?
 私は根が父にそっくりだから父みたいになりたくない。本当はそれが怖いのかもね。」
 高山は足を止めミイの後ろ姿を見た。
「分かる気がする。ミイは怖い。」
「そうよね。猫だもん。」
 と言いながら振り返り、ミァアと鳴きまねをしながら高山とサッと腕を組んだ。

 ショッピングモールの中は東京の大きな道路のような広い通路が真ん中にあり、3階の上まで高い吹き抜けであった。吹き抜けの両脇に小さな店舗が並んでいた。東京のデパートが2,3軒以上入ったほどの大きさだ。通路の中央に長いエスカレーターがあった。ミイは黒い手すりを軽く叩き、高山に笑いかけた。高山は首を振り照れるように笑った。
 まず3階にある本屋へ行き高山は本を選んだ。
「久々に谷崎潤一郎や渡辺淳一を読んでみたい!」
と数冊購入した。ミイは料理やファッション雑誌を購入した。
 それから本屋を出て大きなスポーツ用品店に入った。ミイはジャージ上下、トレーナー、温かそうなベンチコート、靴下、ウォーキングシューズ等を選び始めた。
「俺も買おう。このフリースしか持ってこなかったからついでに普段のも欲しい。」
2人は2着ずつをお揃いや色違いを選んだ。
「恋人同士みたいね。」
高山は笑いながら口を尖らせた。
「恋人同士だろうが。俺たちは。」
ミイは高山の耳元に小さな声で、
「エッチ恋人。」
高山は笑うしかなかった。傍にいた店員が、
「奥様のウォーキングシューズの色は赤しかサイズが無いのですが、宜しいですか?」
高山はミイに聞かずに、
「はい、赤で良いです。支払いはこのカードでお願いします。」
「あのレジで承りますので、ご移動いただけますか?」
ミイは店員に、
「自宅ですぐに使うので、ご面倒かも知れませんが、箱やタグ類をすべて外して、そのまま袋に入れて戴けると助かります。返品はしませんから。」
「はい、かしこまりました。」
2人はレジに向かい高山のカードで支払いを済ませた。大きな三つの袋を渡された。
「キャッ奥様だって。あとでお金払うね。」
「猫に見えないのかな?お金はいらないよ。」
ミイは3つの袋の荷物を高山に持たせ、先にエスカレーターに乗った。
「愛人に昇格ね!私はスタバのカプチーノにはちみつ入れてシナモンたっぷりかけるのが好きなの。飲もう?」
「いいよ。」
「ここは私がおごるわ。私の好みの味付けで良い?」
 ミイはニコッと微笑みながらレジに並んでいる。高山は吹き抜けの通路側のゆったりとしたソファーに座った。日本に居るとは思えない開放感を味わっていた。
「はい、お待ちどうさま。召し上がってください。」
「ありがとう。」
 高山は泡の上に茶色く乗ったシナモンの匂いを心地よく感じた。
「はちみつとシナモンを混ぜて。上にシナモンを乗せたの。私はシナモンが大好きなの。」
「美味しい。ミイは甘いのが好きだね。それにしてもここは大きいし、凄い人だな。茨城中の人が集まったみたいに混んでいる。」
 コーヒーを飲みながらミイは斜め前にある店を見た。そして高山を見てニッコリした。
「その前に欲しいものがあるの。付いて来てくれる?」
「いいよ。」
と気軽に高山は答えた。ミイは嬉しそうに飲み物を片づけて、高山に大きな三つの紙袋を持たせたまま、女性下着の専門店にスタスタと入っていった。 高山はミイを呼んだ。
「外で待っていい?」
と言うとミイは高山の所に戻ってきて、甘い小声で、
「だめ、傍に居て。脱がすのは好きでしょ?」
 高山は鮮やかな色の下着に囲まれ恥ずかしかった。
 ミイは素早く買い物をし、店員が袋に入れてくれるのを待ちながら、
「今、貴方に色々買ってもらったでしょ?でもスポーティな服用の下着を持ってこなかったの。」
「イチイチそんな事を気にするの?」
「女性ならレースの下着はエレガントな時、スポーティな時はスポーティ下着でないとね。私はスポーティな時は原色のド派手なのが好きなの。可愛いキャラクターとかね。楽しいもの。」
ミイは少し自慢気であった。
「あっ、想像しているでしょ?エッチなんだよね。」
とケラケラと高山をからかうようにミイは笑った。
「女性の下着売り場に行くとは思わなかった。目の置き場を考えるなぁ。」
「あら、失敗したわ。『どういう下着を脱がせたい?』ともっと相談しながら買うべきだったかな?でも下着を男の好みで選びたくないわ。自分が好きな下着を着たいもの。」
 話しているところに、店員が買った品物を持ってきた。
 高山にとってミイと居る時間はすべてが新鮮だった。今まで彼が生きてきた世界とは全く違う空気を吸っていた。

 ショッピングモールを出て再び広々とした駐車場を歩き車に戻った。シートに座り2人は車中から筑波山を見ていた。
「ココはあまりに広い駐車場でどこに車を置いたか忘れて居たわ。皆は忘れないのかしら。ココってロボットの展示コーナーが在ったりして日本じゃないみたいね。そうそう話は違うけれど、この前久美子ママに貴方の気持ちを大事にしないと怒られたの。私も怒り返したけれどね。」
「旅館を予約してくれたのは久美子ママだよ。」
「智実に聞いたわ。」
「俺の事、何も知らないで不安はないの?智実ママが何も言うなって言われたって。話したら絶交と断言したと聞いた。」
「言ったわ。私の恋に口出すなって言ったわ。」
「二人は俺の事を何て言っていた?」
「今、ミイに狂っているって。智実も久美子ママも結婚を考えて損がないって。でも私は出会いがああだから、結婚したら貴方が嫉妬に狂うだろうって伝えたわ。」
「俺が結婚しようと申し込んでもダメなの?」
「ミャアミャアと猫で口説いた女と本気で結婚する?」
「そんなの関係ない。」
「貴方みたいな素敵な人を留めておく自信ないわ。私の欠点をまだ知らないからよ。大嫌いになるほど欠点があるかもよ。」
高山はミイの話を流し聞き流した。ミイは微笑み、
「先など考えずに今を楽しみたい。今だけは貴方と一緒に居たいだけ。お互いが遊びと割り切っているからそれができると思う。
 結婚しようと思ってはダメ。いつか後悔するわ。恋の熱を出した時に思い込んでいただけなのかも知れないでしょ?出会った最初に合田さんが言っていたでしょ?ミャアミャアと私が貴方に言い寄った時に、貴方には彼女が居ると。それだけは私、覚えているの。私は気にせず連れ出したらしいけれどね。」
高山の表情は硬くなった。シートに寄りかかり筑波山を見た。
「いたよ。合田の話していた彼女は同僚だ。学生時代から知り合いで3年付き合っていたが別れた。俺がミイに狂ったから仕方ない。」
ミイもシートに寄りかかり筑波山を見た。そして少し言いにくそうに、
「貴方が冷めたのよ。でも2,3か月前かしら?その女性らしき人が智実の店に来たそうよ。
 智実が高山さんと私は会っていないと正直に伝えたと言っていたわ。だから私は続いているかもと思っている。それでも良いと思っている。私は貴方に彼女が居ても、私が好きな間は会いたい。」
高山はその話を智実から聞いていなかった。
「そう、俺が勝手に冷めた。智実ママは何も言ってなかった。この前行った時、俺が他の女性と遊んだりミイと終わったら、二度と店に来ないで欲しいと言われた。帰りのタクシーも絶対に俺と二人で乗らないって。みんなでスキーへ行き、智実ママと俺が二人きりで雪山で遭難したら、智美ママは凍死する道を選ぶんだって。」
ミイは笑いながら、
「智実は冬ソナが大好きだから。雪山遭難は冬ソナの影響ね。」
 高山はエンジンをかけた。フランシス・レイの映画音楽が静かに流れ始めた。筑波山が段々と大きく近づいてきた。山がどんどん大きくなっていった。

 筑波山の山道を車は、細く曲がりくねりながら登って行った。ショッピングモールに居た時の青空は無くなり、周りが霧に包まれてきた。
「モーテルだ。ココ?」
「違う。予約してあるのは老舗の旅館だ。ナビに旅館が出ている。このモーテルのもっと上。大きな鳥居をくぐった先だからもう少し上だろう。」
「このモーテル行ってみたくない?」
「なんで行きたいの?さあ、もうすぐ着く。」
「どんなところかなって思わない?でも掃除してないか。」
 高山は計算なく思いのままに話す開放的なミイとだと、疲れが無くなるのを感じていた。
 筑波山を上れば上るほど霧は濃くたち込め、雲の中にいるようだった。山から関東平野を眺められると聞いたが眺望など無かった。大きな鳥居をくぐるとナビが到着を知らせた。車から出るとますます霧が立ち込め、二人を包み込んだ。
「俺たち雲の中に居るのかな?低い山だと思っていたがやはり山なんだ。」
 高山はぽつりとつぶやいた。深い霧の中に旅館の明かりだけが2人を招いていた。
 年末と言うのに人気の無い落ち着いた佇まいの旅館だった。薄暗い玄関に背の高い男が立ち、2人は靴を脱ぎスリッパに替えた。フロントに行くと女将らしい久美子ママの同級生がいた。
 ロビーの真ん中にグランドピアノが置かれていた。2人は女将の案内で薄暗いエレベーターに乗り、和風の廊下を歩き、部屋に着いた。
 玄関や廊下と違い部屋は明るかった。洋室には大きなソファーの前に大型テレビが鎮座し、和室は薄暗く、大きな二組の布団の上にそれぞれ浴衣が置かれていた。
「今日は見えませんが晴れると関東平野が見渡せます。この窓を出ると部屋用の露天風呂があります。大きなお風呂などもありますから、ゆっくりおくつろぎください。何かありましたらフロントへお言いつけ下さい。」
高山が、
「ロビーのピアノを少し弾いてもイイですか?他のお客さんの迷惑にならない程度に20分ぐらい弾かせて頂けると嬉しいのですが。」
「はいどうぞ。私の父がピアノを好きで良く弾いていたのですが、15年前に亡くなりまして。それ以降調律をしていないので音が悪いと思いますが宜しければ。」
「お父様が毎日弾いておられたんですか。楽しかっただろうなぁ。お客様の前で毎日弾けるなんて。」
「ええ、生きがいだったようです。本当はピアニストになりたくて音大のピアノ科を出たんですが、家業を継がなくてはいけなかったので。」
「じゃあ調律もご自分で?」
「はい。」
「調律工具はありますか?」
「はい、あります。調律がおできになるんですか?」
「祖母が家でピアノの先生をしていました。僕がピアノを弾くとお小遣いをくれるんで弾いていたんです。年をとると調律が大変になり手伝っていたので大体できると思います。お金を取る程上手くは無いですが、よければやらせてください。壊した場合は弁償します。」
「喜んでお願いします。いつでもご都合の良い時にご自由にお使いください。」
 女将は嬉しそうな顔をし、部屋を出ていった。
「良かった。ピアノが上手な所をミイに見せたいんだ。そうすれば僕と結婚したくなるでしょう?」
「また結婚?まだ言ってるの?ピアノの音は大好き。お婆さんにお小遣いをもらうために弾いていたの?」
「そう。練習すると週刊マンガを買ってくれたからさ。あれ週3冊は小学3年生には小遣いが足りないんだ。婆ちゃんが『ピアノが上手だと女性にモテる』とか、『グランドピアノを調律してる男性は素敵に見える』とも言っていたな。」
「面白いお婆さまね。ピアノ関係の仕事か!何となく納得!3日休むと指の動きが違う仕事だそうね。」
「まっ、似たようなものかな?細かい動きが思い通りに正確にできないと自分にイライラするからね。調律は素人だよ。
 でも婆ちゃんの手伝いはしていたから一応はできる。15年使ってないと大分狂っているだろうから。ミイを魅了する演奏をしないとね。」
「わぁ楽しみ!私は習ってもダメだったの。」
「ミイは猫で良いんだ。役に立たなくても家に居るだけでいい。」
「ミャオ」
 ミイははしゃいで窓を開け霧に包まれた広いベランダに出た。窓を開けると冷たい冷気が部屋に入ってきた。そしてベランダにある露天風呂を覗いた。
「いいね。1週間のんびりできそう。久美子ママに感謝だね。外はすごい霧ね。まるで雲の中に居るみたい。」
そう言いながらミイはテレビを付けた。年末特番で事件簿が流れていた。ミイはテレビのレポーターが質問するように高山に聞いた。
「今年最大の事件は?」
「ミイと出会ったことです。」
ミイは気分よさそうに、次の質問に移った。
「普段は、女性から誘われたときについて行きますか?」
「いいえ、『据え膳を食うのは男の馬鹿』が持論でした。そんな誘いをする女には興味が持てませんでした。しかし俺は馬鹿になり、ハマっています。」
ミイは口を尖らせ、
「酷い。でも本当ね。」
と言い、大笑いをしながら高山の両腕を自分の手で押さえ、高山に深いキスをし、見つめた。
「これが据え膳?」
と雌豹が、雄豹を誘うがごとく見つめた。
「君を操るなんてできないな。」
そう言うと、高山はミイを強く抱きしめ、2人の時間が始まった。

 朝、ミイが目覚めると高山はいなかった。ベットの脇に『ロビーに居ます。』とメモが置かれていた。ミイはきちんとした字を書く人だと思った。
 ミイが浴衣と髪を整えて丹前を着てロビーに行くと、ピアノに向かう丹前にたすき掛けをした高山がいた。すぐにミイに気が付き笑顔を見せた。
「昨日、女将さんがピアノを磨いておいてくれたから、ピアノにミイが写った。」
と微笑んだ。
「何時に起きたの?調律もう終わるの?」
「ああもうすぐ終わる。もう10時に近いね。良く寝てたね。」
「猫だもん。」
ロビーの椅子に座るとすぐに女将がコーヒーを持ってきた。
「今朝5時からして頂いているんです。ずっと調律していなかったから大変でしょう。」
と言った。高山は真剣にピアノに向かっていた。ミイも黙ってそれをみていた。
「ああ終った。朝食を食べよう。お腹がペコペコだ。」
「少し弾いて。聞きたいわ。小学生の頃、調律師さんが家に来てピアノの調律が終ると上手に弾いてくれて、私のピアノが喜んでいると感じてたの。聞かせて。」
「じゃあ少しだけ。上手な所を見せましょう。」
高山は丹前の前を合わせ、ピアノを弾き始めた。
「リストの超絶技巧練習曲?凄く上手いのね。」
 高山は微笑みながら弾き続けた。高山の祖母の言っていた言葉が胸に刺さる思いでミイは高山をみていた。女将が笑顔でミイに近づいてきた。
「ご朝食をこちらに用意いたしましたが、よろしいですか?」
「はい。」
窓際で晴れた関東平野が見渡せる席であった。和食の朝食が用意されていた。
「わぁ美味しそう。和食のご飯は久しぶりだぁ。旅館の朝食っていいね。」
「俺はいつも和食の朝ごはんだよ。味噌汁付で。」
「やっぱり奥さんか彼女と暮らしているんじゃない?こんな朝食作ってくれるなんて大事にされているね。」
「朝のローテーションは、起きたら白湯を飲んで、筋トレ、そして指の運動でピアノを20分弾く。それから野菜ジュースを飲んで、冷凍してあるコンビニ弁当をチンして、カップのみそ汁に湯を注ぎ、野菜室に入っているキウイを食べる。
 コンビニ弁当は塩分が多いからカリウムを取らないとね。キウイは食物繊維やカリウムが多いし野菜室で2週間は保存がきく。正真正銘の一人暮らしだよ。」
「凄く奥さまが楽なローテーションね。そういうローテーションの旦那さまは素敵!でも独身だと奥さまから奪う楽しみが無くなるわ。」
 ミイは笑い転げている。
「意外にミイは性格が悪いなぁ。」
「リストの『愛の夢』を弾ける?大好きなの。」
「得意だったよ。婆ちゃんはリストが好きで散々練習させられた。『愛の夢』を弾くと小遣いを沢山くれた。婆ちゃん曰く、俺のピアノは和音が1つの音に聞こえてキレイなんだって。リストの時代のピアニストは、どの指も同じ力で弾けないとダメだったそうだ。同じ力で鍵盤を押せると和音がキレイなんだって。当時のピアニストにはどの指も同じ音で弾くことが必須技術だったそうだ。その為にピアニストは猛練習したそうだ。俺はギターが好きで毎日弾いてたからかな?親指も人差し指も小指も同じ力で音を出せるんだ。
婆ちゃんがリストはピアノの名手だったから、きっとどの指も同じ力で弾けた人だろうって、俺に聞かせてとせがんだ。リストの時代はレコードが無いから、リストがどんな演奏をしてたか分からないから聞きたいと言うから、俺は猛練習したんだ。リストは手が大きいし俺も大きいからね。もう婆ちゃんが死んでから弾いてないなぁ。」
「昔、本で読んだことがある。当時はショパンよりリストが大人気で、リストの演奏会では女性達が熱狂して失神者まで出たそうよ。でもその話を聞くとリストは不遇に思っていた。手が大きくて演奏も凄く上手だったから、リストが作った曲をリストのように弾けるピアニストに恵まれてないのかなって。ピアニストがリストを弾く時は皆必死。リストをゆったり弾けて、どの指も同じ力で弾くなんて、電子ピアノだけかもね。
お婆さまはいつごろ亡くなられたの?」
「婆ちゃんが死んだのは10年前。『愛の夢』は婆ちゃんが聞いている姿が浮かぶから、結婚したら弾いてあげる。」
「すぐ結婚に結び付けるのね。貴方は最高の恋の相手なの。」
「最高の恋の相手?嬉しいけれど、お父さんの影響か。悲しいなぁ。」
「そうね。父の影響ね。結婚って恋心が愛に発展すると思うじゃない?でも結婚しても恋だけの人が居るの。私の父がまさにそう。ああいう家庭は二度と嫌。」
「俺はどうだろう。仕事が楽しいね。ミイとは凄く楽しい。だから家に可愛い猫がいると楽しいと思うんだ。」
「なぜ今まで結婚しなかったの?」
「女性と一緒にいると疲れる時がある。一人になりたいと思う時があるから。それでは無理でしょ?」
「私は?」
「今のところ疲れない。ミイには気に入られようとする媚びが無い。ミイは自分を売り込む策略を感じない。やっぱり猫。俺はミイに気に入られようと媚びているけどね。ミイとは言いたいことを計算しないで話せてる。」
「媚びっていかにもモテモテな男性の言葉ね。言う資格あるわ。今に疲れるようになるかもよ。『何でここの物を元に戻してないんだ』と些細なことで怒りだすかも。それに飼ったら次の猫も飼いたくならない?」
「それはミイだろう。火遊びを楽しむ猫だと困るなぁ。よほどの管理が必要だ。そうだ!GPSを埋め込もう!」
「GPSを埋め込むの?スマホだと置いていくから?そうだね。
 そう言えば『子犬のワルツ』はあるのに『子猫のワルツ』は無いわね。それより今日の天気は気持ちがいいね。昨日の曇天とは全く違って。」
「ほらサラッと話を変えるのがミイなんだよね。楽譜が無くても弾ける曲があるから聞いてくれる?」
「もちろん。何の曲?」
「夜想曲。よくミィを想って弾いていた。」
「殺し文句がすんなり出る口ね。聞きたい。」
「ミイとだと話が続くんだ。普通は、二言三言話すとかったるくなって黙るんだけれど、ミイだと平気。何も考えずに言葉が出てくる。飼い猫と居るようで疲れない。飼い猫になってよ。」
 ミイは食べながら微笑んで高山を見ている。高山は食べ終わり、お茶を飲みながら笑った。
「なんで笑ったの?意味ありそうな笑いだわ。」
「ズバリ、鋭いね。思い出し笑い。ミイに最初、こき使われたのを思い出した。だからお仕えしちゃうんだろうなぁと思って笑った。」
「こき使った?あっ、あれね。私は覚えてないわ。」
「今日も洗ってあげようか?」
 ミイが笑いこける。
「食べるのが早すぎない?私も早い方で兄と同じ位に食べ終わるのよ。それより凄く早いね。」
「あっ話を変えた。いいよ。言ったら怒るかと思ったけど、出ちゃった。食べるのが早いかな?気にしたことが無い。寂しい一人暮らしだからさ。」
「売込みは下手ね。それでは欲しくならないわ。」
「ピアノ弾いて『飼われたいなぁ。飼い主になって欲しいなぁ』と思ってよ!婆ちゃんの言うことが正しければそう思うはずなのに。」
「今までの彼女はどうだった?」
「えっ!気にしてくれる?ピアノを聴かせるような雰囲気にならないよ。なんか相手の策に嵌らないように警戒しながら付き合っていたかもね。俺、結婚条件は良いんだよ。ミイは気にしてくれないけどさ。」
 高山は素直な笑顔でいた。ミイも自然にニコニコと笑っていて、昔からの恋人のように思えていた。2人の時間がとても楽しいと思えた。

 元旦は朝の真っ暗な中の午前5時に、買ったばかりのジャージとベンチコートを着てフロントに降りた。外へ出ると息が凍りそうなほど寒さであり、沢山の星が見えた。頬が痛く感じるほどの寒さであった。2人の為に起きていた宿の男が出てきた。
「あけましておめでとうございます。上はもっと冷えますから、もう一枚着られた方がいいですよ。あとこの懐中電灯をお持ち下さい。」
 教えられたように、2人は部屋に戻りジャージを上下とも2枚重ねて着た。そして車に乗り、ロープウェイの乗り場に到着した。暗い中、冷たい風が吹きつけていた。
「ご来光なら、テレビで見られるから帰らない?」
「ご来光を見たことが無いの?キレイだから見てごらん。俺は太陽が昇るのを見るのが大好きだ。東京のビルの屋上からもときどき見たくなる。小学生の頃から好きなんだ。」
「そんなに素敵なの?」
 2人は暗い中、ロープウェイ駅で待っていた数人と共にロープウェイに乗った。ミイは寒さと怖さに身体が小刻みに震えていた。上の駅に到着してから真っ暗なゴツゴツした大きな石の段差がある山道を高山がミイの足元を懐中電灯で照らし、手を引いて登った。やっとご来光のみられるスポットに着いた。

 そこには20人程が大きな岩の上に集まっていた。そして山頂の真っ暗で、吹きつける風の中、寒がるミイを高山のベンチコートの中に入れ両腕で抱き包み懐中電灯を消した。
 だんだん遠くの空に金色の光が浮かんできた。
「ほら、今の空の色きれいだろ。うっすらピンク色になる。もうすぐ雲が黄金色に染まり、空が濃いピンクになるかな。それがきれいなんだ。あっ雲の合間に関東平野が見え出した……。」
「凄いね。宇宙に居るみたい。」
 2人は大きな空が関東平野に広がる光景を黙って見ていた。朝日を浴びている雲が金色の波となり、その雲から垣間見る関東平野が海になったように思えた。海はどこまでも広がり、遠くに富士山が居た。耳からビュービューと風の音だけが入ってきた。
「夢の中に居るみたいだね。あけましておめでとう。」
「あけましておめでとう。」
ミイの背中は高山の温かさに包まれ安心を感じた。

 翌朝、ミイは母からのメールに気が付いた。元旦の日付であった。急いでエレベーターでフロントのある階に降り、宿の外へ出て母に電話した。
「お母さん、あけましておめでとう。ごめんなさい。連絡が遅くなって。」
母はとても嬉しそうな声で、ミイに告げた。
「あけましておめでとう。今年も宜しくね。実はお見合いの話だけど、相手様がとても貴女を気に入ってくださり決まったわ。1月6日よ。」
ミイはあまりに自分が取り残されているのに驚き、
「お母さんにいくら任せると言っても、ちょっと早いわ。」
「チャンスの神様は前髪しか無いわ。会うだけだから良いでしょう。こんなに素敵で良い条件の人は居ないわ。次男坊でいらして、この家に同居して下さるの。」
「えっ家に同居してくれるの?」
「そうなの。私、ずっとミイと一緒に暮らせるから嬉しくて。だから早く進めたいの。願ったり叶ったりでしょう。でもミイちゃんに好きな人が居るのなら、私のことは気にしないでお嫁に行っていいのよ。」
「いえ、居ないわ。」
「実は年末に私がお見合いのお相手にお目に掛かったの。爽やかで素敵だった。上司の方の推薦も戴いたわ。仕事も真面目で、人柄の良い方だって皆がおっしゃられていたわ。」
 ミイは返す言葉が無かった。自分が望んでいた条件の見合い話を母が進めていただけなのに。
「5日に、その方のお母さまが博多から東京に見えるわ。電話で何回か話をさせて戴いたけれど、お母様もとても気さくな方なの。」
ミイは、困惑状態に入っていた。
「全部決まってて、訳が分からないわ。」
母は固く、
「こういう時は、相手のペースに合わせなくては破談になるわ。女は望まれてが良い。貴方が結婚は私に任せるとずっと言っていたでしょう。
 貴女がそう言ってくれていたから、私がお会いして私が安心して良い方だとお見合いを決めたの。全ては準備万端。今回は私を信じなさい。素敵な人だから。」
 ミイは黙った。黙るしかなかった。父と同じ事をしている自分なのだと分かっていた。
「パックでもしてキレイにね。」
 ミイは母を裏切っている自分を恥じ、従うしかないと思えた。ミイは母に静かな声で、
「うん分かった。6日ね。」
 ミイは母の楽しそうな声が嬉しく思えた。

 この時間のロビーは、客は一人も居なく静かだった。ミイはそのままフロントに立つ、大柄な久美子の友達と言う女将からタバコを購入した。
 フロントの傍に土産物を売るコーナーがあり、ガラスケースに入ったガラス細工のフクロウと招き猫が目に入っていた。
 手書きの説明が付いていた。
つくば市の市の鳥はフクロウ。ここでも夜中にボーボーと鳴き声がします。
フクロウは、福来朗、不苦労、福路と書かれ、幸運な鳥とされています。
アイヌ神話の中では、森で一番偉大な神の化身と思われていました。
ローマ神話やギリシャ神話でも知恵を司る女神の聖鳥としてですが、
古代中国、中東、アフリカでは、不幸をもたらすと思われたそうです。

招き猫が上げている右手と左手の意味の違いは、
右手を上げている招き猫は金運を招くとされ、
左手を上げている招き猫は人脈を招くと言われています。
両手を上げた猫は金運と人脈の両方を招き入れるとも言われますが、
お手上げと受け取る人もいるそうです。

女将がミイに近づいてきた。
「可愛いでしょう?東北のガラス工芸品なんですが、主人の実家の近くの工房で作っています。可愛い色の水玉模様のようフクロウや招き猫は、ココだけの販売で特別に作って頂いたんです。」
「可愛いですね。一目ぼれしました。この説明も親切。知らないで外国の方へのお土産に選んじゃうと困るから。猫の右手と左手の違いも安心。
 そうだ!お土産用に包んで頂けますか?右手の招き猫2つとフクロウ親子のをください。今、お支払いします。カードで大丈夫ですか?」
「はい。」
「招き猫は久美子ママと友達に送りたいので、2つともの配送をお願いします。親子フクロウは今持ち帰りたいです。
 あとコーヒーをお願いします。喫茶室でメモと宛先を書きます。喫茶室の外でタバコを吸えますよね。」
 ミイは奥の落ち着いた喫茶室でコーヒーを待った。やっと昇った太陽の眩しい朝の陽が、関東平野を照らし、真正面に東京スカイツリーが見えていた。
 ミイはタバコを吸いに外に出た。刺すように冷たい空気が頬に当たった。煙草に火をつけ、煙を見つめた。父の匂いがした。
 女将が、コーヒーと一緒に、配送票、旅館の便箋封筒を持ってきた。ミイは急いでスマホを見ながら住所を書き、便箋に簡単な言葉を書いた。
かわいい招き猫を見つけました。
感謝のおしるしまでにご笑納くださいませ。   ミイ


 女将が、手提げの紙袋を持ってきた。
「親子フクロウですが、箱は別々なんです。良いですか?」
「はい、この封筒の内容は2つとも同じです。封もしないで良いです。送り人の住所をこの旅館にしました。私がここを出る翌日の1月6日に指定到着に書きました。宜しくお願いします。」
女将はコーヒーの横に手提げの紙袋を置いて戻って行った。
「おはよう。」
高山が丹前姿で近づいてきた。ミイはぼんやりした笑顔で高山を見た。
「昨日母からメールが入っていたのに気づかなくて、さっき電話したわ。
ロビーでガラス細工の可愛いフクロウと招き猫を見つけたから、久美子ママと智実にお礼を贈ろうと思って。招き猫なら邪魔じゃないでしょ?智実の家に送れば、久美子ママに渡してくれるでしょう?貴方に持って行ってもらうのも変だから。」
高山はミイの深く椅子に腰を下ろした姿に気づいた。
「うん、招き猫なら邪魔じゃないね。どうしたの?元気がないね。お母さんに叱られた?」
「ううん、違う。あと3日しかないのね。」
「ここは近いから、すぐに来られる。また来よう。」
「その時は、あのショッピングモールでロボットを見ようね。」
 ミイは高山を見つめた。高山にはそのミイの目は人懐っこく思えた。
 その喫茶室で、そのまま高山はミイの横に座り、日本酒を頼んだ。『男女川』と言う日本酒が出てきた。ショットグラスで、二人は冷酒を飲んだ。
 当たり前の日常が二人を包むようになっていた。
 1本は瞬く間に無くなり、次に違う地元の日本酒を頼んだ。ウエイトレスが気を利かせ、1杯の水を横に置いた。近くに置かれていた品書きに『杉の水』と書かれていた。名水であり、その喫茶店のメニューには、風水で縁起の良い水と書いてあった。
「この水、縁起が良いのですって。そういう水があるのね。面白いね。」
酒がまわり、上機嫌になりつつあるミイはそんなことが嬉しかった。
「旅館は丹前着てフラフラできるからイイね。ミイとお揃いだし。来年の正月もここに来よう。」
「またかわいいこと言って。お揃いが嬉しい?私に飽きて他の人とでは?お互い違う相手と来て『初めまして』と挨拶をするの。どう?」
高山は呆れた顔をして水を飲みほした。
「お揃いって仲良しっぽいでしょ?ミイと仲良しは嬉しい!もう嫌味を言われても気にしない。それは?」
「かわいい親子フクロウを2つ買ったの。見る?欲しかったら1つあげる。要らないなら2つとも私のにする。」
「どんなの?見せて。」
ミイはおもむろに包み紙を開け、机の上にフクロウを並べた。
「かわいいね。へぇこれの猫のを久美子ママと智実さんにか。フクロウを1個くれるの?」
「欲しい?あげるわ。どっちがいい?大きいほう?小さいほう?」
「小さいほう。大きいものを貰うと良くないからね。ほら昔話で。」
「私もそう思っていた。」
「今日はハイキングにでも行こうかと思ってたんだ。近くに白滝という滝があって古道があるだよ。午後に行こう。そして明日は朝は酒を飲まずに、ドライブして霞ケ浦やロボットを観に行こう。」
「午後から散歩?」
「ハイキングかな?どんな道か分らないんだよ。筑波山に古道があって、白滝道があるんだって。いにしえを味わうのも良いでしょう?
 ネットで調べた。あまり有名でない方が空いているから。お正月は筑波山神社は物凄く混んでいるから避けて裏道を行ってみよう。
 ウキペィディアをみたら、筑波山は本当に物凄い恋の山だったよ。ジョンと洋子そのもの!古からの恋の山。調べてごらん?僕の口からは言えない!」
「ん?調べてみるね。ウィキペディアね。
ええと。筑波山、あったあった!『男女が集う嬥歌(かがい)歌垣の場』だって。歌?カラオケみたいなことをしてたの?歌垣って何?
あっ……笑うしかないなぁ。」
「万葉集や古事記に出てくる恋の山とは知っていたけど、1300年前から正真正銘の恋の山だった。私達と同じだね。久美子ママは知っていたのかな?ママは幼稚園の頃は、おっぱい山と読んでいたらしいけれどね。」
「明日のドライブもイイねぇ。だったらつくばのパン屋さんに行きたい!父が入院する前に二人でお墓を見に行って、帰りにパン屋さんに行ったの。そのお店、今もあるかな?名前忘れちゃったけど。外でパンが食べられるの。コーヒーがサービスでタダなの。」
「お父さんのお墓はこの近くなんだ。」
「近くというか。牛久の大きな大仏様。」
「行ってみる?」
「行きたくないわ。逢引に父は要らない。でも父に『楽しいだろう』と応援されそう。」
「うん、楽しい。」
「私も楽しい。」
「今日は部屋で朝食にしよう。それともピアノ聞きたい?」
「どちらでも。」
「じゃあ、部屋で二人でのんびりしよう。」
酔った二人はフクロウを前に並べ仲睦まじく過ごした。

 午後になり、酔いが冷めた二人はジャージにダウンコートを着て古道を歩いた。滝の音が近づいてきた。
「滝って絶え間なく音が続くのね。いい音ね。幼い頃、父の実家に行き、隣に1mくらいの高さの滝があったの。祖祖父が自分たちで滝を作ったとかで、水車があって、中に石臼があって何かを挽いていたわ。
 泊まった日は滝の音が気になって眠れなくて、3日目には慣れて音が気にならなくなる。不思議だったのを思い出したわ。」
「茨城と言えば袋田の滝だろう。ちょっとここからは遠いかな?」
「ここで十分!My 滝だね。」

 翌日は、午前10時からドライブに行った。筑波山を下り、大きなショッピングセンターの駐車場に入った。駐車場はまだ空いていたが、続々と車が入ってくる。ロボットの展示を見て、駐車場に戻ると、大きな駐車場が満杯になっていた。
「すぐに一杯になると思ったんだ。最初に来て良かった。」
駐車場に入るために並んでいる車をあとに、土浦を抜け、霞ケ浦にでた。
「広いね。海みたいだね。」
「お腹が空いた。今日は風が強いなぁ。外は寒いから出るのは嫌だ。パン屋に行こう。」
「山の風は平気なのに、ココの風は嫌なの?」
「うん、なんとなく寒そうだ。」
ミイは笑っている。
 午後2時ごろパン屋に着いた。住宅街にあるこじんまりしたパン屋だった。
「そう、ココ!でもブランコは無くなったなぁ。
 父はこの近くのパン屋さんで食パンを買いたいと寄ったんだけれど、売り切れでココに。そしたら大当たりの美味しいパンで、しかもコーヒーがタダで。父から教わった変な食べ方をしてみない?」
「いいよ。じゃあ真似る。」
「食パン好き?」
「好きだよ。」
「じゃあ買ってくるから座ってて。飲み物はお願い。私はコーヒーはミルクだけ。」
ミイは店の中にパンを買いに行った。そして食パンを1斤ずつ切らずに高山の目に前に置いた。そしてパン屋の袋も持っていた。
「食パンをこのまま?」
「そう。中をほじくって食べるの。耳は食べても良いし、父は母に持って帰っていたわ。翌日、母がその中にグラタンを入れて料理するの。でも母が怒って。耳を持って帰って良いから中身のあるパンも買ってきて欲しいって。私とココに来た時はちゃんと買って帰ったけど。」
「ミイのお父さんは面白いね。どれどれ食べてみよう。焼き立てだね。」
「耳は残ったら、今夜の夜食にでもしようね。あと旅館の女将さんに菓子パンを色々買ってきたから渡してね。多めに買ってきたから、菓子パンが良ければ食べて。」
「焼き立ての食パンは美味しいね。」
「でしょ?焼き立てじゃないとこの味は味わえないの。」
「無料のコーヒーと食パンか。面白いなぁ。少し寒いけど、なんか楽しい。」
「昔はココに木につるしたブランコがあったわ。父が物凄く気に入っていた。当時私はまだ父の病を知らず、半年後に亡くなったんだけれど、ココで母のことを頼まれたの。母を幸せにしてなかったから、私に頼むと言って、私は怒れてね。『自分でして』と伝えちゃった。その後悔がある。」
「仕方が無いよ。それはミイが正しいかな?ちゃんとお母さんの食べる分の食パンを買って帰るべきだとは分かる。」
「父が『これから真面目に生きる』と言うのが怒れてね。帰りは口をきかなかった。家に帰ってから、父は祖父母と私が幼稚園の運動会で一緒に写る写真を持ってきて、『これが幸せなんだ』と言うの。
 父の父は真面目で、父はそれをツマラナイ人生と思っていたんですって。でも『今はそれが最も素晴らしい人生だと分かる』と私に。それで『これからそうしてね』と言った翌月に入院して、余命を知らされた。」
「胸が痛くなるなぁ。」
「父はこうも言っていたわ。『遊ぶ人は楽しそうに見せる。本当に幸せな人は味わっているから見せようとしない。それに気付いて欲しい。お母さんにおはようと言う人がいる人生を頼む』と真剣に頼まれた。   
 父が亡くなってから、家の中が平穏になった。母がイライラすることが無くなった。その平穏を知ってから、私は嘘をつくようなったのかな?父のように下手でなく、完璧にバレないように。それが当然になっちゃった。」
「人それぞれだから、何も言えない。俺だって欠陥だらけだ。でも気付いた。ミイと知り合い、色々あって、人と助けあって生きてきたと悟った。ミイのお父さんは甘えんぼなんだよ。お母さんに甘え、ミイに甘え。」
「兄は母に似たみたい。真面目なの。私は父に似たのでしょう。だから父は私に母のことを頼んだのね。
 あと、父に似ているとつくづく思うのは味付け。母は同じ味を毎回作れるわ。私は毎回同じ味に作れない。どうしてだろう?変な所が似るのよね。
 母は自分の幸せより、周りの幸せを考えるの。味付けでもその人に合わせた味が出せる。私は出来ない。
 さあ、今日の夕焼けも一緒に見たいわ。私は筑波山を世界一のMy 絶景に決めたの。そろそろ帰ろう?きっと夕焼けも昨日みたいにきれいよ。」
「そうだ。ミイのLINEか電話番号を教えてくれる?まだ聞いていない。」「そうね。まず、貴方の電話番号を教えて。」
高山は電話番号を言った。ミイはその番号に電話をかけて話し始めた。
「あけましておめでとうございます。高山さんですか?違いました。すみませんでした。」
と言い、電話を切った。
「番号押し間違えた?」
「ちょっと待って。」
ミイはまたスマホで番号を押した。そして話し始めた。
「あけましておめでとうございます。智実?あれ?違った?ごめんなさい。」
と言い、スマホを切った。高山は怪訝に思った。
「どうしたの?また番号間違えた?」
「違うの。最初の人が男性だから切ったの。次の人が女性だから、良いでしょ?山本と言っていたから、山本で入力して、正しい末尾をメモに入れておけば出来上がり。これで誰にも見つからずに、ずっとこのまま残しておけるの。いつでも貴方に掛けられるわ。」
 ミイのしたことに驚きを隠せない高山であった。ミイはニコッと笑い、自分の電話番号を高山に教えずにスマホをハンドバックに入れた。
 旅館に戻り、高山は、フロントに居た女将さんにパンを渡した。「ここのパン美味しいんです。ありがとうございます。あっ、今夜は雪が降るかも知れませんよ。」
 二人だけの時間が戻ってきた。夜が深まると雪が降ってきた。風の音もしない世界が幸せな時間に思えるミイだった。

 筑波山を離れる日が来た。
 午前9時頃、二人はフロントに行った。ミイはピアノが聞きたいことを伝えると、高山は微笑んでミイに応じた。ミイは久しぶりにブーツを履いた。ブーツは冷え切っていた。高山の車の後ろ座席には、本やショッピングモールで購入した大きな紙袋が乗せられた。
「このまま、二人で筑波山の頂上にあった風で飛びそうな店をやりたいなぁ。いつか二人で仙人になって、焼きそば作って、おでんを煮てずっと山の上で過ごすの。山小屋の番人?良いよね。仙人になるまでには、そこで子供を産んで、それも病院じゃなくて、お産婆さんにお願いしてその店で産むの。貴方が焼きそばを作りながら子供をあやして、私はいつもお腹が大きいの。次から次へと子供を産んで、筑波山の大家族になるの。どう?」
高山は大笑いした。
「何人、子供が欲しいの?」
「そうね。最低5人。そして大学生になったら子供をどんどん追い出すの。早く二人になりたいとね。そして私は沢山子供を産み過ぎて、貴方より早く年老いて、貴方に介護してもらうの。毎日、貴方に一口ずつ食べさせてもらうの。筑波山の上でね。」
「俺は焼きそば作りながらミイの介護か。いいねえ。」
「ピアノも弾いてね。山頂までピアノが運べるかな?電子ピアノでイイ。楽しいだろうなぁ。ね。」
 宿の女将、ご主人、仲居などが玄関口に立ち見送ってくれている中、高山が車のエンジンを掛けた。バックミラーに写る旅館が、筑波山がだんだん小さくなっていった。
 窓から見える風景は、この一週間の走馬灯に思えた。ショッピングモールを過ぎた。田畑も過ぎ、谷田部インターから緑に囲まれた常磐道に入った。
利根川の大きな橋を超えると住宅街やビルとなり、そして三郷ジャンクションをあっという間に通り過ぎ、首都高に入った。渋滞はなく、あまりにスムースに車は流れてしまった。
 ミイは、時間を戻せるのなら戻したいとよく歌詞に書かれている言葉が脳裏に浮かんだ。ミイは呟くように、
「作家さんはこういう経験から作品を作るのね。」
 高山は返事も無く運転していた。2人の間に会話は無く、冷たい空気の中にフランシス・レイの曲が流れ続けた。
「作家さんはこういう経験からこの言葉を書いたのね。白滝の音が今も耳に残っている。」
 ミイは高山の態度が昨日と違うのを感じた。線を引かれていると感じた。それを当然と理解しながらも、楽しすぎた日々が辛く思えた。

 車は旅の出発地である新御茶ノ水駅に着いた。混雑が戻っていた。
ミイはニコッと笑い、
「楽しかったわ。元気でね」
ミイは高山に告げて車を降りた。高山も笑顔をやっとみせ、
「じゃあ、連絡してね。」
後ろの席に置かれたミイの荷物をさっさと持ち、あまりにあっさりした別れをした。高山もミイが車を降りるとすぐに発車した。
 遊びは終わったとミイは思った。背中に寂しさが込み上げながら、ミイは地下鉄のエスカレーターを降りた。このエスカレーターの思い出が切なかった。ミイは自分自身に『卒業』と説いた。

 家に母は居なかった。食卓のテーブルの上に『身上書』と書かれた封筒が置かれていた。ミイはそれを見つめながら母に嘘をついてまで旅行に行ったことを後悔した。愛しすぎる思いがミイを椅子に深く座せ続けた。
 スマホの電話が鳴った。
「ミイちゃん今どこ?ああ家?
 私は今、今回のお見合いをご紹介いただいた合田さまと、お相手の高山さまのお母様と銀座でお食事をいただいているわ。いつもお母様が使いになられているお味噌を重いのに持ってきて下されたの。
 お見合いは明日。テーブルの上にお見合いのお相手の高山さまのお写真と身上書とが置いてあるから見てね。合田さまが尊敬するほど優秀な外科医でいらっしゃるんですって。もう少ししたら帰るわね。」
 はつらつとした母からだった。ミイは急いで身上書を開けた。
 筑波山山頂で見た朝日に輝く金色の雲の波が滲んで見えた。ミイはスマホを取り出し、山本の番号の末尾を変えた。
「ミイ?明日会えるのが楽しみだね。『初めまして』と言うから。
あと俺がどんなにミイを嫌いになっても、ひたすら我慢する覚悟だから、安心していて。」
「ミァア」
 ミイの瞳は潤んでいた。

                              終わり

 

思わずサポート(チップ)を置きたくなるような作品を書きたいです。サポートを頂けたら?おやつを買い食べますwww 年柄年中ダイエットですがwww