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小説 恋だけ

これが恋

 深い緑色の地模様のあるカーテンとカーテンの隙間から漏れる日差しがミイの顔に届いた。眩しさに朝の陽ざしを感じた。ミイは知らない匂いに包まれ目覚め、ぼんやり日差しの根元をたどると見知らぬ庭が見えた。
 男の声が聞こえてきた。
「ごめん。下痢しちゃった。悪いが午前の仕事を変わってくれる?午後は大丈夫。宜しく頼む。」
 ミイは漠然と、呆然という言葉が今の為にあると思えた。聞こえてくる男の声の顔が浮かばない。部屋を見回すとホテルに思えた。初めて見る天井、ミイは戸惑いながらも深呼吸をし目を瞑った。知らない匂いのする薄い羽毛布団に手を入れた。
「ああ。」
 下着は無かった。シャワーの音が聞こえてきた。ホテルならベットの脇のナイトテーブルにホテルの案内ファイルがあると閃き、身を乗り出してファイルを捜した。在った。窓から優しく風が吹き、カーテンの隙間が広がり、はっきりとファイルの表紙の字が読めた。
『山の上ホテル』
 今、自分は男とホテルに居る。ミイは落ち着けと自分に語りかけ何とか思い出そうと必死で記憶をたどったが、北風が吹いた。その時、シャワーの音が止まった。
『騒いではダメ。寝ているように装おう。』
 記憶にない男に恐怖を感じながら、ミイの脳が体に指令した。
『いざとなれば男を蹴飛ばし逃げる準備も。怖くない人でありますように。』
と祈った。
 男がバスルームから出て近づいて来た。そしてミイの寝ているベッドに座った。そして優しく薄い羽毛布団の上からミイの体を撫で続けた。ミイは微動打もせず寝ている振りをした。
 男は親しそうに横に寝転がり、羽毛布団の中に手を入れてきた。ミイは勇気を振り絞り、
「辞めて。」
と消えそうな小声で言った。
「ミイ、おはよう。」
 先ほどの電話で話す声と違う、明るく穏やかな男の声であった。その男の親しげな名の呼び方にミイは嫌悪を抱いたが、男の顔を見る勇気はなかった。
「ここは?」
「ホテルだよ。」
 薄暗い部屋の中で、チラッと男の顔を見た。男は20代後半のキリッとした端正な顔立ちであった。ミイは少し安堵した。
「もう一度しようか。」
 男は、はにかむように笑いながら、楽しそうにに言った。ミイは、昨日よほど親しくしていたと分かった。
「ううん。」
 消えるような声でミイは拒み、シーツを引き上げて胸にきつく巻いた。沈黙が生まれた。その沈黙の中、ミイは記憶をたどった。
 昨夜は高校時代の友達である智実が営む六本木のクラブに高校の仲良し3人と遊びに行き、夜は智実のマンションに泊まる予定をしていたのを思い出した。
 智実の店で客の数人と数個のショットグラスに1杯だけウオッカを入れて、他のグラスには水を入れ、誰がウォッカグラスを飲んだかを当てる、ロシアンルーレットゲームを何度もしたのを思い出した。ミイは3,4杯ウォッカを飲んだ。しかしこの男がそこに居た記憶はない。
「じゃあ、ミイの頬にキスだけでもさせてくれる?それで我慢するから。」
男の声は心地よいほど女の扱いに慣れていた。
「ダメ。」
はっきり断り、布団の中に顔を埋めた。男は昨夜の親密さを表すように、
「昨日俺は君の全身を洗わされたよ。気持ちの良いタオルで。あれ気持ちいいね。」
「タオルって?」
「手袋のボディタオル。」
そのボディタオルは智実へのトルコ旅行土産として渡すはずだった。
「智実は?」
「覚えてないの?」
 ミイは顔を隠したまま小声で言った。
「覚えているわ。でもちょっとところどころ思い出せない。」
「ミイが俺を誘ったんだよ。君に選ばれてすごく嬉しかった。それは覚えているでしょ?」
「私が選んだの?どこで?あっもう言わなくていい。」
「あんなに仲良くなれたのに、昨日みたいに頬にキスして欲しいな。」
 ミイはあまりに女馴れしたしつこい男に思え、
「昨日したでしょ?」
「俺にキスしたことは思い出して。」
 男の言葉は説得力があった。それはミイから誘ったゆえの自信と分かってきた。ミイは自分に呆れながらも可愛い男と思え、シーツから顔だけだし男が望むように頬に軽くキスをした。
 力で押さえてくるかと思ったが男はそれ以上何もしなかった。ミイは自分が誘いこうなったと、さらに自覚した。しかもキスをすると不思議にも安心感が生まれ、うっすらと心にときめきが芽生えた。優しい接し方をする男である。素敵な男だったと思えた。
 ミイは少し笑うかのように、
「いい頬の感触ね。あまり覚えて居ないのだけど、なんとなくキスして気持ちいいわ。」
「君が話した岡本太郎の話を実現したんだよ。避妊もちゃんとしていたよ。ミイのお父さんは面白い人だね。本当にミイの人生を大事に願っていらしたんだろう。」
 ミイは岡本太郎と父の話を聞き、全てを理解した。
「今、何時?」
「8時だよ。」
「シャワーを浴びてくるわ。」
「一緒に浴びよう。」
この言葉に昨日の延長を感じ、ミイはイラッとし、
「今日は自分で洗いたいの。」
 さらりと冷たく告げた。寝たまま羽毛布団の白いカバーシーツを体に巻き、ベッドから出てバスルームに入った。智実に上げるはずのトルコの絹のボディタオルがバスルームのタオル掛けに掛かっていた。横に雑然とミイの下着とストッキングも掛けられていた。
「これで洗わせたんだ。」
 ため息が出た。どうせ『肌がツルツルになるから男もすべきエチケット』とでも言ったのだろうと想像できた。そのボディタオルは使わず、ホテルのフェイスタオルで自分の全身を泡だらけにして洗った。
 シャワーは泡と共に、すべてを流している気がした。自分に対するいら立ちも、記憶のない情けなさも、過ぎた時間に思えた。どんな時間を過ごしたのか知りたい気持ちと、智実や友達たちへの説明の為に、この男から少しは話を聞かないといけないと気付いた。
 ミイは本当の自分に目覚め、バスタオルを巻き、棚にあったホテルのバスローブを着、紐をギュッと絞め、下着とストッキングをたたんで持ち、鏡の中に余裕ある女の笑顔を見てからバスルームを出た。

 バスルームから出ると、ベットルームとソファーセットは別の部屋に置かれている部屋であり、地模様の厚いカーテンとレースのカーテンはお揃いの柄。その奥に狭い庭が見えた。とても閑静なホテルの部屋だ。この部屋を選ぶことから、よほど遊び慣れている男を誘ったと笑えもした。
 バスローブの裾をキチリと合わせ、ベッドとは別の部屋に置かれたソファーに、庭に背を向けてミイは座わった。男はベッドに座ったままビールを飲んでいた。
「ミイも飲む?飲むとすっきりするよ。」
 ミイは男に馴れ馴れしくミイと呼ばれる度に懺悔が押し寄せた。
男は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、グラスに注ぎ、ミイが座るソファーの前のテーブルに置いた。そしてベッドに戻り座った。ミイは一気にグラスのビールを飲み干した。
 その時、庭の窓から強い風が部屋に入ってきた。カーテンが大きく捲れ、太陽の日差しがベットに座る男の顔を照らした。ミイは胸がときめく衝撃を受けた。ミイの心に爽やかな風が届き、怖さは消えた。
 ミイは自然に笑みが浮かび、普通に話し始めた。
「ビールをありがとう。二日酔いで少し頭痛もするわ。ねえ教えて。私どうして貴方とここに居るの。」
 男は少し参ったなぁと言う様子で笑いながら話を始めた。男の説明はこうだった。
 昨夜は六本木で夜11時頃に知人の店のオープン祝いを兼ね、男の大学の同期会をしていた。
 その時にミイが女3人と店に入ってきて、十数人が座る同期会の男達の中からその男を選び、横に座り、頬に優しくキスをし、耳元で店を出ようと猫の鳴き声で誘った。男はすぐにその話に乗り、2人で店を出たと言う事だった。
「今は酔った女に、と俺にも良心の呵責があるが、誘い方の大胆さと猫のマネをしていた可愛さに理性が飛んだ。全く覚えていないのなら、俺が謝るべきかも知れないね。」
ミイはこの男が話した通りだろう理解した。岡本太郎と名を聞いた時に自分から望んだことだと納得していた。
「ううん、きっと確かに私が誘っているわ。岡本太郎さんって画家さんが居らしたでしょ?フランスの公共のバスできれいなフランス女性と目と目が合って、そのままホテルに行き、名も知らないままと。それこそが本物の恋だという話を聞いたか読んだかして、ずっとその恋に憧れていたの。どんな恋だろうって。それを実践したのね。
 避妊も話したのね。そう、父が亡くなる病床で私に……。こうすれば自分を守れる。レイプされた時でも自分を守れと。」 ミイは男をみながら少しお茶目に話した。そして日差しを浴びて眩しそうにしている男を見ながらクスクス笑い始めた。
「貴方ってとてもステキね。貴方を見て私はどんなに酔っぱらっていても自分の好みをちゃんと捕まえるって自信を持ったわ。私が誘っておいて全く覚えて居なくて。」
 ミイはため息をつき、男を見つめた。ミイの血が沸き立つのを感じた。そっと立ち上がり男の座るベッドに歩き、そして手で男の頬を撫でキスをした。耳元に唇を移し、
「どうする?これは私の意志よ。」
 男はにこやかな笑顔でミイをベッドに引き寄せた。
「昨日、君に選ばれて頬にキスされた時に、恋に落ちたと感じた。」
「私はまだ恋に落ちてないわ。でも身体は貴方を覚えているみたい。私の唇が貴方を誘いたいみたい。はっきりと貴方を覚えておきたいわ。」
 ミイは微笑みながら大きな目で男の目をじっと見つめた。男はミイを引き寄せ、口をふさいだ。

 ミイは心地よい眠気から覚めた。男はミイの乳首を摘まみ、弄り硬くし、キスし柔らかくしと遊んでいた。ミイの身体がまた男を欲しくなり始めた。ミイは男の頭を撫で、
「もうダメ。」
 ミイは親しげな微笑みで男の手を軽く払い、素早くテレビの上に掛かっていたベージュのワンピースを着た。そしてドア前に落ちていたベージュのハイヒールを履き、部屋の隅に放られていたベージュのハンドバックを持った。ベッドに居た女とは別のいつものミイに切り替えた。
「もう行かないと。今何時?」
「もうすぐ11時になる。これ俺の名刺。ミイのLINE教えてくれる?」
「ううん、恋だけがいい。」
「いやだ。一緒にごはん食べたい。」
男は可愛らしくミイに言った。
「ううん。下痢と言って会社休んだでしょ?」
男は笑った。
「聞いていたのか。急に休むのには下痢が一番だよ。下痢していたらどうしようもないからね。」
「私が誘ったから部屋代は私が払うわ。」
「俺が払う。」
「いいえ、私が誘ったもの。でも……フロントにはちょっと行きたくないかな。じゃあ、キスをもう1回。それで良いわね。」
ミイは男の傍までゆっくり歩き、手で男の頭を撫で、頬に軽くキスをした。 
 耳元に
「ねぇ、昨日の私と今の私とどっちが好き?」
囁きを残し、ドアに向かった。
「今!次は俺から誘う。」
ミイの背中に告げた。ミイは嬉しそうに振り返り、男にミイの笑顔が焼きついた。
「そう?元気でね。」
ミイはドアを開け、違う空気を吸った。ホテルの廊下を歩きながらコメディ映画を観た後の思いでいた。恥ずかしさが少し唇に残り、不思議な満足感があった。旅した心は、楽しさで満ちていた。

 

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