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1年が経ちました

 くだらない内容ですが今を残したいと書いてみました。

贈る花

 お彼岸前に夢の中で母から
「人が立ち止まって見るくらいの花を持ってきて」
と頼まれたので、お彼岸はお墓の横に、母の大好きだったバラと香水の香りが好きな母へとユリを置きました。
 でもsnsでみたらバラとユリはお墓に向かない花だと知りました。


 母は菊を『まっすぐ立っててきれいだぁと感じない』と好まず、仏花も「花が素敵にみえない!」と一度も買わなかった母なので、今回はストックにしました。香りも良いし母の大好きな濃い濃いピンクです。喜んでくれるでしょうか?

ストック

 このように~兄が1週間前に来たそうで、母は兄が大好きでしたから、兄の持ってきた花できれいなのを選んで添えました。母は合格をくれるでしょうか?父は母がOKならOKです(笑)

「あっキレイ!と人が立ち止まり見てくれるかな?」


思い出深きパン


ダークチェリーのパン

私「思い出深きパン買ってきた!2個食べていいよ👌」
子「あれね。甘いの2個はキツいなぁ。」
私「えっ? お祖母ちゃんは3個食べたのよ‼️」

 父が亡くなった後、兄の元に行った母でした。そして2年が過ぎた頃、介護施設に。兄の地ではなんと3か月もお風呂に入らないとか。介護施設はなんと5カ所を追い出され、私が一時帰宅している母のもとに行くと、呆然とし、気力を失った母が居ました。母はわがままです。それを許したというか、それをかわいいと好きな父でしたが、

 兄から電話があり、私は離婚をした頃だったので、
「あと2か月しか持たないと言われている。あまりに可哀想だから診てくれないか?」
と私が母と暮らすことになりました。

 母は足を悪くし、いざるようになっていました。リビングの隣の応接間を母の部屋にしました。リビングとは扉1つで繋がっています。母が初めて泊まる日に、母の好きそうなパンを買ってレンジの下のパンを置くところに置きました。

 朝起きるとそれが無いのです。3つとも無い!それと同じく買っていたロールパン3個はありました。母の手の届くところに置いていたので夜中に食べたのでしょう。そうです。母もレンジの下にパンを置いていました。夜中に起きて、小腹が空いた時に物色するこそ家の楽しみですよね。それがこのダークチェリーのパンです。

 それから当分は、美味しそうなパンを1つずつ置くようにしていました。デイサービスの通いだし、体重が増えすぎたので止めましたが、要介護5だった母は、要介護4になり7年頑張ってくれました。

 介護は大変でした、私は疲労からか重度のリウマチになりました。母はいざり動くので、ベットを使いませんでした。それで私の膝や腕関節への負担が大きく痛くて堪らない日々を過ごしました。整形外科に行ってもリウマチと診断されず、介護を初めて4年後にリウマチと診断されました。母の最後の2年間は、私のリウマチが酷すぎるとショートステイになりました。幸いなことに、ショートステイ先が大好きで、自宅に帰ると「席が無くなる」と行きたがる母でした。

 久しぶりにこのパンを買うと母がこの家に来た日を思い出します。兄のもとで5カ所を追い出され、それも消火器を窓に投げつけたとまであったようなので謝る兄は大変だったでしょう。ここでも1カ所は施設長さんが本気で母を叱ったそうです。そうしたら母は分かったと悪さを辞めたと介護ノートに書いてありました。



モテモテ母の秘密


 介護はなかなか難しいです。親ですからね。ある時から、母を子供として接しました。強い親に守られて育つ子は安堵があり幸せだと思います。私には子がいますからその子と競わぬように、「これはあなただけに上げる。〇〇ちゃんには内緒よ。」と北野武さんのお母様が武さんの兄にしていたように接しました。すると「自分が愛されている」と安堵してくれたのか落ち着きました。デイサービスは学校と伝えました。でも時々物凄いモンスターになって大変でしたが。それも今は懐かしく思います。

 
 今頃になり気付くことがあります。それは10年ちょっと前の父の死です。母はすぐに再婚をしようとしました。「何を考えているんだ!」と思いますよね。私もそうでした。


 でも今思うと想像以上に母にとって父の死は大きかったのかもしれません。寂しくて寂しくて、父の通夜は父の祭壇にある写真を見て失禁するし、葬儀は参列しませんでした。当時手伝ってくれたお手伝いさんは母を庇い、「茨城では妻は葬儀に出てはいけない風習があった」と母を擁護してくれました。そうですよね。伴侶の死を受けとめるのはとても辛いと思います。


 再婚はどうやって防止したか?
変な話で事実なのですが、真夜中に『兄にFAXを送れ』と亡父に頼まれたんです。49日前でした。嫌がる私に父の懇願を感じました。生きている間に親孝行をしていたと思えなくもあり、子をとても可愛がってくれた父への感謝もありました。脳出血で倒れる2時間前に、「兄がやっとしっかりした。これからはお前の良い父になる。」と言ってくれたのを覚えています。
 あの夜中、亡父にあまりに懇願されたので、真夜中に兄にFAXを送りました。そしてすぐに弁護士が入り、それと同時に母の再婚の話は終わり、兄の元に行くことになりました。


 先日まで私は、父が会社をしていたのでそれを再婚相手がどうするかを気にしていましたが、そう言えば父が生前に会社を兄に売ったのを思い出しました。だから再婚しても会社が取られることはなかったのです。でも母の納骨の時に、母が再婚してたら父が一人で入る墓になってしまっていたと気づきました。


 あの懇願は本当に父だったと、母の納骨の時に気付きました。今は最大の親孝行をしたと自負しています。でもね~真夜中に兄へのFAXは思い返しても……異常ですよね。そのくらい懇願だったんです。母のサイン1つで再婚は可能ですものね。まっ80歳過ぎてすぐに再婚できる母も母ですが。


 母がボケてから分かったことですが、母は80歳過ぎても30代のBFがいた女性です。母が50代も~以前東京都町田市に住んでいた時、私が中学生頃、駅前に診療所があった、紳士的で端正な評判の良い歯医者さんが住宅街のうちの近くに越して来たり、駅前の彫りの深い顔立ちでイケメンのケーキ屋さんが毎日ケーキを配達に来てくれる家でした。私が出るとケーキ代を払っていました。その歯医者さんも、ケーキ職人さんも母のBFでした(笑)


 今も兄には言っていません。母は認知症になってから本当のことを言うようになったのです。それまでは兄と私は『とにかく真面目な母』として思っていました。介護のケアマネージャーから「娘さんは受け入れられるようですが、息子さんはなかなか受け入れられないようです」と聞いていたので言いませんでした。


 母が亡くなり10か月が過ぎた頃、私が長くしているボランティアの海外の知り合いから連絡がありました。「お母様は父のことを知っていますか?母がどうしても伝えておきたいと。」と。外国人のBFはボケた母から聞いたことがありませんでした。話は、母が婚約していたけれど、その方の都合で破談になったということでした。私は母から英語の『Thank you.』も聞いたことがありませんでした。


 でもボケた母が、
「あれほど迎えに来ると言っていたのに来なかった人が何人かいた。あれほど言っていたのに。」
は聞いていました。その時私は、
「悲しかったね。どうしたの?」
と聞くと母は、
「布団を被って泣いたの。」
と答えていました。それで私は、
「お父さんは迎えに来たのね。1番優しい人と一緒に慣れて良かったね。」
と伝えました。母は嬉しそうに
「うん。」
と笑顔で答えてくれました。そのあと、
「誰を一番好きだったの?お父さん?」と聞くと首を横に振り、
「お兄さん」
と答えたのです。今もその時の情景を覚えています。


 母には姉と兄が居てとても仲良かったのですが。若い頃、兄が買ってくれた南京時計やキャンプに行った話をしてくれたのを覚えています。想像以上に仲が良かったんだと思っていました。しかし外国からの連絡で、南京時計を母の兄が当時買えたかを考えました。このΩなんです。私が家を出る時に、「あなたに上げる」とくれた時計です。



 ベルトは黒皮ベルトを私が小学生頃にこれに変えたのを覚えています。
「この時計をお兄さんから?Ωだと当時買えないよね。母の兄は夜間大学に通い、母が家計を助けるために働いていた~と思い出しました。
 キャンプも伯父が行くわけがない。伯父は内向的な性格だし。野外で息子とキャンプをした話を聞いたことがない。もしかしてお兄さんというのがその方?外国の方との付き合いを隠していた?そう、私は母が『Tank you.』も聞いたことがない。


 母を迎えに行かなかったことを物凄く悔いておられたということでした。
その方のPCから私がアップしていた写真があったそうです。

広島 太田川の河原で(白島九軒町に母の家があったので)
広島 太田川の石段で(この石段は母が幼かった頃、泳ぐ母達を祖父が見守っていたままと)
母が80歳の頃

  その思いを私に伝えたことで、その方の奥様は安堵されたようです。本当はこれを伝えたかった!だからココに書くのかも!子が、
「その方は運がイイネ!お婆ちゃんと結婚していたら大変だったのに、優しい奥様との人生でなんと運の良い人か!」と言いました。

 はい、超真面目な人生を生ききた母だと思い込んでいたのに、ボケてから正直に話すようになりバレバレでしたからね。でも私は母が遊んでいても気になりませんでした。そこまで内緒にしたのは見事と思い、家族を大事にした母の優しさに思います。
 楽しい人生を生きてくれて良かったと思えています。そしてその方の奥様とご長男からの連絡で、母の人生はまた素晴らしく思える今です。

「誰を一番好きだったの?お父さん?」と聞くと首を横に振り、
「お兄さん」

が変な関係でなく、ノーマルだと分かり何より嬉しかったです。私の霊感なのか、母の声が聞こえる気がしました。
『心にあるなら許す』とても美しい母の青春の1ページに思います。


 ふと思い出したことがあります。母は外国人のような顔でした。モナリザを優しくした感じです。当時日本の列車は中央線にも『GHQの占領車両』があり、『GHQの占領車両』は空いていたそうです。母は混んでいるとき、それに乗って市ヶ谷や東京駅の職場に通っていたようです。もしかして妹としてGHOからもらったてくれたのかも?だからお兄さん?なんてね?本当のことは謎のままで~


母から何度も聞かされた母の青春はコレでした。


 母は遊んでいたようですが、素敵な遊び方だと思います。決して家庭は壊しません。父が1番です。家族にも気づかせませんでした。ばれないのが1番ですね♪それが凄いと思います。家を空けることもなく、ヨガや美容体操に行く日もありましたが、出掛ける日は9時ごろ出て、ちゃんと5時には帰宅する母でした。いつ遊んでいたのか???です。凄いですね。



 母が80代の時に、30代のBFが居たと書きましたね。まさかBFとは思わずでした。顔見知りです。その方が結婚し子供が生まれたら、母はお祝いを贈りその礼状をボケた母は持っていました。良く不倫で相手の家庭を壊したり、修羅の世界を聞きますが、そんなことなくただの遊び。見事に遊んでたんだと感嘆とした私です。

 そして母は私を真面目に育てました。不思議ですよね。私は遊びません。男性を喜ばせるのが嫌いです。自分の伴侶だけしか喜ばせる気はありません。ケチなんですよね(笑)


 そうそう子が大変でした。父が子を可愛がったので、母は子を敵視していました。介護で家に来たら、子の顔に爪を向けるんです。
「このくらいの顔がちょうど良い。私は美人過ぎた。このくらいの顔が敵を作らずちょうどよく生きられる。」と。母の爪を立てた手を必死で抑え、ゆえに介護は子をあまり手伝わせられませんでした。天敵ごとく~でもボケる前は可愛がってくれたのにね。これは『1ページ』に出てくる靖国神社に母が初めて行った日です。ねぇ?仲良くしてるでしょ?

2008年3月靖国神社で
桜の花をしまう母

  私も少し母を見習い、でも遊びはケチでできない性格なので、男性を満足させるのが好きでないので。少しは身ぎれいにしないととここ10年を反省しました。


 母の命日もあり、まず庭の花をキレイに植えました。

グリーンモスと市松風に
これもグリーンモスで葉ボタンを花に見立て真ん中に父と母が好きな色のパンジーを


 ちょっとだけおしゃれに?よく母に手伝わされたなぁ。東京に暮らしている頃、兄の子が幼い頃うちに来る前の日と、花を植えるのは私で、大掃除もお手伝いさんが居るのに私が手伝うために帰宅してました。

 2日帰ると私が倒れて寝込むので、前ダンが「1日にしなよ」というほど疲れ果てるのです。母の気に入るようにはなかなか難しいんですよね。母は他の人にはあまり言わないから。
 広島に行った時も、その前に父と岩国の父の姉の墓参りに行ったのですが、広島に寄らずに帰ったと私に文句を言いまくりました。父に言ったのかを聞くと、言ってないと。言わないと分からないというと、言わなくても分かるのが愛情!という母でした。

 それで母は広島に行きたくて2歳の子供と私を連れての旅になったのです。3日間泊まり、3日間『酔心』と『リトルマーメイド』の食事でした。広島の記念公園から、母は母の姉と兄に携帯電話で電話をしている光景は今も脳裏にあります。母が被ばくした比治山近くは行かず、母の生まれた白島九軒町の家の隣の心行寺というお寺に行き、母が遊んだ川や、蝉をとった公園を歩きました。


 母の実家は、祖父が大日本帝国憲法の頃の裁判長の官舎で、退官してからも住んでいたところと聞いています。祖父が亡くなり広島から東京に来て、阿佐ヶ谷に住み、戦時中に関東大空襲を経験し、広島に疎開し被爆しました。その広島です。そう母は被爆者でした。伊吹鱒二の『黒い雨に』にその夜、横川から列車が一台出て、そこの黒い外套と外人顔した老紳士と夫人と被爆した娘が母に思えてなりませんでした。母はその日に横川からまた疎開したのです。見知らぬ農家に泊めて頂いたと聞いています。



 被爆者を大変な思いをした人とお思いでしょうね。私はもちろんそう思いますが、それだけではありません。
 被爆は火傷と違い、来年生きているか分からない人生を生きるのです。いつまで生きられるか分からない人生です。母も私が高校生のころまでは内緒にしてました。
「私に何かあったら貴方には話しておくわ。実はきのこ雲を見たと言っていたけれど本当は被爆してる。比治山の駅で被爆した。一瞬手で顔を覆い、手を外すとキラキラ光る(紫色系の)玉虫色がキラキラとみえて、きれいだなぁと思って、掌を見たら何かが付いてて、何かなと思ったら顔の皮が付いていることに気付いた。足のモンペの白い布はそのままで、紺のかすり模様だけ焼けて足がかすりの模様に火傷した。
 それから火傷だらけの人の中を歩いて日赤病院に行き、酷い人ばかりで何かチンク油みたいなのをつけてもらい家に帰った。そしてその夜もっと遠くに逃げようと横川から列車に乗り、見知らぬ農家に泊めていただき、蚊帳の中の布団に隣に火傷をした小学生が居て、夜中に私の心臓が苦しくなり、父がどこからか薬を探してきてくれて、隣の少年と薬を飲んで、飲んだら楽になり、寝て、目が覚めたら隣の少年は死んでいた。」
と話しました。母が被爆者手帳を受けたのは平成元年ごろ、30年前でした。世の中に偏見があるので内緒にしていたそうです。仕方がないと思います。私も被爆二世になります。

 紫色系の玉虫色とはこんな色です。
私の高校時代の夏に着るワンピースを母が「この色、原爆時に見た色』と言い買ってくれたので知ります。紫系の玉虫色のような色です。


 もし当時の日本が、ポツダム宣言を7月31日の期限までに返答していたら、広島長崎に原爆は落ちることがなかったのでしょう。


 とてもとっても悔しく思います。そのことを被爆者団体もマスコミも言わず、アメリカが原爆を落としたと責めます。原爆はその時は使用可能な兵器でした。日本でも瀬戸内海で作っていたそうですね。日本への原爆投下で使用禁止兵器になりました。原爆使用禁止は当然です。しかしなぜポツダム宣言を1945年7月31日の期日までに返答しなかったのかももっと気にしたいです。『返答無し』いしていた日本でした。


 母の掌に顔の皮が付いたのですから。しかし母は幸運にも顔にケロイドは一切なく、頬の火傷がなかなか治らなかったそうですが、原爆投下の夜に横川から夜汽車で疎開し、見知らぬ農家の部屋の蚊帳の中の布団で母は寝かせていただき、1か月後に広島に戻ると、家に見知らぬ人たちが暮らしていて、隣に皮膚科の医師が越してきて開業し、1日3回見ていただく幸運があったゆえ火傷の後は、かすかに腕に分かるか分からないか程度あるくらいでした。でも母はあの被ばくで眉毛とまつ毛が薄くなったと言っていました。大変な辛さの中で、本当に運が良い母だと思います。
(見知らぬ人たちの暖かい心に支えられた母ゆえ、私も感謝でボランティアをさせていただきました。特に広島から疎開した夜、蚊帳の中の布団に寝させていただいた優しき方たちに心から感謝をしています)



 母の父は祖父の残した財産で暮らした人なので、釘一本打てず、英語は広島女学院の創立者のゲイン先生が家庭教師で英語を教えてもらったそうで話せましたが仕事はしなかったそうです。母が女学校時代、親の職業を書くときは『無職』を書いていたそうです。だか戦後、貨幣価値が変わり、母の姉は当時不治の病と思われていた結核の方と恋をし、親の反対を押し切り駆け落ちしたゆえ、母の兄が働きながら夜間大学に通い、母も仕事をして親を養っていたそうです。母は「お姉さんが居たらもう少し楽だっただろう」とは言っていました。そしてあまりに悲しむ親を見ていたのでしてくれるだろう父と結婚したと聞いています。祖父は、『母親が優しい人ならきっとこの男性は母を大事にしてくれる優しい人だろう』と母に勧めたそうです。



 父は母と知り合い、縫ってかがって直したストッキングを履いて母と出会い「こんなキレイな人にキレイな服を着せてあげたい」と思い結婚したそうです。父はほら大正時代から明治初期にかけて成金として有名だった愛知県沖崎一番の成金一家でした。私が幼い頃はその名残がまだあり、駅で〇圭というと道順を伝えなくても着いたのを覚えています。



 母の父(私の祖父)は電話もない時代、毎日夜に仕事を終えた母の帰宅を駅で待つ母の父だったと聞きます。母は日曜日は社交ダンスに行く日と決めていいて、その日はいくら遅くなっても父が駅で待っていてくれたと聞いていました。そして幼い私が祖父から聞いたのは、母に「墓に一緒に入れ」と常に言っていた祖父でした。

 そう母は嫌な思いをさせる言葉は言わない人でしたね。男性にも言わないようです。サッと居なくなり消滅を選んでいました。理由は『嫌な言葉を残すと楽しい思い出も消える』と言っていました。特に男性から愛されたい母でしたから、絶対に嫌な言葉は残さず、私の頭に浮かんだ『心にあるなら許す』も母なら言いそうだと思えています。私以外に対しては、特に男性には次に笑顔で会える関係をと心配りをする母でした。愛されたい女性だと思います。

 言いたい放題を言うのは私に対してだけだったのでしょう。私は兄が羨ましかったです。どこの兄弟も同じかな?だっ兄の子が兄にそっくりだったんです。母は尽くし方が異常でした。おもちゃ屋さんの入り口近くに戦うゲームがあるでしょ?遊びに来るとそのゲームを見たい子に5,6時間傍に立って付き合っているんです。その子が学校で誰が一番好きと聞かれ、「おばあちゃん」と答えてからは、私は兄の子たちが来る2日前に来て、準備を全て手伝わせられ、兄の子が来る朝に帰らされます。



 ママ友が、男の子は女の子の3倍可愛い。でも中学になるとママママと言っていたのが『うるせぇ婆』になるけどね。と言っていました。



 母の命日が11月6日、前ダンの父の命日が11月7日だと今年気付きました。今、子に嫌われて大変な前ダンです。子と会う時に、前ダンが連れてきた女性が前ダンと話し続けたそうです。子は「礼儀知らずだ。話すなら家で話せ!」と帰宅し怒りまくっていました。でも以前TDLで会話なく過ごした故、その辛さに女性を連れてきたと思うけれど~仕方ないですね。子は許しませんから。そういう子に甘やかし切って育てたのが前ダンです。
 週刊マガジンを読んでないのかしら?真島ヒロ先生のアニメの話さえすれば大丈夫なのに。私は別れたら子との付き合いは関せずです。


 でも前ダンも子が20歳になったとき、連れて行った店は私と初めて会った日に再会した店でした。当時は三愛があり、今は他の店に。買い物をし、買ったものを送ってもらい、その住所に気付きました。
「へぇ今も覚えているんだ」
とは思いましたね。前ダンの父の命日が、母の命日の翌日と気付き、話が脱線しました。


 さあター坊を書こうと思いながら、未だに……子は頑張っています。そうそう兄から、父の13回忌と母の1周忌をと。もう父は13回忌?子が生まれてからとても仲良くなった父と私なので。優しい優しい父でした。でもちょっと嘘には手こずりましたが。母と生きると仕方がないかな?と思います。


 でも父は母を大大大好きだったのでしょうね。母にとって1番の家来?シモベ?ほかの男性たちとは、遥かに別格の旦那様だったと思います。
 父の大学のアルバムの1ページ目はモナリザの写真とスイトピーの花の写真から始まります。母はモナリザに似てましたからね。母の欠点をも愛した父なのでしょう。いいえ母の遊びはほとんど気付かずに~だったでしょう。
 遊ぶならそういう風に遊ぶべきですね。母の凄さを思います。しかも亡くなってから素敵か方の心に住んでいたなんて、凄い母だったと思います。



 でもこれも『内緒』と言うかな?いつか私も忘れてしまうでしょうから今を残したいとこれを書きました。新しい親戚にちょっと母を侮辱?されたので、母の恋ゆえ親戚になったのかなと?母と子を連れ外国にと?母は常に父を選び兄の幸せを選びました。何より優しい母(祖母)に育った人柄の良い父でしたから。

2008年4月に銀座の数寄屋橋公園の桜
この日が最後になった……、母と銀座へ行った日は満開の桜でした


 ここまで読んでくださり、お付き合いいただきありがとうございます。
くだらない内容ですが、いつか今をと読み返したいと思い書きました。
生まれた時から居てくれた母を失くすのは、1年経っても信じられません。ボケてからも可愛い母でした。



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