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小説  ター坊 

 愛知県岡崎出身の父が、帰郷を望みながら亡くなりました。故郷と父母兄姉達と、父から聞いていた話に想像を膨らませてこの作品を書きました。
 私はこの作品の架空人物であるポッポが、想像の中で勝手に動きまくられ、ター坊が小さくなってしまったかも知れません。
 しかし明治維新は武士の全てが職を失い失業した時代です。武士の妻や娘たちの悲惨さを色々調べ、一生懸命生きた家族を書いたつもりです。読んでいただけたらとても嬉しいです。
 画像は作品に出る味噌饅頭。子が幼稚園の頃に教わった茨城の郷土料理「味噌の小麦粉饅頭」を、私は赤味噌で作るのでそれをヒントに。少しイースト菌を入れるとふっくら美味しく仕上がるのも事実です。80,000字有。



第1章 武家の辛さ


〇別れの挨拶

   明治の時代に入り20年が経っていた。
   明治20年12月初め頃、愛知県岡崎の旗本の武家屋敷加藤家。
   加藤家は美子には3人の息子と2人の娘がいた。
   長男重蔵20歳、長女美代子16歳、次男徳蔵7歳、三男圭蔵6歳、
   次女千代子5歳
   加藤家の主人、美子の夫は戊辰戦争で蝦夷地で亡くなり、
   長男重蔵はそのまま北海道に居る。
   裏庭にある葉が落ちた大きな柿の木に、十数個の柿の実が残る
   加藤家の玄関に母子が来る。
   母は加藤家の嫁美子の妹の杉浦初子、子は鳩子(ポッポ)4歳だ。
   

初子 「明日、鳩子が京都の親戚の家に行くのでご挨拶に伺いました。お饅頭を作ったので持ってきました。朝から鳩子と一緒にあんこを煮て、お饅頭を作り、蒸したら午後になってしまいました。」

美子 「嬉しいわ。良くお母さまが作ってくだされた味噌饅頭ね。ありがとう。鳩子ちゃんは元気そうね。良い子でお母さまのお迎えを待つのよ。」

鳩子 「はい、お母さまはお父さまを蝦夷で捜すのは大変だから良い子で居ます。」

   初子は涙目である。6才の圭蔵が来る。

圭蔵「あっポッポ。饅頭を持ってきてくれたんか。うまそうじゃなぁ。今、柿の実を取ってやる。12月の柿は物凄く旨い。待っとってくれ。」
  
   圭蔵は、はだしのまま木ににひょいと登る。
   背伸びしながら柿の実を5,6個取る。
   それを鳩子に渡す。圭蔵は饅頭を一つ取りがばっと食べる。

美子 「ご先祖さまとお父さまにあげてからにしなさい。もう食べちゃったの?早いわね。」

圭蔵 「うまいなぁ。この味噌饅頭は一番旨い!」

鳩子 「柿をありがとう。ポッポがお饅頭作りを手伝い、ポッポが丸めたの。お母さまに上手と誉められた。」

初子 「本当に上手なの。一緒に作るのは3回目かしら。ポッポは上手く餡を包めるわ。」

圭蔵 「そうか、わしのお父さまは蝦夷で死んだ。お兄さまは蝦夷に居る。ポッポは京都に行くんか。」

鳩子 「圭蔵兄ちゃまは、ポッポの家にお婿に来るよね。だからお母さまはお父さまを捜しに行かないといけないんだ。」

圭蔵 「ああいっちゃる。」

   美子がくすくす笑う。

圭蔵 「お母さまは何がおかしいんじゃ。」

美子 「鳩子ちゃんはお姫さま、鳩子ちゃんのお父さまはご家老じゃった。お父さまのお婆さまは徳川様からお嫁入りなさった本当のお姫さまじゃ。
 そやから圭蔵が徳川様のお家柄の家の婿にはなぁ。優秀で無いと婿に貰ってもらえない。喧嘩は徳蔵を泣かすほど強いが、勉強は苦手だなぁ。」

圭蔵 「この前、ポッポにひらがなとそろばんの足し算引き算は教えた。なぁポッポ。1回でよく覚えた。ポッポは頭が良い!」

美子 「そうじゃった。圭蔵は掃除が得意じゃった。枯葉を掃くのに2本のホウキを使いあっという間に掃きおった。あまりに早く終わったというので見たら、徳蔵はまだ掃いとった。圭蔵は隅っこに塵一つなくきれいに掃き終わってた。」
 
圭蔵 「兄じゃが新しいホウキを使うから、わしには古いホウキしかない。じゃが古いホウキを2本使うと兄じゃより早く掃けるんじゃ。」

  初子が頭を少し下げ、優しい笑顔で圭蔵を見て鳩子に帰りを促す。

初子 「ステキな夢をありがとう。鳩子を宜しくお願いしますね。」

圭蔵 「うん。」

美子 「圭蔵、干し柿を持ってきて、鳩子ちゃんに上げなさい。干し柿なら京都まで持っていけるだろう。」

   圭蔵は走って土間から藁で編んだ干し柿を持ってきて鳩子に渡す。
   初子と鳩子は帰宅する。
   鳩子が振り返り圭蔵に手を振る。
 


〇翌々日

   矢作川から初子の遺体が上がる。
   警察官が加藤家に来て、美子宛ての遺書を風呂敷を届ける。
   美子と美代子がそれを受けとる。
   美子は動転を隠せない。

美子 「すぐに初子を引き取りに行かないと。震えが止まらん。ああ細かい字はよう読めんから、美代子読んでくれんか。」

   美子の住所と名前が書かれた封書。美子が封を開く。
   美代子が手紙を封筒から出す。2枚入っている。
   美代子が静かに読み始まる。

美代子「『お姉さま。ごめんなさい。本当にごめんなさい。鳩子を無くし無理です。本当にごめんなさい。2枚目はお姉さまだけ読んでください。
 色々迷惑を掛けると思います。本当にごめんなさい。お詫びのつもりまでこの着物を受け取ってください。この着物は義祖母が嫁入りの時に持っていらした着物です。私が嫁入りしたころ義祖母から頂きました。どうかお受け取りくださいませ。』
1枚目はこれだけ。2枚目は~私が読んで良いの?」

   美代子は動揺が止まらない。ただ涙があふれている。

美子 「初子の希望通りにしましょう。あとで私だけが読みます。」

美代子「はい」

  美子は泣き崩れる。

美子「美代子、ポッポちゃに知らせんでおこう。お父さま、お母さまが生きて居られて、いつか迎えに来てくれると思っていた方が頑張れるじゃろうから。なんでこんな惨いんじゃ。初子……」

   初子の家の中は、整然と片付けられている。
   初子の骨をしっかり抱く美子。
   徳蔵、圭蔵、千代子も杉浦家の墓に立つ。


〇それから3か月後、春になったある日

   圭蔵の家でも母と姉と妹2人が北海道に行くことになる。
   徳蔵と圭蔵は小学校を辞め東京上野の呉服店で丁稚で働くことに。
   家族で食べる最後の夕食。

徳蔵 「どうしてわしと圭蔵は北海道に行けないんだ。」

 圭蔵は黙っている。

美代子「運賃が無いんじゃ。貴方たちが丁稚に出てくれるから私たちの運賃を頂ける。」

徳蔵 「圭蔵だけが丁稚に行けばいい。わしは北海道に行きたい。」

美代子「男だろう。兄さんじゃろう。ポッポちゃんだって京都に行ったんだ。」

圭蔵 「ポッポは親戚は家じゃろう。」

美代子「……」

圭蔵 「違うんか。誰かが売られたと言ってた。本当なのか。」

美代子「良く知らん。それは噂じゃ。」

  美子がご飯をつぐ。

美子 「仕方がないんじゃ。女が売られると大変な苦労をする。大人になれば分かる。男の子なら戦へ行く道がある。そして働いて仕事を覚える。働くと言うことを戦に行くと思いなさい。女子供を守るが男じゃけん。さあご飯じゃ。久しぶりの白いご飯じゃ。さあ食べよう。」

徳蔵「嫌じゃ。」
   
  徳蔵は美代子から渡されたご飯を払う。
  圭蔵はこぼれたご飯粒をそれを集める。

圭蔵「わしは頑張る。お母さま、安心しといてくれ。わしは頑張るから。」

美代子「ごめんね。私も器量良しなら芸子に売れるけれど、私や千代子だと女郎にしか売れんらしい。私が女郎に売られれば徳蔵と圭蔵は北海道に行けるんじゃが。」

徳蔵 「女郎ってなんじゃ?」

  美子は涙がこぼれてる。圭蔵を抱きしめる。

圭蔵 「どうしたん。お母さま。」

美子 「いつかまた圭蔵を抱きしめる日を、その日まで圭蔵をこの腕で覚えておきたい。戦じゃ。良いか圭蔵、きっと生きて戦いに勝つんじゃよ。」

   徳蔵も美子に抱きしめられる。

美子「さあお前たちは堂々とした武家の子だ。武家の子の誇りは失くさずに、どんな時も戦い続けてなさい。お母さまは毎日ご先祖様やのんのん様にお祈りしてるけん。」


第2章 44年後昭和5年

   圭蔵は7才から上野の呉服店に丁稚ではいり、
   24才で日露戦争に出願し兵士となり、負傷し帰国。
   25歳で愛知県岡崎の豪農の山田家の滝と結婚し婿入りした。
   山圭株式会社を作り織機事業を始め、大戦景気で大成功し、
   妻滝と子供9人に恵まれ過ごしていた。
   長女絹子、長男徹、次男実、次女麻子、三男義(よし)三女綿子、
   四女縫子、四男進、五男忠(ター坊)
   キー坊 山田家の女中、女工として働いていたが、足が不自由で
   滝の優しさで家の女中に。料理が得意で家族のように過ごしている。

○昭和初期の尋常小学校にて

   とても寒い日、小学校の達磨ストーブの上のヤカンが音を立ててる。
   尋常小学校1年生教室でター坊が何人かの子供たちに囲まれている。

男子A「お前の親父は鬼だ。お前は鬼の圭蔵の子だ。」

男子B「酷過ぎると婆ちゃんが言っていた。もう5月に柏の葉は分けねえって言っていたぞ。」

   ター坊は真剣な面持ちで、言われるままにしている。

ター坊「スー坊の爺さん、昨日はどうした……。」

   スー坊が教室に入って来た。
   ター坊はスー坊に近づき、手を教室の床に着いた。

ター坊「昨日、すまんかった。母ちゃんが脚気で寝込んでいるから、知らんかったんだ。ごめん。今日、すぐ母ちゃんに言うから、許してくれ。心配しないでくれ。」 

スー坊「いや、金借りたままだから、仕方がねぇだよ。みんなに言われたんか?」

   スー坊がクラスの皆に向かい、

スー坊「ター坊に言った奴出て来い。昨日は何一つ誰も何にもしてくれんかったろうが。何かしてくれた奴が言うならいいが、何もせんで言うな。爺ちゃんがこう言っとった。『もうすぐター坊の母さんが、温かい布団と隙間の空いていない扉を持って来てくれるから心配するな。』と言った。昨日は寒かったけど、今頃ター坊の母ちゃんが、持ってきてくれとる。」

ター坊「すまん。母ちゃん、脚気で寝とるから俺が持ってく。」

   ター坊は、そのままの姿で駆け出した。
   ター坊が廊下を歩き、教室に来た先生と廊下でぶち当たった。

ター坊「先生、昨日、親父がスー坊の爺ちゃんの布団まではぎ取ったんや。この寒い中なのに家の戸板まで取っていったって。母ちゃんが脚気で寝とるから、俺が届けんといかんだ。先生、行ってくる。」

先生 「おお、行って来い!ター坊は毛皮は着ていけ!爺ちゃんが寒かったろうから、毛皮をかけてやれ。温かいぞ。」

   ター坊は教室に戻り、毛皮の上着を着、急いで駆け出した。

○ター坊の家

   愛知県岡崎、矢作川の支流
   青木川が横に流れる大きな家、隣に大きな紡績工場。
   自動機織り機織りの音と工場と家の隣を流れの滝音が聞こえている。
   工場の横に大きな家がある。
   ター坊は、玄関でなく、土間の台所の勝手口から入る。

絹子「ター坊どうしたの?」

ター坊「シー、姉ちゃん、母ちゃんに言うな。昨日、父ちゃんがスー坊の家の爺ちゃんの布団や、家の戸板まで借金のかたに持って行ったんだ。母ちゃんが寝てるから、俺が今から布団や扉を持ってく。」

絹子 「えっ父ちゃん、またやったの?母ちゃんが泣くよ。どうしてだろう。父ちゃんどうしてそんなこと、そこまでするんじゃろう。」

ター坊「姉ちゃんが出戻るからだ。」

絹子 「そうだね。さあ、早く持ってこう。私が荷車持ってくる。」

 ター坊は静かに家に入り、布団を押し入れから出す。

滝「ター坊?ター坊?学校は?どうしたの?こっちに来なさい。」

   ター坊は、滝に気付かれないように猫のように静かに身を隠す。
   滝がすごい勢いで起き上がり、ター坊の背中を持つ。
   滝がター坊を睨みつける。

滝  「ター坊、学校は?」

ター坊「お腹が痛くなったから、先生が帰って寝てろと言われた。」

滝  「嘘ついるね。母ちゃんは分かる。」

ター坊「嘘じゃないよ。本当にお腹が痛いんだ。」

滝  「なぜ客用の布団で寝ようとするんだ。お前の布団なら、ねえやが干しとる。嘘つくと味噌蔵に入れる。正直に言いなさい。」

   ター坊は話さず泣き出す。泣きながらお腹が痛いと呟き続ける。
   絹子が遠くから小声で、

絹子 「ター坊、用意できたよ。」

   滝が絹子の元に走る。

絹子 「母ちゃん走れるんか。ター坊が話したんか。だから私がター坊と届けに行くけん。母ちゃんは寝ててええから。」

滝  「父さんがまたやったんか。どこの家じゃ?まさか、ター坊の同級生のスー坊の家じゃなかろうね。昨日、父ちゃんがすやすや寝てた。機嫌よかったから何かあったんだと思ってたが、それじゃったんか。またやったんか。高野山や金比羅参りに行き、改心してくれたと思うとったのに。
母さんが行く。ター坊、ここにある布団を全部出しなさい。」

ター坊「家の扉まで持ってったって。」

 滝の目から涙があふれた。

滝  「父ちゃんはそこまでしたんか……ター坊、川下の谷山さんの爺ちゃんに、この金を持ってすぐ行って、『すぐ来てくれ』って言ってくれ。今日中に扉や家を直したら、これと同じだけを仕事後にやると言うて。」

ター坊「うん。母ちゃん、ありがとう。」

滝  「キー坊、キー坊はおらんか?」

キー坊「はい、奥さん。どうしたんですか。」

滝  「すぐにご飯をたくさん炊いて、握り飯をたくさん作ってちょうだい。できたらすぐにスー坊の家に持って行きなさい。温かいゆで卵も作り、熱いまま、家にあるだけ全部を持って行きなさい。絹子、荷車に布団と一緒に、米を一升乗せてくれ。私もすぐ着替えてくるから。」

絹子 「私が行くよ。母ちゃんは無理だよ。ちゃんと謝ってくるから母ちゃんは寝ててええよ。」

滝  「絹子、なんてこと言うの。父ちゃんがター坊の友達の爺の、しかも病人の布団をはいだんだよ。父ちゃんがむごすぎることをしたんだ。あの爺は、母ちゃんが小さい頃、子守で遊んでくれた爺なんだよ。絹子はター坊と家に居なさい。来なくていい。」

絹子 「私も行く。知っているよ。母ちゃんがいつもどう謝るかを聞いている。父ちゃんだけが知らないんだろう。物やって済ませていると思うとるんじゃろ。」

滝  「娘や子はしなくていい。父ちゃんがしたことなんだ。」

絹子 「私、出戻りじゃけん。父ちゃんが人に嫌がらせしたんも、先週、宮田に行ったからかもしれんじゃろう。父ちゃんが頭下げて、謝ったからじゃろう。子供まで置いて出てきた私が悪いんや。」

   絹子は泣き崩れる。

滝  「そんなことない。父ちゃんは借金が払えないといつもなんじゃよ。分かった。一緒に来なさい。ちゃんと謝るんよ。泥をおでこに付けて謝るんよ。そうでないと、ここでは住めなくなる。こんなに迷惑かけて、住む資格がないんじゃ。」

絹子 「うん。母ちゃんと一緒に謝る。本当に父ちゃんが悪い。謝って許してもらえると思えないよ。だったら、金貸さなければ良いんじゃ。」

滝  「絹子、それは違う。金はそんなもんじゃない。金が無いと、子供を売ったり、女房を売ったりせにゃならんのじゃよ。でも知り合いにまで、ご近所にまでこんなことはしてはならん。返したくても無いから返せないのだから。待ってあげれば良い。病人の布団をはいではならん。それは金貸しのする事じゃ。父ちゃんは『金貸しには絶対に金を借りるな。どんな時も金を借りるな。』が家訓の人だ。でも自分が金貸しと同じ事してる。」

ター坊「俺も行く。男だもん。俺が先頭で謝る。母ちゃんは荷車に乗れ。布団の上に乗れ。俺が引くから。」

滝  「分かった。皆で行こう。」


○道

   ター坊が谷山さんから走って戻り、荷車を引く。
   滝は荷車に乗り、絹子が母ちゃんを押さえている。

ター坊「谷山の爺ちゃんが、すぐに来てくれるって。『こんなにたくさんありがとう』って言われたよ。」

絹子 「母ちゃん、大丈夫か。」

滝  「大丈夫、大丈夫。」

   滝は笑顔で子供たちを安心させようとしている。

○スー坊の家の前

   山の合間にある、みすぼらしい家の扉は無い。
   ぼろい布で風を遮っている。

滝  「ごめんください。山圭です。本当に申し訳ございません。」

   滝が山に響かんばかりに大きな声を出した。
   絹子、ター坊が、地面に頭をつけ続ける。

爺  「滝ちゃんか。待っとったよ。これできれいな布団で眠れる。気にせんでええよ。やっと金を返し終わったんじゃから。」

滝  「いいえ、本当にすみません。お辛い思いをおさせしました。主人はこの地の者ではないので、長年の付き合いを知らんとです。本当に申し訳ありません。お許しください。」

   絹子もター坊も頭を下げ続けている。

爺  「頭を下げとらんで布団で寝かせてくれや。昨日は寝られんじゃったで。」

絹子 「私が出戻ったんで、父がこんな寒い時期にこんなことをしたんだと思います。私が悪いんです。本当にすみませんでした。」

爺  「出戻ったんか。凄い家に嫁に行ったと聞いたが、なんでや。」

絹子 「どうしても、相手の方が嫌で嫌で、子供を置いてくるなら帰っていいと父が言うので、子供を置いて帰りました。父は、子供を置いては来ないと思っていたらしく、私が子供を置いてきたので驚いて。今、家に置いてくれています。
 先週、父が相手の家に詫びに行ってくれたんです。それでイライラがあって、こんなことをしたと思います。私の所為です。本当にすみません。」

爺 「子供に会いたいだろうなぁ。それほど嫌ならば仕方がないなぁ。」

   絹子は涙で溢れている。
   ター坊が着ていた毛皮を爺にかける。

爺  「こんなもん、いらんよ。」

ター坊「先生が掛けてられって。」


○爺の家の中

   絹子とター坊が布団を敷き爺を寝かせる。他の布団を横に積む。
   布団の山ができる。滝、絹子、ター坊が、畳の無い板の間に座る。
   冷たい風が、扉の無い入口から入る音がする。


爺  「温かい布団だ。軽いなぁ。いい気分じゃ。」

滝  「温かいですか?良かった。湯たんぽも持ってきました。私が使っていたので、湯がまだ温かいですから。」

爺  「湯たんぽか。凄いなぁ。スー坊に水を汲みに行ってもらおう。湯をどこに入れればいいか、スー坊に教えておいてくれ。」

滝  「はい。昔、ココで干し柿を頂きましたね。美味しかった。」

爺  「干し柿ならあるじゃよ。ほれター坊、あの缶を取ってくれ。缶に入れてあるから、白くなって甘いぞ。」

   ター坊が缶を取り、爺に渡す

爺  「お前がター坊か。何人目の子じゃ?」

滝  「5男坊です。絹子が一番上で、9人の子を授かりました。」

爺  「母ちゃんが小さい時、これを食ったんだ。お前も食え。」

ター坊「ありがとうございます。」

爺  「お前は、凄い毛皮を着てるな。」

ター坊「長男の時に買ったんです。大戦の景気の頃に。」

爺  「山圭さんは、稼ぐのが本当にうまい。ここら辺の山は、すべて山圭の山じゃ。滝ちゃんは凄い男と一緒になったな。息子夫婦も、滝ちゃんの家で働かせてもらっとる。」

滝  「東京で育った人だから、田舎を知らないんです。田舎のしきたりとか、暮らしとか知らないんです。だから今回の事までしてしまうんです。
武士の家で生まれですから田舎のしきたりは知りません。7,8歳で丁稚に出され苦労は知っているのですが、田舎は知らないんです。東京は私には分かりませんが、田舎は……付き合いをしていただいているのですから。」

爺 「ほうか。武士の家で生まれて丁稚に出されたんか。辛かったろうな。」

滝  「時々、寝言で、『後生です。』と魘される時があります。涙を流し寝ているんです。元々は三河の武士の家なので、農家の山田に養子に入ってくれて商売を始めたのですが、武士の家の人にはこの地の付き合い方は分からないんでしょう。どうかお許しください。」

爺  「いいよ。借金がのうなったことでホッとした。でもあそこまで仕事がうまい男はおらん。家の息子が自慢しとった。世界中の景気が悪くなっても、山圭さんは日本の女の帯芯を織るから大丈夫だって。」

母ちゃん「感謝しています。」


○帰り道

   荷車に母ちゃんが乗り、ター坊と絹子が荷車を引く。

ター坊「足が痛とうて、冷たかった。」

絹子 「母ちゃん、大丈夫か?ますます、足が痛くなったろう。」

滝  「毎回、父さんには悩まされる。なんでこんな酷い事をするんかと、でも、父さんも酷い事をされたんろうなぁ。良くは知らんが、毎朝、4時に起き、井戸水を温かいと思い、店の玄関からすべて拭いとったらしい。父さんの兄さんと二人で丁稚に出され、学校も行かせてもらえず、1日中、奉公しとったからね。もしかしたら、あん人にとっては、むごい事じゃないんじゃろうね。
 初めに父ちゃんが酷い事をした時に、怒ったら怒鳴り返された。『お前が、その家に持って行ったって怒らんから良かろう。』って。布団取られて悲しい思いをしている人の顔が見えんのじゃろう。鬼になりたくてなったんじゃない。鬼になり、仕事をしたから、こんな贅沢をさせてもろうてると思っている。でも町中に、鬼の圭蔵と言われているのは辛い。」


第3章 花街の楽しさ



○岡崎の料亭にて宴会の席

   大阪の糸問屋の『糸商』渡辺が織物を営む得意先を集めてる。
   大広間に約20人位の客が集まっている。
   芸者も20人以上居て、芸者の踊りを見ながら酒を楽しんでいる。
   山圭の圭蔵は上座の中心に座っている。
   料亭の女将が末席に座る糸商の渡辺の横に座り話をしている。
   置屋の鈴子が、女将に初子を連れ挨拶をする。

鈴子「今日はお呼び頂きありがとうございます。全ての芸者とお招き頂いたので、先月から家に居ります初子を連れてまいりました。
ずっと上がっておりましたので、お酌しかできないかと思いますが、なにとぞ宜しくお願いいたします。」

女将「渡辺さんが毎年お客様に豪華なおもてなしをとお申し出なので~初子さん、宜しくね。慣れるまで渡辺さんとお話をしていてくださいね。」

初子「初子と申します。宜しくお願いいたします。」

   女将と鈴子が小声で話している。女将が鈴子に詫びている。

鈴子「仕方がないので気にしないでください。」

女将「知子が露骨に葉子を虐めてごめんなさいね。お座敷でも虐めるから外させてもらってすまないねえ。今日は葉子は?」

鈴子「あとから来ます。知子さんとは離れて座るから心配ないと言っていましたから気を使わずに。」

   その話を聞きかじった渡辺が

渡辺「山圭さんの取り合いですか。山圭さんはモテますからね。知子って今も山圭さんの隣に貼りついている芸者やろ?」

女将「そうです。知子は以前から山圭さんが好きで好きで~」
  
   女将は笑いながら

女将「初子も分かるでしょう?知子は売れっ子だから注意も出来ないから。」

   初子は知子らしきをみて

初子「はい、わかります。お可愛らしいですね。」
 
   初子が渡辺にお酌する。

渡辺「キレイなお酌ですね。」

初子「そんなことおへん。」

渡辺「京都弁ですね。」

初子「久しぶりにお化粧をさせてもらい、緊張してしもうて言葉がよう出てきまへん。東京弁に直したのに、京都弁が出てしまいますね。」

   渡辺は初子に見入る。

渡辺「あの祇園の桜子(おうこ)さんでは?」

初子「桜子?」

渡辺「違いますか。昔、親父が贔屓にしていた祇園の芸妓です。親父が入れ込み、私も一度だけ席に行ったことがあります。物凄い人気の芸妓がおったんです。桜の子と書いておうこと言ってました。名のように満開の桜のような華やかな芸妓でした。お蔭で我が家はブブ漬けの毎日になりました。」

   初子はにこやかに笑っている。
   山圭がチラチラ初子を見ている。渡辺はそれに気づく。

渡辺「山圭さんを紹介しましょう。鬼の圭蔵と言われるほど商いに厳しく、恐慌時でも岡崎で、いや日本で唯一儲けておられた方です。初子さんを見ておいでです。初子さんが気になるのでしょう。」

初子「そんな……失敗でもしたら大変ですから。」

渡辺「そのキレイな京仕込みのお酌だけでもお願いします。山圭さんの機嫌を損じたら、商売が困りますよってに。」

初子「はい。」

   女将と鈴子は、どうぞどうぞと初子を差し出すように仕向けている。
   渡辺が初子を山圭の前に連れて行く。
   知子は山圭の腿に手を置き、初子を睨みつけている。

渡辺「今日が初座席の初子さんです。京都の祇園の芸妓はお酌がキレイなので、ぜひ山圭さんにと。」

圭蔵「初座席?」

   初子はお腹を抱えて笑う。

初子「糸商さんは面白い方どすなぁ。この年で初座席と言われたら、恥ずかしくてここに座っておれまへん。お座布団で顔を隠したいどす。初でなく、久々どす。二十何年かぶりのお化粧です。あの……お酌させて頂けますか?」

圭蔵「ああ」

   初子がお酌をする。最後に徳利の口を少し回し、1滴も溢さない。

圭蔵「ほう、しずくもたらさない手の動きだ。散々遊んだと称されている糸商さんが褒めるわけだ。」

渡辺「遊んだのは先代です。」

    知子が初子を睨みつけている。
   圭蔵は何気なくじっと初子の顔を見ている。渡辺がそれに気づく。

渡辺「初子さんとお知り合いですか?」

圭蔵「いやあ、知り合いに似ておる。」

渡辺「ほぉ~こないな美人のお知り合いですか。」

   知子がますます初子を睨む。
   圭蔵はそれに気づく。

圭蔵「昔の知り合いに会った気がした。」

知子「こんなおばさんの知り合いを覚えちょるの?」

圭蔵「知子はうるさいなぁ。母じゃ。母かとふと思ったんじゃ。」

   知子はそれを聞き笑い、

知子「そうじゃろうね。お母さんやろ。私のお母さんよりずっと年上だろうから。」

初子「そうでっしゃろうなぁ。うちに娘が居ったら、知子はん位の年でっしゃろう。私の言葉が変ですね。お席に酔ってしもうて京都弁と東京弁が混じってしまい、かんにんどすえ。お笑いくださいね。」

   初子は知子の嫌がらせを受け流す。
   山圭と渡辺は女同士の言葉の争いにならないとホッとする。

知子「葉子さんもこちらへ来たら?」

   知子は初子が嫌がらせを流すので、葉子を虐めたくなったらしい。

初子「山圭さんは素敵で~葉子ちゃんは失恋中ですから。」

   初子は事実をサラッと言った。

圭蔵「わしが悪いのか?」

初子「そうじゃおへん。山圭さんはステキ過ぎなんです。私もこの部屋に入った時に歌舞伎役者さんかと思いました。歌舞伎役者さんより素敵に思います。ですからお声が掛からなくなると寂しいんどす。女心どす。」

   圭蔵は褒められ気分よく笑う。
   渡辺は初子の機転ををさすがと思った。

圭蔵「初子は面白いな。京都弁と東京弁がごちゃごちゃや。わしは上野の百貨店で呉服売り場で奉公しておった。初子の半襟、何でできてる。絹やないやろ?」

初子「あらお気づきになられました?なんでっしゃろ?」

圭蔵「光沢があるが、絹の光沢でない。触って良いか?」

初子「どうぞ」

   圭蔵が初子の半襟を触る。

圭蔵「ん?綿か?はぁキレイな滑らかな綿やな。」

   初子が袖を上げ、肌着を出す。

初子「さて、これはなんでっしゃろ?」

   圭蔵が布をこすりながら。

圭蔵「これはまた違う綿やな。どこで買うた?百貨店でも売って無いやろ。」

初子「上海かシンガポールどす。芸妓をあげてもろうたお父さんと上海とシンガポールに行っとった時にこうた布で作りました。」

   圭蔵は酒が覚めたような真剣な顔をする。
   隣の渡辺も真剣な顔をする。
   知子が文句を言い始める。

知子「初子さん、席を外してくれる?そんな話をお座敷でせんでええ。そんなことも祇園では教わらないの?」

圭蔵「知子、外せ」

   知子は黙りじっと座り、圭蔵にもたれかかる。続ける。
   渡辺が初子の肌着を触る。

渡辺「これはウイグル綿ですね。半襟は光沢がありますから中国のエジプト綿でっしゃろ。」

初子「さすが糸問屋さん。大当たり。なんで日本では買えないでっしゃろ。お父さんがいつも『何で日本で作らないんだ』と愚痴を言ってました。日本のホテルのシーツもエジプト綿ですやろ?英国では売られている布だそうですね。
 売ってないから船が苦手なお父さんが上海やシンガポールまで買いに行かないと無かったんです。知り合いに頼んで買うてきてもらって、そのシーツでワイシャツや半襟を作ってました。日本で売られている輸入のワイシャツの生地は高すぎると言って。」

圭蔵「なんで半襟にしてる?肌着もわざわざ。日本のでええやろ。」

初子「綿だと洗濯が楽です。石鹸でゴシゴシ洗えて真っ白になります。中国のウイグル綿は殿方のシャツに使うらしいです。英国で最高級品だそうです。エジプト綿は肌触りがさらさらして着ていて気持ちが良いからどす。」

圭蔵「渡辺さん、日本で織ってないのか?」

渡辺「どこかで織ってるかも知れませんが、家では糸を下ろしてません。高級な糸ですから誰も買いに来ませんからね。」

初子「昨年の新聞に、豊田さんが英国でも認められたほど凄い織り機を作ってらっしゃるとか。豊田さんの織機なら織れるでしょう。英国やインド、シンガポールでも豊田さんの織機を使い織ってるらしいです。」

渡辺「初子さんは勉学ですなぁ。」

初子「いいえ、ろくに文字も書けません。文字の読み書きを勉強せんでしたやさかい。」

渡辺「声を聞くと、やはり桜子さんですね。」

   初子は笑いながら、

初子「いいえ、お人違いです。そんな有名な芸妓さんは知りまへん。うちが上がったあとでっしゃろ。」

圭蔵「桜子って?」

渡辺「一昨年亡くなった父が入れ込んだ芸妓です。祇園一、京都一と今も語り継がれている踊りの名手です。父が会社を潰すかと思うほど入れ込んだんです。ほら毎年お持ちする団扇。あの芸妓です。」

圭蔵「ああ、桜の花の団扇。」

渡辺「父が桜子の『都をどり』の時に、関西中に配るかと思うほど作りました。今でも倉庫に在ります。」

圭蔵「それほど惚れ込んだのか。」

渡辺「当時は父をアホかと思いました。しかし団扇を配った翌年から、仕事が増えたんです。世間は祇園の桜子の旦那と認められ、社名が知られ、信用され、取引してくれる会社が増えたんです。団扇も宣伝になったんでしょうね。そやから今でもこういう宴会は思いっきり派手にやるんです。」

初子「桜子さんてそんなに踊りの名手だったんどすか?」

渡辺「それはもう凄かったです。桜子が居なくなった後の『都をどり』は、秋の桜の落葉ごとく寂しいだけでした。当時はそれほど皆が桜子に見惚れておったんでしょう。」

   知子が物凄く機嫌が悪く、いちゃもんを付けだす。

知子「そんな話は面白い話じゃないけに辞めて飲みましょうよ。」

圭蔵「いやわしは聞きたい。興味がある。」

渡辺「都をどりは桜子の為にあるのかと見せたほどの踊りの名手です。器量良しで、それはそれは近づきがたいほどの品格ある芸妓でした。親父は恋しまくっていました。
 前の旦那さんがあげて京都に珈琲屋をやってたのに、舞が好きで芸妓に戻り、自前で芸妓をし、『恋人は3人が良い。2人では物足りないし、4人では多いし、恋人は3人が丁度良い。』と公言していた芸妓です。
 祇園が許し、旦那を3人持ち、親父がその一人に選ばれて、喜びまくり尽くしまくっていました。3人旦那同志が、置屋と相談して決めてたようです。親父もそれは息子の私にも言いませんでしたね。祇園ではご法度ですから。親父は『あの女となら死んでもいいと思うぞ』と息子に自慢しました。
 しかし前の旦那が海外から戻り、芸妓辞めさせてどこかに行ってしまったんです。それがあまりに突然で、親父に挨拶も無く突然で、親父が泣いていたのを覚えています。私も1度座敷に連れて行ってもらったことがありますが、キレイで声も出ず話せませんでした。その翌年の都をどりは寂しい限りだったと聞きました。」

知子「旦那が居て恋人3人だなんて遊女や。ココではウチが一番の売れっ子やで。旦那さんに山圭さんがなってもらうんや。」

圭蔵「わしはケチやで旦那にならんぞ。」

   知子は圭蔵の腕を持ち、胸に入れようとして

知子「なって欲しいわ。」

   初子はそんな知子を笑顔で見てるだけで、

初子「そないな有名な芸妓さんに似ていると言われて嬉しおす。うちも少し聞いたことがおます。私よりずっときれいな芸妓さんです。」

   初子が話の主役になっている知子がとにかく気に入らない。
   知子は初子に『あっち行け』の目くばせをし、初子はそれに気づき、

初子「少し席を。」

   姿美しく立ち上がる初子だった。
   初子が廊下に出ると、葉子が初子に近寄ってきた。

葉子「初子さんは芸者姿になると別人。1番際立ってキレイだわ。お願いがあるんよ。山圭さんを知子から取って。」

初子「そないなこと無理や。」

葉子「お願い。この3か月、ずっと弄られてきた。もう山圭さんを諦めてる。でも知子に色々言われるのが辛い。」

初子「あまり人の事を言うのは……けれどその気持ちは良く判るわ。知子さんって話してて辛くなる子やね。山圭さんなんでああいうのが好みなんか?」

葉子「違う。若いからやろ。山圭さんは自分のお金で飲みに来ない人だから。」

初子「そうなんか。自分でケチと言ってたわ。」

葉子「初子さん、お願いや。知子から山圭さんを取って。そうしたウチすっとするんや。」

初子「鈴子母さんに怒られるわ。そんなことしたら置いてもらえんようになる。」

葉子「鈴子母さんがイイと言ったらいいんやね。」

   葉子は鈴子の傍にサッと行き、耳打ちをした。
   すると鈴子がニッコリ初子に向かって微笑んだ。
   初子は頷き微笑み返した。しかし初子は座敷に出た当日であり、
   席を外し、勝手に上座の席に戻ることもできない。
   初子が末席に座ろうとすると、圭蔵が、

圭蔵「初子、こっちに来てや。」

   初子が山圭の前に座る。渡辺と知子は圭蔵に張り付いている。

圭蔵「逃げようとしたな。」

   初子は笑いながら、

初子「いえ、気を惹こうとしたんどす。」

   渡辺は予想してなかったことを言う初子に驚いた。

渡辺「初子さんは驚くことをサラッと言わはるなぁ。」

初子「祇園で育ったんどすけれど、京の言葉の言い回しが少し苦手で、正直にしておらんと言ったことを忘れてしまい、嘘だらけになってしまうんどす。頭が悪いんでっしゃろなぁ。そやから何でも正直に話すしかできまへん。」

   知子は圭蔵が余りに初子と話が弾んでいるのが気に入らない。

知子「綿の話でしょう?」

圭蔵「ああそやった。渡辺さん、どんな綿なんですか?」

渡辺「世界三大綿です。エジプト綿はギザ綿と言い、男性洋服のネクタイをつかうシャツに使われます。中国のウイグル綿は新疆綿(しんきょうめん)と言い、シルクのような光沢で最高品質の綿です。ネクタイ時のシャツや最も肌着にも好まれます。英国で貴族の人たちが使うと聞いていますだから、シンガポールでは売られているんでしょうね。」

初子「お父さんは、ウイグル綿は肌着や私の半襟に使い、エジプト綿はネクタイをしめるシャツやシーツにしていました。エジプト綿のシーツはさらさらしていて気落ちが良いです。外国のホテルではそのシーツを使っていますね。日本のホテルも外国人さんがお泊りになる大きなホテルは使われていますね。」

圭蔵「日本のホテルでも使っとるんか。輸入しとるんか?日本では作っておらんのか?」

渡辺「外国では安く買える日本の綿が人気です。最高級品がウイグル綿とエジプト綿です。日本の綿は普通なんです。
 エジプト綿やウイグル綿は日本では洋服のシャツですと、英国からの輸入品ではあるかも知れませんが、うちの会社で糸は販売してません。」

山圭「その糸は糸商さんで手に入るんか?」

渡辺「入ります。特に中国の上海に支店がありますからすぐに入ります。エジプト綿も上海に入ってます。」

初子「渡辺さんは、山圭さんと仕事の話ができると嬉しそうですね。」

   知子が初子に先輩風を吹かせる。

知子「いい加減、初子さん、仕事の話に口出しせんといて。場がシラケてしもうた。つまらん話をするからじゃ。」

初子「すみません。」

渡辺「知子さん、初子さんのお蔭で仕事が増えそうですから、知子さんは席を外して構いません。」

   知子はますますいらだった様子。
   圭蔵は知子の話も耳に入らない様子。

圭蔵「初子、本当に豊田の織機で織れるんか?」

初子「うちには判りませんよって。でも日本製品って素晴らしいそうです。伊勢の養殖で作った真珠がフランスで偽物だと訴えられて、でも裁判で本物と同じと認められ勝ったそうです。日本で作って無いのはウイグル綿とエジプト綿だけです。なぜないか不思議でした。さっきも言いましたけど、知り合いにシーツを買ってきてくれと頼んでましたから。そのシーツでシャツや肌着を作っていたんです。」

圭蔵「渡辺さんは、明日、家に来るんだろう?午前10時に来てくれ。一緒に豊田さんに行って聞いてみよう。輸入品よりは安く作れるだろう。輸出もできるかもしれん。」

渡辺「お願いします。初子さんありがとう。」

初子「いいえ、お商売が上手く行くとよろしおすなぁ。」

   和気あいあいとした雰囲気の宴会の座である。
   しかし知子は面白くない。

知子「初子さんの話は面白くないわ。舞でも見せてえな。」

初子「すんません。もう20年以上踊ってないんです。お酌しかできません。」

知子「枕か?」

圭蔵「いい加減にせんか。」

知子「枕も呼ばれんやろうなぁ。その年では。」

   知子の意地悪が始まった。
   初子は葉子の言葉を理解した。

初子「へえ、知子さんのように桃のようなカワイイ頃でなく、うちは12月の柿です。しかも渋柿。木になっていても誰も食べず、落ちずに必死で木にかじりついているだけです。」

圭蔵「12月の渋柿か。」

   圭蔵がにやりと笑った。

圭蔵「知子にはこういう話が分からにやろう。初子は何で渋柿と言うたか解るか?」

知子「誰も食べられないと言う事でしょう。誰も見向きもしないと。渋柿だもの。」

圭蔵「違う。美味しいですよとわしを誘ったんだ。」

知子「えっ?」

圭蔵「お前は話が面白くない。分からんでいい。女将。」

   女将が来た。

圭蔵「離れは空いているか?」

   知子の顔がこわばった。

圭蔵「初子、ええな?」

   一瞬初子はためらいながらも、ふっと笑顔になり、

初子「はい。」

圭蔵「その布を良く見せてくれや。」

初子「明日、豊田さんに行かれるのなら、見本を差し上げます。ハサミを借りて用意します。」

   圭蔵と初子は見つめ合い笑う。
   渡辺は新しい商売の話を喜び、女将に部屋の用意を頼んでいる。

女将「すぐにご用意させていただきます。それまで今しばらく~」

圭蔵「ああ構わん。初子、飲み直そう。」

初子「はい。」


○静かな客室

   離れは大広間と違い静か。 
   虫が冬到来をを告げるように一匹だけ鳴いている。
   初雪が降り始めた。
   圭蔵が床の間の前に座り、女中が酒などを運んでいる。
   隣の部屋に布団が、そこで初子は着物を脱ぎ、長襦袢も脱ぎ、
   ハサミを使い肌着の袖を切り、長襦袢の襟を取り切っている。
   初子は真っ赤な長襦袢に伊達巻を巻いただけで圭蔵の横に座る。

初子「これなら肌着や半襟と分からんでしょう。見本でお使いください。」

   初子が女中に話す。

初子「お願いが、この部屋でお客様と私は布団は使っていなかったとしてください。」

圭蔵「なんでや。」

初子「知子さん、葉子さんへの気遣いです。もうお呼び掛からないと思いますが、これから同じお座敷に出ることもあるかもしれません。山圭さんは素敵ですから羨ましく思い、憎まれるだけになります。仲良くできないと辛くなります。何もないと言えばそれで苦しめません。」

   圭蔵が財布を出し、女中に紙幣を女中に渡した。

圭蔵「そう言うてくれ。あと5,6本酒を先に持ってきといてくれ。これは小遣いや。」

女中「こんなに、ありがとうございます。もちろん判りました。女将さんにも言いません。私が女中長ですから、私が片づけに来ますで安心してください。」

   女中は嬉しそうに帯に金をしまい部屋を出る。

初子「ありがとうございます。」

   初子は圭蔵に寄り添いお酌をしている。
   圭蔵は、初子の長襦袢の脇から手を入れる。
   初子は圭蔵にもたれかかる。

圭蔵「12月の柿か。そんなにうまいか?」

初子「腐っているかも知れません。そうだとすっぱく苦いかも。」

   圭蔵が立ち上がり、布団の部屋に行く。
   初子も行く。
   圭蔵が布団に座ると、初子は布団の横に正座をし、三つ指を付き、

初子「お願いします。」

   挨拶をする。
   背筋の伸びた初子のキレイなお辞儀で凛とした雰囲気に包まれる。


○布団の間

   初子が着物姿で圭蔵の枕元に座り、
   寝ている圭蔵に団扇を優しく仰いでいる。
   圭蔵は団扇に扇がれすやすや寝ている。
   初子が小声で圭蔵の耳元で話す。

初子「すんません。もうすぐ明るくなりますから帰ります。」

   圭蔵は眼をさまし、

圭蔵「ああ、ちょっと待て。」

   圭蔵は初子の手を引く。

初子「もう着物も着てしまいましたし、夜が明けたら困ります。」

   初子は笑い。

初子「山圭さんは見た目と違い、面白いおかたですね。」

圭蔵「今晩もココに来る。わしの座敷に来てくれ。」

初子「はい、お布団が……山圭さんは寝てしまい、うちは団扇で仰いでおったとしておきましょう。」

圭蔵「雪が降ってるのに団扇か?」

初子「へえ、そよそよと仰ぐ風は、お酒を飲んだ後には気持ちええですから。」

圭蔵「お前は悪い女なのかも知れないなぁ。口合わせをちゃんと指示しやがる。分った。そうしておく。」

初子「おおきに。」

   初子は微笑み、部屋を出て行く。


第4章 大人の恋

   圭蔵の家の大きな部屋の仏壇の前で、
   滝は圭蔵の脱いだ着物を畳んでいる。

滝 「どうして昨日、帰らなかったんですか。」

圭蔵「どうしたって雪が降っただろう。」

滝 「どこに泊まられたんですか。」

圭蔵「料亭だ。」

滝 「……。」

圭蔵「あほらしい。」

   滝は、圭蔵の着物をたたむのを止め、はさみを持ち出す。
  (着物を切る音)

圭蔵「ははぁ、馬鹿な女だ。わしは養子だ。女遊びをせんかったら、ご近所様に笑われるぞ。」

   滝は、ますます着物を切り続ける。

滝 「そんなに養子が気になるなら、お嫌なら、出て行ってください。」

圭蔵「ここが俺の家だ。」

滝 「そやったら、養子を口実にしないでください。」

圭蔵「はいはい。お前がいまだにこんなに焼きもち焼くとは。幾つになったんだ。」

滝 「あんたには私の気持ちは分からない。」

圭蔵「はいはい。」

滝 「その馬鹿にした『はいはい』を止めてください。」

圭蔵「はいはい、新しい大島を買っといてくれ。それは、今年の正月に買ったばかりの一番高い大島だぞ。」

滝 「あっ?」

圭蔵「いい。稼ぐしか能のない養子じゃけん。」

   滝は、ますますビリビリに着物を切り裂く。



○山圭の事務所

   圭蔵が事務所に来る。
   事務所には長男徹と拭き掃除をしているキー坊がいる。
   机に向かい帳簿をつけている徹が怒った様子で父に話し出す。
   

徹 「父ちゃん、母ちゃんが可哀想だ。」

圭蔵「お前も言うのか!あんな高価な大島をビリビリにさせてやったろう。」

   徹は圭蔵に言い返せず口を詰まらせ、

徹 「そういう事でなく、母ちゃん脚気だから。」

圭蔵「皆が母ちゃん、母ちゃんなんだ。この家は。息抜きしたくなる。」

徹 「いや、父ちゃんは、母ちゃんを怒らせて喜んでいる気がするんだ。」

圭蔵「そうか。それは正しい。お前も結婚したらわかる。特に養子なら。」

徹 「養子、養子って。父ちゃんが会社を作り、こんなに大きくしたんだ。」

圭蔵「うるさい。わしはわしのやり方しかしない。うるさく言うなら、お前がこの会社を一人でやれ。わしは出ていく。」

徹 「出ていくなら、母ちゃんを連れていけ。弟妹は俺が見る。」

   圭蔵はニヤッと笑いながら、

圭蔵「お前もしっかりしたなぁ。何一つ、口答えをしないお前が、母ちゃんのことになると、わしに口答えをしやがる。
 もうすぐ10時に糸商が来る。一緒に豊田さんに行ってくる。昨日も今日はその話し合いじゃ。今晩も帰らんぞ。」

徹 「新しい仕事ですか?」

   圭蔵が着物の袂から布切れを取り出し、徹に見せる。

圭蔵「これ見ろ。昨日芸者が肌着にしていた布を切って貰ったんだ。その芸者がシンガポールや上海で買ったそうだ。糸商さんに聞いたら、日本では作られてないだろうという。
 芸者が言うに、それが豊田さんの織機を使い、外国では織られていると言うんだ。糸商は上海に支店があり、この糸は輸入できるそうだ。今までは帯芯だったが、最高級品の布も輸出品になるかも知れん。芸者が言うには、日本の外国人向けのホテルではこのシーツを使っているそうだ。だから豊田さんに行ってくるぞ。」

   徹が布に触れる。

徹 「肌触りが違いますね。絹みたいにきれいな光沢がありますんね。しかしやはり綿だから絹よりしっかり強さがある。」

圭蔵「最近は糸商さんも服着ておる。豊田さんは皆が服を着ておる。帯芯だけではなぁとずっと考えておった。」

徹 「高い布が売れますか?」

圭蔵「安い着物は売れ残る。シンガポールや上海でしか買えない布なら、日本でも買う人はいるだろう。商社が外国で織ったのを仕入れているのかもしれん。しかし機械が豊田さんなら日本でも簡単に作れるじゃろう。
 日本製品は品質の割に値段が安いから外国で売れてきた。この布も売れるかも知れん。まずは作れるか聞いて来ないと。今なら金がある。次に売れるもんを捜しとか無いとなぁ。」

徹 「父ちゃんから芸者の話をするのは初めてですね。そんなに気に入っているんですか。妾にでもする気ですか。」

圭蔵「40才過ぎの女だぞ。誰が妾にするか。昨日も遊びもせずに寝込んでしもうた。」

徹 「昨日は雪が降って、車で坂でも転げたのかと心配しました。」

   圭蔵は得意げに

圭蔵「だから泊まって来たんだ。ああ、糸商さんが来られたぞ。」


○車の中

   渡辺が運転してきた車だが、圭蔵が運転し渡辺が助手席に乗る。

渡辺「山圭さんは車の運転がお好きですね。」

圭蔵「この車はドイツの車か。ハンドルがアメリカの車と違うなぁ。」

渡辺「ドイツの車の方が壊れないと聞いて買いました。高かったです。運転は何時からですか?」

圭蔵「呉服店に勤めて居ったから、販売成績が良いと反物を持ってお客様の家に回る為に、会社が運転免許を取らせてくれた。運転するのが大好きじゃった。」

渡辺「柿はうまかったですか?」

圭蔵「寝てしもうたんじゃ。」

渡辺「それは惜しい。」

圭蔵「酒を飲んでうとうとしたら、初子がずっと団扇で仰いでくれてた。それで気持ちよう寝てしもうた。初雪が降っとったなぁ。寒いのに酔うと体が熱いから団扇の風は気持ちがええなぁ。団扇は気持ち良かったぞ。」

渡辺「やはり桜子やな。寝ていると団扇の風を優しく~」

圭蔵「そうか。それで先代さんは団扇なんじゃな。」

渡辺「いや。桜子は幼い時に祇園に来たそうです。噂では徳川のお家柄らしいです。幕末の戦の借金があり、懇意だった金貸しが倒産し、借金手形が人に渡ってしまい、桜子が小さい頃からたいそう器量良しで、祇園に行くことになったらしいです。祖父と父は維新に戦死し、母が家を守っていたらしい。
 その母が桜子が小さい頃に、よく団扇で寝ている桜子を仰いでくれたそうです。それがとても気持ち良い思い出だ親父が話していました。他の旦那たちはその話を知らず、親父「だけに桜子が話したそうで、それで親父は団扇に力を入れたらしいです。
 桜子は、いつかは母親と暮らすのを願い舞を頑張ったらしいです。
 桜子を水揚げした旦那は、海軍の将校で、財閥の3男、桜子と初めて会った日が、桜子が母親の死を知った日だったとかで、毅然と踊る姿に胸を打たれたと聞いた話ですがね。
 その将校が翌日、特別な計らいで桜子を母親の墓に連れて行ったそうです。舞妓姿のまま列車に乗り墓へ行ったと聞いています。その将校が贔屓になり、水揚、襟替し、将校が海外勤務になり、桜子に京都でコーヒー屋をさせたようです。
 しかし桜子は舞を踊りたいと、芸妓に戻り、都をどりに命を賭けるほどの凄さで、親父と他2人を選び、一代有名な芸妓になったんです。しかし前の旦那の将校が戻り、翌日には九州に連れて行ったと聞いています。」

圭蔵「時代じゃ。わしも武家の出だが7歳で丁稚に出され、母とはそれきり会ってない。姉と妹と長男の居る北海道に行った。わしと1つ上の兄は船代金がないと上野の呉服屋に丁稚に出された。兄は年季があけたら北海道に行ったが、わしは意地張って母に会わぬままじゃ。わしの家は旗本だった。今は武士が商人をし、しかも農家の養子に入った。明治になったからだ。」

渡辺「そうですか。うちは代々商人ですから。お武家さんは大変でしたね。」

圭蔵「時代じゃ時代。いつの時代も生きぬかなあかんだけじゃ。」

渡辺「そういえば昨日、知子が荒れて大変だったとか。女将が知子はもう店に入れんとなったそうですよ。」

圭蔵「何をしたんだ。」

渡辺「初子の草履を厠に捨てたとかで、それを葉子がみていて。」

圭蔵「初子はちゃんと草履をはいて帰れたんじゃろか。」


○料亭 離れ

   夜8時過ぎ、芸者姿の初子が一人コタツに入り、
   圭蔵を待ちウトウト寝ている。圭蔵が入ってくる。
   (鳩子の亡旦那をお父さんと呼んでる。)

圭蔵 「待たせたか。」

   初子は圭蔵を見てニッコリ嬉しそうに笑う。

初子 「疲れて寝てしもうて。」

圭蔵 「遅くなってすまん。渡辺さんと一緒に、豊田さんに行き、織機の話を聞いてきた。初子の言う通り、あの糸を使って織れるそうだ。織り機を1機頼んできた。渡辺さんが初子と今日会うと言ったら来たがったから豊田さんに置いてきた。糸の種類や何を仕入れるかを色々細かく教わるそうだ。」

初子 「あら置いてきたんですか。今日は母の御命日で、こんなもんを作ってお墓参りに行ってきました。」

圭蔵 「まんじゅうか。」

初子 「はい、味噌まんじゅうです。母と一緒に作ったのを覚えていて。良かったら食べてください。」

   昨日と同じ女中が食事を色々持ってきた。

初子 「お帳場にまんじゅうを届けたけれど食べた?」

   女中は首を振る。
   初子は味噌まんじゅうを1個、女中に渡す。
   女中はそれを袖口にしまう。

圭蔵 「どこまで墓参りに行ってきたんだ?」

   初子はぼんやりし、

初子 「静岡までです。それで疲れました。朝から小豆を煮て、饅頭をこしらえて、お墓参りに行き、そして化粧をしてこちらに。」

圭蔵 「昨日、草履が無かったそうだな。ちゃんと何か履いて帰ったか?」

初子 「下駄をお借りして帰りました。」

圭蔵 「そうか。足袋で帰ったら霜焼になっただろうと心配した。コタツは温かいだろう。」

初子 「おこたに入ったら温かくて気持ちが良くて寝てしもうて。山圭さんもお疲れでしょう。さあ、温かいお酒でも飲んでください。」

   圭蔵が掘りごたつに入る。
   初子がお酌をする。
   圭蔵が初子が作った味噌まんじゅうを食べる。

圭蔵 「懐かしいなぁ。味噌まんじゅうは久しぶりだなぁ。母さまが味噌まんじゅうを作ってくれた以来じゃ。」

   圭蔵は美味しそうに味噌まんじゅうを食べる。
   初子は嬉しそうな笑顔を浮かべ。

初子 「お口にあって嬉しいです。山圭さんは東京のご出身だと、岡崎の赤味噌は好きではないでしょう。」

圭蔵 「出身は岡崎じゃ。初子こそ静岡にお墓があるんじゃと赤味噌を食べんだろう。」

初子 「母の出身は岡崎です。赤味噌育ちです。」

圭蔵 「赤味噌はココだけだからなぁ。」

   圭蔵と初子は話が合うらしく、
   まるで恋人同士のように仲睦まじく話が弾む。

圭蔵 「気を使わんでいい。」

初子 「そう言われても気を使うのが芸者の仕事です。」

圭蔵 「初子はいろんなことを知っているなぁ。ウイグルの綿やエジプトの綿、山圭で作らせてもらうぞ。渡辺さんが言っていた。初子は祇園の桜子なんだろう?」

初子 「言わんでください。今はお酌しかできない芸者です。」

圭蔵 「旦那が居て、恋人3人だからか?」

  初子は笑いながら、

初子 「はい、都をどりで1番に成りたかったから。凄くお父さんに怒られました。でも恋人さん1人にしてたら許せなかったでしょうね。3人だから許すしか。」

 初子はニコッと微笑んだ。圭蔵は男のその思いが分かった。

圭蔵 「1人だったら許さんか。」

初子 「ええ、お母さんもそう思うて相談して3人にしました。」

圭蔵 「旦那さんは亡くなられたのか。」

初子 「はい、2ヵ月前に亡くなりました。お父さんに言われていたように奥さんに連絡しました。引き取りに来られるから、私はお父さんが仲良くしていたお隣さんのご夫婦とホテルに2日間泊まりに行ったんです。帰ってきたら何にも無くなっていて、私の箪笥も、台所のお釜もお杓文字も、皿も、お風呂場の風呂までも全て無くなってました。庭木も牡丹やさつきは抜かれなくなり、松や桜は切られていました。玄関前に、お父さんが大事にしていたオモトの鉢だけがお日様に当たって置いてあったんです。お隣さんに少し置いて頂き、母の故郷に来たくて来ました。」

圭蔵 「よほど奥さんが怒っていたんだろう。」

初子 「そうでしょうね。20年間1日も帰さずにいました。お父さんの部下の方たちはいつもいらしてくださいましたが、たまに息子さんがお父さんに会いに来ましたが。私がヤキモチ焼きで帰しませんでした。こんなに奥様は嫌だったんだと思い知りました。」

圭蔵 「それほど一緒に居たなら、それからの生活も旦那さんがちゃんとしていただろう。なんで岡崎に来たんだ。」

初子 「私がアホなんです。お父さんが亡くなり動転して、ホテルに泊まる用意は持っていきましたが、私の貯金通帳と家の謄本や大事なものを私の箪笥に入れたままでした。それが無いんです。お父さんが印鑑だけは肌身離さず持っているように言われていたので、大事にお守りに印鑑は入れて持っているんですが、通帳がないんです。ホテルに泊まる時に身元の分かるものをと旅券だけは持って行ったので旅券はありますが。」

圭蔵 「銀行通帳か?印鑑が無いと奥さんでも金は出せないぞ。通帳は作り直せる。何処の銀行か?」

初子 「住中さんです。」

圭蔵 「住中なら岡崎にあるから、わしが一緒に行ってやろう。そして時間は掛かるだろうが、通帳の再発行の手続きをしてやろう。」

初子 「そんなことができるんですか。」

圭蔵 「織屋より布の事は外国の布まで詳しい初子が、銀行は知らないか。」

初子 「学校に行ってないので、あまり字も書けませんし、算盤も出来ません。踊りしかしとうなくて、舞妓の稽古はお花もお茶もお習字もしませんでした。わがままを通しました。」

圭蔵 「わしも学校に行ってない。渡辺さんに聞いた。武家の出だそうだなぁ。」

初子 「はい、ずっと徳川さんだったら良かったのに。明治さんの学校は嫌でした。女の子が男の子と学校に行けるようになったから。」

圭蔵 「時代じゃ。でもキレイなベベ着て居れたんだろう。団扇の絵にも成れた。」

初子 「そうですね。本当は子供の頃、学校に通う人達が羨ましかったんです。お母さんと一緒に暮らし学校に行けるって。」

圭蔵 「わしも7歳で上野の呉服屋に丁稚に出された。それ以降、母さまに会って無い。丁稚は辛かったが気が付いたんだ。商人はいつの時代も変わらない仕事だと分かった。それで商売をやらせてくれる家に養子に入り、綿織り工場を始めた。商人は上に気を使わず自由にいくらでも稼げるからな。団扇はたいそう作ったそうだなぁ。今も夏にはあの団扇を渡辺は持ち挨拶に来ていた。」

初子 「あれは~日本画家の有名な先生が描いてくれた版画です。昨日のブブ漬けの話に悪かったなぁと思いました。」

圭蔵 「そんなことは気にしなくて良い。糸商の先代さんはそれが出来て嬉しかったんだよ。」

初子 「そうですか。」

圭蔵 「よほど何も無くなっていたことが辛かったんだろう。全部自分の所為だと思っている。気にしなくて良い。」

初子 「山圭さんと話していると楽しいですね。本当の事を言いましょうか。お母さんが『3人』と決めただけです。旦那さんにいつかは判るから、その時に旦那さんが怒らなそうな相手をお母さんが選んでくれたんです。」

圭蔵 「饅頭屋をやりたかったんか?舞妓姿のままお母さんの墓の前に立っていたそうだな。」

   山圭は初子を撫でる。

初子 「噂ですね。列車に乗るから普通の着物を着てました。饅頭屋は本当です。幼い頃、家を出る日にお母さまと一緒にまんじゅうをこしらえたんです。それが楽しくて、いつかお母さまと饅頭屋をやりたいとずっと思っていました。
 お父さんが初めてお座敷に来られた日に、そのお座席の前の席で岡崎の方がおられ、お母さまが死んでいたことを知ったんです。舞妓でしたから何も言わず、泣くこともできず、お父さんのお席に行き、踊り、その様子がおかしかったんでしょう。同じ置屋の芸妓さんが話してくれて、お父さんが『明日お墓参りに行こう』と言うてくれて、お姉さんがお母さんに話してくれて、お父さんが一緒ならと行くことが許されたんです。
 だから普通の着物です。舞妓姿で汽車には乗ってません。お墓に行き、お母さまの死んだ日を知りました。私と饅頭を作った次の日でした。」

  圭蔵は優しく慰めるように初子を撫でている。

初子 「お母さまと饅頭作るのが楽しかったんです。お母さまと饅頭が作れないと判ったら踊りしかないですから、何か解らんけれど一番になりたくなって。」

圭蔵 「それで旦那が3人欲しかったんか。」

初子 「キレイな着物も欲しいですから。」

圭蔵 「男が好きか?」

初子 「好きとか考えません。言われた通りにだけです。でもこの方が旦那さんになってくれたら周りが認めてくれると分かると、その殿方が欲しくなりましたね。
 はい、頂きました。渡辺さんのご先代さんもそうです。渡辺さんの先代さんはが旦那だと大事にしてくれ、たいそう尽くしてくれると評判の方でした。」

圭蔵 「自分から目星を付けるのか。」

初子 「はい、そうです。昨日も山圭さんを葉子さんに頼まれました。岡崎に来ても誰も知りません。どうしようかと橋の上から川を見てました。そこにお巡りさんが声をかけてくれて、お巡りさんの幼馴染が葉子さんで、芸者ならならできると言ったら、葉子さんの置屋に連れて行ってくれたんです。昨日は葉子さんに『知子さんから取って』と頼まれて~こうなりました。いつも流れに従い生きてますね。」

圭蔵 「わしが引っ掛かったか。熟れた柿の言葉に引っ掛かった。」

初子 「そうですなぁ。いつも目を瞑って気持ち良くしてもらいっているだけです。」

  山圭は、初子の帯をほどき始める。


○ 布団の部屋

   圭蔵は浴衣を着、丹前を来て、布団の上に座っている。
   初子は、熟した柿色の長襦袢を着、
   胡坐をかいている山圭の腿を枕に寝ている。

圭蔵 「熟した柿色の襦袢だなぁ。」

初子 「そうです。わざわざ熟し過ぎを着て来ました。」

圭蔵 「ああ」

   山圭は初子の胸を撫でている。

圭蔵 「駅前に店が売りに出ている。銀行の5軒隣で駅の真ん前だ。和菓子屋だったが廃業し、高山に戻ったそうだ。初子が饅頭屋をやると良い。」

初子 「私に?できません。字もあまり読めませんし、算盤も足し算しか出来ません。」

圭蔵 「今から勉強すればいい。わしが教えてやる。」

初子 「毎日、同じお饅頭が作れるかしら。」

圭蔵 「それは作る人を頼めばいい。」

初子 「私は何をすればイイの?」

圭蔵 「饅頭を売って、売れたら帳面につけ、仕入れた物のお金を帳面につけ、お金を銀行に持っていくだけだ。そしてわしが初子に会いにいく。」

初子 「お妾ですか。また奥さんに怒られる。」

圭蔵 「分からんようにできる。銀行に行くと言い、わしが饅頭を買いに行けば良い。」

初子 「山圭さんモテるから。私も12月の柿だし。すぐに来んようになります。」

圭蔵 「他は遊ぶだけだ。妾にせん。」

初子 「それを言うてるんです。奥さんは仕方がないけれど、他で遊ばれるのが嫌です。」

圭蔵 「わしは養子じゃよ。遊ばんと笑われる。」

初子 「渡辺さんの先代さんは養子でなくても遊んでました。若いオナゴとは遊ばんでくれたら。」

圭蔵 「ヤキモチか。」

初子 「はい。すぐに取られて、山圭さんが居なくなる気がするんです。」

圭蔵 「お前には外国の布を教えてもらったから、その礼もある。それに来年の柿はどうする。」

初子 「何も考えてません。」

圭蔵 「お座敷を続けるのか?こうして男を取るんか?初子はいやらしい、男が喜ぶ身体を持っている。いくらでも続けられるだろうが。」

初子 「仕方がないです。」

圭蔵 「わしの妾にしてやる。」

初子 「これからも芸者と遊ぶんでしょ?嫌です。それに自分で決めたことが無いです。いつもお母さんが決めてくれたし、お父さんが決めていました。」

圭蔵 「わしの娘は旦那が嫌だと離縁して家に戻っている。自分で決めているぞ。そうならわしが決めてやる。妾になれ。妾はお前だけにする。」

初子 「山圭さんの奥さんってどんな人?」

圭蔵 「気になるんかい?優しい人じゃ。気立てがええから結婚した。子供は9人おる。1番上が24才、1番下が7才じゃ。」

初子 「どういう風に優しいの?」

圭蔵 「わしは呉服屋で丁稚から働いておったから、帯芯が作りたくて養子先を探した。大きな農家の娘が奥さんじゃ。岡崎の百貨店の上で見合いじゃったが、少し早く来て、百貨店の呉服売り場を見てた。するとお婆さん連れの娘がおって、冬用の裾よけをお婆さんに説明してた。店側は高いのを勧めるが、この安い方が暖かくて洗濯しても縮まないと丁寧に話してた。その娘が見合い時間に遅れて来よって前に座った。聞くと婆さんは知り合いでも無く、買い物をして階段を下りるのを手伝い、1階まで送って行ったと気付いた。親切な娘だと、これなら良い母になるだろうと結婚を決めた。」

初子 「優しそうな方ですね。悪くて妾になれません。」

圭蔵 「奥さんを居なくはしない。お前が妾なだけじゃ。」

初子 「そやけど、どうしたら良いんでしょう。芸者も続けたくないし、山圭さんの奥さんには悪いし。」

圭蔵 「わしの決めた通りにハイと言っていればいい。」

初子 「知子さんみたいな若い芸者に行かれて、来なくなるのが悲しくて。」

圭蔵 「それはあるかもしれないなぁ。初子の努力次第だ。」

初子 「私の努力?」

圭蔵 「一緒に居たいなぁ、会いたいなぁと思わせてくれれば良い。」

初子 「青い柿ならね。私は12月の柿です。もうすぐ腐ります。」

  そう言いながら初子は笑う。

圭蔵 「自信満々の桜子はどこに行った?」

初子 「行ったり来たりです。山圭さんがステキ過ぎます。
ならこうしましょう。勝負して山圭さんが買ったら山圭さんの言うとおり。私が買ったら、山圭さんが遊ばないで私がお妾さん。ええですか?」

圭蔵 「ええよ。何で勝負する?」

 初子は少し横に流れるように座る。

初子 「我慢した方が勝ち。」

圭蔵 「よし。」

   初子は、座ったままの山圭の丹前と浴衣の前を開ける。
   圭蔵をまたぎ、腿の上に、襦袢を払い直接座る。

初子 「こんにちはですね。4歳から花街育ちです。殿方が我慢出来んか知ってます。私の勝です。」

圭蔵 「ふん。わしは負けず嫌いじゃよ。」

初子 「そうですか。私はいやらしい体をもっているんでしょ?山圭さんの負けです。」

   初子は裸体の胸を山圭の胸にピッタリ付ける。
   手を圭蔵の背にまわし、山圭の首や背をなで、舌で耳をなめている。

初子 「元気になっているのに。まだ我慢しますか?」

圭蔵 「子は正直だからなぁ。我慢じゃ。」

   圭蔵の手が初子の体を撫で、胸を揉む。初子が感じている。
   初子が圭蔵の耳元で小さな声でつぶやく。

初子 「寝ころんでください。気持ちようしてあげるさかい。」

圭蔵 「寝ん。初子のおもいのままになる。初子は饅頭を売り、饅頭屋の2回で足を広げてわしを待てばいい。」

初子 「足を広げて山圭さんを待つんですか?足を広げて。」

   初子はくすくす笑う。

圭蔵 「そうだ。」

初子 「山圭さんは面白いなぁ。私が足を広げて山圭さんを、欲しい欲しいと今みたいに待つんですか。」

圭蔵 「欲しいか。」

初子 「はい。私の負けです。」

   初子が寝ころぶ。
   圭蔵が乗り、

圭蔵 「ちゃんと目を開けておれよ。気持ち良くしてやる。次に気持ちようしてや。」

   初子は圭蔵を見つめ、ニッコリ頷く。


○明け方

   二人は起きて布団の中で仲良く寄り添っている。

圭蔵 「午前中に不動産屋に行くぞ。」

初子 「今日ですか。だったら着替えてこないと。でも私にできるかしら。」

圭蔵 「心配しなくて良い。わしが付いている。」

初子 「あの、一つ嘘をついてます。お墓は静岡でなく、岡崎です。私みたいのはお家の恥になると静岡と嘘をつきました。」

圭蔵 「そうか。気にせんでいい。」

初子 「ありがとう。」



○不動産屋

   圭蔵の自分の車で駅前に行き、銀行近くの物件をみる。
   駅で待つっていた初子は普通の着物を着ている。
   初子は圭蔵に会い笑顔で近づく。2人が不動産屋に入る。

不動産屋「山圭さん、どうぞこちらへ。」

   応接席に通される。

圭蔵 「久しぶりですね。景気はどうですか?今日は駅前の店屋について聞きたい。」

不動産屋「山圭さんはさすがお目が高い。先週空いたばかりです。駅前の店が空くのは滅多にありませんからね。お目が高い。和菓子屋でした。ご主人が高山の方で高齢なので売って高山に帰りました。ちょっとお高いです。」

圭蔵 「幾らだ。」

不動産屋「3000円です。」

圭蔵 「幾らだ。ちゃんと売る値を言いなさい。」

不動産屋「いやぁ。」

   圭蔵は黙り不動産屋を見ている。ばつが悪そうな不動産屋は

不動産屋「済みません。いつもお金が回らない時に山を買うてもらっていてこういう所が私が商売が下手な所です。希望された売値は1800円です建物が古いですから、大工を入れないと行けません。」

   圭蔵は笑い、

圭蔵 「今日から入って良いか。大工はわしの方で手配する。」

不動産屋「掃除がまだですし、店の道具などを置いて行かれたので掃除をしないといけません。1800円で。以前頼まれていた松茸が出る山が売りに出ますがどうでしょう。」

圭蔵 「幾らだ。」

不動産屋「500円です。小さい山ですが、良い松茸が採れます。山圭さんの松茸が採れる山の隣の山です。」

圭蔵 「ああ隣の松茸がたくさん採れる山か。ター坊が欲しがってたんじゃ。子供が多いと末っ子の分が少ないと悲しんでた。いつもター坊が一人で採ってくるけん。買ってやろう。それはいい値で買おう。
 よし決めよう。契約はこの人がする。わしが保証人をする。金は小切手で2300円を今払う。値切らんから、わしが買うたことを誰にも言わんでくれな。」

不動産屋「はい、もちろんです。ありがとうございます。すぐ契約書を用意します。実は夜逃げされたんです。」

圭蔵 「すぐに線香を焚かんと行けないなぁ。契約する前に線香を焚いて来てもらってくれ。今すぐに。」

不動産屋「はい、」

   店の男性が線香と灰入れを持ち不動産屋を出る。

初子 「どうしてお線香を?」

圭蔵 「悪い運気を線香で払うんじゃ。昔から不動産はそうしている。」

初子 「何でも知っているんですね。」

   圭蔵は気分良さそうに笑っている。

圭蔵 「初子は字が書けんからわしが書いていいな。住所はどこか?」

初子 「東京のままです。」

   初子は袋から海外旅券を出した。

圭蔵 「コレが旅券か。初めて見た。」

   旅券を開き、圭蔵が止まる。じっと旅券を見続けている。

圭蔵 「初子で無いんか。杉浦鳩子と言うんか。」

初子 「はい、母の名前が初子です。」

   圭蔵が固まる。そして緊張しながら書類を記入している。

圭蔵 「印鑑をここに押しなさい。そして新しい住所はここになる。これを旅券に挟んでおきなさい。旅券を持っていたら銀行でも通帳はすぐにできるだろう。新しい住所で新しい通帳を作って貰おう。それは明日でもやろう。」

   初子は胸からお守り袋を出す。

初子 「これ、お母さまからもらったお守りなんです。これに印鑑と石ころを入れていつも持っているんです。」

   初子が印鑑を押す。

初子 「私、ココで暮らせるんですね。」

圭蔵 「ずっとココにおれば良い。」

   書類を不動産屋に渡す。

不動産屋「保証人が山圭さんで。あのご関係を書いていただきたいんですが。」

圭蔵 「ああ、書き忘れたか。従妹じゃ。私の母の妹の娘じゃ。」

不動産屋「ああ、そうですか。」

   初子は圭蔵が上手い嘘をついてくれたとにっこりほほ笑む。
   初子が小声で圭蔵に、

初子 「ありがとう。そう言って頂くと肩身狭くなくココに居れるよって。」

   圭蔵は何とも言えない作り笑顔をする。

圭蔵 「小切手を渡すよって、領収書をくれ。」

不動産屋「収入印紙がありません。領収書は後で~」

圭蔵 「ん?今すぐ、買いに行けるじゃろ。」

不動産屋「あっありました。思い出しました。すぐに用意します。」

圭蔵 「初子、ああ鳩子。夕方4時頃店に来なさい。それまでにわしが大工を来させ直すところを決める。料亭の女将に今日の午後にわしが挨拶に行く。
 鳩子は、今から鈴子の家に帰り、昼寝をしのんびりしてから来きなさい。それまでに女工たちに掃除をさせて、今晩から泊まれるように用意をしておくから。1人では寂しいだろうから、誰か一緒に住める女もおくから安心しろ。」

初子 「はい。」

○鳩子の母の墓の前

   圭蔵が墓の前に居る。
   味噌まんじゅうと花が供えてある。
   圭蔵の目から涙が出ている。

圭蔵 「ポッポ。」


第5章 新たなる家族



○山圭の事務所

   圭蔵が事務所に帰宅する。徹が居る。

圭蔵 「母ちゃんと絹子、キー坊を急いで呼びなさい。大事な話がある。

   徹は3人を呼びに行く。

徹  「豊田さんで何かあったんですか?」

圭蔵 「その話で無い。昨日話した芸者の話だ。」

   滝と絹子とキー坊が事務所に入ってくる。

圭蔵 「母ちゃん、足は大丈夫か?」

滝  「今日は晴れているからでしょう。調子が良いです。」

圭蔵 「今度、外国で作られている新しい綿織物を作ることにした。昨日、豊田さんに機械を頼んできた。新しい綿織物の事は、一昨日、糸商さんの宴会で芸者が教えてくれた。その芸者に色々聞き、豊田さんでそれが織れる機械もあると知った。それでその芸者に駅前で饅頭屋をさせる事にした。」

   徹は憮然とし

徹  「妾を置くってことを了承しろってことですか。」

   滝は黙って聞いている。

圭蔵 「話は良く聞いてからにしなさい。その芸者がポッポだ。」

滝  「ポッポって父ちゃんが以前に探していた従妹のポッポちゃんですか?京都に舞妓に行った家老の娘さんで、父ちゃんのお母様の妹の娘さんで、お姫様と言ってたポッポちゃんですか?」

圭蔵 「そうだ。」

滝  「家に来てくれれば良いですよ。」

圭蔵 「舞妓の頃から母と饅頭屋をしたかったそうだ。ポッポの母はポッポを出したあと、矢作川に入水した。母とポッポが最後に家に挨拶に来た時、饅頭を持ってきたことがあった。それを作りたいと子供の頃から思っていたそうだ。」

徹  「すみません。勝手に妾を置くと思い込んでしまいました。」

滝  「ずっと芸者さんを?苦労されたんですね。」

圭蔵 「苦労したと言うか、強く生きていた。京都で一番の芸妓だったそうだ。旦那に上げてもらい、ずっと東京で暮らしていたが、旦那が亡くなり岡崎に戻ったそうだ。それで忙しい時に芸者を頼まれていたらしい。まだ岡崎に来て2カ月。
 先ほどわしが岡崎駅前に売りに出ていた店を買ってきた。駅前だから饅頭屋をやれば売れるだろう。今日から住めるように掃除や色々面倒をみてやりたい。それで集まってもらった。」

滝  「私がキー坊と掃除に行きましょう。」

圭蔵 「母ちゃんは明日、徹と一緒に駅長さんや商店会長さんに、ポッポを連れて挨拶に行って欲しい。」

滝  「でも~」

圭蔵 「母ちゃんは赤飯でも炊いてやってくれ。掃除は、徹とキー坊が女工を7,8人連れて行けば、狭いから2時間くらいで拭き掃除までできるだろう。そして絹子が今日から寝られるように布団や鍋釜必要なものを揃えてやってくれ。お姫様だから一番いい品を揃えてやってくれ。そしてキー坊は今日からポッポの所で寝泊まりしてくれ。お前は料理が上手だから、饅頭も作れるだろう。」

キー坊「はい饅頭なら簡単に作れます。」

圭蔵 「わしは少し仕事を片付けてから料亭の女将に話し、大工の手配に店に4時に行くことにしてある。4時にポッポも来ることになっているから、それまでに片付けて、キレイにしてやってくれ。宜しく頼む。」

   圭蔵が珍しくおとなしい様子である。

徹  「父ちゃん、疲れているようですね。任せてください。私達がやりますから、少し休んでください。」

圭蔵 「ああ驚いたからなぁ。ポッポだとは、心臓が止まる思いがした。まだポッポに親戚と言ってない。今日話をする。ああそうだ。キー坊は読み書き算盤ができるか?」

キー坊「難しい字は分からんけどできます。小学校は出てます。奥さんに新聞で分からん字は辞書を引いて調べるようにと辞書は買って貰ってます。算盤はそこそこです。」

圭蔵 「そうか。徹が明日から帳面の付け方を教えに行ってくれ。ポッポは学校に行ってないから読み書きできない、算盤ができないと店をやるのを渋っていた。勉強すればいいと言ってあるから、キー坊が先生で教えてやってくれ。徹もキー坊がちゃんと教えているか見てやってくれ。」

徹  「はい判りました。」

   キー坊は目を輝かせるように、

キー坊「私が先生ですか?頑張ります。」

滝  「キー坊はちゃんとどこでも嫁に行けるように躾てあるけん。綿子や縫子や進やター坊の勉強もキー坊が見てる。中学位の学力はある。キー坊なら大丈夫。キー坊、慣れるまで鳩子さんも大変だろうからよろしくね。お前も大変だろうけど頑張っておくれね。」

   圭蔵は話がひと段落した落ち付きで、深いため息をついた。
   そして思い出すかのように、

圭蔵 「あっ滝、あやとりの紐をくれ。」

滝  「あやとりですか?手遊びのあやとり?」

圭蔵 「ああ、ポッポはわしが従兄じゃと分かるともっと驚くだろう。4歳位だったから覚えてないかもしれんし、ポッポとは昔、よくあやとりをしたんじゃ。それなら覚えておるじゃろう。」

滝  「はい、すぐに用意します。」

圭蔵 「絹子が帰ってて助かった。キー坊が居なくなると母ちゃんが大変だ。絹子がいれば安心だ。何が役立つか分からんな。」

絹子 「父ちゃん……」

滝  「絹子頼むね。私が助かるけん。」

圭蔵 「頼んだぞ。」

   滝、徹、絹子とキー坊はは慌ただしく事務所から出て行く。
   圭蔵は事務所に一人でいる。ぼんやりしている。

圭蔵 「初子がポッポか。罰が当たった。」


〇駅前の店

   午後3時時頃、圭蔵が駅前の店に着く。誠が出迎える。

徹  「掃除は終わりました。布団と鍋や釜は使えるものは綺麗に磨き、足りないものは今、絹子がキー坊を連れ買いに行っています。」

圭蔵 「キレイになったなぁ。ありがとう。」

   徹が躊躇する。圭蔵の様子がいつもとあまりに違うからである。

誠  「どうしたんですか?父さんがアリガトウと言うなんて。」

圭蔵 「ああ、あまりに驚いたからだろう。鳩子をずいぶん探したが見つからなかった。それが急に目の前に居たんじゃからなぁ。
今日は、キー坊だけ置いて帰ってくれ。鳩子と落ち着いてちゃんと話がしたいし、鳩子に親戚と明日挨拶をさせてやりたい。」

誠  「はい、そうですね。鳩子さんは今は何も知らないのでしたね。」

圭蔵 「ああ、驚くだろう。」

誠  「僕も絹子も今帰った方が気楽です。何と挨拶していいか迷いますから。明日、親戚として会い、挨拶に回った方がこれから先が付きあいやすいと思います。」

   圭蔵は店の椅子に座っている。
   絹子とキー坊が帰ってきて、誠が絹子を連れて帰る。

キー坊「あの旦那さん、私はどの布団を使えばいいんですか?新しい布団しかこの家には無いんですが。」

圭蔵 「新しい布団を使えば良い。お前は今日から鳩子の家族じゃ。宜しく頼む。」

キー坊「えっ私が新しい布団を使って良いんですか?部屋はどこで寝れば?」

圭蔵 「それは鳩子に決めて貰いなさい。」

   

〇鳩子来店

鳩子が店に来る。圭蔵を見て微笑む。キー坊が

キー坊「初めまして。お人形さんかと思いました。」

鳩子 「初めまして。よろしゅうお願いします。お店がキレイになりましたね。驚きました。」

圭蔵 「コレがキー坊、今日から鳩子と一緒に暮らしてくれる。家にもう15年居るかな?」

キー坊「18年居ます。料理が得意です。何でもできます。宜しくお願いします。」

圭蔵 「キー坊、茶を入れてくれ。」

   キー坊が茶を入れてくる。

圭蔵 「鳩子、話がある。キー坊は2階の掃除をしてきなさい。」

   鳩子が圭蔵の様子がおかしいのに気付く。

鳩子 「何でも言ってください。ご迷惑をお掛けしましたか?気にせんと言ってください。」

圭蔵 「……」

   何とも言えない時間が流れる。鳩子は優しく圭蔵を見ている。
   圭蔵が着物の袂からあやとりを出す。そして初め、鳩子に取らす。

鳩子 「何年ぶりですやろ。あっ次、そう取ると川に流れます。」

圭蔵 「あっ久しぶりじゃけん。」

鳩子 「……川を流すのはいつも圭蔵兄ちゃま……」

   鳩子の目から涙があふれ出す。

圭蔵 「そや。圭蔵じゃ。」

   階段でキー坊が涙目で覗いている。

○店の1階での夕食

   5時ごろ圭蔵は帰宅した。
   店は元和菓子屋、1階に8畳位の店舗と12畳くらいの土間の台所、
   8畳の床の間付き掘りごたつのある居間、2階に6畳2間がある。
   便所と風呂は裏庭にある。鰻の寝床のような店。

キー坊「鳩子さん、どこで食事しますか?どこで寝ますか?」

鳩子 「どうしましょう。何て呼べばいいの?私はポッポと呼んでください。何十年ぶりかで懐かしくポッポと呼ばれたいから。」

キー坊「旦那さんがポッポと呼んでいる声が聞こえました。私も良いんですか?」

鳩子 「昔は皆がポッポと呼んでくれてたから。岡崎に帰れたと思えるポッポが良い。じゃあ、キー坊とポッポでええね。」

キー坊「ええです。」

鳩子 「そやね。2階で寝ると寒いから、炬燵のあるこの部屋で食事したり、寝たりしても良いかしら?それとも私と別の部屋で寝たい?」

キー坊「私と同じ部屋でええんですか?」

鳩子 「うん、寂しくないけん。」

キー坊「この鉢植えは?」

鳩子 「これは床の間に。オモトは縁起がいいんよ。オモトは徳川家康公様が江戸城へ3鉢持ち入城し床の間に飾ったそうなの。不老長寿のめでたい縁起の良い植物と言われているから、オモトは漢字で『万年青く』と書くそうや。1年を通して豊かで美しい緑色を保つことから、枯れないから繁栄で縁起が良いと。亡くなったお父さんはこのオモトを外国へ留学する時、お母様が持たせて船に乗せ持ってた。そして帰る時は持って帰ってた。若い頃からイギリスに留学にも持ってっていたと聞くから、これは5,60年お父さんが大事にしてるオモトやろなぁ。」

キー坊「徳川家康公様って岡崎城でお生まれになられたんですよね。」

鳩子 「そうや。
 まずは今晩寝るところとこれからご飯を食べるところを決めよ。私が決めてええの?ならば、キー坊が嫌でなければ、この1部屋を使い、2階は物置にしましょう。お風呂もトイレも近いし、小豆を炊くから夜もカマドに火が入ってるかも知れん。楽やろ。だからお布団はココの押し入れにしまいましょ。着替えは2階の部屋の前の方が置いて行かれたのに入れましょ。左側を私が使うけん、右側はキー坊が使うでええね。」

キー坊「はい、本当の家族みたいですね。」

鳩子 「京都でもお姉さんたちと一緒だったから。1つ家で暮らすのは家族やから宜しくね。」

キー坊「はい。晩ご飯は奥さんが作ってくれたお赤飯があります。それとみそ汁でええですか?」

鳩子 「お赤飯を炊いてくださったの?」

キー坊「はい。奥さんが炊きました。」

   鳩子とキー坊は白々しくながらも寄り添おうと気を使い合う関係を
   構築している。

キー坊「明日、奥さんと徹さんがご近所に挨拶に行くとおっしゃられていました。手拭いを用意してましたけど、饅頭屋をやるんなら饅頭を付けたらと思うんですけど。」

鳩子 「奥さんが言ってはったの?ならそうしましょう。」

キー坊「いいえ、私がです。どんな饅頭か知らせた方が買いに来てくれますから。」

鳩子 「そうしましょう。じゃあご飯終えたら作りましょうか。材料を買いに行かないと。」

キー坊「絹子さんとの買い物で揃えました。作り方を教えて下されば私が作ります。」

鳩子 「一緒に作りましょうね。頑張りましょう。」

   にこやかな鳩子にキー坊も楽しみ、生き生きと仕事を始めた。



〇翌朝、9時頃、鳩子の店

キー坊「アッ奥さん、徹さんもおはようございます。いらっしゃいませ。ポッポさん、奥さんと徹さんがおいでです。」

滝  「おはようございます。キー坊、もう頑張ってるの?饅頭を売り始めたの?」

徹  「美味しそうな饅頭やな。父ちゃんは今朝、大阪に糸の仕入れに行ったから4,5日は帰らんだろう。」

 鳩子が2階から降りてくる。

鳩子 「初めまして、杉浦鳩子です。よろしくお願いします。ポッポと呼んでください。どうぞお上がりください。お茶でも。」

滝  「ありがとう。上がらせてもらいます。」

   滝と徹は掘りごたつに入る。

徹  「なんかもう落ち着いたね。」

キー坊「昨日は夜中までポッポさんと小豆を煮て、今朝はポッポさんと5時に起きて饅頭をこしらえました。徹さん、あの看板が前のままの『竜ヶ城』ですけどどうしましょう。」

徹  「看板は不動産屋が取り替えてくれることになってる。名前はどうしよう。」

   鳩子が

鳩子 「古い看板はそのままで、小さな看板で『ポッポ』とでも下に掛けて下さればそれで十分です。古い看板を下ろせと前の方に言われるのは困りますけど。親しみがある名前の方がお客様が迷い込んでくれそうです。」

徹  「不動産屋に聞いてみます。今聞いてきちゃいます。母さん、行ってきて良いですか?」

滝  「そうしておくれ。ご挨拶には10時を過ぎた頃が良いだろうから。」

   徹が不動産屋に行く。

滝  「銀行へは父ちゃんが大阪から帰ってから行くと言ってました。これは開店祝いです。」

   滝が祝儀袋を渡す。鳩子が祝儀袋に感謝し受け取る。

滝  「父ちゃんが当面は休んでのんびりしてから店を始めればよいと言っていましたけど、美味しそうお饅頭で食べてみたいわ。」

   キー坊が滝に饅頭を出す。

滝  「美味しいわ。これなら売れるわ。岡崎の赤味噌を使う饅頭なのに無かったですね。」

鳩子 「母の味なんです。母が作る饅頭はいつもコレでした。もしかしたら他の地方のなのかしら?母は赤味噌で作ってくれました。」

滝  「もしかして父ちゃんも子供の頃食べたのかしら?」

鳩子 「ええ、私の母の姉が山圭さんの母ですから。遠い昔ですけど。」

滝  「父ちゃんの遠い親戚は岡崎に居たのですが付き合いがほとんどなくて、それに10年前にその方も亡くなってしまい、父ちゃんの親戚に会うのは初めてなんです。だから嬉しくて。」

鳩子 「私も天涯孤独です。昨日は母の命日で、饅頭をこしらえてお墓参りに行きました。それで山圭さんに布のことで会うことに。饅頭で気が付いたのかも。そして私は山圭さんのお母さんに似てると言われました。私は昨日、この店で圭蔵兄ちゃまと分かり驚きました。」

滝  「ずっと意地張ってお母さまに会わなかったんです。1つ上のお兄さんは北海道に行かれたのに。皆、北海道で暮らしておられるのに、お父さんは岡崎に戻り帯芯織を始めたんです。」

鳩子 「私が芸妓をしてたのはご存じですか?」

滝  「はい、聞いています。探してたんだと思います。ポッポが居たらと探してたと思います。何でも鳩子さんのお母様に頼まれたと言ってました。」

鳩子 「ああおぼろげながら覚えています。最後に挨拶に行った日です。私が4才でした。もうあれから44年経ちます。この度はお世話になりますので、よろしくお願いします。滝さんのことは優しい方と聞きました。知らない人にも優しくする人だから、この人なら幸せになれると決めたと聞きました。」

滝  「そんなことを?私は聞いて無いです。どのことだろう?」

鳩子 「どんな方が奥さんか聞いたら、お見合いの時にお婆さんの肌着を選ぶのを手伝って、呉服売り場で働いていた圭蔵兄ちゃまが賢い選び方と感じて、お婆さんを出口まで送ってお見合いを遅刻されたと。見知らぬお婆さんにも優しい人と知り決めたと言ってました。」

滝  「思い出しました。岡崎の駅前の百貨店の上の食堂で見合いでした。お婆さんに肌着売り場で店員さんが高いのを売ろうとしてるから、こっちが良いと勧めて、お足が弱そうなので百貨店の下まで送り、お見合いを10分遅刻しました。そうなんですか。それで結婚を決めてくれたんだ。私はもう歌舞伎役者みたいな父ちゃんで話せなかったんです。断られると思ったら受けてくれて。それで今です。」

鳩子 「あら内緒だったのかしら?キー坊も内緒にね。どんな方が奥さんか興味があり聞いたから。」

滝  「聞けて嬉しいです。本当に嬉しい。父ちゃんが私を選んでいてくれたなんて思ったことも無くて。」

キー坊「旦那さんは奥さんを好きですよ。だから本当のお母さんに会いたいとも思わないのだろうって。」

   鳩子と滝とキー坊の女同士の楽しい会話が始まった。
   徹が帰ってきた。

徹  「シャレた看板を下に付けることにした。当分はそうして、また変えたくなったら変えましょう。って。来週には『ポッポ』の看板ができます。」

鳩子 「夢のようです。2か月前に20年一緒だったお父さんが亡くなり。呆然としてたから……よろしくお願いします。」

滝  「ご挨拶周りに駅長さんと商店会長の和菓子屋さんとご近所さんを回りましょう。」

キー坊「一緒にこの饅頭もお持ちください。あとター坊にも饅頭を持って帰ってください。ター坊に『饅頭を食べたくなったら学校帰りに寄って』と伝えてくれますか?進ちゃんにも。勉強を見てあげたいし。」

徹  「ター坊なら毎日饅頭を食べに寄りますよ。あいつ可愛いから。進にも言っときます。でも来なかったらター坊に『進に』と持たせてやってください。キー坊、ター坊には宿題をさせてから帰してください。平気でいつも学校の廊下に立ってるから。」

キー坊「はい。」

滝  「じゃあ、挨拶回りを始めましょう。徹、手拭いと饅頭をもってね。あらお赤飯も用意したの?大変だったでしょう。キー坊のなら美味しいものね。」

キー坊「はい、これはお家に持ってってください。」

滝  「いいの?」

鳩子 「昨日のお赤飯が美味しくてもっと食べたかったんです。祝ってくれる人がいるって。」

   鳩子と滝と徹の3人で岡崎駅やその周りの店に挨拶に回った。
   滝は山田家の長女として生まれ、地元育ちゆえ顔が広かった。
   鳩子は帰宅し、置屋の鈴子の所に饅頭とお赤飯を持って行った。


〇鳩子とキー坊が掘りごたつに入りのんびりしている。

鳩子 「慌ただしくて夢を歩いているみたい。山圭さんが圭蔵兄ちゃまだったなんて。滝さんは良い人やね。今日は色々な所に挨拶に連れて行ってもらった。駅に行ったら駅長さんが滝さんを良く知っらしてて挨拶してくれた。滝さんは腰が低くて偉そうにしない。改札の切符を切る人にも笑顔で優しい。徹さんも滝さんの物腰に似て優しい。」

キー坊「だから徹さんはいつも旦那さんに怒られてるんです。それでは従業員に馬鹿にされるって。言うべきことは2倍の強さで言いなさいって叱られてます。
 奥さんは優しいけど、ダメなことはダメってはっきり伝えるし、女工達がしっかり生きてくためだとも説明するから好かれてます。
 私は足が悪いでしょ?山圭には女工として入ったんです。本当は足が悪いから買いたくなかったみたいですが、旦那さんは根は優しいから、遊郭に売られたらもっと苦労するからここで働けって買うてくれました。
 でも草履が……すぐに片方がボロボロになるんです。あまりにボロボロで奥さんの捨ててあった草履を拾うて履いてたら、他の女工が『盗んだ』と言われて。私は『奥さんに貰った』と嘘をついたんです。女工が奥さんに聞いて『上げてない』と言われて、『泥棒した』と言われて。
 でも奥さんがちゃんと私の話を聞いてくれたんです。そしたら、奥さんが『気が付かなくて悪かった。泥棒と言われて辛かっただろう』と謝ってくれて。皆の前で、『気が付かなかった私が悪い。足が不自由なのに皆と同じだけ働いてる。だから草履がボロボロになった。足が不自由な分、得しても良いだろう。皆の草履の2倍をキー坊に上げるのを良いね。』と言ってくれたんです。特別をすると贔屓したと虐められます。でもああやって皆に言ってくれたら、足が悪い分、得して良いと言ってくれたのが何より嬉しくて。そして5年後、奥さんが脚気になり、私が家を手伝うようになったんです。その時も、『足が悪い分得して良い』と皆が分かってるし。奥さんって皆を気遣うんです。」

鳩子 「足が悪い分、得して良いか。そんなことを言う人初めてだわ。本当やね。コソコソしたら特別扱い、でもちゃんと説明したら分かりあえる。」

キー坊「奥さんが女工達の食べる味噌や漬物を全部作ってたんです。女中になってから、私も奥さんの傍で色々手伝い、私が奥さんに女工にも味噌の作り方や漬物の作り方を教えてあげて欲しいと言ったら、奥さんが楽できるし、皆が覚えられて良いとなって、今は休みの日に味噌や漬物を作ることになったんです。そしたら奥さんに私が頼まれて、女工達にも着物のたたみ方や、掃除の仕方、色々女工達に教えるようになって、花嫁修業をさせてくれる山圭なんです。」

鳩子 「山圭さんは知ってるのかしら?」

キー坊「さあ?奥さんがすることには何も言いません。旦那さんはとにかく商売が上手いと評判です。ここだけの話ですけど、鬼の圭蔵とも言われています。
 でも味噌や漬物を作る日は、お汁粉を作らせてくれて、小麦粉を水で練ったすいとんを入れるんです。ケチと有名だけど、そういう時はお腹いっぱい食べさせてくれます。残るほど作らせてくれます。
 ター坊が生まれる前に、元の工場から今の大きな工場に引っ越して、家も大きくなり、川岸に引っ越したから、滝を作り、小麦や蕎麦を挽いたりするのに便利と水車も作った旦那さんです。何でもできるんです。」

鳩子 「私は岡崎には4歳までしか居なかったから。京都で舞妓になって、そして芸妓に。お父さんとは12才で知りあったわ。でもお妾さんだったけど。約20年お父さんと一緒だったけど、亡くなって独りぼっちに。
 それで鈴子お母さんに助けられて、久しぶりにお座敷に出て山圭さんと知り合った。お母さんに似てると言われ、そうね。きっと圭蔵兄ちゃまがお母さまと別れた頃の年が、今の私くらいだろう。運命って不思議ね。」

キー坊「お風呂にどうぞ。私は明日の餡を見てます。ここで寝起きすると温かで楽ですね。」

鳩子 「そう思った。火がある所の傍は温かい。明日から徹さんに帳簿の付け方と算盤を教わり、キー坊に漢字の読み書きを教わらないと。」

キー坊「厳しくします。新聞を読めるようになってください。」

   なんとなく仲良しの二人になってた。


第6章 嫌がらせ

   徹が鳩子とキー坊に算盤と帳簿の付け方を教えに来ている。
   鳩子の読み書きの先生はキー坊がしている。
   外国の事に興味がある徹なので、お父さんの話を鳩子が聞かせる。
   イギリスに留学していて、パンが好きでパンの作り方を知りたいと、
   パン屋でアルバイトをしていた。外国は土日が休みで、特に外国人は
   日曜日は教会に行くから、日曜日はパン作りを任されるようになり、  
   そして高いパンが売れるなぁと思ったら株が暴落するのに気付き、
   高いパンが売れると思った後に、大暴落して株を買い勝負に出たら
   大儲けして石ころを3個買ったこと。それが鳩子のお守りに入ってる
   石ころだとか。
   でもお父さんは鳩子に絶対に株の売り買いはしてはいけないと言い、
   株はお金儲けでなく持っているだけなら良いけれど、株で儲けよう
   とした人で、儲けたと喜んだことがある人は、いつかは大損して株屋
   さんと付き合いを辞めるもんだと教わったことを話した。
   徹はなるほどと社会は人の言うことを信じていたら騙されるを教わっ
   た思いだった。
   ター坊が毎日学校帰りに店に寄り、饅頭を食べ宿題をしてから帰宅
   するようになる。キー坊が良く家族にと饅頭を持たせた。
   圭蔵はほとんど顔を見せないが、銀行で以前の通帳を使えるように
   なる手続きをしたが、3カ月掛かると言われた。
   穏やかに2カ月が過ぎ、饅頭が安定して売れるようになった。


〇開店から2か月が過ぎて~

キー坊「どうしたんだろう?最近饅頭が売れない。売れ残る……」

   と不思議がるキー坊だった。滝が銀行での夫人会の集まりに鳩子の
   饅頭を買いに来た。

キー坊「最近売れないんですよ。2週間前からぱったりと売れなくなってしまって。ポッポさんも仕方がないと諦めてます。」


〇銀行の会議室

   滝がポッポ屋の饅頭をもって銀行の会議室に行くと、夫人会の夫人達
   数人が集まっていた。滝が持って行った饅頭を銀行の支店長夫人が
  『お女郎饅頭』と滝に伝えた。滝はその場で怒り、

滝  「支店長夫人、山圭はこの銀行との取引を今日で辞めようと思います。それで良いですね?答えなさい。それはどこから聞いた話ですか?」

   と滝が啖呵を切ると、支店長夫人は夫から聞いたと伝えた。
   滝はすぐに銀行の支店長を呼んで来いと言い、会議室に支店長を呼び
   出した。周りの夫人達は黙ってその場に居る。滝が支店長にどこで
   その話を聞いたかを尋ねた。支店長は悪ぶれもせず、

支店長「芸者の知子からです。そしてその店を開いたのは山圭さんのご主人だと聞きました。お女郎上がりの女を妾にしたと聞きました。」

滝  「お酌の席で聞いたのですか?その場に他にそれを聞いた人はいましたか?」

   支店長夫人の前ゆえ支店長は黙って答えない。

滝  「答えなくてもなんとなくどこで聞いたか分かります。私にご親切に饅頭を買わないように勧めてくだされた支店長様の奥さん、そう言うことです。
 知子さんをココに呼びましょうか?支店長さんが、今すぐここの饅頭を買いに行かない限り、山圭はこの銀行との取引は本日で辞めます。」

   滝の啖呵は凄かった。支店長自ら饅頭を買いに行き、
   支店長夫人も周りの夫人会の皆が、

支店長夫人「これから毎日買わせて頂きます。許してください。」
夫人会の皆「すみませんでした。許してください。」

滝 「謝る相手が違う。あのお方は主人の親戚で従妹です。徳川家から嫁入りした祖々母を持つお姫さまじゃ。明治になる戦の借金で、お姫様だから京都の祇園で舞妓をしたんじゃ。それを悪く言うものは許さん。
 知子さんに話したいのですが。親戚じゃと知らなかったとはいえ、こういう話をして回る人がおかしいと気付くべきです。
 支店長さんが特別に知子さんの言うことを信じ、わざわざ奥さんに伝えた理由はどうしてですか?支店長夫人がお可哀想です。
 たとえ主人の親戚でなくても、そんな嫌がらせを銀行の支店長夫人がするなんていかがなんでしょう。」

   と伝えた。そして、

滝  「支店長さんの奥さん、きっと知子さんと言う芸者さんは他のお客さんにも言いふらしているでしょうから、今日、知子さんにちゃんと山圭の従妹だと伝えてください。今日中に必ず伝えなさい。あと私は山圭が妾を何人持とうと気にしません。夫はケチですから自分の金で飲みに行かないようですけど。」

   滝は帰りに鳩子の店に寄る。何事も無かったようにしている。
   キー坊が急に饅頭が売れるようになり、今日の分がもう売り切れたと
   喜ぶ。滝は微笑み、掘りごたつに入り出されたお茶を飲んでいる。
   鳩子がター坊が毎日のように学校帰りに店に来てくれるのがを嬉しい
   と伝え、滝は徹が車で迎えに来て帰宅する。

〇鳩子の提案

   店先で鳩子がキー坊に相談している。

鳩子 「饅頭だけでは経営は難しいわ。今日、百貨店のパン売り場を見てきた。食パンだけがあった。岡崎にパン屋さんは無いのね。」

キー坊「パンは殆ど食べません。食パンを1度食べたことはあります。」

鳩子 「お父さんがパンを作ってくれたと言ってたでしょ?お父さんの書いてくれたノートがある。パンを作れるようにと私も教わった。
 キー坊、パンを作ってみようか。かまどではなかなか難しいけど。饅頭は1人1個しか買わない。パンだと2,3個買うてくれる。」

キー坊「食べたことが無いから分からないです。」

   鳩子は笑っている。

鳩子 「じゃあ作ってみましょう。酵母菌が上手く作れればできるけど。お父さんのノートを読んでくれる?漢字が多くて読めないの。」

  鳩子は2階からノートを持ってきてキー坊に見せる。

キー坊「物凄く詳しく書いてあります。リンゴか干し葡萄で酵母が作れるそうです。酵母って味噌を作る時のと違うのかな?味噌なら私作れます。このノート通りに作れば作れそうです。」

鳩子 「味噌の酵母とは違うらしい。外国の酵母はリンゴと干し葡萄で作っとった。リンゴでも作れるし、干し葡萄でも作れるけど、お父さんはリンゴと干し葡萄だと良く膨らむと作っとった。
 私がパンを食べたい。だから今日は食パンとバターを買うてきたけど。クリームパンやアンパン、ソーセージのパンなら、家で食べるのならかまどで焼けるかも。もし上手く作れたらパンを焼く窯を買うても良いし。ここは駅前だから売れるだろう。饅頭とパンなら両方買ってもらえる。」

キー坊「私が食べたことが無いんです。ノートには酵母を作るのに4日は掛かると書いてあります。すぐにリンゴと干し葡萄を買うてきます。」

鳩子 「夕食をこの食パンにしましょう。普通は朝食べるのがパンだけど食べたくて。ならばついでに百貨店で、卵とハムかソーセージを買うてきて。コンビーフでも良いから。」

キー坊「ハム?ソーセージ?コンビーフ?それなんですか?本で読んだことはありますが食べたことないです。百貨店に売ってますか?
 あれ、ノートに写真が写真が挟んであります。これがお父さんですか?お父さんのお母様?」

   鳩子は写真を受け取る。目から涙が溢れだし胸に抱きしめる。

   4,5日後、キー坊がお父さんの料理ノートを見てパンを焼く。
   キー坊がかまどでアンパンを作るようになり、学校帰りのター坊が
   アンパンに驚く。母ちゃんに食べさせたいと持ち帰る。

第7章 ター坊の母への愛


   機織りの音がする。滝の音も聞こえている。
   一家の食卓、絹子を始め、女姉妹四人が夕食の用意をしている。
   圭蔵と長男徹は上座に座っている。滝は隣の部屋で寝ている。

圭蔵「今晩はしじみ汁か。いい匂いだ。ん?大根の味噌汁?しじみは匂いだけか?」

ター坊「母ちゃんにだけだよ。明日の朝も、明後日も母ちゃんにだけだ。」

圭蔵  「一家の主人に無いのか。」

ター坊「母ちゃんは脚気だから。脚気にはしじみがいいって聞いたんだ。」

絹子 「ター坊が母ちゃんにはしじみがいいって、この寒い中川に入って取って来たんじゃ。父さん、今度、私が町に下りたら私が買ってくるけん。」

   隣の部屋から滝が、

滝  「ター坊、父ちゃんには上げなさい。」

ター坊「はい。」

   ター坊が圭蔵にしじみ汁を持ってくる。
   圭蔵は熱いしじみ汁を一口飲む。

圭蔵 「ター坊が取って来たのか。ター坊、幾つになった?」

ター坊「7つだよ。」

圭蔵 「7つか。友達と行ったのか。」

ター坊「いや……。」

圭蔵 「1人か……。」

   重蔵は、しじみ汁を見つめている。

圭蔵 「徹、明日は学校休みじゃから、昼過ぎに、兄弟皆で川に入り、しじみを取れ。」

進  「この2月の寒いのに嫌だよ。ターボーがやればよいんだ。」

圭蔵 「進!お前はターボーの兄じゃろうが、弟が寒い中、母ちゃんのためにしじみを取ってきて、お前は恥ずかしくないんか?」

進  「だって川の水が冷たいよ。」

重蔵 「明日は男兄弟5人でしじみを取ってこい。女4人は、川の砂利場で焚火をしていろ。山火事に気を付けて、周りに川水をたくさん掛けてから焚火をするんじゃよ。いいな。」

徹  「明日は、新しい織り機が来ますから、その後、しじみ採りをしましょう。(笑いながら)寒いだろうな。」

圭蔵 「寒いから兄弟でするんだ。お前に嫁が来る前にいい思い出になる。
絹子も出戻って居るしなぁ。」

絹子 「父さん、食事中にまで出戻って言わないでください。」

圭蔵 「出戻って良かったよ。言わなかったが、もう後添えが入っていた。」

絹子 「えっ?まだ3か月なのに?」

圭蔵 「子供は1歳半だからだろう。新しい母親になついていた。」

絹子 「そうですか。……」

圭蔵 「そうだ、縫子は焚火にサツマイモを入れろ。ああ、松茸が出る山を買った。今年の秋は進とター坊で沢山松茸を採ってこい。去年は少ないとター坊が文句を言ってたから。」

ター坊「どこら辺?」

圭蔵「うちの松茸が出る山の隣の小さい山だ。お前が隣の山は沢山出てると言ってただろう。あの山だ。ポッポにも届けてやれ。」

ター坊「進兄ちゃんは来んでいい。」

圭蔵 「また内緒でか?その内緒はわしが徹に教え、徹がター坊に教えた。わしはケチじゃから徹にしか教えんかった。わしが小さい頃、盗みに言ってた山だ。そやから山を買うのに悪い気がして、値切らずに金を多めに払った。」

   家族が笑い声に包まれる。


○山圭の会社の事務所

   川の滝音が強い。機織り機の音も凄い。
   ター坊が机に座り封筒についている使用済み切手を切り、
   水に付けはがし、達磨ストーブで乾かし、
   セロハン紙に1枚ずつ包んでいる。

ター坊「兄ちゃん、なぜ家に柏の木が無いんだ。毎年5月に川下の山本の家にもらいに行くだろ。俺、もう貰いに行くのは嫌だ。兄ちゃん、柏の木を植えてくれよ。」

徹 「毎年4月に山本さんに竹の子を上げているだろう。ずっと俺が小さい時からそうしている。家に柏を植えたら付き合いをしませんと言う風にとられるだろう。それが近所付き合いじゃ。」

ター坊「そうか。今年は行きとうないなぁ。」

   自動車が、物凄い音で事務所の入り口につく。

ター坊「白井のオジちゃんだ。」

   徹が取引先の白井常務を出迎える。

白井常務「ター坊、またお手伝いか?良くおじちゃんが来るって分かっていたなぁ。ほら、チョコレート。1枚やる。」

ター坊「オジちゃんありがとう。兄ちゃん、オジちゃんにチョコレートもらったよ。」

徹  「さては、昨日、白井さんが来るって知ってそこに座っていたな。」

白井 「(にこにこしながら)ター坊はオジちゃんの味方だ。ター坊、いつも座っていてくれ。チョコレート1枚でこれほど喜んでくれる会社は無い。」

徹  「いつもすみません。本当にター坊はちゃっかりしてるんです。」

白井 「将来が楽しみだね。社長は?」

徹  「白井さんは営業が上手いから、今日は出ています。白井さんに勧められるともう一機欲しくなるからと言っていました。」

白井 「やられたなぁ。今日は、自動車を売ろうと思っていたのに。」

徹  「売れていますか?」

白井 「いやあなかなか。織り機は売れています。ここは、いつ来ても気持ちが良い。物がきちんと整理されている。」

徹  「(笑いながら)違いますよ。父がケチで物を買わないから、散らかる物が無いんですよ。」

白井 「ケチだなんて、この前お目に掛かった時、社長は細かい大島をお召しになられてました。毎回、良い着物をお召しだと感心します。」

徹  「大島は、百年もつ着物です。だから父は買うんです。高級品ですから、着ていると取引先がここには金があると安心するし、長く持つから返って安いとね。安い物はすぐに着られなくなりますから。」

白井 「本当に百年持つんですか?こっちが買いたくなる。徹さんも勧め上手だねぇ。」

徹  「私が着る大島は、父が初めて買ったころのだから、もう二十年近く前のでしょう。新品に見られています。洗い張りをして、傷んだところを入れ替えれば、だれもが新品と思うらしいです。
 白井さんの会社の機械も外国製より故障しませんし、止まらないから、父は気に入っているんです。機械が止まれば、その分生産が減り、女工を遊ばせることになるし、国産だと部品もすぐに取り換えられますからね。」

白井 「ありがとうございます。わが社の自動織機は世界一の自信があります。」

   電話の呼び出し音。

徹  「はい、山圭です。はい、おられます。今代わります。白井さんに会社からです。さきほども掛かってきました。」

   白井が電話に出る。

白井 「はい、白井です。何?駅前でハンドルが取れた?けが人は?無い。良かった。分かりました。すぐ行きます。」

徹  「大変そうですね。」

白井 「自動車は大変です。織り機なら人は怪我をしませんが、自動車はぶつかって人が怪我する。死人まで出ることもある。私たちがそれを片づけに行かにゃいかん。昨日は、運転中にハンドルが取れて事故になり、血だらけの怪我人が出たんです。今日は、駅前でハンドルが取れた。今日は怪我がないからまだましですが。」

ター坊「父ちゃんが言ってた。オジちゃんから、もうすぐチョコレート貰えなくなるって。」

白井 「ハンドルが取れなくなれば、チョコレート山ほど上げるよ。大丈夫と父さんに伝えてくれ。もし山圭さんで自動車を買っててくれたら、オジちゃんが運転手やるって。」

徹  「うちでは、白井さんの高給は払えませんよ。
うちは食べられる程度しか払いませんから。白井さんの会社は社員たちに給与を払ってます。父はそれが凄いと褒めています。父は給料を払うのが嫌で、女工しか使いたくないそうです。女工は米を食べさせれば満足しますから。
 今日の織り機は私達が設置しますから、白井さんはすぐにお帰り下さい。もう説明書を熟読しました。」

ター坊「オジちゃんがハンドル取れた車を片づけるの?だってオジちゃん、常務って偉いんでしょ?」

白井 「そうだよ。会社の皆で片付けるんだよ。社長も専務も皆で片付けるんだ。」

ター坊「俺らも今日は、兄弟でシジミ採るんだ。」

白井 「この寒いのに?でももうすぐ雪が降りそうだよ。」

ター坊「平気だよ。俺、昨日もシジミ採ったんだ。母ちゃんが脚気だから。」

白井 「そうか、ター坊偉いなぁ。チョコレートもう1枚やるよ。」

ター坊「ありがとう。」

白井 「いつもはチョコレートを、ここで美味しそうに食べるのに、今日は食べないのか?家に持って行くと、兄弟に食べられちゃうぞ。」

ター坊「今日のチョコレートは、半分は母ちゃんと一緒に内緒で食うんだ。半分は学校の友達と食わせてやる。食べたことないからね。」

白井 「ハンドルが取れない車が出来たら、チョコレート山ほど上げる。」

ター坊「父ちゃんに、オジちゃんの車を買うように言っておくね。チョコレート貰ったって言っておくね。」

白井 「(笑いながら)商売上手だね。ター坊!」

徹  「こいつは他の兄弟とは違うんです。他の兄弟は、父が怒鳴るから、事務所には寄りつかないのに、ター坊は何気なく手伝って、ココでセロハン貰って、自分の好きな切手を集めている。なんかの本で、切手が高額になるって読んできて、珍しい切手を集めているんですよ。父もいつか高額になるならと許し、セロハンの方が高いのにね。ターボーは兄弟の中で一番要領が良いんです。」


○矢作川の川岸

   2月寒い中、川に入り徹、実、義、進、ター坊はしじみを取る。
   絹子、麻子、綿子、縫子は、川岸で焚火をしている。

徹  「寒い。寒いというより痛い。こんなに冷たかったか。水が痛い。」

実  「ああ冷てぇな。やるしかない。兵隊さんたちも頑張ってるんだ。」

進  「ター坊の所為だぞ。しじみなんて食べなくていいのに。」

綿子 「進、そんなこと言ってると、また父ちゃんに叱られるよ。」

義  「足の感覚が無いんだ。ター坊は良く昨日取れたな。」

ター坊「もっと川の上流で取ったんだよ。胸まで浸かって。進兄ちゃんみたいに、ひざ位の所には、しじみは居ないよ。」

進  「うるさい。お前の所為だぞ。」

 実が進に近づき、進を川に浸す。

進  「兄ちゃん、何するんだよ。」

徹  「真面目にしろ。義はあそこまでやって取っている。進、ター坊だって一生懸命にやっている。お前だけだぞ。膝まで浸かっただけで、文句ばかりを言っているのは。」

進  「分かったよ。」

縫子 「もうすぐ焼き芋焼けるよ。」

   絹子、麻子、綿子が薪をたくさん集めてきた。

縫子 「そんなに薪いるかね?」

綿子 「たくさん燃やそうよ。もうすぐ雪が降るから、大きなたき火をしないと火が消えるよ。」

麻子 「ほら、雪がチラホラしてきたよ。」

徹   「そろそろ良いだろう。タライに半分はあるから。実、ター坊、もういいぞ。」

義  「面白くなったんだ。しじみ採りは久しぶりだ。」

実  「この川に入るのは久しぶりだ。冬は魚も鈍いから、魚がつかめる。こんなに取ったんだ。」

   進は川の中でうつむいている。

徹  「進、ター坊より先に、しじみ採りがしたかったんだろう?分かっている。」

進  「(泣きながら)うん。」

絹子 「まず、焚火で体を温めて、風呂も沸かしてあるから、すぐに入りなさい。」

麻子 「昨日、ター坊どうしたの?寒かったろ。」

ター坊「平気だよ。着替えてすぐに母ちゃんの布団に入ったから。」

進  「お前、幾つになったんだ。まだ母ちゃんの布団に入ったんか?母ちゃん、だから具合が良くならないんだよ。」

ター坊「絹子姉ちゃんが湯たんぽを入れてくれた。進兄ちゃんは、いつも湯たんぽ使ってるだろう?俺は無いもん。進兄ちゃんと一緒の湯たんぽだもん。ちっとも俺には貸してくれないくせに。」

進  「なにお!お前は生意気なんだ。ズルいんだよ。」

ター坊「ズルいのは進兄ちゃんだ。」

徹  「いい加減にしろ。分かったから。ター坊には俺の湯たんぽをやる。俺は今度町で買うから、これで良いな。」

進  「いつもター坊ばかり得してる。高野山へも父ちゃん、母ちゃんに連れて行ってもらったし、金比羅山へも父ちゃん母ちゃんに連れてってもらっていた。」

縫子 「そうなんだよね。いつもター坊ばかりなんだよね。ター坊が赤ちゃんの時からなんだ。私が金魚の水を溢したら、父ちゃんがすごく怒ったのに、ター坊がしたら、『そのままさせてやれ。』って私を怒ったんだ。」

徹  「(大笑いしながら)進、お前には小学校があるから高野山へも、金比羅山へも連れていけないんだよ。縫子、金魚は、ター坊が1歳の頃だろ。その時はお前は5歳頃だ。5歳は叱り、1歳は叱らないのが当然だろう。兄弟が多いから、不満は多いと思うが、俺に言え。長男は得をしてるから、兄弟の面倒をちゃんと見るよう父ちゃんから言われている。欲しい物があったら、俺に言え。心にしまうな。」

麻子 「焚火の火っていいね。温かいね。」

綿子 「顔は焼けるように熱いけど、背中は寒いね。でも温かいね。実兄ちゃんの魚が焼けたよ。サツマイモも焼けた。」

進  「母ちゃんにサツマイモ持って行くからくれ。」

絹子 「もう体温まったの?はい。持っていきな。熱いから、あんたの服に挟んでいきなよ。落とさないようにね。」

進  「うん。」

徹  「父ちゃんもそろそろ帰るだろうから、進が持って行け。」

進  「母ちゃんに持って行きたい。ター坊が父ちゃんに持って行け。」

ター坊「いいよ。徹兄ちゃん。湯たんぽをありがとう。」

徹  「ああ、父さんは進とター坊が仲良くして欲しくて、何でも2人で1つなんだぞ。父さんと父さんの兄さんがそうだったらしい。」

進  「そんなんか。何でも父さんは、昔が好きじゃけんね。」

綿子 「雪が吹雪いてきたよ。でも火は消えないね。」

絹子 「サツマイモ、ジャガイモ、サトイモも沢山入っているから食べなさい。楽しかったね。またやろうよ。次はおにぎりも焼こう。」


第8章 春到来

○樺太から届いた昆布

   桜が咲く季節、ター坊は小学2年生になった。
   鳩子が来て5カ月が過ぎた。
   圭蔵と徹がが山圭の事務所で仕事をしている。
   郵便配達が大きな小包を持ってきた。徹が受け取る。

徹   「父ちゃん、北海道の伯父さんからだ。きっと昆布だよ。」

   圭蔵が嬉しそうに飛んでくる。

重蔵  「えっ?重蔵兄さんからか?」
徹   「樺太の大泊と書いてある。加藤重蔵と書いてある。」
重蔵  「毎年送ってくれるのが、昨年は無かったから心配していた。そうか樺太に引っ越したのか。」

   徹が紐を切り、小包を開ける。

圭蔵  「いい昆布だな。あっ、昆布の中に手紙が入っている。


『ポッポと会えて良かった。聞いて安堵した。写真のポッポは母様にそっくりで驚いた。母様の一昨年11月に亡くなり、今、骨は旭川の美代子の家に置いてある。圭蔵が送ってくれた金を母様がたらふく貯めていたから、美代子夫婦と千代子夫婦に旭川の店を任せ、徳蔵は稚内に新しい雑貨屋を出し、私は樺太の大泊に越し大きな雑貨屋を始めた。徳藏も私も昆布の仕入れを始めた。繁盛している。
 来年春ごろ、母様の骨を東京の加藤家の寺に持って行くから、その前に美代子、徳蔵、千代子と皆で岡崎に帰る。その時に金をくれるならありがたい。樺太までは帯芯に入れて送らないでくれ。着くかどうか心配で眠れん。あと美代子が母さまの形見に、初子叔母さまの着物を来春持ってくと言っている。
 このかんざしは母の形見だ。圭蔵が持ってろ。圭蔵のお陰で安心して暮らせたと母が喜んでいた。』

圭蔵 「お母様が死んだのか。」

   圭蔵は唇を震わせ、涙している。

圭蔵 「どうしても意地を張り会いに行かなかった。徳蔵兄さんみたいに素直に会いたいと言えんじゃ。」

徹  「父ちゃんは織る帯芯を毎年送ってただろう。特別に帯芯の間に金を入れて織っていたろう。」

圭蔵 「知ってたか。重蔵兄さんは長男だ。先にお父様は戦で亡くなり、その後お母様と妹2人をずっと見てくれた。」

徹  「もう何年、会ってないんだ?」

圭蔵 「お母様とは7歳で別れたきりだ。わしは仕事ばかりして北海道には行かんかった。ター坊の年に別れたきりだ。重蔵兄さんとは、18歳の時に東京で1度会ったが。」

徹  「俺は、楽させてもらって悪いと思っている。」

重蔵 「そんなこと言わんでいい。昆布に来年の春に、みんなが岡崎に来るから、帯板に金を入れて送るなと届くかどうかって書いてある。冷や冷やしてたんだなぁ。金なら何回でも送ってやるのに。」

   徹は圭蔵が母の形見のかんざしを握り、懐にしまった。


○塩昆布

   圭蔵が家の玄関の板の間に座り、1人ではさみで昆布を切っている。
   川の滝音と自動織機の音、寒い中暖房もなく昆布を切っている。

麻子 「ねえ、絹子姉ちゃん、父ちゃんはなんで毎年、昆布を自分で切るの?毎年、なぜ自分でお醤油だけで煮るの?父ちゃんの作る塩昆布は、固くて、しょっぱくて、昆布一枚で、ご飯一膳食べれちゃうほどしょっぱいのに。」

絹子 「知らないの?父ちゃんの北海道の兄さんから送ってくれているからだよ。」

麻子 「えっ?父ちゃんに兄さんが居るの?遠い親戚の従兄弟の従兄弟とかは、ずっと前にご法事に来ていたけれど。」

絹子 「父ちゃんは、男3人兄弟で、姉と妹居るんだよ。父ちゃんのすぐ上の兄さんと東京の呉服屋さんに7歳で丁稚に出されたでしょ?父ちゃんの家は、代々旗本の武士で、家柄の良い御家なんだけれど、明治維新で武士は居なくなったから、父ちゃんのお父様は亡くなられて、長男がいる北海道にお母様と女の子2人は北海道に行ったんだよ。女の子は売りたくないからね。だから父ちゃんとその上の兄さんは売られて丁稚に出され、その金で北海道へ行く、船の旅費にしたそうだ。」

麻子 「そうなんだ。」

絹子 「すぐ上の兄さんは、父ちゃんが15歳の時に北海道に行ったんだって。旭川で小さな雑貨屋をやってるって。女姉妹は結婚して。私たちのお婆様は毎年昆布を送ってくれる伯父様と暮らされていて、父ちゃんが毎年、家で織る帯芯に金を入れて送っていそうだよ。」

麻子 「父ちゃんは、お婆様にずっと会っていないの?」

絹子 「父ちゃんはああいう性格だから、置いて行かれたことを今でも気にしているんだろうって母ちゃんは言ってたけどね。母ちゃんが何回も勧めても行かなかったって。話すと、すごく怒るんだって。『俺を追い出す気か。居ない間に会社が潰れたらどうする。』とか言い張るから、母ちゃん、父ちゃんに言わなくなったんだ。」

滝  「どうしたの?麻子、もう女学校から帰ったの?」

麻子 「うん、さっき帰った。母ちゃんは大丈夫?」

滝  「今日は天気がいいから楽なんだ。雨降りの前の日が辛いみたい。」

縫子  「ただいま。ター坊が、小学校でまた叱られていたよ。」

滝  「何したの?」

縫子  「チョコレートを小学校で皆に配ったらしいよ。それを上級生に見つかって取られたとかで、喧嘩して怪我させたらしいよ。」

滝  「また。相手の子が大した怪我でないなら良いけれど。ター坊は大丈夫?」

縫子 「大丈夫だよ。相手が鼻血出した位だよ。ター坊は廊下に立たされてた。帰りに『母ちゃんに言うなよ。』と口止めされたけどね。」

絹子 「いつものことだね。あの子は強いから。進より強くて、進が本気でやって負けるから。
 母ちゃん、北海道から、昆布が送られてきたみたいだよ。玄関で父ちゃんがはさみで昆布を切っているよ。」

滝  「そう……そっとしておきなさい。父ちゃんに近づかないでそっとして。」

縫子 「またあの辛い塩昆布作るんだね。女工さんたちが、1枚で1杯のごはん食べられると言う塩昆布。」

麻子 「私たちも当分は塩昆布だね。」

○圭蔵の家の玄関

   春にはなったが、まだ冷たい風が吹いている。
   ター坊が圭蔵に近づく。

圭蔵 「ター坊、学校から帰ったか?顔にひっかき傷があるぞ。また喧嘩したのか?昆布切るのを手伝え。厚い昆布だから、手が痛くなってきた。
そうだ。ター坊、絹子に言って、これで昆布出汁を取ってもらえ。そして、蕎麦を打ってくれと伝えろ。あと生卵とネギをお前が取ってきてくれ。」

ター坊「えっ?昆布で出汁を取るんか。なんだ?どんな味なんだろう。美味そうなぁ。父ちゃん、どういう蕎麦だ?」

圭蔵 「かけ蕎麦だ。かけ蕎麦に生卵を入れて食うんだ。ものすごく美味いぞ。知らんのか?」

ター坊「俺は食べたことない。」

圭蔵 「お前は、母ちゃんと岡崎の百貨店に行き、色々食わせてもらっているだろう。」

ター坊「父ちゃん知ってたのか? うん、皆に内緒で食わせてもろうとる。そうだ。今度、父ちゃんも行こう。オムライスがあるんじゃ。目が飛び出すくらい美味いぞ。焼いた卵にケチャップという赤いのをかけてあって、中にケチャップの赤いご飯が入っているんだ。傍にキャベツが細く切ってあって、ソースというのを掛けて食べるんだ。
 母ちゃんが俺は小さいから、徹兄ちゃんみたいに長く一緒に居られないから、俺だけ食わせてもろうとる。」

圭蔵 「母ちゃんそう言ってるんか。お前は母ちゃんのいう事を、何でも聞くからだろうが。」

ター坊「父ちゃんのいう事も聞くよ。白井のオジちゃんからチョコレートを2枚もらった。」

圭蔵 「2枚か。白井さんはずいぶん張り込んだなぁ。」

ター坊「自動車をハンドルが取れなくなったら買ってくれと、父ちゃんに伝える約束をしたんだ。」

圭蔵 「(大笑いしながら)岡崎の駅前でハンドルが取れたそうだな。」

ター坊「そうじゃ。運転中や駅前でハンドル取れて、事故起こしたそうだ。会社の社長さんや皆で片付けに行くんだって。だからハンドルが取れなくなったら、父ちゃんに買うてもろうたらチョコレート山ほどくれるって。」

圭蔵 「そうか。そのチョコレートどうした?」

ター坊「1枚の半分は母ちゃんと食べて、半分は学校の友達に分けた。」

圭蔵 「あと一枚は?」

ター坊「(もじもじしながら、言いたくなさそうに)ううん……あるよ。」

圭蔵 「1人で食べようとしたんか?徹は欲しがらんか?」

ター坊「徹兄ちゃんはいつも欲しがらない。長男だから得しているからって欲しがらない。」

圭蔵 「あいつは本当に長男だなぁ。俺は三男だから、お前に似てたなぁ。兄さんは分けてくれて、俺は1人で食べようとした。それに気がついた時に、恥ずかしくて、恥ずかしくて、兄さんってすごいと思った。」

ター坊「……」

圭蔵 「一口、わしにくれ。たまには兄姉に分けろ。特に、進に分けて食え。あいつは要領が悪い。いつも損をしとる。でもお前の兄さんじゃからなぁ。今、分けていると、将来、昆布をもらえるようになる。」

ター坊「えっ?進兄ちゃんは、湯たんぽも独り占めしたんだ。徹兄ちゃんが俺に自分の湯たんぽをくれたんだ。徹兄ちゃんには、チョコレートやりたいが、進兄ちゃんにはやりたくない。」

圭蔵 「やれば分かる。さ、絹子に出汁取ってもらってくれ。蕎麦も打ってもらってくれ。卵は11個あるか?」

ター坊「生卵だろ?ある。俺の鶏、昨日が5個あったからある。」

圭蔵  「鶏もお前が面倒見てるんか?」

ター坊「母ちゃんが寝てるから。母ちゃんに食わせてやりたくて。
この前、鶏の首絞めて切ったら、首が無いままバタバタと走ったんだ。それから怖くてもう絞められん。鶏は卵用にしたから、毎日、5.6個以上の卵がある。」

圭蔵 「お前は母ちゃんの子で良かったなぁ。」

ター坊「父ちゃんの子でも良かったよ。」

圭蔵 「お前は得な性格しとる。話していて相手を喜ばせようといつもしてる。商売人向きじゃ。わしは苦手だった。そういえば進がわしに似てる。」

ター坊「父ちゃんが?あんなに暗いんか?」

圭蔵 「もっと暗い子供だった。母様を恨んでた。今も恨んでるかな。だから北海道に行かなかった。」

ター坊「分からん。」

圭蔵 「母様を恨むなど、お前には分からんだろう。母ちゃんが大好きだからな。今からわしが1番の幸せだとを感じた味を食わせてやる。絹子に伝えてこい。」

○かけ蕎麦

   家族11人が囲炉裏を囲み、輪になりお膳を前にし座る。
   囲炉裏の大きな鍋に汁が入っている

滝 「蕎麦なら、私も起きて食べたいわ。そういえば、蕎麦は久し振りね。」

圭蔵 「家族が多くなって、蕎麦を打たなくなったからな。」

滝  「父ちゃんのお蔭で、お米が沢山買えるようになったから。絹子、こんなにたくさん大変だったろう。上手く打てるようになったね。」

絹子 「昔は、母ちゃんが良く打ってたね。」

徹  「蕎麦は久し振りだな。美味そうだ。」

進  「俺、知らない。」

縫子 「私も知らない。うどん食べるけど、こういう汁の蕎麦は初めて。」

圭蔵 「北海道の兄さんが来年春に来る。母様の骨を岡崎に持って来てくださる。そして一緒に上野の寺にある加藤家の墓に入れることになった。
 今日、蕎麦にしたのは、わしが岡崎に来て、初めて生卵を1個そのまま、入ったかけ蕎麦を食ったんだ。母ちゃんが作ってくれた。美味かった。それが食いたかった。」

滝  「そうなんですか。」

圭蔵 「母ちゃんが知らなかったか。わしは、それまで生卵を1個、そのまま入った蕎麦を食べたことが無かった。美味かった。一生懸命に稼いで、毎日生卵の入った蕎麦を食いたいと思った。」

ター坊「茹でたての熱い蕎麦に、生卵を乗せて、そしてネギをのせて、熱々のつゆをかけると、卵の白身の透明が白く変わって、そして黄身を絡ませて、蕎麦を食うんだって。」

滝  「食べたことが無いター坊がなんで知っているの。」

ター坊「さっき、父ちゃんから習ったんだ。これ、全部、俺の鶏の卵だぞ。」

絹子 「食べることになると、ター坊は必至だから。」

ター坊「だって一番小さいのに、皆と一緒に食べるから、のんびりしたら、おかずが無くなっちゃう。唾をつけるか、口に入るだけ入れておかないと皆、食べられちゃう。」

圭蔵 「上は24歳、下は7歳だと仕方がないな。でもター坊、お前なら大丈夫だ。さあ、いただきます。」

ター坊「頂きます。美味そうだなぁ。父ちゃん、白身が白くなったよ。黄身に絡めて。ああ、美味い。」


         

第9章 鳩子の挑戦


〇鳩子の店

   飯塚元海軍大将 鳩子の旦那 鳩子はお父さんと呼んでる。
   中島、秋葉、鈴木 飯塚元海軍大将の信頼する部下 
   坂本 東京の飯塚の家の隣夫婦
   古畑 東京のホテルの元従業員。岡崎に今住んでいる夫婦。

   4月中旬、天気よく暖かい日。


不動産屋の奥さん「おはようございます。ポッポちゃんいる?」

キー坊「朝早くからお墓参りに行ってます。今日はぽっぽちゃんのお母さまの月命日です。」

不動産屋の奥さん「こんな早くに?そうなの。主人がポッポちゃんの実家が売りに出されるって。だから一番にポッポちゃんに教えてあげてと言われたの。ポッポちゃんは主人と口を利かないんだってね。だから私に伝えてくれって頼まれた。じゃあお饅頭を10個ください。」

キー坊「はい、すぐに用意します。ポッポちゃんはそうなんです。祇園の舞妓はお座敷でしか話をしなかったようで、山圭さんや山圭さんの息子さんたちとは話すんですが、他の男の人とは話しません。『金貰わんと話しをせん』と言うてます。女同士は話すんですけどね。」

不動産屋の奥さん「やはり京都の祇園は違うのね。じゃあ伝えたから。主人が山圭さんにはポッポちゃんから伝えてって言ってた。私は明日、ポッポちゃんにレースの編みの仕上げる方法を教わりに来る約束になってるから。」

キー坊「はい、伝えておきます。パン作りの練習してますから、パンも入れておきました。食べてみてください。」

不動産屋の奥さん「この前のカレーパン、美味しかった。今日はカレーパン無いの?」

キー坊「今日はアンパンとクリームパンです。これも美味しいですよ。」

不動産屋の奥さん「カレーパンを早く売って。お腹一杯食べてみたい。」

キー坊「ポッポに言っときます。ありがとうございます。」


   鳩子が帰宅する。キー坊が不動産屋の奥さんの要件を話す。
   
鳩子 「カレーパンと餡の揚げたパンなら売れるけど。キー坊が毎日だと大変でしょう?人を雇わないと無理でしょう。」

キー坊「大丈夫です。『売り切れ』の紙を置きます。今朝も駅長さんからもカレーパンを食べたいと買いにいらっしゃいました。断る方が嫌です。いつも代わりにアンパンかクリームパンを差し上げてます。カレーパンが大人気です。」

鳩子 「お父さんのカレーは美味しいからね。あのノートは便利だね。懐かしい味をキー坊に毎日作って貰える。
 じゃあ山圭さんに今から行ってくる。東京のお父さんの知り合いに電話したいから、山圭さんの電話を借りたいし。昨日、圭蔵兄ちゃまに通帳のことでも東京の住民票が居るとか、戸籍をこっちに移すように言われたし。来年の春には加藤の親戚が皆で樺太から来ると言ってたし、東京に行ってパン焼き器も欲しいし。
 さっき昨日圭蔵兄ちゃまから言われたことを役場さんに聞きに行ったんよ。役場さんの言うことが、うちには半分しか分からんかった。キー坊、後で役場さんに行って教わってきて。そして東京にも一緒に行って欲しいんよ。」

キー坊「えっ私が東京に行くんですか?」

鳩子 「だって漢字がまだよく判らないから。駅名にフリガナ無いでしょ?」

キー坊「新聞が読めるようになったから分かるはずです。ちゃんと厳しく教えましたから。」

鳩子 「新聞は読める。意味も分かる。でも役場さんの説明と、書いてある説明の文字は意味が分からん。ドキドキするんよ。」

キー坊「まだ自信が無いんですね。私も東京に行きたいです。お店は休んでいいんですか?」

鳩子 「迷子になるよりましです。こんな婆はもう売られないだろうけれど、役場さんに行っただけでドキドキして疲れ果てた。山圭さんに行って滝さんに聞いて、東京に電話させてもらう。電話の掛け方は東京の電話と同じかな?交換さんが全部やってくれるのかな?」

キー坊「じゃあ、今日作ったアンパンとクリームパンを持って行ってください。あと饅頭も。」

鳩子 「饅頭は女工さん達にも持って行くわ。」

キー坊「徹さんに甘やかしすぎと叱られますよ。」

   鳩子は家にも上がらず、山圭に向かった。

   
〇圭蔵の家の台所口

鳩子 「おはようございます。ポッポです。滝さん居りはる?」

   絹子が台所で洗い物をしている。

絹子 「ポッポちゃん、おはようございます。あら私もポッポちゃんとちゃん付で呼んでしまってすみません。皆がポッポちゃんと言うし、ター坊もポッポちゃんと呼んでるの毎日聞いてるから。」

鳩子 「ええよ。嬉しいわ。こんなおばさんをちゃん付て読んでもらえて。」

絹子 「母は今日は体調が良くて、洗濯物を干してます。」

鳩子 「なら物干し場に折るね。それか橋の下の川ね。」

絹子 「はい、」

   鳩子が橋の上から川を見ると、滝が川で洗濯をしている。
   鳩子が橋から手を振る。

鳩子 「滝さん、おはようございます。お願いがあり来ました。」

   滝が腰を上げ、手を振る。

滝  「これ干したら終わるから、ちょっと待ってて、すぐ行きます。」

   滝が橋に上がってきた。

滝  「父ちゃんは居らんよ。大阪に行きよった。ポッポちゃんから教わった糸のことで色々あるらしい。私にはようわからんけど。」

鳩子 「昨日、大阪に行く前に店にいらして、東京の銀行に印鑑を持って行かないと通帳の再発行ができないからお金を出せないと教わりました。
 それに亡くなったお父さんから預かってる本を、お父さんの部下に差し上げないといけないんです。
 あとパンを焼く窯も欲しくて東京に行こうと思ってるんです。それで山圭さんで電話を借りたくて来ました。東京の電話は使えたんですが、岡崎の電話は掛けたことが無くて教えてください。」

滝  「電話は交換さんが出るから話すだけで良いんよ。東京行くの?」

鳩子 「はい、私だと漢字がろくに読めないから迷子になりそうで、だからキー坊にも付いて来てもらいます。キー坊が喜んじゃって。」

滝  「私は一度も岡崎を出たことが無いんよ。金毘羅山と高野山は父ちゃんとター坊と一緒に行ったことはあるけど。東京に行ってみたいなぁ。お父ちゃんは東京行ったり大阪行ったりしてる。私がポッポちゃんに付いて行ったら迷惑?」

鳩子 「行きましょうよ。ホテルに泊まります。お父さんと良く食事をしに行ってたホテルで働いていた方がご夫婦で岡崎出身で、昨年岡崎に戻られ、饅頭を買いに来てくれはるんです。その方にホテルの予約方法も教わりました。」

滝  「お父さんが戻ったら頼んでみるわ。ポッポちゃんとキー坊が一緒なら許してくれるでしょう。」


〇山圭の事務所 

   2人で山圭の事務所に行く。徹が事務所に居る。
   事務所の隅に7才くらいの女の子が事務所の座ってる。

滝  「ポッポちゃんが電話を使いたいんだって。東京に電話を掛けるのも交換さんに言えばいいのよね?この子は?新しい女工さん?子供過ぎやろ。」

徹  「電話は大阪でも東京でも交換さんに話せば繋がります。
 今日、新しい女工が入ったんです。この子は斡旋さんが間違って連れて来たので、他の子たちを他の工場に連れて行ったあとに斡旋さんが戻って来るから置いといてくれと頼まれたんです。まだ7才だから。家は12歳以上でないとお父さんが働かせるのを嫌がるから。」

   鳩子がお土産に持ってきた饅頭をその子に上げる。

鳩子 「名前はなんて言うの?」

七子 「七子です。」

鳩子 「いつ家を出たの?」

七子 「5日前です。高山の山の方から来て、列車に乗って一昨日岡崎に来ました。」

鳩子 「そう、このお饅頭食べてね。」

七子 「ありがとうございます。」

鳩子 「滝さん、これ女工さんの分もあるから皆で食べてください。パンはキー坊がパンを作る練習をしてて毎日作ってるので食べてみてください。」

徹  「女工にまで良いのに。甘やかしすぎです。」

   鳩子が笑いだす。

鳩子 「キー坊が言う通りのことを徹さんが言ったわ。」

滝  「キー坊がなんて言ったの?」

鳩子 「徹さんに女工を甘やかしすぎと叱られるって。」

滝  「父ちゃんに似てきたのね。」

鳩子 「良いことでしょうね。滝さん優しいから許してくれるから、だから滝さんの前で上げたの。」

徹  「酷いなぁ。ポッポちゃんもすっかり岡崎に慣れましたね。」

  3人が笑い合う。
  鳩子が電話を掛ける。

鳩子 「もしもし、東京の市ヶ谷にある海軍省にお願いします。相手は飯塚元海軍大将の部下の参謀の中島さん、秋葉さん、鈴木さんと海軍の交換さんに伝えれば分かると思います。お願いします。」

交換 「電話をそのままで、少しお待ちください。」

   少し待つと繋がった。

鳩子 「もしもし、中島さんですか。お久しぶりです。鳩子です。飯塚が亡くなられた時に電話して以来です。もう半年経ちます。今、岡崎に居ます。来月に東京に行き、お父さんがお渡しするように頼まれていた本をお持ちしたいのですが、お忙しかったら入り口で本を預けて帰ります。」

中島 「もしもし、鳩子さんですか。ああ良かった。ずっと探してました。お困りでないですか?」

鳩子 「はい、従兄に会いまして、岡崎の駅前で饅頭屋を始めてます。やっと少し落ち着いたので、お父さんに頼まれた本をお渡しに伺いたいんですが。あとできましたら石ころを2つ売りたいんです。お願いします。5月のお父さんの月命日の18日にお墓参りに行きたいので東京に行きます。その後にでもお目に掛れれば助かります。」

中島 「はい、では5月19日にお待ちしてます。今、鈴木は上海に行ってるので不在ですが、秋葉と私がおります。あのホテルをお取りしましょうか?列車の切符もお送りします。」

鳩子 「いいえ、自分で手配できます。お父さんが亡くなってか、皆に教えて頂き色々覚えました。なんとか電話も掛けられるようになりました。読み書きも勉強してます。お父さんがいつも心配してた理由がやっと分かりました。では5月19日の午前10時に伺います。よろしくお願いします。」

  電話を切り、鳩子はホッとする。

鳩子 「さあ、じゃあホテルを予約しないと。ホテルに勤めていた古畑さんの奥さんに予約の仕方を教えてもろうたんよ。旅行会社に頼むより、紹介客の方が良い景色の部屋に通してもらえるって。滝さん、どうする?2泊する?」

滝  「徹、ポッポちゃんとキー坊と一緒に私も東京に行ってみたい。良いよね。お父ちゃんが帰ってからまた聞くけど。」

徹  「母さんが東京に旅行?金毘羅山と高野山に行ったけど。東京に母さんが行くんですか?キー坊が行くなら母さんも行けるだろうけど。」

滝  「そうなんよ。キー坊が行けるなら私も行けると思ったんよ。ポッポちゃん、私の分も申し込んどいて。」

鳩子 「行きましょう。もし圭蔵兄ちゃまがダメだと言ったら滝さんの分は断ればいいから。じゃあ、申し込みますね。交換さんに電話して。」

   鳩子が電話を掛ける。

鳩子 「もしもし、東京の日比谷にある帝国ホテルさんにお願いします。ホテルの予約をしたいので受付にお願いします。」

   受話器を持ち待つ鳩子。

鳩子「もしもし、帝国ホテルさんですか?私は杉浦鳩子と言います。帝国ホテルを半年前に退職された古畑さんに教わり電話してます。来月、5月18日の夜と19日の夜の宿泊をお願いします。女同士3人で1部屋で泊まらせてください。私は杉浦鳩子と言います。岡崎の駅前で饅頭屋をしてます。そしてこの電話は親戚が営む山圭株式会社から掛けてます。連絡はこの山圭株式会社の電話にお願いします。杉浦鳩子と言えば分かります。」

   鳩子は一気に話した。何度か練習したように思える徹だった。

鳩子 「ではよろしくお願いします。行く前日に確認の電話をさせていただきます。ではごきげんよう。」

   絵顔で滝の顔を見る鳩子だった。

鳩子 「予約できた。教わった通りだった。」

   鳩子はどうしても七子が気になり仕方なかった。
   徹に聞いた。

鳩子 「この子はどこに行くんか?7才じゃ工場の仕事は無理じゃろう。」

徹  「多分、遊郭ではないかと。工場の女工は口減らしが殆どです。だから1円もしません。」

鳩子 「幾らくらいか?」

徹  「3円でしょう。高くても10円。」

鳩子 「私が買うたい。キー坊の手伝いをする子が欲しい。斡旋さんが戻ってきたらお願いしてみてくれない?」

徹  「良いですけど。」

滝  「これも縁じゃ。徹、買うたり。」

鳩子 「いえ、私が出します。今日はお金を持ってないよって、借用書を書きますよって。紙と筆を貸してください。」

   徹が紙と筆を渡そうとすると滝が止める。

滝  「鳩子さんからお金を貰ろうたら、お父ちゃんに怒られます。」

鳩子 「お金はきちんとせないと長い付き合いは出来なくなります。紙と筆をください。」

   鳩子は借用書を2通書く。しかしそれは全てひらがなだった。

鳩子 「4才の時からこうやってお母はんに書いてたんです。だからしっかり生きて来れたと思います。3円お借りします。では1枚は圭蔵兄ちゃまに渡してください。1枚はうちが持ってます。お金をお返ししたら目の前で破ってください。」

   滝が涙目になる。

滝  「よやね。ポッポちゃんの気の済むように。」

鳩子 「私は2,000円で売られました。返すんが大変で、着物も買わないといけないし借金ばかりでした。盗むと遊郭に売られます。知り合いだった舞子はお客様のお財布からお金を抜いて遊郭に売られました。遊郭は自由に外も歩けない酷い所と聞いてます。滝さんが言ったようにこれは縁です。今日は母の月命日で、お父さんの月命日でもありますよって。
 この子見てて、昔、お母はんの家に行った日を思い出しました。心細くて、部屋の隅っこに干し柿持って座ってました。だから強くなれたんです。」

徹  「ポッポちゃんが強いとは思えんけどなぁ。」

鳩子 「物凄くしたたかでもあります。計算して、いつも勝ち残ろうと考えてます。」

滝  「見えない人ほど強いのかも知れん。七子ちゃんと一緒に帰って。徹が斡旋さんと話すよって。高い金額を言ったら、七子ちゃんが居なければそれで仕方がないと諦めるでしょう。」

徹  「父ちゃんの真似してみます。頑張ります。」

   滝、徹、鳩子は楽しい気分になってた。

鳩子 「七子ちゃん、お暇しましょう。私が貴方のお母さんになりますよって。仲良くしてね。」

七子 「斡旋さんがここで待ちなさいと言ってたから待たないと親に迷惑かけます。」

鳩子 「ここは物凄くお金持ちの家と分かる?そやからお金持ちのお兄ちゃんがちゃんと斡旋さんと話しおうてくれはる。良い子じゃね。斡旋さんの言う通りには正しいです。」

徹  「山圭に斡旋が間違えて連れて来たんじゃ。だから大丈夫じゃ。」

七子 「はい。」

   小さな風呂敷包み1つ持ち、七子は立ち上がる。
   鳩子と手を繋ぎ、橋を渡る姿を滝と徹が見送る。


〇鳩子の店で

   七子を連れて帰宅した鳩子はキー坊に話す。

鳩子 「手伝ってくれる子を買うてきた。今日から3人で一緒に寝ましょ。七子ちゃんと言うの。七子ちゃん、これはキー坊、さっきの山圭さんで働いてたの。今はうちで家族や。キー坊の言うことを聞いて仲良くしてね。」

キー坊「どうしたんです?七子ちゃんは幾つ?」

七子 「今、七才です。」

キー坊「七子ってどんな字を書くの?」

七子 「漢字の七です。」

キー坊「七子ちゃんが7つでか。面白いなぁ。これから一緒に暮らすんやね。よろしくお願いします。」

七子 「こちらこそよろしくお願いします。」

鳩子 「疲れたやろ?今日は手伝わんでいいから、のんびり座ってなさい。」

七子 「はい。」

第10章 家族の始まり

   
〇七子と暮らし1週間

キー坊「七子、これ手伝どうて。」

七子 「はい。」

鳩子 「七子が丸めるの上手でカレーパンとあんこパンを売れるようになった。七子、ありがとうね。子供が居るとなんか楽しい。」

キー坊「そうですね。山圭さんは子がいつも居ましたから、子供が居ないと面倒で無いですが、寂しいと七子が来てから気付きました。」

七子 「私も楽しいです。」

鳩子 「圭蔵さんが大阪の帰りに寄ってくれるかと思ってたけど、寄らんかったから、今日、山圭さんに行って来て良いかしら?」

キー坊「なんか用事ですか?」

鳩子 「東京に滝さんも行くから、圭蔵に行っても良いか聞かんといけんよって。」

キー坊「今日は店の方なら大丈夫です。新しい方の味噌饅頭を持ってってください。パン生地の水で饅頭を作ったら、こんなにふわふわに作れるようになったから。美味しくて驚くと思います。前の味噌饅頭の5倍売れてます。ただ七子ちゃんでは一人で留守番ができないし。」

鳩子 「そうなん。私の味噌饅頭より、キー坊の新作味噌饅頭の方が売れるのよ。昨日店番してて、みんなが新作ばかり買うからがっかりしたわ。」

キー坊「がっかりせんでも。」
 
  キー坊は少し自慢げに笑ってる。

鳩子 「内心は儲かって嬉しいだけです。」

キー坊「良かった。鳩子さんの言葉は時々難しいよって。」

鳩子 「祇園育ちよって言い回しが少し違うよって、ここら辺のお人は『考えさせてもらいます。』が断り言葉と知らんからなぁ。本当に考えててると思うちょる。東京に行く間は七子ちゃんは鈴子お母さんの家に預かってもろうても良いし。
 なら行ってくるわ。古畑さんの奥さんが夕方レース編みに来たら待っててもらって。カレーパンとあんこパンを残してあげて。一昨日カレーパンを買いに来て売り切れてたとがっかりされていたから。」

鳩子 「そうそうこの前、ター坊が新作の味噌饅頭を食べて『これお腹一杯食べたらどんなに幸せだろう』と言うから食べさせたら、15個食べよった。
 そや、新作と言わず、『ター坊饅頭』と名前つけてあげて。お客さんが一度聞いたら忘れへんから。説明に、『7才のター坊が15個も食べたほど美味しいお饅頭です。』とキー坊は字が上手だから書いて貼っといて。そしたらもう1個多く買うてくれはる。」

キー坊「書いときます。これで良いですか?」

     ター坊饅頭
     7才のター坊が15個も食べたほど美味しいお饅頭です。    

 
  鳩子は満足気に微笑む。

キー坊、七子「行ってらっしゃい。」


〇圭蔵の家で

   鳩子は勝手口から入る。

鳩子 「こんにちは、滝さん居る?」

   絹子と麻子が出てきた。

絹子 「母は山の向こうの東田さんの家に行きました。東田さんの息子さんが陸軍入ってて訓練中に亡くなられたそうです。私と同級生だったので母がお悔やみに行きました。」

麻子 「お姉ちゃんと同級生だったの?」

絹子 「そうよ。小学校も中学校も一緒に学校からは帰ってた。」

鳩子 「そう……じゃあ事務所に行くわ。」


〇山圭事務所

鳩子 「こんにちは、圭蔵兄ちゃまもいらしたんじゃね。徹さん、この前の七子ちゃんのことどうなった?」

徹  「2円にまけさせました。」

鳩子 「良くまけてくれたね。圭蔵さんの仕込みが良いから。じゃあ、2円払います。」

  鳩子が財布を出し、2円払う。そして借用書を破る。

鳩子 「ホッとしたわ。借金は嫌じゃからね。」

圭蔵 「滝から聞いた。鳩子に借用書を書かせたと、わしが徹を怒らんかと心配しとった。」

鳩子 「礼儀は礼儀。2円で信用無くしたくないです。それより来月の18日から滝さんも東京に行くの良いですか?」

圭蔵 「なんでわしに言わないんだ。東京にポッポを1人で行かせるわけにいかないだろう。」

鳩子 「キー坊も一緒です。そやから滝さんも行きたくなって。」

圭蔵 「わしも行きたい。洋服を作りたいんじゃ。大阪は皆が洋服じゃ。岡崎の百貨店の洋服の襟がなんか違うんじゃ。東京の百貨店なら一番いいのがあるじゃろう。」

鳩子 「そやったら、お父さんの作ってた三越があります。そこに行きますか?」

圭蔵 「日本橋三越か?」

鳩子 「その三越です。それと英国屋さん。。」

圭蔵 「英国屋か?あそこは敷居が高くて入れん。」

鳩子 「平気です。うちが一緒に行きますよって。靴は三越さんで買いましょう。上海ではホテルでは食事の時、クロークでコートを預けるんです。その時に三越は誰でも知ってて大事に扱ってくれます。」

圭蔵 「大阪では見栄を張らんとう。愛知を馬鹿にするじゃ。だから大島を着て居るが、洋服はなぁ。わしにも分からんで。」

鳩子 「私は上海では洋服で過ごしてました。洋服は三越さんで買うてました。何でも三越さんどす。上海で私のコート三越で、お父さんのコートは、良いものなのにどこかのお店で作ったものでした。クロークでの扱いが違うとお父さんも三越になりました。ほら大島を日本人は知りますが、外国人さんは知らんでしょ?それと同じです。三越なら上海に行っても大事に扱ってもらえます。」

圭蔵 「今回の旅費はわしが持つ。家族やからいいな。」

鳩子 「はい、19日の午前10時に市ヶ谷の海軍さんに行かないといけません。また男をこしらえたとお父さんの部下に思われますからね。圭蔵さんと私は似てませんから、だからキー坊と滝さんなら誤解されません。」

圭蔵 「滝が一緒ならわしも良いだろ。」

鳩子 「はい。ならばホテルの予約を変えないと。そうそう、古畑さんがそのホテルに勤めて居られて、シーツを仕入れる会社を良く知っておいででした。聞いてみましょうか?明日、奥さんがレースを習いに来てくださりますから。もうエジプト綿やウイグル綿のシーツのお見本は出来てますか?」

圭蔵 「ああ出来てる。売り先がなかなか。大阪のホテルは輸入品ばかりを使ってた。」

鳩子 「そやったら古畑さんに圭蔵兄ちゃまが会ってみたら?聞いておきます。東京では行った次の日に、海軍さんへ行ってから圭蔵さんの背広を作りましょう。でももう一度仮縫いに行かないといけないかも。それ以降は布地を選べば、同じものを作って持ってきてもらえます。」

圭蔵 「それでいい。鳩子は良く知るなぁ。」

鳩子 「お父さんといつでも一緒にくっ付いて行ってました。お父さんのお母様も亡くなるまでは一緒でした。お父さんは3男なのに、長男の嫁と合わず、次男の嫁とも合わず、お父さんの家に来られ、お一人でお寂しいだろうと私が一緒の部屋で寝ようとしたら、お父さんとが良いとおっしゃるので、1つお部屋に3人で川の字になり寝て、お出掛けもいつも3人で出掛けてました。三越はお母様がお好きでした。お母様のお好きな外食に連れて行ってもろうて楽しかったです。お母様は、私の徳川の祖祖母を知っていらしたようで良くしてもらいました。
 さっホテルに電話せんと、電話お借りします。」

   鳩子はしっかりしたと感じた圭蔵だった。
   徹はいつもと違う鳩子に驚いた。
   ホテルに電話し2部屋を取ることに替え、隣の部屋を予約した。

徹  「ポッポちゃんは仕事だと別人だなぁ。しっかりしてる。」

鳩子 「漢字を見せればドキドキしますが。」

圭蔵 「東京は久しぶりだな。どこのホテルじゃ?」

鳩子 「帝国ホテルどす。」

圭蔵 「1番すごいホテルじゃ。あそこか。楽しみだ。」

徹  「父ちゃんは母ちゃんだけが旅行するから機嫌が悪かったんじゃ。」

圭蔵 「そんなことは無い。心配だっただけじゃ。」

鳩子 「七子ちゃんを鈴子お母さんに預けようと思ってます。」

圭蔵 「最近は休みと書くと空き巣が入るらしいし。麻子と綿子と男でター坊を留守番させよう。新作の饅頭がたいそう美味しいとター坊が大喜びしとった。」

鳩子 「そうです。このフワフワのお饅頭をキー坊が作ってくれました。家族で召し上がってください。ター坊饅頭と名前を付けました。あんなに小さいのに15個も食べましたから。ター坊の名前を使いました。許してくださいね。それ今日持ってきたカレーパンとあんこパンも美味しいですよって。」

圭蔵 「ポッポは商売までうまくなった。」

徹  「ター坊が喜びまくるでしょう。」

   滝が帰宅し、事務所に来た。落ち込んでいて暗い様子である。

滝  「ただいま。東田さん1人息子さんが亡くなったけん、お辛いのは分かるが。」

鳩子 「どなんしたの?」

滝  「東田さんの奥さんに泣きながら、『一人っ子が死んで、あんたの所は5人も居るのに1人も死なないんか。』と言われてしもうた。黙っていたんだけど、あまりにわても辛くて、『どの指無くしても痛いよって、辛さは判る』と言ってしもうたら、2人で大泣きしてしもうた。お国のためじゃけん。でもどの指を切られても痛いものは痛いよって。」

圭蔵 「辛いじゃろう。生きていてくれるだけで親孝行じゃよ。」

滝   「そやな。本当にそうだ。」

鳩子 「親が死んでもつらいけん。」

滝  「戦争での戦死でなく、訓練中の事故じゃけん、親は堪らないんだろう。」

   滝はため息をついている。
   鳩子が、

鳩子 「だから真面目に一生懸命に生きるの。運が悪くても、『仕方がない。こんなに真面目に生きて運が悪いのじゃ諦めるしかない。』と諦められる。ズルいことをして運が悪いと自分を責めるしかないでしょ?とお父さんが良く言ってた。」

滝  「そやね。諦めるしかないんだね。」

鳩子 「そや、諦めるしかないんや。どうしようもないことはあるんじゃけん。私もよう泣いた。」

圭蔵 「一生懸命に生きるしかない。そやけどお金は裏切らん。人が裏切ろうとお金は裏切らん。働いた分、ちゃんと儲かる。」

滝  「ありがたいと思ってる。」

鳩子  「でも戦争が始まるんじゃろうか。お父さんが言ってはった。無いじゃろうけど、『アメリカやイギリスと戦争したら絶対に負ける』と言ってた。アメリカには軍艦みたいな、もっと大きなビルが建ってるんじゃって。エンパイヤステートビルディングと言うて、80階以上あるんやて。浅草にあるビルは12階じゃったかな?想像もできないほど凄いから戦える相手でないと言ってはった。
 戦争が始まったらうちは京都か箱根の立派な建物のホテルに住めと言ってはった。文化を守りたがる西洋人だからそのまま残すだろうって。
 それとうちのお金を心配して、銀座に行くたびに金貨を少しずつ買うて貯めて下されてた。私の老後の為にって。なんでも金は物価に応じて高くなるんだって。株が暴落しても金は暴落しないって言ってました。今はその金貨もどこに行ったか分からんけれど。
 お父さんのお母様が初め連れて行ってくだされた金を買うところも銀座にあります。お父さんと私は年が離れているから、私の老後は株より金がいいって。内緒で持ってなさいと。行く度に1個ずつ買うてくれて、銀座に鳩子と来た数だけあると。」

圭蔵 「そこも連れて行ってくれ。」

鳩子 「はい、あっ滝さん、圭蔵兄ちゃまも一緒に行くことになったんよ。圭蔵兄ちゃまが洋服を着るようになる。たのしみやね。
 じゃあ、来月の18日、圭蔵兄ちゃまも一緒に行きましょう。」

第11章 計算高い鳩子


鳩子 「そや、うちの実家が売りに出るって不動産屋さんの奥さんが教えてくれた。今の駅前の家が好きで引っ越したくないけど、買うて泊まるだけの旅館でもしようかと。朝食は出して。そうだと板前さんを雇わなくていいし、朝はパンとコーヒーで良いし。古畑さんで頼めると思うんだけど。圭蔵兄ちゃまに相談しようと思って。武士は職を失くしたでしょ?旅籠はそのままじゃけん。いつでも旅籠は暮らしていけるんよ。旅籠なら庭の手入れも人が雇えるし、必要経費になるんじゃろう?どうだろう。」

圭蔵 「大きな家に住みとうは無いんか。古畑さんて?」

鳩子 「大きな家に住みとうは無い。お父さんのお母さんとも話してた。1部屋に3人で川の字で寝るのが幸せだねって。今もキー坊と七子ちゃんで川の字なんよ。それが十分よって。土間に近いから、夜中に小豆を炊くでしょ?夜中に厠へ行くときも温かいんよ。
 でもあの家は欲しい。そやからお父さんの部下に石ころを買うてもらって買おうかと思ってる。お守りにしている3つの石の2つを売って、1つ持ってれば良いかと。
 お父さんは『部下に買うてもらいなさい。』と何度も言われてて、部下の方達にも私の前で話して承諾してた。
 どう思う?石ころはユダヤの人達が財産として持つとか言うとった。逃げる時、小さな石なら持ちやすいし、上げれば逃げさせてくれるって教わってた。でも日本ではこんな石ころ知らないものね。」

圭蔵 「ダイヤモンドか。ユダヤの人が持つのはダイヤモンドだ。買った時より価値が下がることはない石と聞いた。ポッポが石ころ石ころと言うから、分からんかった。お父さんの言うとおりにするのが良いだろう。一番ポッポのことを考えてくれてたと思う。それより古畑さんて?」

鳩子 「さっき話したやろ。古畑さんは帝国ホテルに勤めておった方や。ご夫婦で岡崎出身で昨年帰ってこられた。今回のホテルの予約の仕方も教わったんや。お父さんがあのホテルが好きで常連だった。お父さんの顔見知りの従業員さんで、偶然、お店に買いに来られてご主人が私を覚えててくだされた。最近は奥さんに私がレース編みを教えてるの。明日か明後日、山圭に来てもらうと言った人。」

圭蔵 「すっかり岡崎に慣れたなぁ。」

鳩子 「そんなことない。旅籠はどう思う?」

圭蔵 「素泊まりだったら楽やな。滝と高野山や金毘羅さんに行った時、ご飯が冷たくて、焼き魚もみそ汁も冷たい。それに岡崎の味噌は合わん人が多いから、朝、パンとコーヒーはお客さんが喜ぶとと思う。大阪でもわしはパンとコーヒーが好きだ。」

滝  「家ではパンやコーヒーも言わないのに。食べてたんですか。」

徹  「母ちゃん、父ちゃんは仕事で行ってんだだから。」

滝  「ポッポちゃんに初めてパンを食べさせてもろうたから。岡崎に無いですからね。コーヒーって本で読んだけど飲んだことありません。飲んでみたいわ。」

   滝が圭蔵を少し睨みつける。

圭蔵 「東京で飲める。なぁポッポ、東京のホテルならコーヒー飲めるよなぁ。」

   鳩子は笑ってる。

鳩子 「ホテルは部屋に電話があって、頼んだらすぐにお部屋に持ってきてくれます。」

滝  「そなんか。楽しみだ。何着てったら良いだろう。」

鳩子 「滝さんはそのままで。いつも大島紬を着てはりますから。結城紬でも旅はお揃えの上着を着る紬と決まってます。でも夜のお食事だと訪問着か附下を着る時もあります。」

滝  「そなんか。だから父ちゃんは大島を買うとけと言うんやね。」

鳩子 「そうそ、キー坊にも買わんと。」

圭蔵 「絹子が出戻った時に持って帰った大島がある。高いのを買うたったが、もう着させんやさかい、キー坊にもろうて貰え。」

滝  「その方がいい。あんな高いの捨てるものもったいないし、着せるわけにいかんし困ってたんよ。」

鳩子 「東京の三越で普段着の洋服を買いたいと思ってるんです。岡崎の百貨店でも良いものがあるんですが、最初はやはり最初は三越で買いたいから。」

滝  「私も欲しいわ。」

圭蔵 「背広を頼んだら、もう一度東京に行くんじゃろ?その時は徹に背広を作ってやろう。背広は何着いるんだろう?」

鳩子 「お父さんは冬のを2着、夏のを2着持ってた。それを雨用コートと寒い費用コート。それとカバンはいつも同じで、靴は茶色と黒いのを持っとった。シャツは冬も夏も同じで5着持っていました。
 外国は土曜日が休みだから、5着あれば良いんですって。」

圭蔵 「でもうちの仕事の時は大島で十分だしなぁ。そうか2着ずつ作ればいいなぁ。いくらぐらいするんや?」

鳩子 「大島の10分の1じゃよ。だから皆、洋服にするんじゃ。お父さんは銀座に行くときは大島着てたし、大島は一番豪華やさかい。」

圭蔵 「ポッポのお父さんは凄いなぁ。何でも知ってる。」

鳩子 「そやね。何でも知っとった。でもパンを焼くのが何よりうまかった。銀座で売ってるパンよりおいしいと思ってた。今はキー坊が焼いてくれはる。
 お父さんは15才でイギリスの学校へ行き、イギリスの大学を出たんよ。
10年居たらしい。その間、ずっと土日はパン屋さんで働いとった。初めは掃除から初めて、大学に入るころは任せてもらえるようになったんだって。」

圭蔵 「凄いなぁ。外国の大学を出てたんか。」

鳩子 「海軍で偉かったんよ。でも私とシンガポールや上海に行くときは船酔いが酷くてなんも食べられない。お粥まで戻してしまう。若い頃は船酔いしなかったのに酔うようになったんだって。海軍さんなのに船酔いするんよ。」

滝  「鳩子さん、幸せだったんだね。」

鳩子 「でも妾だから。お父さんが死んだら、お父さんが言うように海軍さんに電話して、お隣のご夫婦と一緒に帝国ホテルに泊っとった。お隣さんはお父さんが一緒に泊ってくれるようんに頼んでくれはったの。お父さんの昔からの知り合いと言ってた。戻ったら空き巣に入られるより酷かった。庭木まで切り倒されてた。それほど憎かったんでしょう。今度行ったらお隣さんに挨拶に行かないと。」

   圭蔵は何かを思いついた。

圭蔵 「そうだ。徹と行くとき、子供達を皆を連れて行き、浅草の花やしきで遊ばせてやろう。花やしきには、鬼退治、木馬、豆汽車があるから大人でも楽しい。兵隊になる前に1度行ったことがある。」

徹  「どうしたんです。父ちゃんがおかしくなった?」

滝  「ポッポちゃんに会えたし、北海道からお兄さんが来るのが嬉しいんでしょ?」

圭蔵 「そうだ、徹は秋に北海道に行ってこい。この前ハガキを出して、重蔵兄さんからも良いとハガキが届いた。金を郵便貯金に入れて持ってくのがいい。皆一つ所に住んでないよって。明日、兄妹みんなの通帳の印鑑を頼みに行く。徹が持って行ってくれ。」

徹  「俺1人でですか?」

圭蔵 「そうだ。1人でだ。だから洋服がイイだろう。大島を着てたら、スリに狙われる。上野には沢山スリがおるからなぁ。」

滝  「徹は長男じゃから兵隊に少し行って返してもろうたから。」

   楽しく話し合いを終え、鳩子を滝が橋の上で見送る。

滝  「お父さんが明るくなって。ポッポちゃんのおかげだと感謝してる。それにター坊が毎日お饅頭を食べに行ってるらしいね。今度、お金を払いますけに。」

鳩子 「ター坊はお饅頭の名前に使わせてもろうたけん。新作のお饅頭を『ター坊饅頭』にしたんよ。あまりに美味しそうに食べてくれるから。
 それより七子ちゃんを小学校に行かせたいんよ。どうやって行ったらいいか分からんから、滝さん教えてくれる?」


第12章 初めての学校

 

   ター坊が小学校の帰りにいつものように饅頭屋に来る。
   キー坊と七子は買い物に行っていた。

ター坊「七子ちゃんに『小学校においで』って先生が伝えてくれって。これ、お母さんから手紙。」

 鳩子 「今日はカレーパンがあるよ。あんこパンもあるし、何がいい?」

 ター坊「ター坊饅頭が一番うまい!でもカレーパンも食べたいし、あんこパンのおいしい。」

 鳩子 「そんなに食べて夕食食べられる?」

 ター坊「走って帰るから家に着く頃はお腹空いてるよ。」

    鳩子はいつもター坊を見ると微笑んでしまう。

 鳩子 「ター坊を見るといつも可愛くて幸せに思う。」

 ター坊「この家に生まれたかったなぁ。いつも饅頭が食べられて幸せじゃけん。」

 鳩子 「じゃあ1週間暮らしてみる?母ちゃんが居なくて泣くだろうに。」

 ター坊「もちろん母ちゃんも一緒にがいい。ポっポちゃん、ほら手紙。」

 鳩子 「読めるかしら?漢字は苦手で。」

 ター坊「キー坊がポッポちゃんは新聞読んでると言うてたよ。新聞が読めれば手紙も読める。」

 鳩子 「そうよね。ええと。読める読める。明日の午後2時ごろ学校に行きましょうって書いてある。母ちゃんに1時過ぎにター坊の家に行くって伝えてね。」

 ター坊「うん分かった。伝えとくね。じゃあ今日はもう帰る。母ちゃんに伝えないといけんから。」

 鳩子 「みんなの分のター坊饅頭を持ってって。お駄賃じゃけん多めに入れとくからター坊も食べてね。」

ター坊「いいんか?ありがとう。じゃあ、母ちゃんに伝えるね。」

   ター坊は元気よく走って帰って行った。 


〇小学校の校門前

   滝が小学校に鳩子を連れて行く。
   校門を入る時に止まる鳩子。
   滝がどうしたか聞くと「自分が入って良いのかと」聞く鳩子。
   滝は天皇陛下が皆が通えるように作ってくだされた学校だから
   男の子も女の子も入って良く天、皇陛下に頭を下げて入ると教える。
   鳩子にとって初めての学校と気付く滝だった。
   滝と鳩子がター坊の教室に行く。

滝  「こんにちは、よろしくお願いします。」

 鳩子 「よろしくお願いします。」

 先生 「色々手続きはあるのですが、それよりまず学校に通ってください。七子ちゃんと言いましたね。明日から学校に通わせてください。」

 滝  「ありがとうございます。教科書は綿子ので良いですか?綿子のならあります。」

  先生 「それで十分です。山圭さんは新しい教科書をそれぞれに買ってますが、他の皆はお下がりを使わせてます。用意するのにも1カ月掛かりますから、その方がいいでしょう。

 鳩子 「よろしくお願いします。」

 滝  「この方は駅前の饅頭屋の鳩子さんです。お父さんの従妹です。今、キー坊が駅前で手伝ってます。」

 先生 「ああター坊が自分の名のついた饅頭があると言うんで、買いに行ったらキー坊が居ました。あそこに居た女の子が七子ちゃんですか。良く手伝ってました。じゃあお弁当のこともキー坊が良く知ってますね。」

 滝  「はい。私が脚気ですので、動けん時はキー坊が学校に謝りに来ていましたから。いつもすみませんでした。」

 先生 「そうでしたね。学校で兄弟喧嘩をするので大変でした。しかもター坊の方が強いんですよ。大概は兄を叱るんですが、山圭さんはター坊を叱るようになります。理不尽だと上級生にもはっきり言いますから。叱りながらも理不尽で怒っていると分かります。でもそれを我慢することを覚えさすのが学校です。」

 滝、鳩子「よろしくお願いします。」

    学校を出る時、滝と鳩子は振り返り学校にお辞儀をした。

 滝  「家に寄って綿子のランドセルと教科書を持って帰ってあげて。」

   鳩子はのぼせたような顔をしている。

 鳩子 「私が学校に入るなんて。感激してます。ずっと憧れて羨ましいと思っていました。置屋さんの子は学校に行くんです。でも私は行かせてもらえません。羨ましかったです。今日、学校のお椅子に座れて嬉しかったです。黒板があって、これが学校なんだって。」

 滝  「そうなの。お父ちゃんもそう言うとった。」

 鳩子 「圭蔵兄ちゃまは通ってました。でも少ししか通わなかったんでしょう。明治さんは女の子も学校に通える良い時代やな」と思いました。


〇鳩子の家 

    鳩子がランドセルを持って帰宅する。
   店番をしているキー坊と七子が居る。

 鳩子 「七子ちゃんが居てくれたから、今日は小学校に行き、黒板のある部屋に入り、お机とお椅子に座り、学校の先生と話しが出来た。
 七子ちゃん、学校の先生が、明日から小学校に来なさいって。頑張って勉強して、ポッポを女学校にも連れて行ってね。頑張ってお仕事をするから、七子ちゃんに女学校に行って欲しいから。」

七子 「私が小学校に行って良いんですか?ありがとうございます。」

   七子が泣いている。 

キー坊「良かったね。知らんかった。ポッポちゃんがそんなこと考えてるの。」

鳩子 「学校にどうやったら行けるか知らんかったんよ。だから滝さんに教えてもろうて、今日、滝さんに連れてってもらった。
 明日からター坊と同じ小学2年生。綿子ちゃんのランドセルと教科書をもろうて来た。ノートと鉛筆など必要なものを、今からキー坊と買いに行って。百貨店がやってるから行っといで。だから急いで帰って来たんよ。」

キー坊「今4時ですから間に合います。すぐに行ってきます。」

鳩子 「ねぇキー坊、滝さん、麦ごはん食べてる?」

キー坊「白米だけです。山圭さんはお金がありますけん。女工も白米食べれるから山圭さんにに女工行きたいんです。」

鳩子 「そう、脚気よね。お父さんもそうだった。海軍さんの悩みは脚気なのよ。だからお父さんは白米に3割の麦を入れて食べてた。それを週2回の豚肉。カレーパンを豚肉で作ってるでしょ?脚気に良いからとらしい。だから明日、七子ちゃんを学校に送った帰りに、麦と豚肉を滝さんに持ってって。」

キー坊 「だからこの家は麦が3割なんだ。貧乏だからと思いました。」

鳩子 「そやね。貧乏もあるけど、麦飯が体に良いのよ。玄米も良いんよ。」

キー坊「はい、今買ってきます。そうだ、明日、カレーを作ってきても良いですか?」

鳩子 「良いよ。店番は私にでもできます。」

キー坊「ポッポちゃんが店番すると計算より多くお金が余るから。」

鳩子 「そうやね。根がケチだから。ワザとしてないのよ。自然にそうなの。お客さんに損させてるのね。気を付けます。店の信用問題だわ。
 東京まであと15日ね。店は閉めて、お留守番に麻子ちゃんと綿子ちゃんとター坊が来てくれるから。七子ちゃんは次に東京に行くとき一緒に行こうね。」



〇登校の朝

   キー坊が弁当を作ってる。
   早起きして、赤飯を炊き、
         饅頭とカレーパンとクリームパンを作っていた。

キー坊「さあ、今朝はお赤飯です。そして七子ちゃんを学校に送ってきます。先生へのご挨拶のお饅頭とパンを持って行きます。それとポッポちゃんのお父さんのノートの分からない文字を聞きたいので、失くしませんから持って行って良いですか?学校の帰りに山圭さんに寄って麦を置いてきます。そして豚肉のカレーを作ってきます。11時ごろには戻ります。
 それから七子ちゃんの帰りはター坊に頼みますから、ター坊が大好きな三色団子を作ります。お店でも売りたいですが良いですか?」

鳩子 「はい、お願いします。七子ちゃん、ランドセル良く似合うわぁ。
キー坊、帰りに淡雪さんを3本買うていてくれる?ター坊から柏の話を聞いたから大事だなぁと思うて。滝さんに紹介して頂いたけど、私はよそ者だから、キー坊が何回か買うてきてもらった後に買いに行きたいから。ター坊は沢山タケノコを持ってきてくれるしね。キー坊、お金は持ってる?」

キー坊「はい、持ってます。3本買ってきます。ター坊が1本丸かじりしたいと言ってました。」

鳩子 「七子ちゃん、ター王と一緒に明日しようね。さあいってらっしゃい。」

   晴れ晴れ喜ぶ鳩子だった。
   鳩子とキー坊が笑う。七子は嬉しくて泣いている。

 

〇小学校の職員室

キー坊「おはようございます。今日から七子がお世話になります。よろしくお願いします。」

先生 「キー坊、七子ちゃんですね。校長先生に挨拶に行きましょう。今日は朝礼があります。皆に紹介します。では七子ちゃんをお預かりします。帰りは迎えに来ますか?」

キー坊「ター坊と同じクラスですから、ター坊が店まで一緒に帰ると言ってました。これ饅頭とパンです。鳩子さんが持って行ってと頼まれたで受け取っいてください。そして、あのお願いがあります。分からないことを教えて欲しいんです。」

   キー坊は深々と頭を下げる。

先生 「分かる事なら。」

キー坊「このノートに書いてある英語か何語か分からないんですけど、どうやったら分かりますか?」

   キー坊が持って行ったノートを見て、

先生 「これはアルファベットです。英語ですよ。でも料理だからフランス語も書いてあるみたいですね。男女の名詞の使い方がフランス語でしょう。アルファベットを覚えて、辞書を調べれば分かります。この辞書の後ろにアルファベットの説明があります。これを貸しましょう。使ってないので、いつ返していただいても良いです。」

キー坊「ありがとうございます。お借りします。これは本屋さんで売ってますか?」

先生 「これは高等学校で使う英語の最初の辞書ですから売ってます。フランス語だと名古屋に行かないと売ってないかな?」

キー坊「助かります。今日本屋さんで買ったら、明日七子にこれを持たせ、朝一番に職員室にお返しに上がらせても良いですか?」

先生 「良いですよ。」

キー坊「ありがとうございます。助かりました。じゃあ七子をよろしくお願いします。」

   キー坊は七子を見て、目で頑張れと合図をし職員室を出て行った。
   そして山圭に向かった。土間口から入ると、絹子が居た。

キー坊「おはようございます。キー坊です。」

絹子 「おはよう。キー坊久しぶりだね。」

キー坊「あの、麦を持ってきました。そして今晩の食事を作らせてください。カレーを作ります。」

絹子 「キー坊、カレーが作れるの?」

キー坊「このノート、これポッポちゃんの旦那様がポッポちゃんに書いた、料理が色々書いてあるノートです。」

絹子 「じゃあ、教えて貰いたい。みんな驚くだろうなぁ。」

   ター坊は白い服を上に着て、白い三角巾を頭に巻いた。

絹子 「コックさんみたい。」

   キー坊が嬉しそうに微笑む。

キー坊「ポッポちゃんは自信が無くて言えなかったんだそうです。でも奥さんが脚気でそれほど酷くないと思ってたそうです。ポッポちゃんの旦那様が酷い脚気だったそうで、お医者様から麦飯にして、豚肉を週2回食べるように指導されていたそうです。言って良いのか悪いのか分からなくて言えなかったそうです。それで少しでも奥さんの脚気が楽になるようにと私が来ました。海軍は内緒ですが脚気の人が多くて、麦飯で、週1回カレーの日があって豚肉を食べるそうです。」

絹子 「そうなんか。食べたら直るの?」

キー坊「ポッポちゃんは3割麦入れてご飯を炊いてます。豚肉を週2回食べて、そうやって半年続けたら次の冬は楽になったそうです。すぐには治らないし、人によって違うけど、麦と豚肉が良いそうです。それと毎日梅干を食べると良いそうです。」

絹子 「母ちゃんは梅干しが嫌いだわ。だからか。」

キー坊「ですよね。奥さん梅干を漬けるのに食べませんよね。だったらお酢を水で薄めて飲むと良いそうです。これは近所の薬局の奥さんに聞きました。ビタミンとやらが足りないと脚気になるとか言ってました。薬局の奥さんは『肝油を飲みなさい』と言うてました。」

絹子 「母ちゃんはお医者様のお薬は飲んでる。でも痛くて可哀想で。」

キー坊「ポッポちゃんはいつも麦ご飯食べるから、お金が無いのかと思ったら、体には麦飯や玄米が良いからだって。」

絹子 「母ちゃんに言ってみるわ。母ちゃんは白いご飯とみそ汁があれば何にも要らない人だからね。」

キー坊「さあカレーを作ります。材料は持ってきました。ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、豚肉、重かったです。」

絹子 「あっそうだ、キー坊渡すものがある。今度、東京に行くんでしょ?その時に着てく大島を上げる。私、出戻ったから、嫁に入りで持って行った大島はもう着れない。キー坊着てくれる?」

キー坊「そんな高いもん良いんですか?」

絹子 「父ちゃんが上げといてと言ってたから。持ってこうと準備してたの。それと草履や小物を買いなさいと父ちゃんからお金も預かってる。」

キー坊「ありがとうございます。私がお嬢さんの着物を頂くなんて。」

絹子 「海軍さんの凄い所に行くらしいね。ポッポちゃんの旦那さまって物凄く偉い人だったらしいね。」

キー坊「そうなんですか。ポッポちゃんは何も言わないから。でも元芸妓だから男の人と一緒に住んでいると思われたくないから、私を連れて行きたいともと言ってました。」

絹子 「そうなの。旦那様が大事だったのね。」

   キー坊は手早くカレーを作る。
   絹子はそれを書いている。
   カレーの匂いが家中にしてきた。

徹  「すごくいい匂いだ。」

絹子 「カレー作ってるの。」

徹  「女工にも匂うだろうな。」

キー坊「いけませんでしたか?」

徹  「良いよ。たまには食べたいだろう。女工達にも少しで良いから作れるかな?」

キー坊「料理番に教えれば作れると思います。お肉でなく竹輪でもできます。」

徹  「じゃあ明日で良いからカレーの作り方を教えてあげて。こんなに匂いがしたら羨ましくなるだろう。食べ物の恨みは怖いからね。」

キー坊「はい。明日夕食の作る時間に教えに来ます。」

徹  「よろしくお願いします。」

キー坊「はい。」

   絹子がくすくす笑う。

絹子 「キー坊はさすがね。豚肉と言ったら作れと言わない。竹輪なら作ってと言う。それを考えてたでしょ?」

キー坊「バレました?私も女工でしたから分かるんです。美味しいものを食べると嬉しくて、ココに来て良かったと思うんです。じゃあ、次は肉じゃがの作り方を明日書いてきます。それも肉を使わず竹輪で作ると美味しいんです。材料費は安いし。徹さんに持って行けばいいですね。」

絹子 「そうして。会社のことは全て徹兄さんを通すことになってるから。」

キー坊「はい。」

   キー坊はカレーを作り、頂いた大島を風呂敷をか借りて背負った。
   帰りに駅近くの本屋に寄り、借りた辞書と同じ辞書を購入した。
   店に戻ると滝が来ていた。

〇饅頭屋で

キー坊「奥さん来てたんですか?」

滝  「東京に行くのに何を着たらいいか悩んじゃって。」

キー坊「これを絹子さんに頂きました。こんな高級なものを良いんですか?そして旦那さんから小物を買うようにお金まで絹子さんから渡されました。」

滝  「今、父ちゃんの機嫌がとにかく良いのよ。」

キー坊「カレーを作ったんです。そしたら徹さんが女工達にもカレーの作り方を教えてと言われて、明日教えに行きます。豚肉でなく、竹輪で作れるんです。だから肉じゃがも教えます。良いですか?」

滝  「肉じゃが?それは家にも教えて。今、ポッポちゃんから聞いたの。ポッポちゃんのお父さんも脚気で大変だったって。ここの家は麦ご飯を食べてるんだって?」

鳩子 「そうです。キー坊のお友達が薬局の奥さんで色々教えてくれるの。肝油だっけ?お父さんも飲んでた。」

キー坊「だからカレーと竹輪じゃがの日は麦ご飯にすれば女工達も文句ないでしょう。それに山芋を擦ってとろろ汁にもできますから。
 女工の楽しみはご飯です。美味しいご飯だと食べられて幸せだと思います。私もこの家に来て麦ご飯ばかり食べてますが元気なんです。足が時々痛かったのも無くなりました。それでポッポちゃんのお父さんの言うことは本当だと言ったんです。ポッポちゃんは何が効いたか分からないし。と言うんですよ。」

滝  「分からないのよね。急に痛くなるし。」

鳩子 「お父さんは魚卵を食べると痛くなると言うてた。タラコやカズノコを食べると痛くなるんだって。でも食べたい時は食べてたけど。翌日か翌々日、痛くなってた。でも気の所為かも知れないのよ。」

滝  「そういえば、タラコが好きでタラコ食べた後は痛いかもしれない。栄養に良いと食べてた。そうだわ。」

鳩子 「急に痛くなったり、急に治ったりするのよね。だから麦ご飯を食べてたの。」

滝  「良いことは何でもやってみたい。肝油買うてくわ。」

鳩子 「うちも飲もうかな?最近、疲れやすいから。」

キー坊「こんなに頂いたので、肝油は私にお礼に買わせてください。友達割引を頼んでみます。それに2個買うんなら幾らにしてくれる?3個買うんならいくらになる?とポッポちゃんの値切り方で買うてみます。」

滝  「そうして買うの?」

鳩子 「関西では常識なんです。関東は一切しません。岡崎はどうなんでっしゃろ。3個買うと言うと少し安くしてくれはりますね。」

キー坊「じゃあ、行ってきます。」

   滝とポッポは穏やかな風に包まれていた。

滝  「父ちゃんがなんか落ち着いたというか、イライラが取れたんよ。そして優しいことに気付く人なの。」

鳩子 「良かったですね。」

滝  「七子ちゃんのことも、斡旋さんに聞いてくれて、七子ちゃんの親が遊郭に売ればもっと高く売れたと文句言うんですって。
 それ聞いて父ちゃんが、『これから七子に付きまとう親だろう。ポッポが良ければ養子縁組をし、七子に親子の縁を切らせた方が七子が穏やかに暮らせる。女学校にも入れたいならなおさらポッポが親の方が良い。』と言ってた。一度、七子ちゃんに学校の帰りに山圭に寄らせて、父ちゃんに会った方が良いかも。親を一番知るのは七子ちゃんだからね。」

鳩子 「どうやって手続きするんですか?」

滝  「斡旋さんがやってくれるの。ポッポちゃんの手続きも頼んでいたの。でもポッポちゃんのは本人でないと手続きができないようになってたらしいわ。」

鳩子 「役場で私も言われました。七子ちゃんを見受けするのは幾らぐらい掛かるんですか?」

滝  「遊郭に売る気の親じゃけん、20円くらいでしょうね。」

鳩子 「七子ちゃんが望んでくれるならお願いします。女学校に行かせたいんです。そうしたら私が女学校の校門をくぐれますから。私が女学校の門をくぐってみたいんです。それが嬉しいんです。」

第13章 東京へ

〇列車の中

   5月18日になり朝1番の列車に圭蔵、滝、鳩子、キー坊が乗った。

キー坊「列車に乗るのは初めてです。」

圭蔵 「富士山を見たことが無いのか?」

滝  「私も見たことはありません。」

圭蔵 「凄いぞ。富士山は見ると晴れ晴れする。美しい山じゃ。」

   一等列車に乗り、食堂車もある。
   食堂車で朝食を食べる。パンとコーヒーが出る。
   滝がコソコソ圭蔵に話す。

滝  「この黒いのがコーヒーですか?」

圭蔵 「そうだ。」

滝  「苦い。」

圭蔵 「砂糖とミルクを入れるんじゃ。砂糖をスプーンで2杯入れて飲んでみろ。」

滝  「美味しい。苦いけど美味しいです。」

   圭蔵が笑う。
   滝が怒る。

滝  「笑わんでください。知らんじゃけん。」

鳩子 「仲がいいわね。キー坊が緊張しまくってる。」

キー坊「一等列車ですよ。有名な富士と言う列車です。一等席ですよ」

圭蔵 「そうじゃ、だから一生懸命に働くんじゃ。頑張って働けば、一等列車に乗れる。今日の予定は、東京駅で荷物を預けて、ポッポのポ父さんの墓参りに行く。そして翌日海軍さんとポッポのお隣さんへのご挨拶に伺う。ハガキは出しといたか?」   

鳩子 「はい、お返事を頂きました。19日は家にいて下さるそうです。」

圭蔵 「そして時間があれば、日本橋三越に行こう。」

滝  「父ちゃんは洋服を作るのが楽しみで来たんじゃ。」

圭蔵 「呉服は詳しいが、服は全く分からん。ポッポが知るから助けて貰わんと買えんからなぁ。」

   列車の中でコーヒーを飲んでいた時に富士山を見た。
   滝とキー坊は富士山の雄大さと美しに感動した。

滝  「コーヒーを飲みながら富士山を見るなんて、想像したことも無かった。父ちゃん、ポッポちゃん、キー坊ありがとう。」

キー坊「私もこんなにきれいな着物を着せてもらい、一等列車に乗せて貰い、コーヒーを飲んで、富士山を見るなんて。
 この着物は、私が絹子さんの為に縫うたんです。こんな高級な着物を私が着させて頂くなんてありがとうございます。これからも頑張りますんで置いてください。」

圭蔵 「気にせんでいい。もったいないからキー坊にやっただけじゃ。ああ、富士山を見ると毎回感動する。しかしコーヒーは飲みなれて感動しなくなる。最高の物を目指し持てとはこういうことだ。頑張って生きる楽しさだと思う。この富士山を見る度に、わしはさあこれからも頑張ろうと思う。」


〇お墓参り

   お墓は青山墓地にあった。昼過ぎに東京駅に着き、
   東京駅から円タクを使い青山墓地に着いた。
   鳩子はお父さんと良くお父さんの母のお墓参りに行っていた。
   5月中旬と言うのに草が生え、墓の汚れが気になった。
   圭蔵も感謝を込めて墓参りをした。

圭蔵 「そうだ。まだ2時だからわしの実家の墓へも行こうか。」

滝  「ぜひ連れてってください。」

圭蔵 「代々の墓が上野にあるんじゃ。そこにお母様のお骨を納めて差し上げたいと重蔵兄さんが言いよる。」

鳩子 「行きましょう。」

   4人はまた円タクで上野に行った。
   小さなお寺が集まる所にお寺が加藤家の菩提寺だった。

圭蔵 「お久しぶりです。家族できました。来年も春に家族出来ます。今の幸せをありがとうございます。」

   滝と鳩子とキー坊の目に涙が溢れていた。圭蔵の目にも。

圭蔵 「今、3時半か。ここから日本橋は近いぞ。」

滝  「服を作る事しか頭に無いんじゃから。」

圭蔵 「滝が麦ご飯にしてから、わしもお腹が引っ込んだんだ。かっこよく洋服を着こなしたいからなぁ。」

滝  「まだモテたいんですか?」

圭蔵 「そんな風でない。カッコいいと仕事が決まるもんじゃ!」

鳩子 「それは本当です。良いものを着てないと契約は取れません。芸妓は完全にそうです。世の中って中身と言いますけど、意外にキレイな紙で包んだ方が売れるんです。そうじゃ、饅頭も器のお化粧してやろ。パンも箱に入れてやろ。」

圭蔵 「ポッポはいつも商売を考えとるなぁ。」

鳩子 「1等列車に乗りたいですからね。岡崎に行った時は2等でした。さあ頑張りましょう。」


〇日本橋三越に

鳩子 「呉服売り場は3階です。お父さんを担当して下さってた方が、伊東さんと言う方で、とても詳しいのでその方にお願いしましょう。」

   3階の紳士服売り場の誂え服の売り場に行こうと
   エスカレーターに乗る。圭蔵は気にせず乗れたが、
   滝とキー坊が怖がる。しかし見よう見まねで乗る。

滝  「驚いたわ。階段が動いてる。」

キー坊「震えが止まらん。」

  3階に着くと、鳩子を知る男性が近づいてくる。
  売り場の責任者の伊東氏だ。

伊東 「鳩子さん、お久しぶりです。ご主人様がこの度はご愁傷さまでした。長くご愛顧頂きありがとうございました。あのこの方は圭蔵ですか?」

圭蔵 「驚いた。なんでお前が敵の呉服屋に居るんだ?しかも紳士売り場に。」

伊東 「やはり圭蔵か。鳩子さん、お知合いですか?上野の呉服店のライバルだったんです。圭蔵に負けて紳士服にしたんだよ。そのお前が急に出願し兵士になり、居なくなるんだから。」

圭蔵 「鳩子はわしの従妹なんじゃ。岡崎で帯芯を作っておる。今はエジプト綿とウイグル綿の布を織り始めた。鳩子のお父さんの要望を鳩子から聞いて降り始めたんだ。それで洋服を作りとうて鳩子に連れてきてもろうたんよ。これが嫁の滝、これが親戚同様のキー坊。おい、わしの洋服を作ってくれ。大阪に着ていくんだが、岡崎の百貨店の洋服と何か襟が違うんじゃ。そして鳩子が外国でも三越のラベルが付いたのを着てるとホテルのクロークの扱いが違うと言うんじゃ。それで岡崎から来たんじゃ。」

伊東 「これも何かの縁じゃね。任せなさい。あとエジプト綿とウイグル綿の布を見せてくれませんか?英国のエジプト綿とウイグル綿のはありますが、高くて誰も買わないんですよ。売れる程度の値段なら三越に置きたい。」

圭蔵 「はあ、東京弁が見事に出とるなぁ。確か紀州だったよな。わしと同じ旗本出身。」

伊東 「良く覚えてるなぁ。今日、時間あるか?飲みに行かないか?」

圭蔵 「家族とだから。」

鳩子 「どうぞ出掛けてきてください。私たちはホテルで部屋で食事します。滝さん、良いよね。」

滝  「ビックリしてしてしもうて。お墓参りに行ったら、こんな運良く、人との出会いがあるなんて。どうぞ、ゆっくり出掛けてください。」

鳩子 「私たちは婦人服を見てからホテルに行きますね。」

伊東 「鳩子さんはご存じだと思いますが、外商の伊東で回してください。お値引きできますから。海軍の中島さんにも頼まれてます。圭蔵の家族なら特別です。」

鳩子 「良いんですか?ありがとうございます。」

〇翌日の朝   

   圭蔵がホテルに帰ったのは真夜中の2時だった。
   10時に市ヶ谷の海軍での約束ゆえ、
   9時にホテルのロビーで圭蔵夫婦と待ち合わせた。
   鳩子は8時からコーヒーを飲んでいた。キー坊は紅茶を飲んだ。
   滝も鳩子と一緒に来てコーヒーを飲んでいた。  
   そこに9時5分前に圭蔵が来て少し酒臭かった。

鳩子 「滝さん、夕べ眠れた?」

滝  「寝てたら、真夜中に起こされたわ。しかもフロントから電話で。お客様のお連れの方がと。」

キー坊「眠れんかった。映画の中に入ったようで、夢を見てるみたいで。」

圭蔵 「びっくりした。丁稚の時の仲間なんだ。ライバル店で紳士売り場の責任者をしてるとは。服は決めてもろうた。コートも、靴も、バックも、ベルトも、下着も。下着が違うんじゃなぁ。驚きまくった。
 服は1か月後に仮縫いだそうだ。」


〇市ヶ谷海軍参謀所で

   鳩子が行くと門の入り口に中島中佐と秋葉少佐が立っていた。

中島 「お久しぶりです。お元気でいらっしゃいましたか。」

秋葉 「お久しぶりです。お顔を見せていただき安堵いたしました。心配しておりました。」

鳩子 「この度はお願いに上がりすみません。よろしくお願いします。」


〇豪華な応接室に4人は通される

   蓋が付いたお茶碗のお茶が出てくる。
   中島と秋葉が入ってくる。

中島 「鈴木少佐は今、上海に居ます。鈴木も心配しておりました。家に行き、驚いたんです。お隣に行くと鳩子さんは田舎に帰ったと聞きました。田舎を聞いて無くて、捜しようが無かったです。まさかあれほど酷いとは。言葉が無かったです。」

秋葉 「実は私の父が飯塚大将の従兄に当たります。大将のご尊母様は私の祖父の妹です。大将の奥さんを知りますから今まで言わなかったんですが、評判通りでした。サンフランシスコに大将と奥さんが行かれた時も、サンフランシスコで色々あって、奥さん1人で日本に返したほどでした。そのご性格が今回も。もっと気を付けるべきでした。すみませんでした。あれほど父の妹から、妹が大将のお母様ですが、鳩子さんを頼まれていたのに、お辛い思いをさせて本当にすみませんでした。今、飯塚大将の息子を呼びましたから謝らせます。」

   部屋のノックの音がする。

中島 「入れ。」

飯塚の息子「はい。飯塚大尉入ります。」

   飯塚大尉は鳩子に向かい、頭を下げ、

飯塚の息子「この度は申し訳ありませんでした。」

中島 「軍の車両使用だな。秋葉少佐に聞いている。飯塚大将のご尊母様が鳩子さんに箪笥をそのままお使い頂きたいと秋葉におしゃられていたのを私も聞いている。返しなさい。」

飯塚の息子「はい、わかりました。申し訳ありませんでした。明日、持って行きます。」

鳩子 「あの今日はそのことで来たのではありません。お陰様で、田舎に戻り、田舎で従兄に会いました。今は岡崎の駅前で饅頭屋をやらせてもろうとります。これが従兄の圭蔵です。その嫁の滝、そして一緒に饅頭屋をやってもろうとるキー坊です。もう済んだことですからよろしゅうに。」

秋葉 「いいえ、ご尊母様から私も頼まれていたんです。それを果たさせてください。婆所は岡崎ですね。軍の車両で持って行かせます。これは規則ですから、軍の車両で間違って持って行ったものは軍の車両でお返しさせていただきます。」

鳩子 「はい。」

圭蔵 「岡崎まで持ってきていただけるなら受け取らせていただきます。それで納めて頂けませんか?」

中島 「それでいいか?」

秋葉 「ご尊母様のご意思が通せるなら良いです。この際です。飯塚大尉にはっきり言っておきます。君の母は、飯塚大将のご尊母様のご生前にご尊母様を泣かせるほど虐めたんです。鳩子さんは優しかったんです。その鳩子さんを虐めることを決して私は許しせません。」

中島 「その思いは判る。飯塚大将から私も頼まれています。鳩子さんの親戚を探しました。鳩子さんが独りぼっちになることをとても心配なさってました。」

秋葉 「君にも大事な父だろう。分別を持ちなさい。」

飯塚の息子「はい、本当にすみませんでした。母の言うことを信じてしまいました。サンフランシスコでも父の名誉を傷つけたことも最近知りました。今は父が鳩子さんと暮らした意味が分かっています。感謝の気持ちばかりがあります。」

鳩子 「私はそんなに立派ではありません。お父さんも、お父さんのお母様も一緒にいるのが楽しかっただけです。昨日は日本橋三越に行きました。お母さまが大好きだった三越です。今日は銀座の煉瓦亭さんに行くんです。これから日本橋三越にまた行って、そこから銀座の煉瓦亭さんまでブラブラ歩くんです。そういう楽しみをお母様が教えてくだされただけです。でしたら、一つだけお願いがあります。お父さんが弱った1年でした。その頃からお墓参りに行ってませんでした。
 今は岡崎に住んでいますので、できればお墓のお掃除をお願いします。それだけはお願いします。お父さんはきれい好きで、お墓もキレイにしてましたよって、私への謝ることは不要です。お母様とお父さんのお墓をキレイにしてあげてください。昨日は皆でキレイに磨いてきました。よろしくお願いします。」

   中島、秋葉、飯塚も黙った。

中島 「はい、約束します。飯塚、下がりなさい。」

  飯塚大尉は部屋を出た。
  鳩子は雰囲気を変えようと、

鳩子 「良いんです。気になさらないで。私もお父さんを返したくない20年でした。ですからあんな風にされても仕方がありません。お母さまの箪笥も気にしてません。私は何一つ持たずにお父さんと暮らしていたんです。芸妓だったのをご存じでしょう?だから気にしてません。明治になったからそうなったんです。仕方がないことです。
 岡崎の実家が売りに出ていて、それを買いたくて、お父さんがくれはった石ころの2つを売りたいんです。従兄の圭蔵は機織リをしてます。今度、お父さんの望みでしたエジプト綿やウイグル綿を織ると言ってます。お金を稼ぐのが上手な従兄ですが、従兄のお金でなく、この石を2つ売りそれで実家を買いたいんです。お願いできますか?
 それとお父さんが使ってたパン焼き機をが欲しいんです。それがどこで売っているか教えてください。饅頭屋をやってますが、お父さんの書いてくれた料理のノートを見て、キー坊が同じようなパンを焼いてくれます。今はパン焼き機が無いから揚げてますけど、パン焼き機があれば、もっと儲けられると思います。
 あの石の2つをお願いしに来ました。よろしくお願いします。」

中島 「あのダイヤモンドですか。分かりました。今、お持ちですか?」

鳩子 「はい、持ってます。」

   鳩子はお守り袋からダイヤモンドを出した。
   3個を懐から出した懐紙に乗せ、机の上に置いた。
  

鳩子 「この大きいのは売ります。一番小さいのを持ってます。」

   一番小さいダイヤをお守りに戻し、
   2つのダイヤモンドを中島に渡した。

中島 「これは日本では安くなってしまいます。シンガポールで売るか上海で売るか、適切な値段で買ってくれるバイヤーを探して交渉します。2,3カ月、夏までにご返答します。
 そしてパン焼き器は、ご尊母様の箪笥と鳩子さんお箪笥と一緒にお持ちします。今日が5月19日ですから、6月中に持って行きます。私か、秋葉か、鈴木が持って行きます。」

鳩子 「そしてコレを。お父さんが渡すように頼まれていた本とノートです。やっとお父さんとの約束が守れたわ。済んだことはお気にせずように。お陰で圭蔵兄ちゃまに会えたんだから。」

中島 「そう言ってくださると助かります。本当にすみませんでした。」

秋葉 「物凄く悔しくて唇を嚙みしめました。墓が。そうだったんですか。私は1カ月前に日本に帰りました。恥ずかしながらまだ大将のお墓に参ってません。すみませんでした。」

圭蔵 「それほど汚く無かったですよ。」

秋葉 「ありがとうございます。」

中島 「エジプト綿とウイグル綿を織ってるんですか。いつも大将に買ってくるように頼まれてました。大将はそれのゲートルを欲しがっておいででした。イギリスにはあるそうです。上海にはありませんでした。」

圭蔵 「ゲートルですか。わしも陸軍ですが出願し、ロシアとの戦争に行きました。情けないことにすぐに怪我してしまい帰国させたられました。ゲートルは使ってました。そうですね。エジプト綿のゲートルが合ったら巻きやすくしなやかで良いですね。ウイグルでは柔らかすぎると思います。」

中島 「陸軍だと巻ゲートルを使用してましたか?」

圭蔵 「はい。巻いていた方が足が疲れないんです。」

中島 「ぜひ作ってください。いざと言う時に包帯にもなります。装備品を扱う部署を紹介しますから、見本をぜひお持ちください。エジプト綿だと私費で上官たちが購入することになると思います。」

圭蔵 「別に良いです。」

中島 「いいえ、欲しいと思う士官がいます。鳩子さんのお父さんは厳しかったんです。鼻紙一枚でも貰い物をしない方でした。その代わり言うべきことを言いなさいと教えられました。エジプト綿やウイグル綿を調べ、私もウイグル綿で下着を作ってます。」

鳩子 「飯塚大尉さんにお墓のことを言って悪かったかしら。」

中島 「鳩子さんが言ったんではありません。私は飯塚大将の言葉だと思います。」

秋葉 「私もです。」

  中島は圭蔵を一人連れて、どこかに行った。
  秋葉は鳩子、滝、キー坊と世間話をした。
  滝とキー坊が鳩子を祇園一の芸妓と知らず、
  鳩子が飯塚を財閥一族の一員と知らないのに驚き合った。

鳩子 「私が12才でした。母が死んだと知らず、生きていつか一緒に暮らしたいと頑張っていました。お座敷で母が死んだことを知り、次のお座敷がお父さんでした。舞妓ですから泣くことはできません。我慢して踊ったら、お父さんは『明日、一緒にお墓参りに行こう』と言ってくれたんです。どうしてお母はんが許してくれたのか不思議でした。財閥さんだからお母さんのお墓参りに連れてってくれはったのね。あらお父さんのお母様も財閥なんですか?」

秋葉 「はい、そうです。」

鳩子 「知らんかった。1つのお部屋で3人で寝てました。お母様がお父様と寝たいと言うから、取られたくないから私も一緒に。お父さんを挟んで寝てました。日本橋から銀座まで歩いてました。」

中島 「飯塚大将が亡くなられる1週間前に伺わせていただきました。その時、お預かりしたものです。今そのままお渡しします。」

鳩子 「もしかしてこの重さは金貨ですか?お父さんのお母様とお父さんと3人で買い行った思い出があります。」

中島 「圭蔵さん、鳩子さんをお願いします。飯塚大将の願いなんです。感謝なんです。」

圭蔵 「はい。お任せください。鳩子の母にも頼まれてます。」


〇お父さんと鳩子の暮らしてた家

   鳩子の言ってた通り、惨憺たる家なのに圭蔵、滝、キー坊は驚く。
   圭蔵は円タクを待たせ、滝と鳩子だけが坂本さんお家に上がった。

滝  「ここまで凄いとは驚きました。鳩子ちゃんがここに居たら殺されたかもと思いました。」

   坂本さん夫婦もそう思ってたと答えた。

滝  「よほどお心が苦しい方なのでしょう。お病気に思います。愛されたければ優しくしないと、こんなに木を切り倒す心では愛されません。人に嫌な思いをさせたいだけで生きる人も哀れに思います。」

   余りに木が無残に切られたままなのに、キレイにするようにと
   圭蔵の計らいでお金を包んだのをさっと滝が坂本さんに渡した。


〇日本橋三越へ

   昨日欲しかったものを圭蔵に見せ、購入した。
   圭蔵は最後に伊東に挨拶し、1か月後に仮縫いに来ることを約束。
   鳩子が行っていたように、日本橋から銀座の煉瓦亭まえ歩き、
   途中、金を売る店に寄った。そこで圭蔵は初めて金貨を購入した。

圭蔵 「鳩子に酷いことをしたの、秋葉さんの親戚さんか?」

鳩子 「そう言うことになるね。」

圭蔵 「感謝したい。ポッポが居らんかったら、エジプトもウイグルも知らず、金貨を買うことも無かっただろう。」

滝  「そうだね。富士山見てコーヒー飲んだり、5月の気持ち良い風の中、こうやって銀座を歩くなんて想像してなかった。ホテルのロビーでコーヒー飲んだ時、『幸せだなぁ』と思うたの。鳩子ちゃんありがとう。キー坊も、父ちゃんもありがとう。」

   圭蔵が早足で歩いてく。キー坊が追いつくと下がってくる。
   キー坊が指を目に添え、圭蔵の涙を伝えた。
   帝国ホテルに戻りの写真館で4人で記念写真を撮る。
   鳩子の勧めで圭蔵と滝の夫婦写真も撮った。
  
   

第14章 平凡な日々


〇鳩子の饅頭屋で

   東京で食べた味をキー坊は再現しようと一生懸命に料理に励む。
   東京でフランス語の辞書と外国語の料理の本を買い、鳩子のお父さん
   のノートに書いてある料理や本の料理も作っている。
   岡崎で外国人に道を聞かれ英語を書いて教えたキー坊に七子が驚く。
   鳩子は東京でレースの本を買い、昼はそれを作っている。
   夜は鳩子が本を読み、キー坊は英語の料理本と辞書を調べ、
   七子は勉強している。
   5月末皐が満開に咲く頃、ター坊は9歳になり圭蔵に決意を伝える。
   毎朝4時に鳩子の店を手伝い圭蔵のように立派になりたいと告げた。

〇圭蔵の家

   6月中旬になった。

滝  「ター坊は休まずに手伝いに行ってるね。もう20日間も続いてる。」

圭蔵 「そうだなぁ。わしはあんなに立派だったか?」

縫子 「学校では立たされてるよ。立って居眠りしてる。でも勉強ができるから怒られなくなったみたい。100点ばかり取ってる。」

進  「僕も手伝わないといけんなぁ。」

圭蔵 「だったら庭を毎朝掃きなさい。」

進  「はい。そうします。」

滝  「もうすぐお父さんの仮縫いや。その後も続いたらお見事ですね。」

圭蔵 「わしもそう思ったんだ。だがター坊はちょっと違う。何か違う。」

   家族で東京に行く日が来た。家にキー坊が電話の留守番に来た。
   滝も一緒に家族全員で東京に行くことになった。
   滝が行くのは、圭蔵が「家族写真を帝国ホテルで撮らないか」
   の言葉に行く気になった滝であった。洋服姿で写真を撮りたいが、
   圭蔵の服がまだできてないので、着物で行くことになった。
   子ども達は洋服姿だった。
   大騒ぎで花やしきや銀座、上野の先祖の墓参り、三越での買い物、
   おして帝国ホテルでの写真撮影を行った。

〇6月下旬の鳩子の店の前

   軍隊のトラック3台が鳩子の店の前に乗り付けた。
   10人余りの軍人が鳩子の店の前に立つ。駅前が騒然とする。
   余りの緊張する岡崎駅前にキー坊が驚き、山圭の事務所に駆け込む。
   お父さん部下の秋葉が鳩子の為に軍隊で使うパン焼き器を持って
   きてたと分かる。お父さんの母の箪笥と鳩子の箪笥も持ってきた。
   そして箪笥に手紙があり、飯塚の妻の詫びる言葉だった。

   鳩子の通帳が使えるようになった。
   中島、秋葉、鈴木が通帳の差し止めをしていたと分かった。
   それほど飯塚の本妻と息子を信じていなかったようだった。
   その通帳にダイアモンドを売った驚く金額が入っていた。
   しかし以前の通帳は出てこなかった。

   薪を使い焼く軍の使用済みパン焼き器を譲り受けた。
   パンを沢山焼けるようになる。
   キー坊は料理本を美味しいパンを次々と生み出していく。
   パンに卵と牛乳を染み込ませ、フレンチトーストまで作った。

   6月中旬に、実家の改装と修理が終わり、
   鳩子の実家は旅籠になった。
   庭はキレイに選定され、家の柱と廊下は磨き上げていた。
   鳩子は木を磨くのが好きだった。それは母が磨いていた木であり、
   父の幼い頃から知る木だった。

   圭蔵の勧めで、大工にベットや家具を作らせたのも良かった。
   夕食の料理が付かないゆえ安価で評判が良く、
   朝食のパンとコーヒーが客に喜ばれた。

   古畑さんの接客が何よりうまかった。しかし圭蔵はお金には厳しく、
   毎日鳩子か徹に釣銭のチェックをするように命じた。
   圭蔵は、ズルいことをしたくなくてもさせてしまうことがあり、
   それがその人の人生を狂わせ、長く付き合えなくなるから、
   お金にだけは厳しくし、長く付き合えることを選びなさいと
   鳩子に指導した。

   そして慌ただしく夏に入った。

第15章 徹の一人旅

   9月に入り、徹が、樺太の大泊の重蔵、北海道の稚内の徳藏、
   そして旭川で美代子と千代子に会いに行く日が来た。
   圭蔵は、徹に4人の郵便通帳と印鑑を作り、それを徹に持たせた。
   旅の予定も徹は自分で調べ、自分で泊まる所を見つける旅である。
   滝は北海道に雪が降る前の帰宅を望んでいた。
   徹の見送りに滝、絹子、鳩子、キー坊が見送った。

   徹から東京の消印のハガキが届き、
   圭蔵のエジプト綿のワイシャツの生地と
   ウイグル綿の肌着が三越に売られていたと書いてあった。
   仙台からもハガキが来た。しかしそれ以降はハガキは来なかった。
   滝が心配で圭蔵と喧嘩になることもしばしばだった。

   10月に入りハガキが来た。大泊を出るとのハガキだった。
   どうも勝手に旅をしたかったようだった。
   圭蔵はそれをさせたかったと滝に言った。
   長男は一生を家族に縛られる。圭蔵のような3男の気楽さは無いと
   思っていた圭蔵だった。しかし反対に徹は家族のありがたさを学んだ
   と書いてあった。

   稚内で徳藏の家に泊り、旭川で祖母が暮らした家の写真を撮ったと
   ハガキに書いてあった。それを圭蔵はたいそう喜んだ。
   そして11月に入る前に徹は祖母の骨と初子の着物を持ち帰宅した。

   下ろしたての背広はボロボロになっていた。
   どれほど歩いたのだろうと想像もできなかった。
   特に徳藏が徹に伝えた、『丁稚の方がマシだった』の言葉に驚いた
   圭蔵だった。

第16章 圭蔵と鳩子


   徹は鳩子の母の形見の鳩子の祖々母の着物も持ち帰った。
   その中に鳩子の母初子が姉の美子宛てに残した遺言が入っていた。
   美代子が母美子の望みで、誰も読んでいないと添え書きがあった。
   鳩子は読んだ。そして圭蔵にだけ見せた。
   1枚目は

『お姉さま。ごめんなさい。本当にごめんなさい。鳩子を無くし無理です。本当にごめんなさい。2枚目はお姉さまだけ読んでください。 色々迷惑を掛けると思います。本当にごめんなさい。お詫びのつもりまでこの着物を受け取ってください。この着物は義祖母が嫁入りの時に持っていらした着物です。私が嫁入りしたころ義祖母から頂きました。どうかお受け取りくださいませ。』

   2枚目は

『主人は蝦夷で半年前に亡くなりました。先々月、明治になった頃から長く良くしてくれていた豪商が潰れました。
 私共は、主人の祖父母の希望もあり、多くの私財戦いに出しました。主人の父は脱藩できぬゆえ、お金を出すことをして居ました。明治に入り、それで祖父母はこの家で恥はさらせぬと自害されたのです。
 主人の父は、藩の武士の今後をと色々工面し、藩の武士の生活の為に多くをしていたゆえますます借金が多額になり、そして心労で亡くなりました。一昨年は姑も病で亡くなりました。主人は北海道で病になったそうです。半年前に亡くなったと知りました。この家も出なくてはなりません。
 鳩子は京都に行くことになりました。それでお殿様に迷惑を掛けずに済むそうです。鳩子はきっと生き抜くでしょう。私は主人の墓に入りたいゆえ、お許しください。女郎に行けば墓に入れませんゆえお許しください。』

〇鳩子と圭蔵

   12月初旬。
   鳩子が徹が持ち帰った初子の着物を着て、圭蔵に会いに来る。
   圭蔵の家の前の橋の上で話してる。

鳩子「圭蔵兄ちゃま、一つだけお願いがあるん。私より長生きして……。昔の話を聞いてくれるの圭蔵兄ちゃましかおらんもん。あやとりしてくれるのも圭蔵兄ちゃましかおらんから。
 お父さんと岡崎の杉浦のお墓参りに来て、いつもお墓がキレイじゃった。東京のお父さんのお墓参りして分かった。ずっと圭蔵兄ちゃまがキレイにしててくれたんやろ。長い間ありがとうね。」

圭蔵「ああ、鳩子は家族だ。ター坊が七子ちゃんを好きらしい。それで朝4時起きして毎日ポッポの家に通ってる。七子ちゃんを養女には、七子ちゃんがポッポがお母さんがええと言ってた。キー坊も同じ杉浦になりたいと言ってた。鳩子が決めろ。」

鳩子 「キー坊は嫁に出したい。うちからでもいいか。一緒にが良い。独りぼっちは終わりやね。
 私は滝さんに感謝がある。遊女饅頭と言われ、誰もこうてくれなかったとき、滝さんが支店長さんの奥さんを叱り、
『饅頭を今こうてきなさい。そやないと山圭はこの銀行との取引を辞めます。それでええなら買わなくてええ。』
と支店長さんに饅頭を買いに来させてくれはったんや。本当に滝さんは優しい人じゃ。圭蔵兄ちゃまも滝さんが大好きやろ?」

圭蔵 「何言ってるんだ。ポッポは昔から頭がええなぁ。わしはいつもポッポに敵わん。」

鳩子 「そうや。うちの養子になってもらいたかったんやさかい。いつもあやとりをうちが好きなだけしていてくれるさかい。圭蔵兄ちゃまのお嫁さんになりたいと母に言ったんや。覚えとる。
 今も2本のホウキを使こうて枯葉を掃いてるんじゃね。」

圭蔵 「ポッポが言ったんか。ホウキ2本はずっとじゃ。新しいホウキと同じくらいきれいに掃けるからなぁ。あんとき母様に褒められたさかい。」

鳩子 「そや。」

   鳩子が袖の袂からあやとりを出した。
   二人は川辺に座り、時々あやとりをしながら長く話し込んでいる。

圭蔵 「なんで滝を気にするんや。昨年を気にしているのか?」

鳩子 「何のこと?覚えておらん。そや、忘れたんか?今日は圭蔵兄ちゃまの母の御命日やよ。だから饅頭とパンを持って圭蔵の兄ちゃま所にきたんや。ほら、圭蔵兄ちゃま、母の命日まで忘れておる。何も覚えてないんや。」

圭蔵 「そやな。何んも覚えてない。」

鳩子 「圭蔵兄ちゃま、長生きしてや。来春にはお兄さん、お姉さんたちが来るんやね。圭蔵兄ちゃま、泣くなよ。」

   雪が舞い始める。

圭蔵 「寒いと思ったら初雪や。あああの夜が懐かしい。」

鳩子 「何言うとんの?」

圭蔵 「ほんまや。妾にしようと思ったら鳩子だったなんてなぁ。誰にも言えない。初雪で思い出してしもうた。」

鳩子 「祇園一の芸妓やよって。糸商さん、私にも団扇を仰山くれはった。キー坊が信じない。私でないと言う。」

圭蔵 「そうだ。蒲郡の立派なホテルが売りに出てる。買おうかと思ってる。一緒に買わないか?最近ゲートルが凄く売れてるんだ。戦争が始まるかも知れん。そうなると金の価値が変わるかも知れん。物や土地に買えた方がええやろう。それも共同経営の方が良い。株式会社を作り、古畑さんも参加してもらい、手堅く経営をした方が良い気がする。」

鳩子 「圭蔵兄ちゃまの動物的勘か?」

圭蔵 「鳩子のお父さんの教えだ。高いパンが沢山売れたら、大暴落を気を付けろ。生き抜かんとわしらみたいな苦労を子らにさせる。旅籠ならだれでも使う。そしてポッポのお父さんお言うことは全部当たってる。あの建物なら爆撃されんだろう。されてもあの場所なら次に建てられる。地盤がちゃんとしておる。先を読んで対処しよう。頑張ろうな。」

鳩子 「初雪だけが知ってる。良い思い出やな。」

圭蔵 「思い出させな。また妾にしとうなる。」

   初雪を見て笑う二人だった。

        終わり

年表1
年表2
年表3

あとがき


父から聞いていた話は、
・旗本の家に生まれ、7歳で上野の呉服店に丁稚にだされた祖父。
・脚気の母にシジミを取っていた父のこと。
・父は祖父の山で松茸を内緒の場所に取りに行ってたこと。
・鶏を飼っていて、母に鶏肉をと首を切ったらそのまま走られ、怖くて二度と無理になったこと。牛も飼ってて牛舎の匂いで牛乳と牛肉が苦手な父。
・岡崎の百貨店の上の方のレストランで、母にオムライスを兄弟たちに内緒で食べさせてもらっていたこと。
・某社のハンドルが駅前で撮れた話。
・使用済み切手をセロハン紙で包んでいたこと。(それは今も兄の家に)
・金魚の話と金毘羅山、高野山に父だけが付いて行ったこと。
・兄弟仲良くと、祖父亡き後、大学の学費と、結婚する時は父の兄が父に家を建ててくれたこと。
・樺太の兄から昆布が送ってきて、それを自分で切って煮て辛くて~父が家で自分が懐かしがり作ってたこと。塩らっきょうも手作り。
・樺太から兄が岡崎に来て、一緒に撮った写真は涙目の祖父。
などなど本当の話です。そこからポッポの想像を広げました。

万年青




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