小説 介護士・柴田涼の日常 117 申し送りには目を通しておいたほうがよい、本当は辞めたくない安西さん

 翌日は早番。どうしても朝は苦手だ。最近は朝が寒くなってきたので布団から出たくない。ずるずるまどろんでいるとどんどん時間だけが経ってしまう。急いで支度をして家を出る。Fユニットの夜勤者だと、朝はバタバタになる。申し送りを読んでいる暇もない。ユニットに入り、スタッフルームに行くまでのあいだに、廊下のカーテンを開け、洗濯物がどこまで済んでいるのかを確認し、誰が起きているのかを見て、お弁当を冷蔵庫に入れ、とりあえずヨシダさんに声かけし居室のカーテンを開ける。スタッフルームに荷物を置くと、猪俣さんがタナベさんの離床介助をしていたので、挨拶をして申し送りを聞く。何もなかったと言われたので、すぐに離床介助に移る。まずはイマイさんだ。その前に、今日のお風呂の人はパジャマを洗うことになっているので、各部屋に回収にまわる。最後にイマイさんのパジャマを洗濯機に入れスイッチを押してからイマイさんの離床介助に移ると、さきほどからイマイさんは口に手を当て「ちょちょちょちょ」と何かを訴えられておられる。便が出たのかと思ってオムツ内を見たが便失禁はない。「苦しいの?」「痛いの?」と問いかけてみるが「ちがうちがう」と言われる。イマイさんは朝に便失禁が多く見られる方なのでとりあえず起こしてトイレに連れて行くことにする。トイレまで行って縦手すりを握ってもらおうとするがすぐに手を離してしまう。ここでも何かを訴えられている。イマイさんは恰幅がよく非常に重たい。トイレ内で力づくで移乗するのは無理があるため、立位が取れないのなら無理はしないで一度退散し、朝食後に連れて行くことにする。

 ショートスリーパーのサトウさんはよく寝ていたとの送りであった。サトウさん用の塗り絵や色鉛筆が入った小箱を朝食が来るからと言って別の場所に移すと不機嫌になってしまった。義歯の装着も拒んだ。しかし、朝食を食べると機嫌が良くなり、食器洗いをお手伝いしてくれた。お米研ぎもお願いしたが、お米のほとんどを排水溝に流してしまったため、あとはこちらですることにした。

 センリさんは、昨夜〇時頃まで覚醒していたとのことで、離床直後は顔をのけぞらせて傾眠していたが、配膳する頃には覚醒状態も良くなり、ペーストの食事をゆっくりとではあるがご自身で食べられていた。ペーストなので、ごはんをほぐしたりする作業がない分、ラクと言えばラクだ。しかし、食形態がペーストに落ちると噛むことをしなくなるので、センリさんのADLは落ちてしまうかもしれない。

 ヨシダさんも朝はしっかりと起きられて食事も摂れた。トキタさんも朝は飲み込み良く、完食できた。

 下膳し、服薬、食器洗いを済ませると全員の排泄介助に移る。朝食前はトイレに立てなかったイマイさんも、トイレで無事に排便を済ませることができた。ひととおり済んだところで日勤の真田さんが来る。

 Fユニットの海野さんに申し送りを頼まれたので、朝礼に出る。看護師の池田さんが「Eユニットのイマイさんですが、昨夕の食事後むせ込みあり、息を吐くときにヒューヒューと喘鳴が聞かれるとのことでしたが、発熱等はないので様子観察をお願いしたところ、朝まで良眠していたとのことでした、朝にバイタル測定したところ異常なく、喘鳴も聞かれていませんでした」と報告された。前日までの日誌に目を通していないと、こういう情報が抜け落ちてしまう。ざっとでも目は通しておくべきだろう。

 朝礼から帰ってきて伝達事項を伝えると、小休憩に入る。着替えて帰ってきて入浴介助をはじめる。今日はハットリさんとウチカワさんとイマイさんだ。

 ハットリさんは湯船には浸からず、お湯を背中からかけるだけでいいと言われる。「毎日入ってるからいいのに」と言って拒否されることが多いウチカワさんは、今日は珍しく拒否なく入ってくれた。イマイさんは足の力も弱く、重たいので落とさないように注意しながら入浴した。

 ウチカワさんの入浴介助中、ハットリさんが扉を開けて、「あれどこ行った?」と言ってきた。どうやら装具の上に履く黒い靴下がないらしい。洗濯機のなかに入っていたのであとで渡すと、「誰か持ってっちゃったのかな。ベッド上に置いておいたんだけど。でもあったからいいや」と言われた。ハットリさんにはときおりこうした「勘違い」がある。

 午後になり、一階でセンリさんの歯科医を見かけたから診てもらうように言っておいたと真田さんが言った。センリさんに「歯医者さんに診てもらいましょう」と真田さんが声かけするとビクッとした表情をされたと言う。歯科医が義歯の着脱を試したところ痛みを訴えることもなく出来たらしい。「駄々をこねてただけじゃない?」と真田さんは言う。「平岡さんにも報告して、食事形態をどうするか検討してもらいましょう」

 帰り際、寺田次長に、最近の安西さんの様子を訊かれた。「あいかわらずですよ」と僕は答えた。「髪の毛を黒くして誠意を見せたつもりなのかもしれないですけど、中身は何も変わっていませんよ。サボり癖が抜けてないです」

 安西さんは髪の毛を青灰色に染めていた。それは海野さんと同じ色の髪だった。

「髪を染めろって言ったのはオレなんだよね。『行く時間がなくて』とか言ってなかなか染めなかったんだけどね」寺田次長はそう言ってふっと笑う。

「異動とかになりそうですか?」

「今のところは考えてないかな」

「一時期は辞めるって強く言ってたのに、近頃はトーンダウンしたりして。本人の意思が固まってないんですね」

「本当は辞めたくないんだよ。でも自分で自分をユニットにいづらくさせてるんでしょ。もう一度チャンスをあげようかどうしようか、考えてるところ」

「阪本さんのところとか厳しいところに行けば、もっとちゃんと働くかも、と間宮さんは言ってますけど」

「ほんと? 阪本さんはいつも座ってるけど」

「そうだったんですか」

「そっか。考えてみるね」

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