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#78 自分の時間

PRESIDENT Online
あなたは何の準備もなく突然「老人」になる…古代の哲人が「やりたいことは、今やるべき」と説いた理由


セネカ『生の短さについて』
われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。


職務に追われ、多忙な生活に追われて、人生を短くしている愚。しかし、それ以上に愚かなのは、あれをしなくては、これをしなくてはと、自分から心を忙しくしていることなのだ。

セネカは他の場所で、ローマ皇帝のアウグストゥスさえもが、国務をはじめ、おのれの地位や権力を保持するための活動より、「いつかは必ず自分のために、自分とともに生きる閑暇を得ること」を、人生最大の幸福としていたと記している。そして、老いや死についてはこう述べる。

生きる術は生涯をかけて学び取らねばならないものであり、また、こう言えばさらに怪訝に思うかもしれないが、死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないものなのである。

誰もが現在あるものに倦怠感を覚えて生を先へ先へと急がせ、未来への憧れにあくせくするのである。だが、時間を残らず自分の用のためにだけ使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日ででもあるかのようにして管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。

それゆえ、誰かが白髪であるからといって、あるいは顔に皺があるからといって、その人が長生きしたと考える理由はない。彼は長く生きたのではなく、長くいただけのことなのだ。

人は、より善く生きようとして、なおさらせわしなく何かに忙殺される。生の犠牲の上に生を築こうとするのだ。

何かに忙殺されている人間のいまだ稚拙な精神は、不意に老年に襲われる。何の準備もなく、何の装備もないまま、老年に至るのである。

われわれが起き伏し、同じ歩調でたどる生のこの旅路、やむことなく続き、矢のごとく過ぎ行くこの旅路は、何かに忙殺される者には、終着点に至るまで、その姿を現さない。

過去を忘れ、今をなおざりにし、未来を恐れる者たちの生涯は、きわめて短く、不安に満ちたものである。終焉が近づいたとき、彼らは、哀れにも、自分がなすところなく、これほど長いあいだ何かに忙殺されてきたことを悟るが、時すでに遅しである。

彼らは、忙殺されていた何かに見離される時がいつかやって来れば、閑暇の中に取り残されて狼狽し、その閑暇をどう処理してよいのか、その閑暇をどう引き延ばせばよいのか、途方に暮れるのである。


死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないもの。この言葉は本当に重い。

何かに追われ生きていると、大事なものを見失い、そして、何の準備もなく、何の装備もないまま、老年に至り、死と向き合うことになる。

生の犠牲の上に生を築こうとする。
正しくその通りだ。

自分の生を生きるために、自分の今を見つめたい。今日が人生最後の日かもしれないという言葉を添えて。

古代ローマからの教え、胸に刻みたい。

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