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雑記

 フィールドワークに出かけて気づいたことがある。
 この神社の尖った陽石(?)は本殿の真下に鎮座しており、あまり見かけない構造であると思う。
 地元の寺院のご住職の話によれば、こういった作りは大変古い神社に見られるもので、享保(江戸時代)の水鉢や、社記に登場する守邦親王(鎌倉時代)どころではなく、さらに昔から信仰の対象であった可能性があると言うことである。
 実際、境内に見られる丸石(道祖)神は、同様のものが縄文時代の遺跡からも発掘されていることから、土着の岩石信仰の場に、後から神社が建立された可能性もあるかと思う。
 岩石信仰、特に丸い形の石への信仰と、太陽や月を結びつける方もおられるだろう。
 そこで、天文学的な見地から、神社の構造物の位置関係を調べてみた。
 江戸時代の水鉢に向かって左に行くと、大きな鳥居があり、古くからの境内の入り口を示している。逆に向かうと、階段の先に拝殿が見えてくるが、その裏に陽石(と本殿)が存在するようだ。
 この位置関係を地図上で確認したところ、陽石から入り口を見ると、太陽や月がその日に最も高く昇る真南ということになる。
 また、本殿の後ろあたりに大きな磐座があるにもかかわらず、真北(北極星の方向)に位置する本殿の下に、何かを指し示すように尖った形の陽石が別途鎮座しているのには意味があるのかもしれない。
 仮説として、丸石神信仰が太陽や月のような「丸」に魅せられて始まったとすると、そこに建てられた神社が、太陽や月が通過する特別な向きに向かって建立された可能性もある。
 また、丸石神信仰は山梨市や甲州市を中心にみられる原始的な土着信仰であるが、その多くが、大きな丸い石の周りに小さな石が大量に積まれることが多い。
 山梨県立美術館の雨宮千鶴氏は、これを月と星々(北極星など)と例えたことがある。
 今の所、大石神社と天文学をつなげる記録は見つかっていないが、陽石と入口が為す方角は、天文学的に重要な向きであるため、気に留めて損はないであろう。
 原始時代の人々が太陽や月の「丸」に魅せられ、丸石神信仰として天体に興味を持ち、その名残が後世に建てられた神社参道の方向として残ったのであれば、大変興味深い。
 実用的な仮説も検討してみよう。
 「丸」を暦(二十四節気)と例える人もいるが、狩猟も農耕も、繰り返される季節の移り変わりの把握が大切である。
 これも想像の域は出ないが、神社が建つ前の尖った石には影がさしていたであろう。境内入口の先に登った太陽の光による影は、季節によって長さが変わっていたに違いない。これにより季節を把握していたのであれば、原始的な暦の誕生である。
 いかなる記録もない、現状ではこじつけに過ぎないかもしれないが、このような想像を掻き立てる大石神社の構造に、魅力を感じないのは難しいだろう。

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