物書きがナメられがちな件について

毎日投稿は終了。
とりあえず10日以上投稿できるってことも分かったので自信がついた。

具体的に言うと「2週間禁煙できたからいつでもたばこ辞められるな!」と言ってタバコを吸いだす人と同じ心境。
いけるいける。

仕事の片手間に歌詞書いたり文章書いたり色々しているが、元々文章を読むことも好きだ。
色々読んでいると、他の人の書いた作品に対して全部じゃないけど時々、筆者の方の背景みたいなのがうっすらわかる(ような気がする)時がある。
「この人の思考はいい意味でブッ飛んでるな」
とか
「この人は異常者ムーブをしているけど基本は常識人だな」
とか
「この人はとんでもない量の情報をインプットした人なんだな」
とか。
それは小説やエッセイに限らず、歌の歌詞だったり何気ない日常のツイートでも感じることがある。

この感覚は結構な人に共感してもらえると思っている。
文章が長くなればなるほど「筆者の背景」は見えやすくなるけれど、たまに短い言葉でも「こいつ…やはり天才か…」みたいに思い知らせてくれる一文に出会うことがある。

そういう一文に出会ったとき、嬉しくて悔しくなる。

・戦闘機?扇風機?

ものすごい子供の頃の話。
親戚の兄ちゃんがブルーハーツのCDを譲ってくれて、兄貴と兄貴の友達と俺で聞いていたことがあった。
俺がブルハ世代じゃないのにブルハ好きなのは、ひとえにこの親戚の兄ちゃんのおかげなのである。

捨てるつもりだった古いCDのため、歌詞カードのないディスクもいくつかあった。なので、耳で歌詞を聞き取るしかなかった曲もある。

その中の一曲に「NO NO NO」というブルーハーツ屈指の名曲がある。

この曲を聞いた時、ある歌詞が子供心に妙に引っかかった。

戦闘機が買えるぐらいの はした金なら要らない

THE BLUE HEARTS "NO NO NO"より引用

当時はまだガキだったので比喩表現というか、この歌詞の意味するところや込められた皮肉などを理解できるはずもなく、兄と友人に、
「戦闘機が買えるお金って、すごいお金だよねえ?」
と尋ねた。
「はした金」の意味もよく知らなかったが、要はそんな大金を「要らない」と言っていることに疑問を覚えたのであろう。
すると二人は大笑いして、
「馬鹿だなお前、戦闘機買える金ははした金じゃないだろ」
「そうだよ、戦闘機じゃなくて扇風機って歌ってるんだよ」

と俺を馬鹿にした。
俺もガキだったが、当時の兄と友人もまだ小学校高学年くらい。
歌詞の意味を理解できていない、ちゃんとしたバカガキだった。

それでも当時は、
「ああなるほど、扇風機だったらそんなに高い金額じゃないし、要らなくてもわかるなあ」
と納得してしまった。俺もバカガキだった。

何年か経って俺の「戦闘機説」が正解だったことがわかるが、その時には兄貴はすっかりグレてしまっており「お前らの方がバカじゃねーか」と言ってやる機会は失われた。

・”普通に考えれば”から外れるという事

普通とか常識とかをあまり多用したくないけれど、一般的な金銭感覚から見ると、兄貴と友人の答えは理解できなくもない。
「戦闘機と扇風機、はした金で買えるのはどーっちだ?」
という問いがあれば、マジョリティは後者だろう。
「今は羽根無し扇風機とかもあるから、扇風機もはした金じゃ買えませーン!残念でした!(ニチャア)」
という意見もあるかもしれないが、やかましい。黙れよ。

ブルハのこの歌詞は、
・戦闘機という高額なものを買えるほどの金を”はした金”とあえて表現するロックさ
・また、そんな大金を戦闘機という”戦争のための道具”に使う事への愚かしさ、戦争というものの下らなさを皮肉っている

というような意味が込められていると思うわけだが。
※間違っていたら申し訳ない

いわゆる常人・大衆の考える「はした金」の範疇からはみ出るこのセンスこそ、多くのファンを惹きつけてやまないブルーハーツをブルーハーツたらしめたものなのではないだろうか。

また、ブルハ以外にもたった一文で「おお…」と感心してしまうような言葉を使う有名人・アーティストは存在する。
みんなにも、それぞれ「この人のワードセンスすご…!」と思うような作家さんやアーティストがいることだろう。

・文章を書くこと

俺自身、仕事の合間に文章を書いたりしているわけだけど。

結論から言うと、文章を書くことは簡単だ。
もう少し正確に言うと「文章を書くことをはじめる」こと自体は簡単にできる。

イラストや音楽などと違い、特殊な技術を用いなくても義務教育の国語で習った程度の文法や書き方で、それなりに読める文章は書ける。
そういう意味で、文章を書くということは簡単だ。
始めるためのハードルがほかの芸術活動よりも比較的低い。

でも、だからこそ難しいとも思う。
世の中に文章で身を立てている小説家や記者、脚本家などが存在しているのは彼らが”大衆の書く文章とは一味違うもの”を書けるからに他ならない。

「音楽も絵も出来ないけど、文章くらいは書けます!」
これはずいぶん前から、そして今でもけっこう聞く言葉だ。
俺は別に文章で飯を食っているわけでもないし、自分の文章が唯一無二の異彩を放っているとも思っていないので怒るまではいかないが、それでも
「あー、こういう”消去法で文章セレクトするやつ”いるわー…」
くらいは思ってしまう。
「文章くらいは」という部分に本音が出ている。
本職の物書きの人が目の前で言われたら、
(ええ、あなたみたいに言う人はこれで100万人目ですね)
と呆れて相手にしないか、ガチで怒るかのどっちかだろう。

文章を書く、という事はナメられやすい。
文章で身を立てている(著名な小説家やコピーライター、脚本家など)人は別として、文章を書いている人はナメられがちだと個人的に思う。
理由の一つとして、漫画家はセリフやナレーションという文章を書くし、音楽家は歌詞という文章を書く能力を並行して持っている。
だから文章の専門家はそれらよりも低く見られがちだ。
イラストや音楽と違い、書くという行為には(クオリティを問わなければ)特殊な訓練が要らないため、
「なんだ、こんな文章なら俺でも書けらぁ」
「この文章で金もらってんのかよ、俺も物書きになっちゃおっかなー」

なんて事を無産オタクに言われがちだ。

それでも、俺は物書きの皆さんを尊敬している。
集めた語彙も、磨いたワードセンスも、一生モノのその人だけの武器だ。
俺には思いつかない言い回しや独特の比喩表現などを目にしたとき、
「うおおー!すげえなこの人、ちくしょう」
と嬉し悔しくなる感覚は、病みつきになる。

無料ブログやSNSなどで文章を書く場が広がった分、専業の物書きさん方は苦しい部分もあると思うけれど、頑張っていただきたい。

いい文章は、人生の大事な場面でふっと思い出されることがあるから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?