今考えていることを書き残しておこうと思う2

唐突だが、これから書くことは人によっては端から否定されてしまうような世界の話である。要するに、大体の日本人からはオカルトとかデタラメだとか言われる類のやつだ。

しかし、ソクラテスの言った「無知の知」のことを理解していれば、そんなことは到底出来まい。人はみな無知である。それを知っているか知っていないかの差が、これから書いていく内容に関する話題を端から否定するかしないかに関わってくるのだと思う。
知った上で正当な根拠や理由を以て否定するのとは、ワケが違うよね。

とはいえほとんどの人間は、理由もなくイメージだけで嫌悪感を抱くし、その感情だけで否定するのだけどね。あ、もちろん私も含め、です。なので別に誰かを否定したいわけじゃないんだが、少数派に対する認識ってそういう側面あるよねって話。
内容自体は、いつも通り私の考え方に関する日記的な感じが大きい。


前置きはまあここまでとして。
昨日、メタトロン測定を受けに都内某所へ訪れた。昨日、今日と時間を経るにつれて色々と思うところが増えてきたのでこれを書き残そうと思った。

メタトロンとは、Wikipediaによればユダヤ教の天使の一人であるという。
それに関連しているのかどうかは知らないが、
私が昨日受けたメタトロン測定の「メタトロン」に関してはまた別モノになるので、参考になりそうな引用を貼っておく。

メタトロンとは? メタトロンは、ロシア人科学者によって開発されたエントロピー測定機器です。 エントロピー測定は、世界先端クラスの技術と伝承医学の融合により、身体の中の振動(周波数)の乱れを測定するもの。 人間の発する周波数の波動と外部から発せられる波動を共鳴させることで病気や体調不良の原因を類推します。

引用元:

※ちなみに私が昨日測定を受けたのはここではない。


50分という時間制限付きで、中では一番簡易的な測定であったが9,900円と決して安くはない価格。
薄給のしがないOLが気軽にお試しで~のノリで払える金額ではないことは分かっていたが、自分自身の内面と向き合う過程で受けてみたい検査の類はたくさんあって、血液検査を行うようなタイプの検査だと、安くても三万円はかかる。これは遅延型アレルギーに関する検査のことだが、その他の検査に関しても恐らく数万円はくだらないものがほとんどだと思う。
それから比べれば、1万円程度であればさほど痛くはなかったのだ。
それに、量子力学について書かれた本や動画の内容をインプットしたばかりの私には、量子=波動の世界で行なう測定というものにとても興味があった。

行く前からある程度、これは簡易的なモノなんだろうということは理解した上で受けたつもりだった。
しかし、測定の過程は思った以上に淡々としていた。測定してくれた人の態度が悪いわけではなかったが、何だかよそよそしく機械的な作業を進めるように対応されているような感じがした。
測定中、メタトロンで測定して表示されていく様々な情報についての解釈が少なく思えた。というのも、表示を見れば私でもある程度分かるよってな具合のことをそのまま読み上げるに近い形で言うからであった。
帰り際も、そのあとの予定が詰まっていたのか何なのか、はいおしまいサヨウナラ!みたいな感にとても後味悪く感じながらその場を後にしたのだ。

特段嫌な感じを受けたわけではなかったので、後になって思えばという程度のことではあるが、それでも直後の時点で、あれは接客の態度としてちょっとどうなのよ、と、私が考える良い接客からはかけ離れていたことに対して悶々と考えていた。
それから時間が経つにつれ、測定結果について落ち着いて考えられる状態になるにつれ、そしてメタトロン測定についての情報を色々と検索するにつれて、「これは、失敗したかもしれない」感が増していった。

もちろん、気になっていた測定を受けられたこと自体は失敗ではない。
自分自身の体や精神に対して日頃から感じていたことの完全な裏付けとまではいかずとも、少なからずの答え合わせができたと思えたことは収穫だった。
アレルギー体質で鼻腔内や甲状腺に反応が出ていたり、精神的に敏感な部分があることも測定結果からは読み取れたので、測定器自体は本物だと思った。
測定士の方からは、下半身の血流に滞りがあるので体液の流れをよくすることが吉だと言われたので、今意識的にやっている仕事帰りのウォーキングは続けようと思えたし、東洋医学的な考え方の陰陽五行を知ることをおすすめされたのでこれも学ぼうと思えたし。(水、金のところになにやら反応があったということは分かったが、それが何なのかは全く分からずw)

サイトには分子栄養学や陰陽五行の観点から分析し、日常生活における対処法やアドバイスをすると書いてあったが、肝心なアドバイスの部分がかなり不足している印象だった。
それに、好ましい食事、鉱石、植物のほかに化学物質についての表示も見せてくれると書いてあったのに、一切触れられなかった。

後々、色々調べるにつれて、メタトロン測定器の定価は800万円ほどするということが分かった。驚愕。。そりゃあ、50分で1万円くらいしたっておかしくはない。というか妥当である。
しかし問題はそこではない気がした。50分で分かる!というような記載は全く腑に落ちないのだ。この時間内にもっと分かるように説明や解釈が欲しかった、と受けた人間が思うのだから、その表示は嘘になるのではないか。と。

測定後には、数値の芳しくなかった部位に対する波動調整を行ってもらえたので、これもひとつ収穫であったと思う。メタトロン測定器の価値とは、このチューニングのところにも大きな役割がある気がするし。ただし実感として体がどう調整されてどう良くなったかということはあまりよく分からなかった。
思い当たることと言えば、帰宅後に昏睡するように眠りに落ちて、起きた時に覚醒するようにすっきりとした感覚を覚えたことくらい。※これも、全体的に数値は悪くない、と言われたので私のここ1年ちょっとの食事改良が功を奏していた可能性も十分ある。しかし身体や測定結果の数値など状態の良し悪しに関する言明も特にされなかった。


今日になって他のメタトロン測定ができる場所のサイトのブログ記事などをいくつか見るうちに、この不足感について色々と考えてしまった結果、概ね満足ではあるものの何だかもやもやと腑に落ちない感が残ってしまった。

もちろんこれは私の知識不足、リサーチ不足が起こしたできごとであったと言わざるを得ないが、名称を「50分で簡易体験!メタトロン測定」にしてはどうかと思うくらいの簡素さであったと思うのが、正直なところなのだ。


なんて、ここまで不評ばかりを書いていたら、自分で気分が悪くなってきてしまったwww
ここで言う気分が悪いというのは「不機嫌」という意味ではなく、負のエネルギーを持つ良くないことを考えたり言ったりすると、途端にどんよりとした気持ちになってしまうということ。こういうところも、私の精神面の過敏さの証拠であるだろうなと思う。


なので、ここいらで別の解釈をしていきたいと思う。
自分の感じたことについて、解釈を改めていく作業に入る。

今まで書いてきたのは端的に言えば「1万円も払ったのに、それに見合ったサービスが受けられなかった!」であろう。(おいおいクレーマーかよやめてくれよ)(実際は白か黒か、でも100か0か、でもないのでこんな極端な話にはならないがw)

しかし、人生すべては学びである。(嗚呼、なんて陳腐)
これまでのたった30年に満たない人生の経験則の中で得た基準値から考えているからいけない。まずは、多くの人間が否定するような、未開で初到達の世界に足を踏み入れた自分の行動力を称賛しようじゃないか。

西洋医学こそが正当な医療で、それ以外はうんこだ!認めんぞ!科学的根拠を出せ!というような(これはただの偏見w)、日本の「一般常識」を持つ人々の多くが体験する事のないことを、自らの足で出向いて体験できたことは前向きに捉えていいだろう。

はじめてのことというのは大抵痛みを伴うものだ。
自転車に初めて乗るのも、恋愛だって、初めはそう上手くいくもんではない。物事というのは、はじめは苦い痛みを伴う経験をして、何度も繰り返して上手くなっていくものなのだ。若ければ若いほど、その経験不足故に痛みも強く感じる。
だから歳を重ねていくごとに、様々な経験をして酸いも甘いも知って、人間としての重厚さを増していけるのだと思う。(本来はそうなっていくことが望ましいが、年をとっても成長の感じられない未熟な人間も一定数いるので、みんなそうだという書き方はしない)


なぜ、私が昨日の測定について悶々とした感情や、不満を抱いたかと言えば、
まず測定前のリサーチでメタトロンに対する期待値がある程度上がってしまっていたからだといえる。そして私の脳みそはその期待値どおりの現実を期待した。

で、受けてみたら極端な言い方をすれば色々なところで期待外れの結果だった。落胆するまでは言わずとも納得できない感情になったということだ。

不満や憤りというのは、期待をすることで生まれる感情だと思う。
とはいっても、期待せずに全てのことを顕現するありのまま受け取るなんていう、文字通り天使や神様みたいな反応は私にはできないだろうと思うし、不満や憤りを覚えるからこそ進歩が生まれるのだとも思う。私に限った話ではなく、きっと人間誰しもがそうだろう。
だからこそ人には業があるとか言うし、その業が、そしてそれと対を成している徳の側面が、人間たる所以の一つでもあるんではないかと思う。

しかし、自分で発していて感じるように、負のエネルギーが増えすぎてしまうことは決していいことだとは思わない。
単純に、気持ちが悪いからだ。
それは苛立ちであったり、苦悶の悩みであったり、不定愁訴のような情緒不安定な状態を生み出したりする。こんな状態を抱えているときに、前向きで創造的な活動は決してできない。

もちろん行動の原動力として、「悔しさや怒りや憎悪をバネに」なんてこともあるだろうけれど、長続きはしないと思う。あまりに体力も精神力もすり減らし過ぎるし、周りも傷付けてしまう。


メタトロン測定に対する不満の話題から話が反れているように思われるかもしれないが、そうではない。
私が学びたいこと、理解したいことは「昨日受けた測定士のもとへは二度と行かない。望むようなアドバイスをもらえないし不快な思いをするから」なんていう単なる愚痴だとか、浅いところで終わる話ではない。
それを受けたときの自分の在り方であったり、今後益々好転させていきたい自身の健康や人生のすべてにおいてどうこの『痛み』を活かすのかということである。

感情的になることが悪いのではない。
それを感情だけで終わらせてしまうのが勿体ないのだ。
それは自分の人生観として、経験から学ぶべきだとか、生きるからには成長し自分なりの成功を納めたいという考えがあるからである。※成功というのは一般的な金持ちになるとか、女であれば玉の輿に乗るみたいなそういう話ではない。あくまで自分の中での成功であることがミソだ。

のらりくらり、何も考えず周りに合わせて生きられれば良いや、と思うのであれば、こんな小難しいことを考えたりはしまい。人と同じ考えや同じ選択をすることを好まないのは、こういうところにも見える気がした。


全く構成もへったくれもあったもんじゃない散文だが、このまま書き続けたい。

ふと思ったけれど、そもそもの話、高々一万円ごときで騒ぐなという話なのかもしれない。一円をバカにする奴は一円に泣く、だとか、一万円で何が買えると思ってるんだ!なんていう貧乏根性丸出しの言葉は今は要らないのだ。(生きる上で金は大事だという「事実」はさておいて、だ)
またもや概念的な話にはなるが、所詮金なんてものは紙切れに過ぎない。俗世の欲にまみれた穢れた物質だとも言える。

そう理解したときに私が考えるべきことは何か。前の記事にも書いたように、外側ではなく内側の在り方がすべてだということだ。

結局、昨日今日と私が抱えていたモヤモヤした気持ちは、誰がどうだったとか、料金はいくらでどんなサービス内容だったとか、他の場所に行っていればこんな気分にならずに済んだかもしれないとか、外側の現象ばかりに左右されている。

その前の日なんては、昔好きだった男からの食事の誘いに対する、内心の押し問答である。
会えば楽しいことは知っているが、同時に結果的に彼は自分やあの子を傷付けるし必ず不快な思いをすることになるから会いたくないだなんて、思っていた。私はどんな魔法使いだろうか。予言者でも気取ってるのだろうか。
あの時傷ついたのも、彼がクソ野郎だと思ったことも、すべて私の内面が顕現させたに過ぎない現実であって、相手が客観的事実としてどう在るかや何を言ったかしたかが重要なのではないのだ。

自分の内面が全ての現実を顕現させているということ、それが真理だと頭では分かっても、まだまだ腹に落とし込めるレベルまでには程遠いと感じる。

大袈裟に言ってしまえば、私はあらゆる事象に対して、ずっと自分以外の誰かや何かのせいにして生きてきた。それを体で覚え込んでしまっているのだから、そう簡単には変われまい。この捉え方をし続ける限り、私はラットレースから抜け出すことはできないだろう。
↑なんて、言ってる側からもう囚われてしまっているのに気づいて笑ったw

こんな風に、今の現実から想像できることを、変えようのない決まりきった未来かのように思えてしまうことが、もう罠にハマっているんだろうなと思う。

そして抜け出したいと願い、そのための方法を考えてしまう。まずどうやるか?を考えるのは外側に囚われた結果のことであろう。しかし、スイッチのオンオフを切り替えるにも外側の動きが必ず必要になってくる。
はて、顕現する現実を変えるには……

違うな、変えようという考えこそが外側に囚われている証拠だ。スイッチのオンオフの動作は、何も私がやる必要はないわけだ。
内側の在り方を考えた先で、自分はどう存在しているのか。これを明確にイメージできている必要があるのではないか。
いや、どうだろう。イメージするという動作自体が、外側にフォーカスしてはいないか……

あかん難しすぎる。今日はこの辺にしとこう。

こんなことを考えているのは、結果として自分が理想とする在り方や人生を実現したいからであるが、この時点で今ここまで書いてきた考え方との矛盾が生じてしまう。行き詰まりだ。

継続して学びとアウトプットが必要。本に書いてある知識だけでは前には進めない。思考実験もしないとならない。

今分かっていることは、メタトロン測定も、某彼からの連絡も、良い人生の学びになっているということ。いくら金がかかったとか、どれだけ時間を費やしたかなんてそんなことは、全く考えるに値しないことだということ。

いつでも本質は何かを考えよう。
その先に究極的な答えはきっと見つけられないけれど、限りなく答えに近いものはわかると思う。少なくともぼんやりと何も考えずに生きるよりは随分良いと思う。

わ、6000文字も書いてらぁ。草草の草。
おわり。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?