『毒になる親』を読んだら、親と仲良くしようと思った話
最近Amazonの読み放題を利用している。その中に『毒になる親』があった。
いわゆる「毒親」の名付け元となった本である、という知識はあったが読んだ事はなかった。創作のネタになるだろうと思って読んでみることにした。
感想の結論から書いてしまえば、この本は「毒親」に苦しめられている禍中にある人ではなく、何となく親にモヤモヤをかかえている人が、これから親になる、もしくは子どもにたずさわる人が覚悟完了するための本だ。
もちろん、この本を読むことで「私の親は毒親だった」と気付くきっかけにはなるかもしれない。けれど読んだだけで毒親との関係が解決するわけではない。著者も本の中で書いている通り、毒親との関係を解決するにはまず専門家によるカウンセリングを受けるべきだ。
そしてこのnoteも同じで、渦中の人の心が晴れるようなことが書かれているとは限らない。場合によっては傷つけてしまうかもしれない。なぜなら私の両親や家族は「毒になる」とは言えないからだ。
そりゃ家族なので毎日顔を合わせていればイラッとしたり、ケンカすることもある。でも親子で文句を言い合える関係を築いているのなら、たぶんそれはいたってフツーの親子関係の範疇だ。
「毒になる親」に育てられた子どもは、親に口答えすることもできないのだから。幸いにも私の両親には私は反対意見を言える。
完璧な人間が存在しないのだから、完璧な親だってきっと存在しない。だからきっと、誰もが自分の親に対しては多少なりともモヤモヤを抱えている。
そして私はこの本を読んで「ああ、私の親はフツーの親だったのだな」と再確認するに至ったのだ。
だからこのnoteは、フツーの両親の元で育ったフツーの人間が『毒になる親』を読ん感想を伺故綴っているという前提で読んで欲しい。
と、前置きが長くなってしまったが、この本を読んでいくつか心に残っている文章がある。その一つがこれだ
これをいまだに、もぐもぐと咀嚼している。親を敬えと言うのはたしかにほとんどの宗教・文化にある教えだ。
私は幸いにも、毒にならない親の元に生まれた。けれど、それでも幼い頃は親から教わる全てが正しく、親は神の如き存在だった。まあ、親が全て絶体ではないことがだんだん分かって来た頃が反抗期というものなのだろう。
何故、親は神の如き全能があると、人類は錯覚しているのだろう。いや、これは人間だけでなく、子育てする生き物全てにある感覚なのかもしれない。まだまだ咀嚼中なのでうまく言葉がまとまらないけれど。
あと、おもしろいと思ったのが、この作者がキリスト教圏だからだろうか。神の如くふるまい、子どもを支配する親の「全能感」を、「ギリシャ神話のゼウスのような」と言っているのだ。
でもゼウスにとって人間は「我が子」ではない。偉大な我らが父と言われるのは、どちらかというと、(少なくとも私は)キリスト教の神だと思う。けれど、我らが父は人間を支配しない。子どもたちを支配する親に例えることは不適切だ。そこらへんのキリスト教圏的な大人の事情が見え隠れするのがおもしろい。
こういう心理的な本を話む時、気をつけなければいけないのは、著者との文化の違いだ。文化・価値観が違うので、全てを日本人にあてはめることはできない部分があると、留意しておくべきだとは思う。
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