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音楽は消えない

夕方なのか,夜なのか,どっちともつかないような時間だった。
広くもなく狭くもない川の土手の出来事だった。
どこに向かっていたのか,
私は徒歩なのに,なぜ彼は原付バイクを押していたのか,
私たちは一体何を話していたのか,今となっては全然覚えていない。

彼が「ちょっと乗ってみる?」と言った。
「えー,乗れるかな?」と私は言いながら,彼の原付バイクに跨った。
彼は,鍵を回して,原付バイクのエンジンをかけて,ハンドルを握る。
さっきまで感じていた原付バイク自体の重さ,私を進行方向に運ぶ力に変わった。
そのパワーの切り替えに,心が追いつかず,慌てている私に向かって,
走って追いついてきた彼の「意外と力強いでしょ?」という言葉が,

私の脳裏から消えない。

その時,どんな顔をしていたかは覚えていないくせに、被せてくれたヘルメットの彼の匂いは覚えている。


でも,その恋は,ありがちなパターンで幕を閉じた。
私は,交際1ヶ月目で言われた「結婚しよう」を信じて,このまま結婚するんだろうな,とか純粋に思っていたのに,ある日「好きな人ができた」と彼は私に言い放った。
しかし,「はい,そうですか」となれなかった私は,まだ,「好きな人ができた」段階なら,彼の心を取り戻せるんじゃないか,と,あらゆる作戦を試していた。その期間,およそ2ヶ月。

彼の好きなアーティストのライブに誘ったり,彼の好きなアーティストの髪型を真似してみたり,今思うと,滑稽すぎて仕方ないけれど,私は,彼の心が私に向けば,彼を取り戻せると本気で思っていた。

「恋人ができた」と彼が言って,彼の心取り戻す作戦は完敗だった。
この関係は本当に終わった。
「好きな人ができた」で振られた女に,彼の新しい恋人から彼を奪え返すほどの力がないことは,恋愛経験の少ない私でもさすがに理解していた。そして,「心を繋ぎとめておけない」ことが,どれほど残酷であるかも,経験を通して学ぶことができた。
そんな大層なエネルギーを費やすほどの男じゃなかった,と思った方が,自分のプライドは守れる。

そのあとは,彼を忘れるための時間に費やした。
「短い方が似合うね」と彼が言った髪も,すでにショートヘアだったし,もう切るところがないくらい短くなっていた。
失恋したのに,切る髪がないなんて,なんてこった,と思っていた。

そして,私は,彼の面影をものすごい引きずりながら,「それでもいいよ」と言ってくれる人を見つけようと,作戦を変更したのだった。



すったもんだあったけれど,数年後,私は、結婚式をすることになった。
「他に好きな人ができた」なんて言う気配さえ全くない人と,だ。

結婚式のBGMを新郎と選んでいた。
入場前,入場,主賓挨拶,友人挨拶,ケーキ入刀,中座,再入場,歓談,退場…

新郎の前では,顔には出さなかった。
まさか,ここで元彼の好きなアーティストの曲が候補に出てくるとは。

そのアーティストが俳優と結婚するというニュースを見て,悲しみを抱えきれなくなった元彼が大学を休もうとした時の記憶が蘇ってきた。心の奥深くにうまく仕舞うことができていたはずの傷がちょっとだけ疼いた気がした。

そのアーティストは,正直なところ,元彼が好きでなければ,私は好きにならなかったと思う。
私と付き合う前に貸してくれたそのアーティストのCDに彼の手紙が入っていなければ,好きにならなかったと思う。

好きな人が好きな人を好きになるというのは,なんか自分を持っていないみたいで嫌だな,と思っていた時期もあった。
今は,その人のことを好きになってしまったら,その人が好きな人や物を好きになるというのは,同じ時間を過ごしていれば,当然の流れだ,と思う。
好きな人や物がどうしても合わないとか,どうしてもどちらかの我慢を強いるなら,同じ時間を過ごし続けることは難しいだろう。

だから,私は,好きな人の好きなアーティストを好きになったし,元彼と別れた後,一時的には聞かなくなったけど,そのアーティストの曲はふとした時に聞いていたりする。

私の結婚式のBGM選びで,元彼の記憶が脳裏をかすめるなんて,と,複雑な気持ちになりながらも,結婚式準備は進んでいった。

「ねぇ,私,結婚するんだ」
夕方なのか,夜なのかわからない時間に,土手を歩きながら,呟いた。

勇気を出して,送ったメールには返信はない。
君の世界から,君は私の記憶を消したんだろう。

私の世界から、君の愛した音楽は消えないのに。

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