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ギャップ以外で幸せを感じることはできるのか?

どうやったら幸せになれるか。
それは現代を生きる人たちのすべての人が考える共通命題であると思います。
働いたり、遊んだり。本屋さんやYoutubeにもどうやったら幸せになれるかというハウツーが並んでいて、同じような内容でも、どれもそこそこ売れています。
みんな様々な形で幸せを探しているんですね。

どうやったら幸せになれるかの解

どうやったら幸せになれるか。
その問いに対する有力な解の一つに“不幸を感じる”というのがあります。

苦しい練習を耐え抜いたからこそ、試合に勝った喜びを感じた。
身を粉にして働いたからこそ、たくさんのお金と名声を手に入れることができた。
貧しい生活をしてきたからこそ、お金のありがたみが感じられる。

上記の例の前者すべてを“不幸”、後者を“幸せ”と表現するか否かという点に関してはもちろん議論の余地があるとは思いますが、私がここで伝えたかったのは、苦しい。苦い。辛い。そんな体験があるからこそ、時系列でみると、幸せなことが起きた時、相対的に多くの幸せを感じることができるということです。

僕の腹痛

僕自身もこの、不幸があったからこそ感じる幸せというのは、大いに体感しています。

僕にとっての不幸。辛いこと。それは腹痛です。

これは小学生のころから今でもずっと。
病院に行っても、毎年MRIなどの定期健診でも全く異常がないのですが、不定期でとてつもない腹痛が僕を襲うのです。
腹をグーパンチされ続けているような、締め付けるような痛さ。ひどい時には吐き気を伴ったり、もっと酷い時はあまりの痛さで意識が飛ぶこともあります。

この腹痛にはこれまで散々悩まされてきました。
学校生活での授業中。部活中。久しぶりの休日。彼女との旅行中。

しかも、急に来るのがこれまた厄介。「さっきまであんなに元気にしてたのに。」と思われる。半日くらい痛みが続くこともあって、まじで死にそうってなります。

ただ、僕はこの腹痛のおかげで、幸せを感じることができています。

僕は、何気ない日常でも幸せに思うことが多い。楽しくいられることが多い。それは、腹痛の時と比べて、ただ腹痛がなく、普通にいられるだけでありがたいと思えるから。

腹痛で身動きが取れなくなった時、心配してくれる家族。友達。恋人。
その瞬間に彼らの愛を感じることができるから。

この腹痛は、僕に幸せを与えてくれるし、優しい自分にさせてくれる。
僕を僕にしてくれる存在です。

でも…

でも。
でもです。
そうはいってもない方がいい。
腹痛がない日々の方がよっぽど幸せだし、あってほしいとは全く思わない。
もう二度と腹痛が来ないでほしい。

だって死ぬほど痛いから。苦しいから。

不幸せがない方が、幸せであれる。
苦しいことはできるだけ少なくしたい。

だから僕のテーマは「余計なストレスを少なくする」。
(結局腹痛が僕のテーマの形成要因にもなっている)

“余計なストレス”というのはここまで述べてきた不幸せと同意。
心地よいと思えるストレスは良いし、ある程度のストレスは逆に幸せを呼び込むという研究結果があるけど、余計なストレスはいらない少ない方がいい。

ゆとり過ぎる考え方でしょうか。
楽しいだけの人生ってないのでしょうか。
幸せであり続けることはできないのでしょうか。
例え不幸に出会ったとしても、少しでも和らげることはできないのでしょうか。

そんなことを考えながら、解くことが可能か不可能かわからないような課題に対して、教育・学びという仮説を持ちながら毎日を過ごしています。

教育・学びによって少しでも余計なストレスを少なくした道を選べるようになるのではないか。
教育・学びによって、同じ事象に対しても余計なストレスを少なくするとらえ方ができるようになるのではないか。
教育・学びによって不幸せのない幸せが描けるのではないか。

もし教育・学びによって不幸せのない幸せが描けるのであれば、まずは自分自身がその姿を模索してみよう。
腹痛に見舞われ、研修の内容が途中から全く頭に入らず、その後の予定も総崩れしてしまった日の深夜の呟きでした。
(今日は無理に教育の話にしなくてもいいって思ってたのに、結局教育の話になっちゃった。)

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