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ヨルシカの呪いと祈り


ヨルシカのことは前から知ってたけど、正直、最初に「おおっ!」と鳥肌が立ったのは「木箱」を手にとった時のことだった。

「木箱」というのは、今年4月にリリースされたヨルシカの1stフルアルバム『だから僕は音楽を辞めた』の初回盤のこと。パッケージの封を開けると、そこには何も書かれていない箱がある。フタを開けると、一番上には「エルマに」と書かれた紙が入っている。

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で、その先には何枚もの手紙と写真が入っている。そのうちの1枚には、かすれかけた青いインクで、こう書かれている。

エルマ、この箱に入れた詩と曲は全て君のものだから、自由にしてくれて良い。きっと僕にはもう必要ない。

その中には「藍二乗」や「八月、某、月明かり」など収録曲の歌詞が、やはり手紙と同じ青いインクと手書きの筆跡で書かれたものもある。

で、木箱の一番下にCDが入っている。

アルバムの初回盤は【「エルマへ向けた手紙」再現BOX仕様】と説明されている。つまりこれ、音楽との「出会い方」が丁寧に設計されているのだ

リスナーは、このパッケージを手にとることで、エルマが手紙を受け取って読み始めた瞬間を追体験することができる。

『だから僕は音楽を辞めた』というアルバムは、コンセプチュアルな作品だ。音楽を辞める決意をした主人公の「青年」が、スウェーデンを旅しながら、その大切な人であるエルマにあてて綴った手紙と詩が曲になっている。全14曲がストーリー性を持っていて、そのパッケージ自体が物語の中に入り込むための一つのチケットになっている。

今年8月には、その続編となる2ndフルアルバム『エルマ』がリリースされた。こちらの初回盤は【エルマが書いた日記帳仕様】。封を開けると、黒いゴムバンドでくくられた茶色い表紙の日記帳があらわれる。

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ページを開くと、最初の1行にはこんな風に書いてある。

作品の中にこそ神様は宿る。それが彼の口癖だった。

最初の日付は3月14日。日記には「青年」エイミーの足跡を辿ってスウェーデンを旅するエルマが見たもの、感じたこと、考えたことが綴られていく。その合間のページに「憂一乗」や「雨とカプチーノ」などの詩が、同じ筆跡で書かれている。そして日記帳の最後のページに、写真とCDが挟み込まれている。

つまり、ヨルシカはこの作品で「配信で聴くことが当たり前になった時代だからこそ、それでも、CDを買う意味」というものを、明確に示しているわけだ。

ヨルシカの音楽を聴くということは映画を見たり小説を読んだりするのと同じような「物語を追体験する」という行為で、そのために、メディアを横断したいろんな導線が用意されている。もちろん、YouTubeに公開されているMVがあって、サブスクリプションのストリーミングサービスがあって、その先に「木箱」や「日記帳」がある。ただ歌を聴くだけでもいいけど、その先に謎や仕掛けが沢山用意されている。

『エルマ』のラストには「ノーチラス」という曲が収録されている。エイミーとエルマが辿った旅の終着点を描いた曲。ちなみに、コンポーザーのn-bunaがヨルシカを結成してから最初に書いたという、コンセプトのはじまりの曲でもある。このMVを観れば、エイミーとエルマの二人に何が起こったのかは、だいたい推察することができると思う。

そして、このMVの中に登場する手紙や写真と同じものが、実際に「木箱」の中にある。手紙や日記帳に書かれたものを解きほぐしていくことで、エイミーが何を思っていたのか、エルマが出来事をどう受け止めたのかを、探ることができる。

そういう体験として、ヨルシカの音楽は設計されている。

さらに言えば、「ノーチラス」の歌詞の中に出てくる一節「夏草が邪魔をする」がヨルシカの1stミニアルバムのタイトルだったり、その収録曲「雲と幽霊」と「言って。」が、それぞれ「幽霊になった僕」と「君が逝ったことに気付いている私」を主人公にしている対になった曲だったり、これまでに発表してきた全ての作品ともリンクするようなポイントもある。

もちろん、優れた文学作品や映画と同じように、解釈や考察は自由に開かれている。なので何が正解かは受け取った人が決めればいいと思う。重要なのは、そうできるだけの強度が作品に内在しているということ。

で、ここからがもうひとつのポイント。

『だから僕は音楽を辞めた』と『エルマ』はとても深い物語性を持った作品だと思うのだけれど、その「深さ」は何によってもたらされているのか。

端的に言うと、音楽でも映画でも、作品に深みと強度をもたらすのは「引用」の手さばきだ。

その作品の背後に何があるのか。何に影響を受け、それをどう咀嚼したものなのか。優れた作品には、ちゃんとそのヒントとなるものが忍ばされている。先行する作品のどの要素が元ネタとして取り入れているのかが示されている。

一言でいうと、それが「オマージュ」ということになる。

エイミーとエルマの物語にも、沢山の引用が散りばめられている。ヘンリー・ダーガーや、萩原朔太郎や、松尾芭蕉や、様々な芸術家の名前も出てくる。

なかでも最も重要な引用は、「木箱」に収められた手紙にある、19世紀末の詩人/劇作家、オスカー・ワイルドの『嘘の衰退』からとられた

人生が芸術を模倣する

という一節だろう。

これはつまり、自然や社会や人生を模倣する形で芸術が作られるのではなく、むしろ芸術に人生を変えてしまうほどの力が宿っている、という意味。

このオスカー・ワイルドの言葉は、作品全体のコンセプトの骨組み自体にもなっている。

すぐれたアートは、人生を変えてしまう力を持つ。

それが『だから僕は音楽を辞めた』と『エルマ』の2作で描かれているモチーフだ。

ただし、それは時に、いわゆる「呪い」としての効力も持つ。

アートは、「役に立つか、立たないか」とか「売れるか、売れないか」とか、そういう基準で価値を測ることはできない。オークションでいくらの値がつくかとか、どのキュレーターが評価したかとか、そういうのは基本的には投資と経済にまつわる話。

そうではなく、携わった人や体験した人に「それまでなかった視点」を提供することで、物事の見え方を変えてしまう。その人にとっての「世界」が、昨日とまるで違うものになってしまう。

『だから僕は音楽を辞めた』はそういう芸術の純粋さに殉じようとする青年の煩悶のストーリーでもある。

そういうアートの持つ本質的な力、その危険さも、ヨルシカの作品の中には暗示されている。

ただ、そこには、もうひとつの「祈り」もある。

エイミーの手紙を受け取ったエルマは、敬愛するエイミーの表現を「模倣する」ことから表現を始める。彼の足取りを追うその旅は、やがて、自分自身の創作のスタートラインへと辿り着く。

そうして、物語の円環は閉じる。

そこまで踏まえた上で、最初に書いたパッケージの話が活きてくるのだ。

「リスナーは、このパッケージを手にとることで、エルマが手紙を受け取って読み始めた瞬間を追体験することができる」

すなわち。

人生が芸術を模倣する

というオスカー・ワイルドの言葉は、何重もの入れ子構造の仕掛けになって作品を構成しているわけだ。パッケージを通して、虚構が現実に染み出している。

きっと、すでにヨルシカのアルバムを聴いて、触発されて、音楽や小説や絵や、何らかの表現衝動に突き動かされたリスナーがいると思う。

そういうことまで考えると、『だから僕は音楽を辞めた』『エルマ』という2枚の作品は、すごく射程範囲の広い作品だなあ、と思う。

(上記はヨルシカのLINE MUSICアーティストアカウントへのリンクです)

この文章は、LINE MUSIC×note の「 #いまから推しのアーティスト語らせて 」コンテストの参考作品として書いたものです。
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