『高安国世アンソロジー』よりー幼子を詠んだ歌と情景を詠んだ歌(p.5-118)
「Vorfrühling」(1951)、「年輪」(1952)、「夜の靑葉に」(1955)、「砂の上の卓」(1957)、「北極飛行」(1960)、「街上」(1962)の中から、自身の子を詠んだ歌と情景を詠んだ歌を紹介します。
どちらも長男のことを詠んでいる。
一首目は長男が生まれたばかりのころのもので、幼子が朝早く目覚めていることや木の葉が風に吹かれて揺れているのを見て笑っていることが、作者にとっては、幼子自身が生まれてきたことを喜び、祝福しているような瞬間に映ったのかなと思った。すごくいい一首だなと心に響いた。
二首目は、その長男が急逝した夜のものと思われるが、「荒れし疊(たたみ)」が何とも切ない。その子が確かにそこにいた証拠が畳に残っていて、そこに座ることのつらさがしんみりと伝わってくる。
次に紹介するのは聴覚障害をもった三男を詠んだもの。
この歌の前後の歌から、三男が展覧会に展示された自身の絵の前に作者を連れていく場面とわかる。幼子がはしゃいだりせず、「しづかなる表情」であったことが作者の胸に迫ったのだろうなと想像した。
こちらの歌は次男か三男かどちらを詠んだものかははっきりしないが、いずれにしてもほほえましい。障害で物を言えないのかもしれないが、思春期で物が言えないということもある。けれども気持ちが頬に出てしまう。それを作者は見逃さなかった。
この歌に並んでいるのが次の歌。
私はこの歌がとても好き。葉を落とした冬木の枝に枝の影がかかっているのを見て、「冬木みずからに交わせる対話」ととらえている感性が素敵だと思った。
冬木の枝どうしが影を介して対話している。一つ前の歌の「物言えぬ少年」へ向けたものでもあるのかなとも思った。自らの中に影が生まれたらその影と対話したらいいんだよ、とそっと教えているような気がした。
もう一首、影を詠んだもので好きな歌がある。
この歌を読んでいるとやさしくおだやかな気持ちが広がってくる。作者は樹の影や葉の揺れに安らぎを感じていたのかなと想像し、こうした情景に心がふっと軽くなるというか安心する瞬間はあるなと思う。それを歌にするのは難しいのに、こんなにさらりと詠っているところがすごいと思う。
情景を詠んだ歌を最後に二首。
何気ない情景に美しさを見出している。「ふたたび淡く」や「梢梢」の響きがいい。「梢梢」と繰り返すことで雪が積もってゆく梢があちらこちらに広がっていくようである。
この歌の前後から飛行機の窓から見下ろした情景を詠んだものと思われるが、その情報がなくても、この一首は天から地を見ている面白さと「くれないに流るる雲」の美しさを味わえると思う。
今回はここまでです。『高安国世アンソロジー』について、また続きを書きます。
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