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愛でるための手法が、まさかの「嫌い」

自分を愛でるとか、自分を大切にするとか、自分を満たすとか、、
そのためには何か自分が嬉しいことをするんだなと思っていた。

「思っていた」という表現をしたからといって、
今そう思ってないとかではない!(ややこしい!)

最近いろいろ考えていく中で気づいたのは
嫌いなものを嫌いだと認識することもそれの手段になるのでは
ということ。

周囲の目を気にせずに自分の想いに正直になれること、つまり
「自分に嘘をつかないこと」が「自分を愛でる」とかに繋がるんじゃないかって思った。

普通にできている人からしたら(嫌いは嫌いなんだと言える人にとっては)
なにそれ当たり前じゃんっていうツッコミしか出ないと思う。

だけど自分自身の感情が分からない人には、コレ、伝わるんじゃないかな。
自分の感情に流されないように事実を客観的に見つめることに、もはや義務や正義を見出していた人は、多分、自分の主観で「嫌い」という感情を認識しないようにしてきたんじゃないかな。

ああ、今まで蓋をしてきた分、どうしようもなく臭い。

それなのにこれを蹴り飛ばして崖から突き落とすことができないのはなんでなんだろう。認識できたフェーズにいる分、もう不要なことは明白なのに。

確実に前に進んでいるとはいえ、まだまだ問題が全て消えたわけじゃない。
でもこれを肯定的に受け止められる考え方をこの前知ったので最後はポジティブに終わる。

こうなりたいとイメージを膨らませる。
すぐにその通りにはならない。時差がある。
時差を認識できずに諦めてしまうと、
叶い始めていたものがまた元通りになる。
そしてその時差により遅延が生じたら
利子として、もっとドラマチックに叶う。

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