ダンテ「神曲」煉獄編

・煉獄について
 煉獄は地獄と天国の中間に現れ、その山は南半球上の地表から突きだし、頂上は地上のエルサレムの正反対側に位置する。また門と2つの河がある。地獄とは違い、時間が流れていて天を見上げることが出来、植物など生き物の姿をみることも可能になる。
煉獄は、天国の幸福に入るにはまだ浄化の必要がある人々の状態であり、まだ地球上で巡礼者である忠実な人々は、彼らに祈りを捧げることによって、魂を煉獄から助けることができる。煉獄で滅却すべきものとして、7つの罪(高慢、吝嗇、邪淫、嫉妬、暴食、憤怒、怠惰)がある。
カトリック教会の解説書『カトリック教会のカテキズム』に煉獄の記載がある。正教会は、キリスト教協会の東西分裂以後に生まれた煉獄の存在を公式に認めていない。プロテスタントなどキリスト教の他の教派では、聖書正典としての疑義を理由として、煉獄の存在を公式には認めていない。


・悪魔についてあなたの考えるところを自由に論ぜよ。

前提
悪魔は本質として天使と同じく、理性や知性、スピリチュアルな自由意思を持ち、神の力の中にいる。天使と違い、神の意志に背いて悪の方を向き、人間を神から引き離そうとする。人間が悪魔の指さす方向に行動するかは、その自由意思に委ねられる。

私への当てはめ
 悪魔に同意して行動することがあります。保育園のときに、万引きをした記憶があります。ボタン電池だったと思います。単純に、欲しい、ドキドキしたい、という動機だったような気がします。小学生の時には、友達と組んでお菓子などを万引きしていました。この時は、友達と事前に作戦を立てるのが楽しかったのだと思います。また朝6時に起きて、父親のズボンのポケットから小銭を抜き出してから、自動販売機でカロリーメイトを買って、食べながら学校に行くのが日常となっていた時期がありました。これは、不仲な親に対する反抗、3人兄弟で一人っ子が羨ましくて家が面白くない、学校の先生が厳しい、など原因が色々あったような気がします。
どちらかというと、行動した後に、悪魔の指向に同意していたなと思うことが多いような感覚があります。
二十歳を過ぎてからは、反動か分かりませんが、不自然なほど潔癖になっていったように思います。お金は貰わない、あげない、貸さない、借りない(奨学金は借りていました。)。物も同じです。信用できない人とは今まで友達であっても絶縁する。その結果、どんどん孤独になっていきました。
 社会人として経験を重ね、結婚して子どもを持ってから悪魔の指向も変わってきたように思います。仕事でいえば、約束を破られることはある程度普通のことになってきました。特に最初に強く信用させるようなことを言う人と離れることが良くあります。結局お金と労力を持っていかれ、その人(会社)を取引先の中心としていたので、仕事も1から始めることになります。そのような時は内心、死ねばいいのに、殺したい、と思うことも多いです。自分1人の利益を求めたわけではなかったつもりだったのですが、よくよく考えてみると悪魔の指向に同意していたのかなと感じます。また、お金(物)をあげたり貰ったりすることは行うようになりました。貸し借りはないままです。

今後の考え方
 神の力(私の場合は、先祖やお天道様、自然物とします。)は時代毎に変わっていくものだと考えます。よって神の力の下にある悪魔も変化するものだと考えるなら、私の過去の行動や現在の状態も、死をスタート地点として観ると変わってくる可能性もあると思います。

・同郷者の共同体とナショナリズムの関係について説明せよ

 ナショナリズムとは、第1義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する1つの政治的原理である(アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』P1、2000年 岩波書店)。同郷者の共同体とは、生れ育った土地(その範囲には流動性がある。)を同じくして、感情的、つながりを基盤とする人間の共同生活の様式である(『広辞苑5版』岩波書店)。同郷者の共同体が、民族的な単位として機能することを始めたとき、同時に、又は遅れて政治的な単位としての機能を主張し得る。

・ 「刃のこぼれた切先の欠けた剣」は何をアナロジーしているか
 剣は一般的に、刀身と同じ強度か、それ以上の強度の物体の衝撃が加われば、刃こぼれや切先が欠ける〔http://samurai-sword7.com/basis/entry32.html〕、〔https://en.wikipedia.org/wiki/Longsword〕。このような剣を持ち、相手に見せているということは、先に相手を斬り付けることが目的ではなく、相手が攻撃してきた場合に、盾として自らを守る、または相手や相手の武器にぶつけることで自らを守ることを目的とする。防衛省のサイトは、相手に刃のこぼれた切先の欠けた剣を相手に見せているといえる。
〔https://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/seisaku/kihon03.html〕

・ユダヤ教の移動する神について
 ユダヤ教は、中東における組織化された宗教としてのルーツを持つ。ユダヤ教の神(YHWH、ヤハウェ)は、神が作った人々との関係から成り立つ。人々の関係性が変化する度、律法、愛、親切として現れる。モーセが人々を引き連れてエジプトから逃れてエルサレムに逃れたため、神も共にエジプトから脱出し、エルサレムに移動することが出来ると考える必要があった。

・第十二歌におけるエバの役割について
 エバは善悪の知識の木の果実(欲望)を食べた女を意味する。第12歌におけるエバは、神のようになりたいと思った高慢な女であり、男をそそのかした。エバを登場させることで、ダンテは煉獄の高慢の罪に科されている人々に対して、これまでの行動を直視出来るのか、と天国への道を閉ざすような皮肉を言うことが出来る。小学校の野球部の指導者が、野球のイチロー選手を話に出して、もう練習終わりか?だから試合でも打てないんだ、と小学生に怒ることにに似ている。

・第13歌に出てくる、人びとの瞼が針金で縫い付けられている理由について。

 第13歌の煉獄第2の圏に留まる人々は、嫉妬羨望の罪に科されている。瞼を針金で縫い付けると、視ることが出来ない。視ることが出来なければ、これ以上嫉妬羨望を抱くことはなく、罪を浄めることが出来る可能性があるという考えに基づいている。
耳や口を塞がないのは何故なのだろうか、視覚から得る情報が多いからだろうかと感じました。嫉妬羨望は私自身も含めて多くの人が多少持つことがあると思います。他人を再起不能なほど攻撃したり、結果的に自分を追いつめてしまうことがないようなバランスの問題だと考えます。

・ダンテはなぜ身体の右側を軸としたのか。
 右(right、正しい)側を軸にすることで、誤った方向に向かわないことが出来る。右は真っすぐだから正しい。正しいから権利となり得る。また自由、秩序が生まれ得る。良し悪しを措いて迷いがなくなる。旧約聖書の右手、新約聖書の右の座などの記載。
 朝、マスクをしながら登校する小学生を車から見かけます。野外で、この暑さの中でマスクをするのが正しいと決めてしまうと、ちょっと見当違いになることもあるので、振り返りと違うと思ったら変えることも必要だと考えます。

・(第15歌より)二つの傷について
二つの傷とは、ダンテの額に刻まれた七つのPの字の二つ、高慢と嫉妬・羨望の罪のこと。第15歌(P211)では、嫉妬・羨望の罪のPの字が消えた。もう一つの高慢の罪によるPの字は、第12歌(P178)で消えた。
高慢の罪は、顔を下を向ける(P154)ことで浄化された。嫉妬・羨望の罪は、体を右側に軸として(P178)、前へ進まず右へ寄った(P201)ことで浄められた。
 二つの罪とも、腰が曲がっていたり、瞼が縫われていたり、身体を使って視覚的に現わされていることに特徴があると感じました。
 私は高慢も嫉妬・羨望の感情も持つことがありますが、その感情をどのように体現するのかは考える必要があると思いました。批判するのか、別の方向に昇華させるのか、時間が経つのを待つのか、自分が負の方向に行かないような回避の方法をいくつか持っておきたいと思います。

・ダンテは世俗の権力と教会の権力との関係について、どのように考えるているか。
マルコに言わせている。P229「ローマ教会は、〔世俗と宗教の〕二権力を掌中に握ろうとしたから、泥沼に落ち、自分も汚し、積荷も汚してしまったのだ」。
教会が都市の商人と結びついて権力を伸ばしていき、自身も巻き込まれた被害者であるとして、嫌悪を感じている。
ダンテは、世俗の権力として教会に対抗するために、神曲の所々に異なる価値(正義)を示していると感じます(P80「二人はソルデルロに会う。この吟遊詩人が同郷の人ウェルギリウスに示す愛情がきっかけとなって、ダンテは互いに愛反目するイタリアの乱状を嘆き(略)」など)。
負け惜しみ、愚痴になりそうな心情を、詩編としてまとめたところがダンテの特徴だと感じました。

・ ユーモアについて

 ユーモア(Humor)の語源はフモーレス(Humoresラテン語で体液の意)で、生きていくたのめ社会的行為である。相手の期待や予測とのズレによる驚き・緊張と同時に、それが深刻な事態ではないという共通理解により成り立つ潤滑油の役割を果たす。また、人にとってあまり良くない事態が起きた場合に、その事態から距離を置いて客観的に観ることが出来る機能を持つ。ズレを認識するためには、ズレではないもの、こと(常識と呼ばれるようなもの)をお互いに共有している必要がある。
文化的背景が異なる人同士の間では、普遍的なユーモアが共有される。文化的背景が一定程度共通の人同士の間では、内輪でのみ通じるユーモアが共有される。3名以上いる場合で1人の文化的背景が異なるとき、疎外感を生む可能性がある。

・p240「自然的な愛は決して誤ることはない」とはどういうことか。

 ダンテは、愛を自然的愛と意識的愛の2種類設定している。自然的愛は、人間を介さず宇宙の中に自然に備わる愛のことである。意識的愛は、人間の自由意思による精神的な愛であって、道を外れて悪に向かうと、隣人の不幸を招く。
「ニューヨーク(CNN) ローマ教皇フランシスコはこのほど発表した回勅「フラテッリ・トゥッティ」の中で、新型コロナウイルス禍における資本主義は失敗に終わったとの見解を示し、自由市場政策では人道上最も差し迫った課題全てを解決できないことが、今回のパンデミックで示されたと指摘した。」https://www.cnn.co.jp/world/35160476.htmlとありますが、記事の中で失敗の理由を探すことが出来ませんでした。

・下降史観について。

 下降史観とは、理想的な社会は過去にあり、時が経つにつれてどんどん悪くなっていくという歴史観であり、堕落していくと考えること。
対して、進歩史観とは、歴史を何らかの基準に従って、人間精神の発達や理性の発展、生産力の増大という観点から、進歩するものと捉えて考えること。
下降史観は、環境汚染や政治の腐敗などを挙げて、行き詰まり、現状維持への不満、過去の美化などに行き着き、「維新」、「復古」、「無気力」、「現在の価値観を壊す過剰な努力」などの行動に繋がることがある。
 進歩史観は、他国に比べて○○が遅れている、小さな町工場がsonyになった、などを挙げて、待ったなしという号令、○○革命という政策、構造的に無理な人に対して過剰な努力や侮蔑を強いるなどの行動に繋がる。

・P296「しかし意志の力は十全ではない。それに笑いや涙はそれぞれ情念に由来して情念と密接に結ばれているから、誠実であればあるだけ意志には従わなくなる。」から、意志と情念の関係について

 意志は身体の中で自由に考えること、言葉にすることで調整が可能であり、情念は身体の外に溢れ出る生理的な現象でコントロールすることが出来ない。火を触って熱くないと考えることは可能だが、通常は情念に従って手を引っ込める。意志は考える、想像する、言語化する人間が他者を理解するための媒介と考えることも出来る。
演劇や映画が意思によって創られ、他者(鑑賞者)の情念を喚起したり、意志が繋がっている感覚を促すような働きをするのではないだろうか、と考えました。