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好き嫌いの量りにかけることは出来ないけれど、何故か惹かれる野球

団地の駐車場

ここで亡き父とキャッチボールをしたことが最初、だと思う。団地の広場。新しく出来た県営団地には同級生が十名以上いたので、プラスチックバットとぷーかーボールで毎日のように野球をしたのが、2番目、だと思う。親子ソフトボール大会。団地の親子チームで出場。私の親は松葉杖だったので出ていないが、野球部に入るきっかけになった大会。小学5年。部活として始めるには、少し遅いのかなと思う。テニスコート。野球部はグラウンドがなく、普段テニスコートで使われているところで練習をしていた。今考えると少し笑える。何でテニスコートで。外野はどうするのか。それでも町大会では何度か優勝したし、強くはないが弱くもない、というレベル。
 今のようにインターネットも発達していない約25年前だから、自分たちのレベルがどの位なのか分からず、可能性を高くみていた。毎日のように夜は巨人の試合がテレビで放送されていた。最期の大会は、県大会で優勝出来る(実際は町大会で負けてしまった)、本気でプロ野球選手になれると思っている友達も何人かいた。バッティングが怖かった。バットを振るのが怖かった。単純にタイミングが取れなかった。ピッチャーが投げるボールに、どうやってタイミングを合わせればいいのか分からなかった。
だから、最初はセーフティーバントか、見逃し三振かフォアボールがほとんど。7番か8番だったと思う。守備は何故か出来た。フライやゴロは何となく取れたし、送球も相手に投げることが出来た。だから、左利きだけど捕手以外は全て守った。バッティングが普通に出来るようになったのが、最後の大会前。さすがに最後の大会までには何とかしたかったので、練習が終わった後に家の庭で素振りを始めた。そして勇気を持って振ることが出来るようになっていた。普通に打てるようになっていった。最期の大会、負けたけれど2安打だった。その後も卒業まで毎日練習に出て、長打も打てるようになっていった。卒業前に6年生を送り出す町大会では、4番だった。


 中学生

当然のように野球部に入った。サッカー部の力が強くて、野球部は弱小だった。それでも、自分たち同級生なら、勝てるようになると思っていた。指導者もいなかった。やっぱり弱かった。ほどんど勝てなかった。
そして、中学三年生になる前。2か所でフリーバッティングをしていたいた。私はバッティングピッチャーをしていた。ピッチャー用のネットがなくて、2か所で交代で投げる、ということもしていなかった。打たれたボールを野手から捕って、振り向いた瞬間、もう一か所でバットを振った打球が左目に直撃。3週間くらい入院。早く野球部に戻りたいと思いながら過ごしていた。退院日に医師と面談。「1年間、運動は禁止。野球は諦めなさい。片手でプロ野球選手になった人はいるけど(ジムアボット)、片目でプロ野球選手になった人はいない。」30代位の医師に軽く言われて、その場で泣いた。野球部を退部。体育の授業も見学。退院して家に帰ってみると、両親の離婚が決まっていた。亡き父親が連帯保証人になっていたやつが壊れたことが主な原因だった。他にも色々あったけど。医師に無理だと言われた後、プロ野球選手になると決めていた。ジムアボットだって、最初は周りから無理だと言われたはずだ。それは、ただ誰も挑戦したことがなかったからだろう。挑戦すれば、可能性はあるだろう。そして自分は出来る。何故かそんな風に考えていた。高校は甲子園を狙える高校に決めた。ポジションは目のことを考えると、ピッチャーしかないと考えた。受験勉強をしながら硬球を握っていた。

 高校野球、以後

甲子園を本気で狙えるチーム。県内の中学校から、甲子園を目指す人間が集まっていた。同級生は最初20名いたそうだ。後で友達から聞いたことで、最初の頃は周りについて覚えていない。それから半年で9名になった。主に練習の厳しさと先輩の理不尽さだと思う。1年生大会のときは11名で県大会準優勝だった。試合に出ることは出来なかった。入学してから、最初の1年間は練習に付いていくだけで精一杯だった。体力もなかったし、キャッチボールも満足に出来なかった。距離感で捕れなかったし、何故か投げることも出来なかった。そして、高校野球の練習は時間が長い。朝6時のバスに乗って22時30分位の最終バスに乗る毎日。1月1日以外は基本的に休みがない生活。1年生大会が終わったくらいの時期から、自分の限界を感じ始めていた。高校野球で試合に出ることが出来ないのに、プロ野球選手になる自分を想像することは難しかった。これは無理かな。同級生のピッチャーは、1学年上からエースナンバーを背負っている。2年生になると、県大会で優勝、準優勝したような中学校から新1年生が30名くらい入ってきた。1年夏、県ベスト4.秋ベスト8。2年夏。県ベスト8。2年秋。九州ベスト8。3年夏。県3回戦敗退。一度も甲子園の土を踏むことはなかった。試合に出たのも、一度コールドで勝った試合の守備の1イニングだけだった。もう野球に未練はなかった。やり切った。本気でプレーすることはない。


 高校時代に勉強していなかったので、レベルの高い大学には行けなかったが、大学は自分次第だと思っていたので勉強に励んだ。つもりだった。授業も卒業に必要な分よりたくさん取って、図書館に籠って本を読んでいた。飲み会なども参加しなかった。アルバイトと授業と図書館。なるべくお金を使わないように。ただ、勉強の仕方が間違っていたのか、就職は受けた会社を全て落ちた。世間では人生再設計世代などと言われたりするが、自分の実力だったと思う。結局大学のゼミの教授の紹介で、知的障害者更生施設で契約社員をすることになった。その後、26歳で司法書士試験に合格し、28歳で自宅で開業した。そして10年を少し超えた。40を前にして野球以外の人やこととも関わり、その中で野球は小さな存在となっていった。草野球やソフトボールを年に1度やるくらい。あまり楽しいとは感じなかった。本気でプレー出来ないから。

 それでも、ときどき高校野球をテレビで観ていたりする。全て観ることはあまりないけれど。プロ野球を観ていることがある。メジャーリーグを観ていることがある。イチローの引退記者会見を観た。ダルビッシュ有選手のユーチューブ番組をチャンネル登録している。お股ニキさんの本を買っている。新聞ではスポーツ面を読んでいる。パソコンの上を見上げると、野茂英雄さんのポスターがある。好き嫌いに関わらず、野球は惹かれる。

第92回選抜大会の中止


これは、4月5日に書いた文です。
2020年3月11日、日本高校野球連盟は、第92回選抜大会の中止を決定しました。出場が決まっていた選手・その関係者にとっては、とても不遇な巡り合わせだったと思います。
甲子園について
高校野球の聖地、阪神甲子園球場で毎年春と夏に行われる甲子園。日本の高等学校で野球部に入っている高校生が目標にする場所。私が高校球児だった頃、あと一回勝っていたら選抜大会に出場が決まっていた。懐かしく苦い場所。

選抜大会中止の影響
選抜大会中止の影響は、2つだと思います。

1、出場予定だった選手達の成長の場がなくなった。高校生は、高いレベルの相手と大勢の観客の前でプレーすることで、1試合で急成長したりすることがあります。

2、大学進学、社会人チームへの就職、プロ野球などの関係者に魅せる機会を失った。以前から注目されていた選手は、冬を越してどのように変わったのか、無名の選手は大舞台で活躍することができれば、スカウトなど関係者の注目を惹くことが出来ます。

2つの可能性がなくなりました。夏の甲子園に出場できる可能性は保証されていません。夏の甲子園が開催されるのかも分かりません。

プランB
私が甲子園について、決定できる立場にあれば、プランBを作ります。

その前に、私が考える甲子園の目的は、選手の成長と野球界の発展です。そのためのプランBは、

1、1年を通してリーグ戦を行う。7月から始まり、6月に終わる。冬は暖かい九州・沖縄で、夏は涼しい北海道などでリーグ戦を行う。阪神甲子園球場は原則として使用しません。勝敗は勝ち点制とします。

2、チームの選抜方法は、各都道府県でリーグ戦を行い、1から2チームを決める、または現在の選抜野球のような決定方法。社会人チームのような補強選手を可能にする。補強選手は、リーグ途中で入れ替えても良い。

3.リーグ戦に入ることが出来なかったチームは、そのままリーグ戦を行い続ける。冬の北海道などは、札幌ドームを借りる。入ることが出来たチームの成績が悪ければ、入れ替わることが出来る。

プランC

離島での開催。空港、港で水際対策をしっかり行ったあと、離島で大会を行う。例えば沖縄県の久米島は、プロ野球の楽天がキャンプをはれるほど設備が整っています。

プランD

野球のルールを暫定的に変える。3密と接触を回避できるようにする。例えば、キャッチャーマスクはフェイスシールド、1塁ベースはソフトボールのように2つ置く、など。