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鈴木もぐらは今日もかたまりに穴を掘る

少し前ですが、ラジオ番組「空気階段の踊り場」で鈴木もぐらさんと水川かたまりさんがトーク中に喧嘩をしたという事が話題になっていました。

ドキュメンタリーラジオと呼ばれるこの番組は2人がまだ今ほどのメディア露出をする以前から放送されていて段階を踏んで売れていく過程をショーとして披露しながらも時に生々しく人間性を丸ごと露呈させる出来事を含めて観客を惹きつけてきました。

喧嘩芸なのか、本当にただの喧嘩なのか、そのスレスレを綱渡りしてゆくかのようにどちらなのか極めてわかりにくい会話劇を空気階段は提供してくれます。それによって自分達をより身近な存在として受け手に交錯をさせ、常に解明出来ずじまいのままそれでも突き進めてゆく人間関係そのものを共感装置として前線に設置し、この混沌としたカルト空間をポップであるかのように仕立て上げるのです。それはまるでアングラのプライドとばかりに個人的な事象を掲げて民衆の支持を集める現代版ダークヒーローのような味わいであり、そしてその側面をどちらも見る角度によっては待ち合わせているかのように感じさせてくれるのがこのコンビの魅力です。


そして、そんな人情劇なのかマインドコントロールなのか曖昧な中毒性を持った「空気階段の踊り場」でまた喧嘩が話題に上がってきたわけです。しかしながら今回は少し今までと感触が異なる気がしました。

それは時間帯が24時台に昇格してから初の喧嘩というトピックだったからでしょうか?それとももぐらさんの結婚、かたまりさんの離婚を番組でどちらも等しくイジってきた中で一区切りついたタイミングにそのバランスが偏った瞬間があったのでしょうか?空気階段の知名度も上がってきた中で周囲からの視線も以前と違ってきたためもしかしたら昔から知っている視聴者の方がノリが変化してきている事に気付くべきなのでしょうか?

これは僕個人の捉え方なのですが、今回感じたこの違和感のようなものは空気階段というコンビのもっと根本的な部分のグラつきに感じました。なんと言うかこれは最初からずっとあったバランスでありそれを感じさせないような設計技術によって成り立っている構造物な気がするのです。

今回はこの空気階段のコンビバランスについて考えていきたいと思います。
そしてそれによって見えてきた社会全体の空気についても少々。


では、まず空気階段のそれぞれのキャラのイメージから認識していきたいと思います。

もぐらさんが借金、遅刻などの「クズキャラ」で

かたまりさんが引きこもり、マザコンなどの「サイコキャラ」だと思います。

この「クズキャラ」と「サイコキャラ」という
異色の組み合わせが空気階段の基本的な印象、認識です。

しかしこの認識で本当に当たっているのでしょうか?
この浸透しきったお笑い芸人のタイプ分け、括り方、分類の仕方に若干の懐疑心が浮かばない事もないとは言えません。


大胆な事を言ってしまえば、


これ逆じゃないかな?


といつも感じるのです。


つまりもぐらさんが「サイコキャラ」で
かたまりさんが「クズキャラ」なんじゃないかな?
と常にうっすら感じているのです。

そう感じる理由がいくつかあるのですが、まずもぐらさんのキャラを構成する借金や遅刻、加えてそれを正当化するような口車の上手さなどの要素をつぶさに見てゆくとそれらをタレント性にまで高めている点も含めてある人物に似ているなと気付きます。



元2ちゃんねる管理人の西村博之さんです。

ひろゆきさんも遅刻癖がありその言い訳トークを半ば話芸として施し漫談のように昇華してしまっています。また賠償金の踏み倒しや生活保護やベーシックインカムの話などある種の開き直り精神的な側面を一理あるなと思わすまで説き伏せてしまう妙な納得感のある論理性を常に持ち合わせながら飄々とした態度を貫きます。

そしてさらにこういった本来ならばマイナスに映る要素を自身のキャラクターに組み込みそのまま浸透させる事でそれを認知している相手が自動的に許してしまうような寝技に持ち込むのです。これはもぐらさんの芸風と近いのではないでしょうか?

そしてかたまりさんのキャラを構成する仕送り1200万円や恋愛体質、そしてそれらをいじられた時の逆ギレ的なリアクションなどの要素をつぶさに見て行くとこれまたそこに当てはまるようなタレントは浮かんできます。




安田大サーカスのクロちゃんさんや、コロチキのナダルさんです。

クロちゃんさんもナダルさんもその特異なエピソードから「クズ」と「サイコ」どちらとも形容されるいじられキャラとして人気を博していますが、その言動行動の常識の範囲を飛び越えていき加減を面白がられています。もちろんクロちゃんさんとナダルさん、そしてかたまりさんも若干ジャンルは違う気がするのですが大きく括って人間性の異質さをいじられています。

エンタメとして人前で披露されているパーソナルな部分ではあるのですが、その面白がられ方の出発点はおそらく天然的な本人が意識していなかったであろう要素をいじられる事で成立している感があります。飄々としているというより、なぜこれで笑いが起きるんだ?とでも言うかのような堂々とした佇まいが特徴です。そしてその背景にはそこはかとなく元々のコミュニティへの依存性のようなものがうっすらと漂ってきます。

またもう少しその要素を薄めた感じですが、空気の読まなさやそれを躊躇わず人前で発言や態度に乗せて表すコミュニケーションなどは社会学者の古市憲寿さんにも似ているなと感じます。



さて、この性質が似ていると感じるタイプのタレントを並べてみると

もぐら、ひろゆき
かたまり、クロちゃん、ナダル

となります。この時点で既に「サイコ」と「クズ」の印象は変わってしまってる気がします。ひろゆきさんのあの論破芸的な語り口の方が「サイコ」感があり、クロちゃんさんやナダルさんの責められながらも堂々と垂れ流す常識の欠落的なものの方が「クズ」感があります。と言うかこうして見るとこの「クズ」と「サイコ」という言葉は領域が曖昧でどちらもどちらの意味にでも応用が効いてしまうようなゾーンが存在しています。だからこそそのぼんやりとした部分に誤魔化されてしまうのです。


またもぐらさんと同じように借金という要素があった上で「クズ」キャラと呼ばれているような芸人さんと比較すると、

他のクズ芸人さんは自虐的なものをベースとした居直りが面白さに繋がっているのに対してもぐらさんは言い訳芸的な論点ズラし、自己正当化をしている事自体をミニコントにしてしまう会話演技力、顔色を伺いながらさり気なく行われる場の空気の緩ませ方が面白さになっています。


そしてかたまりさんと同じように変わり者という要素があった上で「サイコ」キャラだと呼ばれているような芸人さんと比較すると他のサイコ芸人さんはいじられた時や自己発信的な場合でもヤバいヤツだと思われている事を自覚した上でそこに寄せたり乗っかってゆくのに対して

かたまりさんはその自身の行動や精神状態を説明する事で面白いエピソードトークとして披露はしますがそれによってスタンスを変えようとはしていません。受け手の視点を極力持ち込まずに状態や状況のみを提示するに過ぎないのです。その中で笑いが起こるような言葉の選び方や着眼点の設け方等に工夫はもちろんありそれがセンシティブな雰囲気にも繋がっているのですが逆を言えば我を貫き態度を変えていないという事になります。


つまり
もぐらさんの場の空気の支配し方は「サイコ」芸人さんのスタイルと近く、
かたまりさんの自身のエピソードに対しての演出方法が「クズ」芸人のそれなのです。


段々となんとなく逆なんじゃないかなという理由が感じ取れてきたと思います。

たしかにもぐらさんの借金という要素は揺るがぬクズキャラのそれなのですが元々の環境なども関係していて出来上がっているプロフィールであり、そしてかたまりさんは仕送りという形でもぐらさんより多くお金を他者から享受していたりするので潜在的な依存性(そしてそれはどちらかと言えば女性に向けて甲斐性なさを発揮する事で寄生するイメージです。なのでクズと言うよりヒモ)はむしろかたまりさんの方が強く感じてしまいます。

さらにかたまりさんの奇人エピソードはたしかにサイコキャラのそれなのですが仮に本当にサイコパス的な部分があるのであればむしろその露呈を防いでいるはずでそういう点ではもぐらさんの方が周囲に許してもらえるような空気作り(もぐらさんは女性や家族に対してはネタにはするけど線引きが感じられそれを披露する時の方が自虐的です。昔ながらのクズだと先輩芸人を中心に受け入れられている感じはサイコパス的な非人道的な風味よりも単純な二枚舌による詐欺師的な人たらし)をしているところが気質としては近いと感じてしまいます。

言うならば、

もぐらさんの表面的な要素は「クズ」キャラなのですが
持っている性質が「サイコ」であり
かたまりさんの表面的な要素は「サイコ」キャラなのですが
持っている性質が「クズ」なのです。


ではなぜ、それが逆転しているように見えるのでしょう?

それは私達が近年バラエティ番組の中で出演するお笑いコンビを観続ける事で出来上がってしまっている印象パターンが原因なのだと思います。

それは「見た目と主導権」です。

この画像のようにそのコンビバランスが痩せている方と太っている方という場合、なんとなくですが痩せている方に主導権があるように感じてしまいます。どことなくですが痩せている方が司令塔的な立場で太っている方が目に付きやすいため先に覚えられコンビの広告塔的な意味合いが発生しています。

くわえて芸人さんのエピソードトークの中に盛り込まれる事の多い「ネタを書いている方、いない方」という役割も観る側には本来ならば関係のないはずなのにもはやすっかり刷り込まれてしまっています。なんだったら無意識のうちに初めて観るコンビに対して「どっちがネタ考えているんだろう?」と思って観てしまうこともあるのではないでしょうか。それによって漠然とですがその見た目とネタを書いている方か否か、という観点で無意識にコンビのパワーバランスを判断してしまう感覚が出来上がってしまってはいやしませんでしょうか?

しかしながらそれは各々のコンビの関係性により当然異なります。見た目と裏腹に意外とこっちがネタ書いてたの?というパターンもありますし、もしくはネタを書いているからと言ってコンビの主導権が必ずしもそちらにあるとも限りません。

空気階段もやはりそのもぐらさんの見た目のインパクトとかたまりさんがネタを主に書いているという役割によって何となくその印象パターンに収まってしまっているのだと感じます。

ですが実際には場の空気をコントロールする主導権はもぐらさんの方が握っていて、それに対する外側からの目線に演出的な部分を自身の立ち位置も含めて施しているのがかたまりさんであるというコンビバランスなのではないかと思います。あくまで個人的に観ていてそう感じているだけであり、主導権という実態のないものについてなのでご本人達の中ではどうなのかわかりかねますが現時点ではそのような感触があります。

なぜそう感じるかと言うと、それはさらに個人的な事情も含まれるのですが僕が空気階段を認識しだしたのはかたまりさんの方からだったからです。ラジオでの号泣プロポーズが話題になっていたり、マザコンで仕送り1200万円もらっていたエピソードを番組で披露していたり、あの独特な癖のある声質と喋り方が印象に残っていて、もぐらさんの方がその人の相方という事で後から把握したという感じです。最近のかたまりさんの女装姿の注目され方も多くの一見さんが僕と同じような空気階段の認識の順番を引き起こしそうな案件であると思います。つまりこの場合に置いてはコンビの広告塔的なポジションはかたまりさんが機能しています。

なので空気階段はその存在を認識した後に痩せている方と太っている方という印象パターンに当てはまりやすくなってしまっていますが、そのフォーメーション的なものは実はうっすらと王道パターンとは異なっていてそれはこの見た目と役割にしては珍しい分担なのではないかという事です。つまりおぎやはぎで言えば小木さんがもぐらさんで、矢作さんがかたまりさんです。アンガールズで言えば山根さんがもぐらさんで、田中さんがかたまりさんです。一番形として近いのはロンドンブーツ1号2号だと思います。淳さんがもぐらさんで、亮さんがかたまりさんです。淳さんの場の空気の主導権の握り方と、元々ネタを書いていた亮さんのポジションがそれに重なります。

(なので以前ラジオのアフタートークで「もぐらがボケない」問題を話されていましたが、個人的にはそれはもぐらさんが淳さんのような「いじり」のタイプの人だからだと感じます。自己プロフィールを含めて自他問わずイジって笑える範囲を見極めるのが上手いと思います。)


そしてそこにさらに「クズ」と「サイコ」という要素も乗っかってくるわけです。この要素がまたさらに事をややこしくしていると感じます。そもそも「クズ」と「サイコ」とはなんなのでしょう?

くず。屑とは、役に立たない物や人の事。がらくた。 Wikipediaより引用
サイコ。ロバート・ブロックの小説、およびそれを原作に作られた映画。この映画によって「サイコ」という言葉は日本を含む世界中に広まり、「精神異常」「多重人格」という意味を持つようになった。 Wikipediaより引用

と言うようにやはりどちらもその語源を含めて人の性格を形容するには曖昧過ぎる表現であるとは思います。これはそもそもの言葉の成り立ちと言うよりも現代的なコミュニケーションやそれによって形成される個々人のパーソナル、そしてそれらが反復された結果出来上がった社会全体の空気の影響が強いように感じます。



ひとつに「格差」というものが要因となっていると感じます。高齢層と若年層の平均所得の違いやメディアなどの煽り等もあって実際一面だけで考えてしまうのはまた別の問題があるとは思うのですが、どちらかと言えばその事実の確実性よりもその情報によって生じる人々の認識や雰囲気が重要です。バブル崩壊後から広がった高所得者と低所得者のその開きは30年近く微妙に変動はありながらも基本横ばいでありそれは今の30歳前後の世代にはこの開きの変動しなさが感覚としてスタンダードになっている事が伺えます。クズという言葉がポップな意味で市民権を得だしたのはこのベースからくる雰囲気の表れであるとも感じます。

またもうひとつの要因として「発達障がい」というワードもよく耳にする機会が増えた事も関係があると感じます。その言葉がきちんとした医学用語的なものとして把握されていない状態で揶揄するように使用されている事も含めた現状に背景としてコミュニケーション能力という概念の普及もセットで捉えなければいけません。発達障がいと呼ばれるものに該当される人数は年々増加傾向にあるとされるデータは実際にその当事者が増えたのか、そのトピックが言語化された事により今まで認識されていなかったものが市民権を得たのか、もしくは本来であれば該当しない領域までその範囲に含めてしまっている定義設定の不均一さのせいなのか、まだまだ議論段階だと思うのですが、やはりこの話も30歳前後の世代の感覚に大きな影響を与えていると感じます。

何ももぐらさんの「クズ」キャラは格差社会が生んだ弊害であるとか、かたまりさんの「サイコ」キャラは発達障がいのそれに当てはまっていると言っているわけではありません。何よりそもそもそれらのキャラはお笑い芸人のネタやトークの中でエンタメとして披露されている代物なので、いくら本人達がドキュメンタリーだと主張しようともその提供する側される側である関係性である以上、どこまで行っても事実であるかどうかというのは確認が出来ないファンタジーとしてしか成立はしないのです。そしてその上で「クズ」と「サイコ」がキャラとして成り立つ世の中の空気そのものに注目しているわけです。

もぐらさんの「クズ」キャラは元々の家庭環境やそれによって生じる経歴、はたまた状況が生み出す自身の身体や精神への影響を含めて「クズ」と形容されるような借金や遅刻という要素が強まっています。

またかたまりさんの「サイコ」キャラも地方出身のその風土やそこから高学歴社会への参入に挫折しひきこもりなった事への心持ち、交流を持つ層の変化などによりそのズレが「サイコ」と形容されるような癇癪の起こし方号泣のし方などに表れています。

しかし実際はそれらは表面的な要素に過ぎず、社会全体の空気として人々が意識している「自分と他者の違い」をそれぞれで感じているだけでありそのパブリックイメージの総体を漠然と空気階段の2人に凝縮させているのです。そこには「貧困」も「コミュニケーション能力」もどちらも自身の中で抱え込む「自分と他者の違い」を階層として自己規定してしまう集団心理の本能部分のような機能が無意識に働いてしまっています。ただ状態としてその認識をどこまで自己に関与させるかは個々人の自由でありそしてそれを他者に「クズ」や「サイコ」だと規定する事は如何様にでも出来ないわけです。


いかがでしょうか?

空気階段のコンビバランスについて何となくですが確認出来てきたと思います。

もぐらさんが場をコントロールする事で自己正当化を試みる「サイコ」的な気質で
かたまりさんがその外側からの視点に演出を加える事で自身のスタンスを崩さず動かない「クズ」的な気質で

そしてそれらの気質が認識として逆転するような社会全体の空気がそれぞれのキャラに表面的な影響を与えている。そんな解釈です。もぐらさんのいじりによってかたまりさんがリアクションしているとも捉えられるし、かたまりさんの演出によってその土台に乗っかってもぐらさんが喋っているとも捉えられます。どちら側から観るかによって視界は変わります。

「自分と他者との違い」は事実ですが、それを「格差」だと捉えるのは解釈として実は空虚です。

「空気階段」というコンビ名はそんな人々の見えない階層を少しずつでも地ならしをして、人は皆平等であると伝えてくれているのかもしれません。

人は皆平等にダメなんだよ と。


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