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第2のタモリという思想模写

タモリさんが徹子の部屋で
「新しい戦前」
という言葉を発して話題になっていました。

ただ、この発言自体はタモリさん特有の皮肉というかブラックジョークというか、こういった内容について触れてゆく事そのものが、若干目的化されている自己完結的なギャグだと感じます。ノンポリ自虐とでも言えましょうか、ある構造や文脈の中に自身がどの立ち位置で組み込まれているかを理解している事への言及によって引き起こる乾いた笑いの類。

報道ステーションにコメンテーター的なポジションで出演した時にウクライナ問題についてほぼ何も私見を述べなかった件を賞賛されていたり、
平成の大晦日という元号改正時の特番の最後のコメントで「省庁の看板をキレイに書き直したほうがいい」というような事を言って盛り上がりに対してやんわりと水を差す感を示していたり、

赤塚不二夫の葬儀での弔辞、
27時間テレビでの「見てない人へも感謝です」という締め、

などなど、
タモリさんは要所要所で、こういった悪戯心にも似た軽度なシニカルテロを、自分がもう大御所になっている事を把握した上で、わざとカマしてくる、という認識を個人的にしていて楽しんで見ています。

もっと言えば、もはや権威化しているに等しいと言っても過言じゃない“タモリ”という国民的タレント像の原始形成段階から、その茶化しは始まっていたんじゃないかな…と想像してしまう程にです。

タモリさんはある時から、

「存在としての天皇モノマネ」に

取り掛かり始めたのでは、という目線にやぶかさでは無いように感じます。
象徴性への意識、民間的な即身仏感、が舌触りとして強まった雰囲気は否めません。


さて、
それはそれとしてタモリという物真似芸人の超絶的技巧を、いち視聴者として面白がって眺めているに過ぎないわけですが、もう一点全く別の角度で気になったのは「戦前」というワードから感じる、時の流れ。すなわち、タモリさんのご年齢です。

失礼を承知で率直に言いますと、芸能人としてもうかなりご高齢。定年退職があるご稼業ではないですが、この発言が話題になるであろうという漠然とした意識をなされているからこそ零してみた一言なのだとしたら、ご自身の言葉の重みが社会的な立場としてもこういった波及をする事へのコントロール勘と共に、終戦直後の景色からの移り変わりも記憶の断片として感じてらっしゃるのだろうな…と勝手ながら思ったりしました。そんな中で


ただの野次馬からの品の無い興味本位視点でしか無いのですが

「第2のタモリ」は誰なのだろう…?

という妄想が頭の中をゆっくり駆け巡ります。


もちろん、その唯一無二なポジションで存在そのものが特異的な「タモリ」という人物に「第2の〜」という目線付けを試みることが、安直で凡庸な発想であるとは思います。そもそも「第2の〜」と区切る時点で、方法論自体が何かの前身に引っ張られていて志の低さが露呈している気もします。

ですが、この世のありとあらゆる事象には歴史があり、「日本の芸能界」という狭い領域の中にも時間経過は脈脈と流れています。タモリという存在を知っている人々の中には、無意識のうちに「タモリ的な存在」というイメージがあり、それをタモリ以後の存在に当てはめてしまう情報処理を本能的におこなってしまうはずです。それはタモリさんも、タモリ以前の存在からおそらく当てはめられたであろうし、タモリさん以外の全ての存在も、タモリさん以外の何かの存在のイメージに当てはめられた事があるだろうと容易に想像がつきます。なんだったら、「新しい戦前」は「古い戦前」のイメージを当てはめている第2の戦前的存在への意識からくる発言です。


今からこの「第2のタモリ」という存在を考えてみたいと思います。

あくまで、個人的な、考察とも分析とも呼べないような感想の垂れ流しであり、だからなんなんだという文章にはなると思いますが、もしご興味とお時間がございましたら、お付き合いいただけると幸いです。


では、まず
タモリというタレントを形成する特徴的な部分をイメージしてみて、それに似通ってて当てはまっていると感じるような人物を上げていってみようと思います。なんとなく考えてみたら、ザックリとですが以下の要素が浮かび上がってきました。

それは

①インテリ性
②なりすまし
③不特定性
④ミステリアス

という4項目。

全部うっすらと繋がっているような特徴ではありますが、逆を言えばこれらの要素って、特に当時の芸能人としてはかなり珍しいラインナップと言いますか、“没個性的“であることが“突出してる個性“であると、主張せんばかりの並びになっています。

なんと言いますか、タモリさんの潜在的な印象もあってか

すごく「黒子」的な特徴

ばかりが目立ってて、どうしてもそこを取り上げてしまいます。

その上で、これらを順を追って該当する有名人を探していってみたいと思います。

①インテリ性

今現段階でのタモリというタレントの最もパブリックなイメージとして、この要素がまず上げられてくると感じます。

世代によるとも思うのですが、デビュー当時のキワモノキャラだった頃から、既にその土台には知識や教養の幅があることを感じていた人も少なくなかったと思います。
むしろ、それが面白がられてエセインテリと評され支持をされていた文化人的領域の琴線に向けて、アイロニーやペーソスを含めて笑いとして提示していたのは当時タモリさんだけだったのではないでしょうか。冒頭でも言及しましたが、タモリさんは「知性そのものを茶化す」という「知性の在り方」でお笑い芸人として立脚するのです。

これは、今現在だと誰が一番近い体現をしているのか?

パッと思い付くのは

カズレーザーさん、だという人は少なくないような気がします。

カズさんも、M-1グランプリの決勝に駒を進めた時から、全身真っ赤で金髪のバイセクシャル、という今までの漫才師像文脈とは切り離された突飛なキワモノキャラとして、世に出てきました。その強烈なキャラクターを相方の安藤なつさんと共に、共演者や視聴者から驚かれながらも興味を持続させ、自ら語る「街の変わり者」として魅せるパフォーマンスで、ある種、ニーチェの超人思想的な「知性」を茶化しながら提示していたと、感じます。

そこからその歯に衣着せぬ発言が感動されて名言と呼ばれ始め、またクイズ回答者としての才も発揮されだし、その要領で情報番組のコメンテーター的な仕事にも進出し、順調にインテリタレントとしての地位を固めていっています。かと思えば、地方のラジオ番組では、その振り幅を利用して、本当にどうしようもないような下ネタや、権威的なもの大衆的なものに対しての雑な毒舌、コアなお笑い好きですら興味の持ちようが難しい内輪ノリ、などなど自身の頭良いキャラそのものを無効化するようなボケ方によって、自覚し続ける「街の変わり者」としてのお笑い芸人像を立脚させています。これは確かに、タモリさんの“知性的反知性主義運動“のようなものに似ていると思います。カズレーザーが第2のタモリなのでしょうか?

もしそこに、あえて相違点を見出してみようとするのなら、
カズさんにはタモリさんのような「演技力」は、あまり感じられません。

タモリさんのインテリ性には、どこか
「それそのものを俯瞰してその上で体得してみている」
というような、いわゆるコント師的な好奇心が中核にあるような舌触りがあります。

イグアナの物真似などが顕著にそれが現れていると思うのですが、病的なまでのディテールの細かさは観察眼とその対象に“成ってしまう“という演技力。その点で見てゆくと、タモリさんの知識の幅は、そのジャンルに対しての興味と、そのジャンルの知識人に“成ってしまう“という演技力によって精密に形成されているのが感じられます。

それと比較すると、カズレーザーさんのインテリ性の在り方は、そういった演技技術とは真逆の代物である事がわかります。カズさんはむしろ、気持ちの良い程の開き直りによって「街の変わり者」的な知性を獲得しているのです。つまり、自分の興味の向くことにしか知性が発揮されず、社会参加的な演技力を積み上げないことで構築されているインテリ性。なので、全身真っ赤で目立ちまくりながら街中に繰り出してる。サングラスというアイテムの着脱で街に溶け込むタモリさんとは正反対です。

なので、ここからさらに個人的な見解になるのですが、

カズレーザーさんの近い立ち位置は、
ふかわりょうさん
なんじゃないかな、と感じています。

ふかわさんも、「自覚によって形成される知性」を場面によって使い分けながら飄々と芸能界を歩いてきているという印象があります。「シュール」「いじられ」「アーティスト」「めんどくさいキャラ」という相反する要素を演技ではない在り方で常に自己言及的にそれを体現しています。カズレーザーさんのそれのようにマゾヒスティックな開き直り芸ではないですが、両者ともインテリと呼ばれる事に対しての向き合い方が似ていると感じます。


②なりすまし

これもまた、タモリというタレントの大いなる特徴のひとつではないでしょうか。

この要素に関しては、近年、自己批評的に語ってもいて、デビュー間も無くして、お笑いスター誕生の審査員席に座って評論家然としながら芸歴も年齢も上の芸人の審査をしていたとか、深夜番組にしか出れないアングラ地下芸人だったイメージをいつの間にか脱却してお昼の帯番組の顔になっていたりとか、もっと言えば、元々の職業経歴にも企業の内紛調査のために正社員のふりをしてホテルに忍び込んでいたり、芸能界デビューのきっかけも山下洋輔の宴会に知り合いでもないのに勝手に紛れ込んで芸を披露していたところから始まっているという説があるなど、ある場所や人間関係の中に初見の異物感をフックにして、さも最初からそこに馴染んでいたかのように振る舞うテクニックが卓越しています。

なりすまし術、今現在だと誰が一番近い体現をしているのか?

この擬態能力は

おぎやはぎが、かなり近しい技術を駆使していると感じます。

小木さんと、矢作さんで、役割分担があるものの、業界人的な領域に向けてのなりすましの共同作業は、視聴者である我々ですら、いつの間にかあの、おぎやはぎのマイペースでなぁなぁな空気感を当たり前のように受け入れてしまっています。元々コント師だった経験を活かしてか、漫才師になりすましてから、あっさりとM-1グランプリの決勝に東京の星として駒を進め、バラエティ番組の雛壇に最初から鎮座しているかのような物怖じしない態度を見せて、当時としては異色だった仲良しコンビという馴れ合いコントを披露しながらも、そのスタイルのままお約束化しお茶の間に馴染んでしまいました。

二人とも一度、社会人経験を経ているというポイントも大きいと思います。特に矢作さんがですが、芸能界入りのきっかけもプライベートで極楽とんぼの加藤浩次さんと仲良くなって、そこから横入りするかのようにお笑い芸人になっていったという流れもタモリさんのそれに近い流動を感じますし、また芸人として売れてからは小木さんが森山良子さんの娘さんと結婚をし、それをエピソードとしてトークに挟み込む事で、最初から芸能界の大御所地点に属しているかのような雰囲気を獲得してしまうという、次元を超えたなりすまし術を発揮しています。この、常に平常心を装っているかのような淡々としたコミニティ内演技力は、タモリさんが大御所芸能人になっていった方法論と似ていると感じます。おぎやはぎが第2のタモリなのでしょうか?

これまた、そこに違いを探してみるのなら
おぎやはぎにはタモリさんのような「陰キャ感」が、少ないなとは感じます。

非常にニュアンス的だし、もしかしたらこの言葉の意味合いはすでに変わってしまっているかもしれませんが、なんというか、「オタク性」「モブ性」「素人性」のようなものが自意識としてもタモリさんは強いと思います。

それは自己肯定感なる概念とはまた種類の違う客観視点だと思うのですが、ご本人がネタ的に語っている“実存のゼロ地点”という社会的アイデンティティの脱構築によって、なりすまし術を獲得していってるような仕組みを感じるのです。「陰キャ感」というより「陽キャになろうとしてない感」といった塩梅かもしれません。

それと比べると、おぎやはぎは自己認識のベースの部分で「陽キャになろうとしていない感」があまり強くありません。むしろ、Wメガネ、ローテンション漫才、BLっぽさのある悪ふざけ、という演出は「陰キャになろうとしている感」すら感じ、逆説的に「陽キャ感」を覚えます。おぎやはぎのなりすまし術は、芸能界やテレビ界的な、ある程度皆が何者かになろうとしている空間で、その時流と反対の方角に向かう事によって、カウンターとして存在感を示す手法になっています。これはタモリさんのような、最初に居た地点から動かない、からこそあらゆるジャンルの平均値に擬態する、というなりすまし方とは若干異なっている、おぎやはぎの根の陽キャ性で成してる技だと思います。

そういう意味では、今現在で

おぎやはぎに近い立ち位置は、
みうらじゅん&いとうせいこう
の組み合わせなんじゃないかな、と感じています。

ここもまた意味の若干変質した「サブカル」という言葉で誤魔化されていると感じますが、お二人もやはり「陽キャになろうとしてない感」はあまり強くは感じません。みうらじゅんさんのルックスや、いとうせいこうさんが元々大学で形態模写をやっていた事など、むしろ「タモリ的な存在になろうとしている」運動がベースの部分にあると思います。どの領域を主戦場とするかの違いはありますが、自分達のペースに胡散臭さ込みでじわじわと巻き込む面白さは、似ていると思います。


③不特定性

さぁ、ここからはさらにその特徴の、掴みどころなさ が際立ってきました。不特定性。すごく単純に言ってしまえば、顔を隠している という点。

なりすましによって、非常にフワッとした形で芸能界入りを果たしたタモリさん。デビュー直後は眼帯をしていました。これは片目を失明なされている事と地下芸人としての出自をアインコニックに周知させようというキャラ戦略なのだと思うのですが(国民的なタレントになってゆくにつれて、眼帯からサングラスにマイナーチェンジしていってた)、これによって得れるのは、プライベートで顔バレしにくい事と、タレント活動中もその瞬間の表情が読まれにくかったり、造形によってタイプ別的な傾向を分類されにくかったりと、詮索の防御だと感じます。ご本人の精神的自由度もある程度保障されてる部分はあるでしょうし、存在としても例外性からくる大衆への埋没性があり、印象的だが普遍的でもあるという有名人と一般人の美味しいとこどりをしている状態になっていると思います。なりすまし、の次は、まぎれこみ、といった感じ。

これは、なかなか当てはまっているのを探すのが
そもそも難しいと感じるのですが、今なんとなく思い浮かんだのは

youtuberのラファエルさん

そして、オモコロライターのARuFaさん

とかが見た目や立ち位置が近いと感じます。

ここ10年間でSNSが大分と普及して事により、スマホを持っていれば割と誰でも気軽に発信する事が出来る様になりました。それにより、芸能人と一般人の垣根はさらに薄くなり、その曖昧領域はどんどん拡大している感触があります。そんな状況下での“顔バレ”とは果たしてなんなのか?デジタルタトゥー的な現象を危惧しネットリテラシーとしてそれは大事な観点ではありますが、既にもうある程度有名になっている個人が顔を隠す意味合いは、プライベート権の保護以上に、そういうアイコンだと認識させ不特定性を強調してゆく意識に他ならないとも感じます。

彼らの面白みは、不特定的だからこそ増幅している部分があると思います。人間味を排している(機械的という意味ではなく、パーソナルをそこまで押していない)し、やっている事も企画の面白さ割合が高いと思います。そもそもが、営業マン、ブロガー、であり、その延長線上の活動が現在のタレント像に繋がっています。これはまさに、一般人と有名人の美味しいとこどり、印象的であり普遍的、という特徴だと思います。ラファエル、ARuFaが、第2のタモリなのでしょうか?

ここに関しては、相違点を探してみるというより
当時の芸能界で似ているポジションを当てはめる方が早いのかもしれません。

デーモン小暮閣下や

トランプマンとかが近い気がします。

テレビが主流のメディアだった時代は、そこに出演するという手間が、今のスマホで全世界に発信できてしまえる作業工程とは比較にならない程、段階を踏んでいたのが想像に難しくありません。そのために「白塗り」というメイクに時間をかける手法によって“目立ち“と“隠れ蓑”を獲得していったのだと予想されます。

これは今だと、「動画編集」という事になるのではないでしょうか?

ラファエルさんやARuFaさんは、媒体によるのですが自ら撮影と編集を行っています。彼らの不特定性による企画の面白さの増幅は、いわば裏方的なスキルによって発生しまた維持されていると思います。それと比べると、タモリさんの眼帯やサングラスという不特定性は、白塗りや動画編集などよりも、そこまで手間が掛かっていません。

もっと言えば、デーモン小暮さんは歌手であり、トランプマンさんは手品師です。裏方要素と括るには、表に出る行為に直結している生業ですが、タモリさんの物真似芸やタレント活動のそれよりも、職人要素が高い代物ではあります。

逆に言えば、タモリさんの不特定性には、
裏打ちされるような“一般人”としてのバックボーンもどこか切り離されている感じもします。
というか、「一般人としてテレビに出ている」感が側面として強いと思います。
最初から、ずっとタモリだったかのような…

言葉を選ばず言えば、どこにでも居そうな佇まいゆえに

完成された“不気味さ“があります。


④ミステリアス

ここまでくると、もはや言語説明が不要になってきていると思います。

えも言えぬ不気味さがそのまま不可思議な存在として魅力に通じ、共同幻想的にその周辺の余白部分ですらタモリという現象のいち構成要素に感じてくる。想像の余地がありすぎるがゆえに、そこに怖いもの見たさのような感情が働いて、タモリさんの最小限の発言や一挙手一投足に過剰に意味を見出そうとしてしまう、そんな人心掌握をおこなっているであろうことを踏まえた上でも、それすら一周回ってミステリアスな雰囲気作りのいち構成要素になってしまう循環構造に魅力を感じずにはいられません。

この項目に関しては、他の要素も当てはまっているなと感じた上で、現時点で近しいポジションの人物を上げたいと思います。

雨穴さんが該当するのでは、ないでしょうか?

ミステリアスの塊と言いますか
その上で、それ自体をギャグ化してしまっているような、ホラーとコメディの同時並行という難しいバランスをいとも簡単そうに成し遂げてしまっています。

ついつい考察、分析、してしまいたくなる動画作品の数々は、あのか細く不安定な声質と、夢に出てきそうなボコボコとしたお面の残像と共に、脳裏にこびり付いて剥がれなくなってしまっています。雨穴さんが第2のタモリなのでしょうか?

ただ、やはり雨穴さんのミステリアスは、クリエイターとしての作品の中でのミステリアスであり、知性や演技力や不特定性は感じるものの、それが重なっているのは初期のタモリさんだとも思います。モンティパイソンの番組に密室芸を披露しながら出演していた頃の。実際今後どうなるかは分かりかねますが、ここからシームレスにタレント業へと転換し分離してゆく雨穴さんを想像しやすくはありません。

ミステリアス、という成分を解体してゆくことで掴んでいこうとするならば、「情報の少なさ」が根源的な理由だと思うので、人物にそれを見出すと数値的なものは初期段階がMAXで、その後はどう持続させるか?というテーマが命題になってくるのだと思います。

雨穴さんに限らずですが、今までも密室芸人という括りに着目してゆけば、初期のタモリさん的なミステリアスを纏っていた人々は上げればキリがない程いるわけではあります。鳥肌実、居島一平、永野、街裏ぴんく、などなど…彼らはカルト的な人気を誇りながらそれを出力するメディアを限定させたり、全く別のブランディングを施したり、そういったミステリアスの自浄作用を利用して面白さの骨格を世界観込みで形成してゆきます。

ただ、タモリというミステリアス芸人はそういうジャンルと並べてみると、またちょっと違う収まり方になっていると感じます。「ミステリアス“なのに”大衆地点にいるというミステリアス」というような、タレントとして売れている事そのものに不可思議さを感じてしまうという存在矛盾が中心に眠っているのです。

なので、雨穴さんのようなミステリアスが作品(ネタ)と地続きになっている部分だけでなく、ある種のメディアジャックや権威的なものに対しての道家的な取り込まれ方も含んでいるミステリアス造形がまた別部分で発達していて、そこに該当するような人物だと、例えば今なら、成田悠輔さんのような売れ方も要素として持ち合わせています。

成田さんは、あの少し変わった眼鏡をフックに、アカデミックな裏付けと落ち着いたトーンでの歯に衣着せぬ発言によって人気を博す、という現象が結果としてミステリアスを孕み、おそらく途中から本人がそれに乗っかっていったという、アリゴリズム専門の経済学者そのものというようなイメージコントロールをなんとなく感じます。それは作品とはまた違う、現象に対しての知性的な向き合い方に思えます。タモリさんはこういった支配欲求もあるのではないでしょうか?

雨穴さん+成田悠輔さん=タモリさん

というようなイメージです。




さて、
ここまで①〜④まで項目を上げてみて、それに該当するような現時点での「第2のタモリ」なる存在を探してみたわけですが、やはり完璧に該当するような人物は当たり前ですが見当たらず、むしろ考えた事によって余計にわからなくなってしまった…という結論が出てしまいそうです。

ただ、それだと、せっかく考えてみたのに勿体無い気がするので、もう少しタモリさんという人物のさらに周辺を改めて捉えなおしてみたいと思います。上記のラインナップは現在の文脈から当てはめてみようとしすぎた感も否めません。

タモリさんの時代をもっと見てゆこうと思うと、その当時の段階で「第2のタモリ」というような呼ばれ方をしていた存在も確認できます。

その代表格は「女タモリ」と呼ばれていた、
清水ミチコさんではないでしょうか?

清水さんは、その音楽的な素養で、タモリさんがやっていた「ハナモゲラ語」「思想模写」のようなネタを、アーティストに置き換えてモノマネ芸としてパッケージングしていた事から、そのように呼ばれていました。

また、関西圏的な土壌からだと、
松尾貴史さんもその筆頭的存在だと思います。

松尾さんの場合は、文化的な素養で、タモリさんの「寺山修司モノマネ」「昭和天皇モノマネ」などのような着眼点のいじりを、主に朝生を中心とした政治家や文化人に絞ってモノマネ芸として披露し、注目を集めていました。

こういったメンツで捉えようとしてみると、現在のタモリさんが立っているテレビ芸能界の大御所的な地点とは、若干ばかり変容している気がします。なんというか、清水ミチコさんも、松尾貴史さんも、元々の足場は音楽や文学などに隣接していた演芸というジャンル領域で、それをテレビに触媒させてその時代のカルチャーを作っていったというタレント像なのではないでしょうか。

そうなってくると、今度は
タモリさん以前のタモリ的存在が気になってきます。

タモリさん自体も「第2の〇〇」と言われながら、世に出てきたはずだからです。


まず、候補として上がってくるのは、タモリさんご本人が言及していた
森繁久彌さんではないでしょうか?

森繁さんの洒脱感は、タモリさんもよくエピソードとして話されています。


また、ビッグ3を昭和3大喜劇王に当てはめてみると
古川ロッパさんにも影響を受けられていると感じます。

元々、評論家という立場から芸能人に転身している異色の経歴がタモリさんと重なります。


他にも、ボードビリアンとしてトニー谷さん、インチキ外国語芸としての藤村有弘さん、マルチタレントとして徳川夢声さん、などなど上げればキリがないですが、ここら辺の方々を、タモリさんは意識していてトレースし、テレビ時代のタレント像に変換し、現在のタモリという存在をジャンルごと形成していったであろう思考形跡のようなものが端々に感じられて面白いです。

これらを漠然と眺めていると感じられるのは、
タモリさん自体も「第2の〇〇」のモノマネから、おそらく入っているのだろう…という事です。

我々はもう既にタモリという存在がこの世にいる段階からしか知りません。

森田一義を知ってからタモリを認識した人間はかなり数が限られています。

ただ、ふと
そこまで思考が至った時に

認識する事実として

それ自体は、これを読んでいる
“あなた“
にも 当てはまっている という事です。


古川ロッパさんの元々は評論家だったという事実が顕著ですが、その知識と自身の素養への自己認識によって、芸能人になりすますという行為は、実にタモリ的だなと感じます。しかしながら、ロッパさんはタモリさん以前の存在であり、そういった批評と模範の関係は、人間社会の原始的なコミュニケーション衝動そのもので、何も特別な行為であるわけでも実はありません。我々は、家族や職場の個々人を無意識のうちに、批評し模倣しています。もしかしたら、タモリさんはロッパさんや森繁さんを無意識のうちに批評し模倣をし、そのタモリさんを清水ミチコさんや松尾貴史さんは無意識のうちに批評し模倣したのかもしれません。

それらの連鎖が必然であったのならば、
もうその存在になっている状態の模倣を「第2のタモリ」とするよりも、

むしろ“批評“の方が「第2のタモリ」と言えるのではないでしょうか?

てれびのスキマさん、をご存じでしょうか?

このインターネット時代に、旧来型メディアとの摩擦として、あらゆるテレビ評論が展開されています。それはいち視聴者が名もなき個人として発信出来る事も、テレビ出演者がテレビに出演しながらもその中で自己批評を行う事も、その垣根はもはや綯い交ぜになって、何が批評で何が模倣なのかわけがわからなくなってきています。

ライターのてれびのスキマさんは、タモリ学という本を出版する程のタモリファンの方です。圧倒的な情報量と、その繋ぎ合わせのみで、サンプリング的にその対象の実像を立体的に捉えて言語化してゆきます。この文章の紡ぎ方そのものがタモリさんの思想模写的な情報集合体とその発露であり、批評によって言語上で本人の概念的模倣に到達している成功例だと感じています。てれびのスキマが第2のタモリなのでしょうか?

いや、もうわかりません。

ここまでそれを考えること自体が不毛に感じてきました。

てれびのスキマさんを第2のタモリと捉えようとする所まできてしまっているのなら、それはもはや該当と連鎖が無限にある事を意味しています。


どうでしょうか?


この文章をを書いている私、視力も、
何者なのかよくわからない、情報提示のみで何者かになりすましている、知的遊戯ぶった自己批評芸を積み上げている概念的存在に他なりません。
「第2のてれびのスキマ」的な批評と模倣のつもりなのでしょうか。
ここまで来たら、視力が「第2のタモリ」という気すらしてきました。

私達は、本来名前も実態も知らない者同士
画面越しにこれを読み、画面越しに何かを抱き、
あなた越しに私を感じ、私越しにあなたを感じ、

タモリ越しにタモリが存在し、
タモリ越しにタモリが存在する

世界に広げようタモリ達の輪


「次にタモリという存在になってしまうのは、あなたかもしれません…」





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