見出し画像

小木が小木である理由

小木さんのバイキングでの発言が炎上してからしばらく経って少し騒動も落ち着いてきました。

そこからの深夜ラジオでおぎやはぎがその件に触れてその後の一連の流れをひと通り見聞きしていろいろ感じました。非常に難しい問題が複合的に絡み合って情報として提示されていてこの自分の文章ですらそれらを歪曲、誇張、拡散しかねないので書くのを正直躊躇われます。

しかしその上で思うのは、僕が個人として感じ考えた事があってそれを整理したいのでここに書いて発信してみようかなという事です。誰かに読まれるかもしれない前提で書いた方が自分の中で納得や把握がしやすいかもと思ったからです。

なのでここから先は読み進めるのを自己判断でお願い致します。そしてその上で何かご意見やご感想等あればコメント欄や僕のSNSによろしくお願い致します。僕はこの文章で誰かを傷付けたいと思って書かないしまた例え意図していなくてもそう汲み取ってしまう様な事を提示し情報として拡散したくはないからです。さらにその上で捉え方は個々人の自由もあります。かといって全員が納得する様な完全な文章を書けるとも思いません。公開した後に修正したり削除する事もあると思います。

そのような状態で書いて提示しようと思います。なので情報としても断片的な部分や憶測が含まれます。なにより僕の個人の捉え方や把握能力や思想みたいな物も出てしまうはずです。そういう文章だとご理解していただいた上でお相手お願い致します。

さて前振りが長くなってしまいましたが、今回どのような事について考えていきたいかと言いますと、ズバリ

「小木さんの面白さ」

についてです。

そしてそれについて考える事で間接的に見えてくる、矢作さんとの関係性や、おぎやはぎというコンビ、そして今のお笑い界と、ひいては社会全体の空気、風呂敷が大きくなってしまっていると感じますがそこら辺の事をざっくりと個人の範囲ではあるけれど思い巡らせてみようと思います。

なぜ小木さんについて考える事が社会全体の空気まで思い巡らす事にまで繋がるかというと、もちろん例のclubhouseの件を知ったというのは理由のひとつにあるのですが、前々からおぎやはぎについて考えたかった事があってそれを自分の中で決めていたnoteに書く順番がまわってきたのと

僕が感じている事のひとつに「お笑いや芸能や芸術が、社会や文化や歴史そのものに影響を与える部分はもちろんあるが、その時代の社会や文化や歴史側から反映されるものがお笑いや芸能や芸術でもある」という相互関係の上に成り立っているものだという理解があるので、それらの理由などから今回筆を取ってみたという感じです。

つまり

小木さんを見る事で社会を見る事になるし、また社会を見る事で小木さんを見る事にもなる

という事です。

それと先にというかあえて今言ってしまえば、これは個人的に感じた事ではありますが事の発端である小木さんの「ピラニア」云々の発言はブラックジョークとしてもあまり機能していないし、ひとりの視聴者としても面白いとは感じ難いと思っています。それは「そういう時代だから」で片付けてしまう事が本質的な解決にならないのではないかと感じています。その後のラジオからのclubhouseへの流れはここで説明するのも拡散に成ってしまうと思うので気になった方はご自身でお調べいただきたいです。

その上で今回の件は割と「お笑いとしてのおぎやはぎの特徴や立ち位置を把握している上での社会的な問題や現状についてを含めた観点」での見解が書かれた文章が僕としてはあまり見つからなかったと感じたので(あるかもしれないのでご存知の方は教えていただきたいです。)その方向性から考えていきたいと思っています。重ねて言いますがこれは僕の個人的な捉え方なので数ある感想の中のひとつでありなおかつ誤情報なども含まれたりする可能性があるのでその時はご指摘等あればお願い致します。


では

おぎやはぎの面白さ


まず小木さんを中心として見た「おぎやはぎの面白さ」を順を追って紐解いていきたいと思います。「おぎやはぎの面白さ」の正体とは何なのか?

おぎやはぎのネタ

おぎやはぎの面白さとはあの独特な緩い掛け合いを繰り広げる飄々とした2人の空気感だと思います。

それはコンビの「ネタ」である漫才に一番分かりやすく表れています。他の芸人とは一線を画すなぁなぁな雰囲気と柔和な言葉遣い、そして強くツッコんだりわかりやすくテンションでボケたりしないお互いがお互いを褒め合う妙なスタイル。今の若手芸人と比べるとその展開や構成の骨組みがしっかりしていなくて練習量もそこまで感じられない遊び心でしか作ってない様なネタに見えるけどその事を含めて面白いですし、逆にひと世代上の芸人と比べるとここまでこのコンビ芸のニュアンスをきちんとネタとして形にしているタイプも珍しくまたこういう漫才をするグループは居るには居たと思うのですが今よりもメディアで生き残る競争率が激しかったであろう中でその注目度は一定して高かったと感じます。

それはなぜでしょうか?

そのひとつの理由として

「素人感の温存」が戦略的にあったと感じます。

特に上記のオンエアバトルに初出演をしてオンエアを獲得した時のコントが分かりやすいのですが、当時の若手芸人の中でもおぎやはぎのこの風貌と佇まいは何処か異物感が強く、もちろん一般人として街中で目にしても気にならないぐらいの不特定多数的な範囲内に留まる見た目と喋り方をしていると感じますが、そのヴィジュアルとパッケージングのまま舞台上に上がる事そのものに「何とも言えない違和感」をあえて残したままネタを披露するやり方がセンセーショナルだったのを痛烈に覚えている人も少なくないのではないでしょうか。この「素人感の温存」をしたまま芸人という職業を名乗る事自体が革新的でありましたし、その後にアンガールズがその文脈をさらに更新してブレイクを果たしますが逆を言えばおぎやはぎのこの「素人感」の見た目やテンションのベースラインが絶妙に平均的な提示であった事を暗に物語っていると感じます。

そしてよく見ると小木さんが今の小木さんより若干テンションが高いです。いや高いと言うより不安定です。2人ともですがコントなのにそんなにちゃんと演技をしていません。ただこれをリアルだと言う事も出来るぐらいのギリギリのラインの台詞と振る舞いを許容する脚本の上に成り立っています。さらにここで重要なのは矢作さんのポジショニングです。小木さんのこのともすれば演技が下手とも、逆に変な人としては相当リアリティがあるとも、どちらとも言える微妙な雰囲気そのものをある程度同じ温度を保ったまま指摘するという役割に留まるのです。これによっておぎやはぎは「素人感を温存」したまま「コントの世界観としてはむしろリアル」という状態を手に入れています。素人感として小木さんに違和感を感じれば感じる程、矢作さんのツッコミに共感してしまい、そしてこれまた素人感として矢作さんのツッコミへの共感がこの人は近い存在だと錯覚を引き起こし、それを受け入れてしまうと徐々に徐々にいつのまにか矢作さん越しに小木さんの存在をおぎやはぎとして丸ごと許してしまうゾーンに突入するのです。ちょっと催眠術に近い構造があります。

初期の頃のおぎやはぎはこの小木さんを中心とする「素人感の温存」を面白さとして新しい文脈で表現し注目度を高めていきます。その小木さんの「素人としてのリアリティ」をボケとして消化するためにおぎやはぎのネタ(とくにコント)は「普通の人が普通という風貌や言動に留まったまま変人である」事にツッコミを用いるので「犯罪」が設定として相性が良かったのを覚えています。その描き方におぎやはぎの都会的な密室性がありました。「結婚詐欺師」「護身術」「クレーマー」「○○じゃない」「それを知っている」「可能性があるならば」などが特に好きです。なかでも「騙されやすい男」というコントは二人の関係性をかなり分かりやすく可視化していると思います。そしておぎやはぎは矢作さんから小木さんを芸能界へ誘うという形で結成したというエピソードもここで確認しておきたい要素であります。


さて「ネタ」におけるおぎやはぎの面白さを何となく確認出来たところで次は「トーク」の部分に移っていきたいと思います。

おぎやはぎのトーク

「トーク」でのおぎやはぎの面白さは「ネタ」で駆使していた「素人感の温存」を割りと残したままそれを即興の喋りの中で明確にボケツッコミに当てはめてゆきます。その丁寧な作業により会社の同僚との飲み会でお互いふざけあう様なノリを充満させ「内輪感を形成」してゆくのです。ただそこにテンションによる強引さやお笑い芸人特有の無茶ブリみたいな技法をあまり使いません。極めてその年代での自然な日常会話の延長線上にありながらいつのまにか綺麗にボケツッコミの役割分担になっているさりげなさに手腕にあると思います。

もちろんそれが全くもって摩訶不思議な手法なのではなく今すぐにでも友達と真似して出来てしまいそうな簡単なジャレあいをしたり平気で噛んだり言い違いをしてしまうようなリラックスしたトークをこれまたあえてラジオや狭い範囲でのメディアで行うことでハードルを下げ期待値をそんなに持たせない演出をしています。

そのようにして施した地盤の上で突拍子もない事を言ったりやったりするのです。しかも「ネタ」における他の若手と比べて芸人らしからぬ風貌と雰囲気によって注目度を集めていた力学の利用と同じようにトークでは「業界人、芸能人らしからぬ感覚」を言動に込めていきます。一般人と同じように週刊誌から芸能情報を集め一般人と同じように家族や知人の話を近況報告的に話す。その文脈におぎやはぎ自体がある特定の芸能界や業界人との垣根が最初からあまり感じさせなかったという特徴があるのですがそれは矢作さんの芸能界へ興味を持つ最初の入り口が極楽とんぼの加藤浩次さんと知り合いになる事から始まっているため交友関係の糸口をそこから広げていけたりする事である程度業界的なものに物怖じしない土台が固まっている事が要因に関係していると感じます。ここら辺の東京芸人特有の例えばバナナマン設楽さんが渡辺正行さんの付き人をやっていたり有吉さんが若くして売れて後に竜平会などに属する事などで生まれる横の繋がりの強いコミニティは、よしもとなどの関西の伝統的な芸人の縦社会とはまた別の文脈の芸能のあり方です。むしろおぎやはぎ側の方が芸能のとしては原始的な起こり方だと思います。話が横道に逸れましたがこの大御所と無名の若手や自分の身内と番組スタッフを同列で語るトークに「業界人、芸能人らしからぬ感覚」を面白さとする構造を発言の中にボケツッコミとして組み込んでゆきます。


結果としておぎやはぎはその「業界人、芸能人らしからぬ感覚」をここでもまた小木さんの言動や振る舞いに矢作さんがある程度理解したままやんわりと否定する事で内輪の空気に引きづり込むやり方を成功させています。その成功要因としてまず「近しい業界人、芸能人から引き込んでいった」事が一例として上げられます。小木さんは歌手の森山良子さんの娘である奈歩さんと結婚しその夫婦生活のエピソードを度々ラジオで話したり、矢作さんは所属事務所人力舎の芸人同士のライバル意識からくる険悪なムードを間に入り全体の潤滑油になる事で社風ごと和やかな雰囲気に変えていったり、ラジオのトークで「若者に人気なのはアニメだからアニメの企画やれば聴視率上がるだろう」と適当な理由と動機で企画を立ち上げまどかマギカというアニメを付け焼き刃の知識で語ったところ本当に聴視率が上がってしまったり、などなど。手前から徐々にその空気を共有させる事で少しずつ少しずつそのコミュニティ全体を覆ってゆく。そして空気で覆ったそのコミュニティの中でその自らの空気を少しだけくつがえすようなボケツッコミの関係を提示しそこでのみ強靭な磁場を持つパワーバランスを構築するのです。社会人経験をした後にデビューをした事もあって注目度の割にブレイクまで時間がかかったと言われるのはこの牛歩戦術がゆえのスピードの遅さなわけですがその分確実であり一度通用してしまえばなかなか崩せないやり方でもあると思います。

さぁ、この段階で既にお察しの方はいるかと思うのですが、おぎやはぎのコンビ芸の基本的なフォーメーションはネタと一緒の「矢作さんが小木さんを目立たせる。と同時に許させる」というある種の茶番をお約束として概念化させる事によって話を運んでいます。2人とも「素人感の温存」と「身内感の形成」で面白さを担保しているのですがどちらかと言うと「素人感」をボケとして小木さんが「身内感」をツッコミとして矢作さんが微妙に役割分担をして行使しています。お互いで名前を連呼し合う事で受け手に刷り込みをはかってもいるのですがよく聞くと矢作さんの方が「小木」という回数が多いです。これは小木さんの「素人感」という本来では芸能化されてない状態をボケとして処理するため対象の印象付けを行っているためです。つまり矢作さんが呼び面白さを意味付けている「小木」そのものに実体はなく、小木さん本人もその事を理解し矢作さんのイメージする概念としての「小木」に寄せていく事でボケであろうとするのです。小木さんはその概念としての「小木」の中のボケの文脈で「堂々とした掟破り」をする事で笑いを提示します。あくまで「小木」としてという事です。

このやり方は何も「小木」さんだけに行使しているわけではありません。実はこの面白さの意味付けはおぎやはぎのラジオでのワンコーナー「週刊おぎやはぎ批評」の中で原稿を読む升田尚宏アナウンサーにも施されています。アナウンサー特有の堅い空気感そのものを台本上で本人に「升田」と連呼させる事で概念化させています。その上で明らかに堅いままの読み上げ方で絶対本人がそんなキャラクターじゃないだろうという内容の台詞をなぞるのです。これを毎週反復する事によりバラエティ演者としては「素人感」から出発していた升田さんの面白さがもはや本人の自我とは関係無い領域で「升田」として皆で共有して成立しているという現象が起こります。空気を読むという日本人の性質の中に立脚した笑いのあり方だと感じます。

さらに進みここから主にテレビの中で「タレント」化させてゆく段階に突入します。

おぎやはぎというタレント

この辺りから2人は徐々に分離していきます。というか個々人でも成立していくように成っていくのです。なぜなら「業界人、芸能人、視聴者の引き込み」にある程度成功しているからです。おぎやはぎ自体の面白味がもはやそこそこの領域に伝わっているからこそメディア側からオファーがありそれにより出ている状態を作れているのでその発注された範囲の中で「おぎやはぎ」で居る事が役割になっているというわけです。それは「タレント」という仕事がそもそもメディアに出る事で視聴者に近しい存在だと錯覚させる工程の中で全体像を構築してゆくものなのですが、おぎやはぎの場合は最初から近しい存在だと錯覚させてからメディアに出ているのでその移行はとてもスムーズでした。

そしてこの辺りからおぎやはぎの「素人感」の定義そのものが少し変容してきます。

その素人感というものには受け手が勝手に自分に近しい存在だと抱いている先入観が含まれておりおぎやはぎはそれに乗っかったり裏切ったりする事で興味を持続させていたわけですが、それらが「ネタ」や「トーク」という範囲から出て「タレント」というプライベート的なものを含めて多面的に提示する段階になってきた時にズレが生じてくるわけです。さらにその先入観は時代とともに変容していきます。

今の時代の言葉だと例えば「素人感」という文脈には「陰キャ」「非モテ」「底辺」「オタク」「サブカル」「ネット」などなどいろんな要素が含まれており、おぎやはぎの持っている性質のヤンキー的、バブル的、プレイボーイ的な価値観と噛み合わせが悪くなってきます。おぎやはぎの「芸人」「業界」「芸能界」「テレビ」というものに対してのカウンター的な「素人感」「普通である事の面白さ」「身内感を構築出来ている範囲」そのものがこれまたおぎやはぎが施した手法と同じように視聴者の方も世代と共にジワジワと移り変わっていっているのです。

そしてその事を踏まえた上で分離していっているおぎやはぎの個々人の振る舞いはどうなっていっているのでしょう。

小木さんはそのボケとして概念化された「小木」が強まり、矢作さんはそれに反比例してゆくようにツッコミという常識人として身内となった「業界や芸能人」感が強まりました。小木さんのボケ方は毒舌とも天然とも取れません。「芸人」らしからぬ「業界人、芸能人」らしからぬ「素人感」の積み重ねの集合体の「小木」という概念そのものです。小木さんは空気を読んで空気を読まない発言をします。そしてその読まない空気の方向性が矢作さんの立ち位置である「業界や芸能人」のそれに向かってツッコまれるように行われるのです。


その最大公約数が今はバイキングという番組で発揮されています。「笑っていいとも」の後に始まったこの番組はテレビの見られ方がちょうど変容する過渡期のタイミングでその境目の場所に象徴のように君臨しています。視聴年齢やスポンサーの関係など様々な要因でこの形式に現在はなっています。

小木さんの面白さはラジオや深夜番組のゴッドタンのような場所の方がその理解の密度によって発揮されていると感じますが、バイキングや「99人の壁」や「金スマ」などのゴールデンと呼ばれる時間帯の番組にゲストとしてコンビで出た時や「水曜日のダウンタウン」で浜田さんや勝俣さんを企画の名のもとににイジってる時などはどちらかと言えば矢作さんの方がその立ち回り力を発揮していると感じます。

バイキングに限った事では無いのですが、前時代的には広く許容されていたかもしれない価値観を現代的なリテラシーと擦り合わせるかのように炎上と視聴率の狭間で生放送を行うという危険な綱渡り、それをどこか強いられている雰囲気の中で坂上忍さんを中心としたある種の観客の居ない演劇をリアリティショーとして観せている。そんな文脈がほのかに感じる番組としての立脚をしているように映る瞬間があります。そこで矢作さんはそれらをそこそこ器用に避けながらかといって無難になりすぎないようにコメントしています。ただそれは「小木さんを目立たせる。と同時に許させる」という行動原理の中で隠れ蓑的に遂行されているからこそ成り立つ演技性です。これは仮説の域を出ませんが、つまり矢作さんの立ち回りが際立つ時はある程度「小木さん(を含めたある対象)を目立たせる」という手法が含まれているため小木さんがそのコミュニティの常識的なものからはみ出やすくなる現象が起きているのではないでしょうか。

そしてその上で、小木さんの炎上気味な発言はその場で成立させる事が無意識のうちに命題になってしまっているところに構造的な問題があると思います。なぜならそれは「素人感の温存」の中で生まれた「小木」という概念を主に矢作さんが構築している「身内感の形成」部分に向けてボケとして放たれているからです。小木さんの過激に聞こえるその言動は「業界人、芸能人」という文脈の中で許されていたであろう常識のはみ出し方でありその「業界、芸能界」そのものが世代とともにズレてきたため、ある側面では保守的な身内ウケを狙ったその発言が笑いと共に受け入れてられた瞬間にその外側とは思いっきり乖離するというその地盤の根本的なズレを表しているのだと感じます。

さぁ、ここまで小木さんを中心とするおぎやはぎの面白さについていろいろ考えてきた事で何となくのコンセプトと実際どういう支持のされ方で知名度を上げたか、またどのように時代によって徐々に乖離してきたかが確認できてきたと思います。そしてそれは例の発言が出てきた背景もともに。あくまで個人的な捉え方ですが。

おぎやはぎから見る社会

ここからは芸能と社会のあり方です。
そしてそれを小木さんの発言から考えていきたいと思います。

というのも近年たびたび芸人さんの深夜ラジオなどでの発言が切り取られてネットニュースになりSNSを中心にそのモラルを問われ炎上騒動になるという一連の流れが定期的に発生する様になっています。最近だと思い当たるのはナインティナインの岡村隆史さんの「風俗嬢」云々の発言でしょうか。

この事に対する大まかな見解は爆笑問題カーボーイというラジオで太田さんが話した事や、サンデージャポンという番組でカズレーザーさんが言及した事、また大竹まことさんが自身のラジオ番組で社会起業家の藤田孝典さんをゲストに呼んで話している事などがメディアで芸人さんが語った範囲の中で重要な意味合いを持っていると感じます。

そして今回の件です。

おぎやはぎと炎上芸

小木さんの炎上はその時の岡村さんの発言と比較するとそのシチュエーションや文脈、メディア媒体、そして何よりボケとして発言している事などの違いがあります。

もちろん性別による差別や社会的な格差、ハラスメントなどの問題があった上で、メディアリテラシー、声なき声に耳を傾ける事、自由に物が喋れないと言われている空気、グローバルスタンダード、などのいわゆる多様性と言われている価値観とそれに問われる問題についても一人一人が考えていく事が大切な事だと感じます。

その発言が生まれるような思想自体を持つことは一人の人間の価値観の中では自由ですがそれが公の場で影響力を持った状態で発言している事に本人の自覚があまり無い事と実際それによって受けると予想される影響を考えると(ただ実際どう影響があるのか、またはあったのか、そしてそれを影響だと捉えるかどうか等含めてそれはまた今話している倫理的なものとは別の観点だけど重要な問題)それが笑いとともに冗談としてであってでも容認する事は出来ないラインが存在するしまたその発言が生まれる土壌も環境として大きな問題があります。ある側面ではそういった発言を誘うように小木さんを追い込んでいるとも捉えられてしまう可能性もあります。

ですがその上でそれを非難する発言もまた公の場で影響力を持った状態で発言している事に本人の自覚があまり無いとそれは立場が瞬間的に入れ替わるだけでその時の形勢の話になってしまい問題の根本的な解決にはストレートに進んでいるとは言いがたいわけです(ただ、だからと言って声を上げない方がいいわけではない)。小木さんに否定的な感情を抱くのは個人の自由ですがそれをSNSに書き込む時には例え個人的な感想であってもそれは何かしらの影響が生まれているという事です。それがどんなに支持を得ていても正論として強度があったとしてもそれを発信した時点でそれをどう捉えるかは受け手に委ねられるからです。それはもちろんこの記事も例外ではありません。ですがその観点が強くなりすぎると小木さんを擁護したい気持ちから批判した発信者を別の不特定多数の発信者が吊るし上げ的に批判してしまう状態に陥る負の連鎖がそこには発生しがちです。またそれらが対立的に深まるとそもそもの性別の差別的な問題点から議論などがズレる傾向も発生して良くありません。

そしてさらにもう少し突っ込んだ話をすればメディアの中でリアルとエンタメの境がありそれがわかりにくくなっている事も確かに問題ですがそれ自体は曖昧領域がありそして個人の主張と番組の責任は何処にあるのかをキチンと受け手の方も発信するのであれば見定めるべき事でもあると感じます。例えばこの文章でも小木さんの自覚の無さを前提に話していますがどれくらいの自覚の無さによってされた発言なのかは小木さん本人しか知りようがないしまたその発言はどれくらい番組が意図したものかも確認しようが現時点ではありません。ただこれを視聴者が意識するのは非常に難しいと思いますが。

普通と小木、矢作と普通

皆自分を「普通」だと思っています。実際皆「普通」です。「普通」とは概念化されたそれぞれの中の総体としての「普通」なので実は実体がありません。「普通」は平均の事ではなくおのおのが自分から見た「普通」という視点による「価値観」の事です。そうです。これは「小木」という概念と構造としては全く一緒なのです。

「普通の人が普通という風貌や言動に留まったまま変人である」という小木さんの面白さは、他ならぬ我々一人一人の中に実は時に常識として時に狂気として潜んでいます。だからこそ皆社会生活を営む中で空気を読み規律を守り時代の流れに乗り一人一人が社会そのものを形成し生きていくのです。「巨大な身内の中にいる素人」として。

小木さんの例の発言は再三重ねて述べてしまいますがもちろん問題があり、そしてそれが自分の立場と影響力を自覚していない本人の問題と、把握しにくい業界の成り立ちの問題と、そしてその発言を切り取って揚げ足取り的に晒すネットニュースや週刊誌などの野次馬根性めいたメディアの問題と、大衆の顕示欲としての芸能人や公人の引きづり下ろしがある種ショーになってしまっているモラルの問題と、そしてそれらを受け取った個人がSNSにより拡散してしまい大きな力を持ってしまうけども全体の流れとしてもはや止められないネット社会の問題と、さらに言えばそういった副産物的な問題が最も重要であるはずの抜本的な差別や格差や分断の問題解決そのものを遅らせている要素があるという社会構造全体の問題があります。そしてさらにその問題に対して例えお笑いの中から出てきた発言であろうともそれは社会や文化や歴史の何たるかを反映していると思うのでつまり実は別の見えにくい問題も隠れているという事だと感じます。この件に関しては女性軽視問題の影に言語化されていない男性軽視問題が紛れている背景があるという事だと思います。それは決して相反するものとしてではなくただ複合的に絡み合っている中で小木さんが半分無意識的に問題提示をしている形にもなっています。ただそれもどう捉えるかは個人の話でありこれは僕の個人的な捉え方のひとつに過ぎません。何よりこの記事ではそもそもの問題点である性別による差別や分断の問題について把握し掘り下げれてはいません。それもまた間接的な問題の根深さの提示になってもしまっています。



僕は個人的にはおぎやはぎを芸人として面白いと思っています。それと同時にこれらの社会問題も考えていかなければいけないと思っています。その2つは切り離して捉えるのではなく複合的に絡み合ったまま2つの事象として見つめていく事が大事なのかなと感じています。


いろいろと芸能と社会のあり方について考えてみましたが、なんだかんだで最後は話をおぎやはぎに戻してまとめて終わりにしたいと思います。

おぎやはぎは漫才の冒頭のツカミで

「小木です」「矢作です」「おぎやはぎですけど何か?」と言います。
そして時たま「何か問題でも?」と言ったりします。

この時たま言う「何か問題でも?」の不意打ちに観客は笑いますし、またそのフレーズの違和感の提示をさも当たり前かのようにしてくるので我々はそれを流してしまいます。

しかし「何か問題でも?」という発言は問題を自覚してないからこそ出てくるわけで、そしてそのおぎやはぎの自覚の無さの問題に我々は心の中でツッコむもののそのままその違和感をある種の流して許してしまっています。ただその問題の責任はおぎやはぎだけにあるわけではありません。

問題は私達一人一人がその問題に気づけるかです。
常に問いかけるべきは他ならぬ自分自身に向けてです。
小木さんの発言と存在はその事を気付かせるきっかけにはなっています。
これはお笑いの中で表現されているボケなのだけどそれは同時に社会の中から生まれている概念のひとつでもあるのです。自分が矢作になったと思ってツッコんでる時こそ人は「小木」になるのかもしれません。その時は自分に問いかけたい。


何か問題でも?   と。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?