夕日が大きな目玉焼きにみえる。
人間というのはすばらしいもんだーーどんなことでも折り合って暮らして行けるようになる。
アーヴィング「ホテル・ニューハンプシャー」
「夕日って目玉焼きみたいだね」
女の子はそう言いながら、両手で形作った円を夕日に重ねていた。
僕はというと、夜の闇が次第に空を侵食してきているのを見て、醤油かけすぎだろ、と思っていた。
そう、目玉焼きにかけるのは醤油かソースかという議論がこの世に存在すること、それ自体が信じられないほど、僕は醤油派だ。
西日が差している。
特に用もなく向かった吉祥寺で、特に何をするでもなく時間を過ごして、喫煙所を探し始める時分、西日が差している。
バスを待つ老人と高校生のおりなす列に加わる時分、西日が差している。
あまりに長く伸びた列は近くの交番まで届きそうになっていて、今並んでいるこの列がバスに乗るためのものなのか、交番に相談をするためのものなのか、少し不安を覚える時分、西日が差している。
「明日の朝も目玉焼き作ってね!」
女の子は両手の円を解いて、今度は母親の腕をしっかり掴んでいる。
僕はというと、夕日のせいで感傷的になって、思い出したくなかったことを思い出していた。
恋人とひどい別れ方をしたこと。ひどいのは僕の方であること。もう戻ることはできないこと。戻りたいのかはわからないこと。何もかも、わかりっこないこと。
西日には、夕日には、何かを思い出させる力がある、と思う。
フジファブリックの、志村正彦の、せいではあると思うけど。
でも実感としてもあるから、これは僕のものでいいね?
僕は、僕らは、ほとんどのことを忘れることができなくて、そこから漏れたほんの少しのことは忘れてしまう。
忘れていたと思っていたのに、忘れたかったのに、夕日はそれを思い出させて、僕らを感傷の海に投げ入れる。溺れそうになるくらいの勢いで、投げ入れやがる。
水泳ならなるべく避けてきたし、救命胴衣なんか着ているわけもないから、大体溺れる。
でも苦しいのも悪くない、とか、思ったりもする。
たぶんちょっと、そんな状況に酔ってる。
「もう目玉焼きなしじゃ生きられないの」
そんな言葉遣いどこで覚えてきたのよ、と顔をしかめる母親の顔は紅潮していて、それを見て女の子は微笑んでいる。
僕はというと、まだ過去に足を引っ張られていて、腕時計ばかり見ていた。やっぱり大して時間は進んでいなくて、なんだか恥ずかしくなっていた。
過去は、隔たることなく、現在まで伸びている。
過去は、その解釈を変えることはできるけど、起きたという事実を変えることはできない。
自分の存在を認めるなら、どれぐらい噛むか、味わうか、それを選んで飲み込むしかない。
「夕日ぐらい大きな目玉焼きがあったらいいのになあ」
女の子はその存在をほとんど信じていて、母親はそんなのを作るのはごめん、という顔をしている。
僕はというと、ぐりとぐらのことを考えて、それから海面から顔を出そうとしていた。
夕日が大きな目玉焼きにみえる。
夜の闇がその身を焦がし、鳥のさえずりが時間をうたう。
ねえ、朝食の準備ができたみたいだよ。
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