結局自分次第
なんとなく書きたいことがあったので長文になりそうだからここに書き留めておこうと思いました。
小見出しもつけないので読みづらいかもしれませんが、読んでくれる人がいたらそれだけで幸せです。
人は何かを得るために何かを失わなければいけないと思ってます。例えば好きな洋服を買うために頑張って稼いだお金をそれに使うことで手元のお金は無くなります。この人と過ごしたいからと思って使った時間でもしかしたら睡眠不足を解消できたかもしれないとか、今寝れるのは幸せだけど起きて勉強すればよかったとか。
行為の裏にはそれに伴う代償ってつきものだと勝手に思ってます。勝手に思ってるというか多分そうなんでしょうね。
でも失うことが悪いことだとは思いません。全く思いません。むしろ得るものがあるなら失うものもあるべきだと思ってます。
それって人間関係も同じと思うのは私だけなのでしょうか。
人口の数だけ考え方はあります。これは私という1人の人間の考え方ですからそこまで悲観することも落胆することもないでしょう。私の考え方なので。
例えばあなたには好きな人がいると仮定しましょう。その好きな人はあなたにとってはものすごい都合がよく、あなたが求める理想の人物像だとします。しかしその好きな人は世間一般から見たらあまりいい人ではないと言われています。もしあなたが好きな人と結ばれば世間一般の人からは偏見の眼差しで見られることでしょう。しかしあなたはその人と結ばれれば自分が理想とする幸せのカタチを実現することができるのです。
こう考えみれば、出会いと別れがある人間関係って得るものがあれば失うものもあると考えることができませんか?
なんでこんなことを書いたかというと別に特別な理由などないのですが、私はよく自分の人間関係に対して後ろ指刺されることがあります。
もちろん、私のことを理解してくれてる人たちは全くそんなことはしてきません。してくる人は私のことをほんの少ししか知らないのに先入観だけで判断してくるような人たちです。
その人たちが悪いと言いたいわけではないです。でも一つだけ。一つだけ言いたいのは誰かに後ろ指を刺すということはあなたも誰かに後ろ指を刺されているということです。それだけは理解しておいてください。
自分の価値観を人に押し付けたり、自分が思う正しさを人に押し付けたり、自分の成功体験を人に押し付けたりしても何にも意味がないのです。それはあなたが得たもので、私が得るものとあなたが得たもの、私が失ったものとあなたが失ったものの価値は同等にはならないからです。ものの価値尺度も一人ひとり違います。それなのにこうあるべきだとかこうしたほうがいいとかそれは単なるあなたの成功体験であって、仮に私があなたと同じことをしても私がその成功体験を得れる保証など1ミリもないのです。
誰かに後ろ指を刺されて、その指を刺してくる人を仮に失ったとしてもそれ以上にいいもの得れると私は思ってます。でもそれは必ず自分を信じた先にある結果だと思います。誰になんと言われても自分を貫き通すこと。それにつきます。しかしそれをやるにあたって一つだけ忘れてはいけないのは矢印の向きです。自分で決めたことに対してうまくいかないときに人に矢印を向けてはいけないのです。その行為をすると決断し、そのために失ったものがあったとしてそれはあなたがもたらした結果です。そういった結果を作る原因を生み出したのもあなたです。あなたが得た結果の原因は全てあなた自身なのです。
よく人のせいにする人はいると思います。それを否定するわけでもありませんが、いつか自分に返ってきます。それならとことん自分と向き合って自分に矢印をつけて自分を磨いて、失ってもいいと割り切れるくらいの得れるものを目指してとことん矢印と向き合う方が私はかっこいいと思ってます。
矢印の向き。原因も結果も全て自分。
私の高校時代のノートの1ページ目に必ず書く言葉です。
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