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物申さないという選択




ここ最近、Xのアプリを開いたら写真やカメラに関しての愚痴や棘のある呟きが沢山目に入ってくる。メーカー批判などの声も多く見える。


これはXのアプリケーションのせいでも、そういった発言をしている人のせいでもなく、それを見てしまった自分自身のせいである。

不必要な情報やノイズとなる情報をいかに見ないように聞かないように工夫するかが重要なのだがそれが不足している結果であろう。

見ないように、聞かないようにという観点では、タイムラインの任意のワードやアカウントをミュートする手段と、アプリ自体の使用時間を制限するスクリーンタイムの設定の主に2つを行なっているのだが、まだまだ工夫不足だ。




ただその反対に、自分自身が加害者として情報を見る側の人に不快にならないように、意見であったり、物申したいことをグッと耐える行為も非常に大事なことなのだなと最近は感じる。

自分自身過去に物申してしまったことはあるだろうし意識せず行なってしまうこともあるため反省をしなければならない。

自分が興味関心の有るトピックに関してはついつい口に出したくなってしまうのが人間の性で有り、呟きの半数以上は人を不快にさせてしまう可能性があると思っている。

正しいと思われる発言をしても例えばXでの140字といった短い文章では読み手も誤った捉え方をすることは少ないないだろう。

もちろん、反対意見ではなく、賛成意見を述べるケースも有るかと思うが、その意見が別の読み手に拡散されて反対意見を呼び寄せるパターンも有るし、自由に発信出来るプラットフォーム=制限無く戦争が起こるプラットフォームなのだと思っている。

SNSは本来自由に発信できるプラットフォームだからこそ、意見を控えてしまうのはもったいないという考えもその通りだと思うし、大多数の人がそう考えるであろう。

しかし、自分のSNSの使い方は情報受信の目的というよりは日々淡々と写真を発散するジムに近いのかなと思っているため、アナリストや評論家、お得な情報を発信する先生のようなポジションにはならずにあくまでプレイヤー、トレーニーのようなポジションでSNSを利用したいなと思っており議論を活性化、激化させる狙いは自分には無い。

(そういったポジションを否定している訳ではなく、有益な情報を提供して頂いているのであればむしろ肯定的だ。)



アート作品でも音楽でも写真でも発信というアウトプットをし続けないと上達もしなければ成果も出ないことは明確であるため、頻繁な発信は必須であると思っている。
ただし、その発信の仕方には気をつけたい。

触れたら負け。首を突っ込まない。物申さない。
これは自分への戒め。

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