嬉しい青筋

「血管フェチ」という言葉を知ったのは、中学2年生頃だったか。
主に男性の手の甲や腕に血管が浮きでているのを見て心をときめかす傾向にある人種のことだ。共感者は思ったより多い。
たくましい感じがするから、生きている感じがするから、ちょうど良く野性味を感じるから。フェチを公言するからには何かしら理由があって、みんなが挙げるそれはどれもこれも頷けた。

私は自分の血管が好きだった。
今でも、手の甲に青い凹凸が浮いているとなんとも言えず安らかな、それでいて昂るような気持ちが沸き起こる。授業中、息を止めたり力を込めたりして青筋を浮き上がらせ、眺めているだけの時間もあった。

身体の中に、べつの自分がいる。
いるかもしれない。
いてほしい。

年齢が上がるにつれて、自分の性別を意識しなくてはならなくなった。
男の子に交じってテレビの話をしているとき、ふと周りの視線が気になった、小5。
固定の女の子グループに入らなかったくせに、異常に空気を読んで立ち回り勝手に疲れていた中学時代。
性差を意識しつつも、どちらにとっても対称の存在であろうと模索した高校時代。

結局なにがしたかったんだろうと、今思う。
人と違っていたかった。目立ちたかった。出たがりだった。人に言わせればそんなもんだし、自己評価としてもそんなもんだ。
3歳からダンスを習ってて、思えばそこが出発点だった。三つ子の魂ってやつらしく、結局ダンスを辞めたあとも合唱部に入り、演劇部に入った。小~高校まで。大小問わずステージに立たない年は無かった。そして、今の大学を選んだのも演劇が好きだったからだ。

自分の身体を使って、自分以外の身体になる。
高校時代の演劇経験で、私は自分の変身願望にあまり気づいていなかった。むしろ、その四文字で言い当てられることを恐れていたかもしれない。
変身願望ってつまり、自分の人生を放棄したい願望のことじゃないか。努力をしないで逃げる人間が、小さな胸の中でぐつぐつと煮やすものじゃないか。

そんな思い込みから、わたしはわたしの変身願望を認めなかった。

今、同年代の友人らはのきなみ就職活動に打ち込んでいる。毎日忙しそうだし、心の疲れを吐露するツイートが、おのおの目に見えて増えている。

もういまからでも逃げ出したい。自分のことは大好きでいたいのに、コテンパンに嫌いになって、そのままエントリーシートを書いて、髪を染め直して、笑顔でオンシャオンシャと唱えている自分が全く想像つかない。しかも就活って、それを理由に人間関係がひとつ終わるくらい重大らしい。どういうこと? なにも分からない。考えたくもない。

自分の人生なんだからと言うが、私は今まで自分の人生だと思って生きた記憶がない。家庭的には何不自由なく育ててもらったし、楽しいことはいくつも享受してきた。なかには自分の意思で選んだものもあった。それでも、自分の意思だけが自分の人生を形作っている訳じゃないし。

気の置けない人たちと冗談を言い合って予定を立てて、親から振り込まれた生活費で好きに買い物をして寝て起きて…
この暮らしが一時的なものだと分かっているけれど、どうしても自分にはこれから先の人生を自分の手で引き受けるビジョンが描けない。
なんとなく生きても損しかしないのは分かっている。ポイントカードを作りそこねたままあの薬局に通うことと、よく考えずにとりあえず○○志望ですかねと口先だけの未来を貼っつけておくこと、まったく延長線上でしかない。

この、手。中途半端な指を5本も付けた手。
こいつがこれから選びとる未来?
いやいや、想像つかねーし。ここまで書いて嫌な予感がようやく言葉にできるのだが、私はきっとやればできるのだ。やればできるのにやらないを、想像つかないとかスキルがないとか御託を並べて机上の空論に仕立てあげてわざと取りにがそうとしているのだ。事故ならもう仕方ないね。

私が求めてるのは生ぬるい諦め笑いじゃないのに。
私はまだ他の身体になりたがっている。
青筋を浮き上がらせてまた安心している。