教育と職業と楽しむ力
職業欄が色々な書類にあるのは何故なんだろう、といつも思います。
以前何かの本で、「初対面の人に職業を聞くことほど失礼なことはない」という意見を読みました。
ですが日本では、ありとあらゆる書類に「職業欄」があり、世間話のノリで初対面の人に「お仕事は何を?」と聞きがちな気がします。
私が特に疑問に思うのは、「職業とか仕事って必ずないとダメなの?」ということです。
働いていないことは悪いことなのでしょうか。
「働いていない」と人に言うと、大抵の場合理由の提示を無言で求められます。
子どもが小さくて…
介護があって…
資格の勉強中で…
持病があって…
このような理由を提示すると、「それなら(働かなくても)仕方ないね」と言われます。
そしていずれ上記の理由がなくなったら働くんだねと、言外に言われている気持ちになります。
こういった「働くことが当たり前」の風潮があるからか、
学校で習ったことを将来使う場面をイメージする時「仕事で使っている自分」を想像することが多いのではないでしょうか。
「暇と退屈の倫理学」(著・國分巧一郎)の中で、ラッセルの『教育とは楽しみ方を教わることだ』といった内容の引用がありました。
教育が目指すべきなのは、仕事人として社会の役に立つための知識ではなく、1人の人間が人生を楽しむための知識の習得なのではないか。
人生を「楽しむ力」を育てることが教育現場や親の役目なのかもしれない。
上記のラッセルの引用を見て、私はそんな風に感じました。
仕事はしてもしなくてもいい。
そもそも「仕事」とは何か曖昧でもある。
金銭を生み出さないとしても、
子育てでも介護でもボランティアでも趣味でも、
どんな名称がその行為に付けられているかが問題ではなく、
自分の持ってる力を誰かのために少しでも使えたらそれでいいのではないでしょうか。
アドラーの提唱するような「他者貢献」が大切なのであって、それは必ずしも「仕事」である必要はない。
仕事をするのが当たり前という感覚が薄れ、仕事でも仕事以外でも、それぞれが楽しんで支え合える社会だったら面白そう。
そんな風に思う今日この頃です。
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