見出し画像

「花束みたいな恋をした」に仕掛けられた坂元裕二の「罠」について

※本作は作品およびある作品の決定的なネタバレを含みます

「最高の離婚」「カルテット」などの近作のドラマ脚本によってほとんど神格化に近い評価を得ている坂元裕二脚本による映画である本作。
簡単にあらすじを説明しておこう。東京の大学に通っている麦は、あまりキャンパスの中では存在感がないがイラストレーターの夢をぼんやりと持ちながら自分の趣味の世界に浸って生活していた。一方絹も、ラーメンブログをやりつつ大学生活を過ごしているとき、二人は出会う。ファミレスで趣味を語り合いお互いをわかり合ううちにまるで自分のような人を見つけたことに感動した二人はすぐに恋に落ちる。しかし二人の間に就職や経済、そしてなにより時間によってすれ違いが生じていき二人は別れる。その二人の「花束のような」恋の五年間を描いた作品。


今作を観て、絶対にしてはいけないことがある。天竺鼠、今村夏子、きのこ帝国などの作品に散りばめられた多くのサブカルチャーの固有名詞について延々と述べること。さらにそこに自分の思い入れなんかを加えて自分自身の輝かしい恋愛のときを語ったりした日にはもう目を当てられない。しかし本作の感想の殆どはこれによって埋め尽くされているわけだが、おそらくそれこそが坂元裕二のしかけた罠だ。

むしろ、本作において「語られなかったこと・もの」のことのほうが重要に思える。本作はかなり周到に、この二人のこと以外の人間関係をほとんど描かない(恋愛にありがちな第三のライバル登場など)のと同じくらい、周到に取り上げる固有名詞を選んでいる。そこに出てこないものには例えば「テレビ」がない。彼らはテレビの話を全くしない。twitterなどの「SNS」もない。絹はラーメンブログをしているが(おそらく2015年ならブログよりも食べログのレビュワーになるだろう)あとはサブカルチャーは話題にしてもオタク的なものは出てこない(ギリギリ、「新海誠」が出てくるが)音楽でもその頃を中心に盛り上がってきた日本語ラップの話題も全く出てこない。場所も静岡のさわやかが限度だが二人は食べることを断念し引き返し、そこより西は出てこない(ぎりぎりが「たべるのがおそい」が九州の雑誌だという紹介だ)「カルテット」で吉岡里帆が演じる元地下アイドルや、ラッパーであるマミーDを俳優として出演させているにも関わらずそれを出さないのは「避けている」と言っても間違いではないだろう。そしていうまでもなく2011年の震災と2020年のコロナの間の期間の話である。ついでにいうと2015年ならこの手の感性の人は「わかりあう」ではなく「わかりがある」と言うだろう。

一方で、「作品に登場はするが言及されないもの」は概ね否定的な印象をもって登場する。カラオケで大学生によって歌われるGReeeeNやSEKAI NO OWARI、後半麦が手に取る前田裕二の「newspick」系の本など。これらのものは概ね「みんな」が知っているものとして扱われる。「大衆」という言い方でもいいし、「社会」という言い方をしてもいい。つまりこの二人は「社会」と隔絶した場所にいる。二人が住むマンションはベランダから多摩川が見えるが、そこは彼らにとって彼らの世界の際で、そこから向こうは滝になっているのだろう。ちょうど中盤、自分の仕事が嫌になって運転しているトラックを水没させたドライバーが登場するのが象徴的だ。

麦は夢の挫折と就職によって決定的に変わっていく。自分たちの世界の外へと踏み出してしまう(彼だけ静岡のさわやかで食べることができた、厳密にはそう思いこんでいた、というのは一つの隠喩だ。)そうしてすれ違っていくうちに二人は別れの時を迎える。かつてのファミレスで語り合い、二人はかつての関係から変わってしまったことを確認し合う。しかしそれでもいいという麦と、あの頃に戻れなければ駄目だという絹。その二人が話している近くの席、かつて二人が座っていた席に若い男女がやってくる。そして二人は語り合う。好きな音楽や本の話。かつての若い頃の二人がそうしたように。思わず駆け出し、泣き出してしまう二人のシーンが文句なくこの映画の最大の白眉だろう。

このシーンを、多くの人が若かりし日の二人の姿を思い出して涙したと解釈する。出会った頃の、恋が始まった頃のあの瞬間、二人の理想だった頃を思い出し、しかし自分たちはそこには戻れないことを決定的に知ってしまったと。

しかし、本当にそうだろうか?

自分はむしろ、あのファミレスのシーンが描いているのは「理想」ではなく「絶望」であったように感じた。二人がお互いを「特別」だと感じていたあの瞬間を、今若い見知らぬ二人が目の前で再演している。そしてそこで語られる固有名詞は「きのこ帝国」から「崎山蒼志」へと入れ替わっているだけの。かつてそれを好きである自分たちが「特別」であると思っていた固有名詞たちが、実際は単なる入れ替え可能な記号でしかないということを知ってしまったことによる絶望ではなかったか。

このシーンを観たときに連想したシーンがある。「ブレードランナー2049」、人造人間レプリカントであるジョセフが生きがいにしていたホログラムのアイドルであるジョイは、劣悪な環境でひどい仕事をしながら差別的な待遇をうけているジョセフを常に励ます。そして言う「あなたは特別な人間よ。joe」
ストーリーが進展していくにつれ、その「自分は特別であるかも」という可能性は潰え、愛するジョイさえも失ってしまう。そんな彼に畳み掛けるような絶望的な出来事が起きる。「製品」であるジョイの街頭コマーシャル。「誰もが求める理想の自分の姿に」というコピーとともに現れるジョイはジョセフに語りかける。「あなたいい人ね(good joe)」自分が特別だと支えてくれた言葉が、実は単なるAIのプログラムの定型でしかなかったということを知った瞬間。

だからこそ、この映画や映画に出てくる固有名詞をダシに自分を語ることは非常に危うい。それこそ、「自分は特別である」と思い込んでいる自分自身を開陳することにほかならないのだから。語れば語るほど、自分がまだ心の多摩川を越えていないことを語っていることと同義になってしまうのだ。


物語の最後、「SMAP」という言葉が出てくる。彼らの使う言葉としてはかなり「開いている」この言葉が登場するのはなぜだろうか。SMAPといえば言うまでもなく連想されるのは「世界に一つだけの花」だ。僕たちはそれぞれがもともと特別なオンリーワンであるというこの曲。だとすると、それぞれがオンリーワンである花がまとめられている「花束」は一体何を意味するだろう。「自分だけが特別」だと思っている人たち、しかし実のところ人まとまりでしかない我々、そういう意味ではないだろうか。そして、二人は決定的にそれをわかってしまった。「SMAPが解散してなかったら、2人はまだ一緒だったのかもしれない」しかし、たしかに特別な恋愛「だと思い込む」ことはもう不可能であると知ったからこそ、二人は次へと行けたのだろう。むしろその「特別な恋」がどこにでもある「普通の恋」(これは作品にも頻出する菊地成孔の代表曲である)であると知ったからこそ。

しかし最後に蛇足的に思うのは、麦は長岡出身であるのに大林宣彦監督の「この空の花〜長岡花火物語」(2012年)を観てなかったのだろうか?多分本作を観ているだけで、花火に傾倒する父親との決定的な断絶は避けられたと思うのだが。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?