「自分らしく」「個性を活かして」「一人一人が輝ける社会を」
こんな言葉をよく聞く。時代柄、自分の個性を全面に出し、かつ、それを受け入れる社会が必要となってきているからかもしれない。
ただ、この言葉たちを心の底から、「自分自身」で使えている人はきっと「自己愛」が強い人なのだろう。こういう言い方をしたら、誤解が生まれてしまいそうだが、そういった人たちを馬鹿にする気持ちは一切ない。むしろ尊敬している。自己愛が強いということは、無敵だからだ。絶対的な見方が自分の中に存在しているということは、人から何と言われようと、思われようと、「私はこのままでいい」となんの疑いもなく思い続けることができる。
かく云う私も、ついこの間までそちら側の人間だと自分に思い込ませてきた。なぜその思いが破綻するに至ったかは今回は割愛するが、今は好きでも嫌いでもない。いや、好きな面も嫌いな面もあるという方が正しいかもしれない。好きな面を全面的に受け入れられる通称「こころbest期」が訪れているときは何の問題もないのだが、大変なのは、「こころworst期」だ。
「なんで私はこんなんだろ」
「なんで私はモヤモヤする気持ちを抱えながら生きているのだろう」
という問いたちが自分の中で反芻する。沼にはまって、抜けようと動けば動くほどさらにはまり、結局、その場で静かに、沼にはまるスピードを限りなく遅くするしか方法がないあの感覚に近い。
こころworst期は誰にでもあるものかもしれないが、それはどうでも良いことで、問題は、こころworst期とどう闘うかということだ。こころbest期のように自分の良いところに焦点をもっていくのか、それとも、全く違うことを考えるよう努めるのか、様々な方法があるだろう。だが、何もせずに沼にはまるのが、もしかしたら一番楽なのかもしれない。ただ、それには底知れない恐怖が付き纏う。沼は底なし沼かもしれないし、見たこともない魔物が住んでいるかもしれない。だから、足掻こうとしてしまう。けれど、この足掻くという行為が一番自分を苦しめているのかもしれない。
自分の悪い状態を受け入れられず、そこから這い上がろうとする。これはめちゃくちゃ元気な人にとってはできることだと思うし、むしろこれを私だってやりたい。だが、「できないー」「もう諦めよー」という気持ちが八割を超えることが日常茶飯事な今それをやるのは難しい。それならいっそ、沼をそれなりに楽しめれば十分なのかもしれない。冷静になったら、実はその沼は温泉成分が含まれているかもしれないし、沼の魔物はめちゃくちゃ気の良い魔法使いで私の願いをたまには叶えてくれるかもしれない。気が滅入っているこころworst期にこんなにポジティブには考えられないかもしれないが、沼もないよりはあったほうが人生楽しいな、なんて思える日が来るかもしれない。
ここまで、それなりに自分に納得をさせるためにだいぶ「かもしれない」を使ってしまったが、人生なんか「かもしれない」の連続ではないか。何択かもわからない選択肢の中から正解っぽいものを決め、その方向に舵を取り、進んだ先がまあまあよければ正解ということにしてしまう。やはり曖昧なものなのだ。曖昧な世界から曖昧な選択をしているのだから浮き沈みがあるのは当然のことだ。そう思うと、こころworst期も愛せる日が来るのか来ないのか…。そんなことを思う20210423。
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