220125 日記 [録音ファイル_150220]

足元がふわふわと浮足立って落ち着かなくて、それなのに気持ちは沈んでいく。耳の奥がぎゅっと詰まるような感じがして、それなのに頭の中ではぶんぶんと無数の機械が唸っている。理由もなく憂鬱な日。

そういう日に必ず聞く録音ファイルがある。



人生で出会った中で一番歌が上手いと思った人は、大学の先輩だった。

それはプロの歌手でもなく、ただ教会や時折サークルで歌う、普通に一般人の先輩。それでも彼女はまぎれもなく、人生でもう二度とは出会わないであろう「いちばん」だった。歌が上手いと言うのは、少し違うかもしれない。この世の誰よりも、心動かされる調べを歌う人。


光が降った。

柔らかくて白い光が零れ落ちるように降るのが、本当にこの目に見えたんだ。彼女が息をこぼした、そのたった一音で、そこに光が降った。

目の前で歌っているはずなのに、彼女の声は天上から降るみたいに、どこから鳴っているのかわからない。そして、聞こえるんだけじゃなくて、目に見える。

生きてきたなかで、一度も聞いたことがない音だった。音なのに、光だった。光なのに、言葉にも見えた。そしてそれは、この世のどこにもない言葉だった。

これが「音楽」っていう調べ。

ほんものの音楽を、生まれて初めて聞いたんだと思った。


それから先輩が卒業するまで、学内の公演やらライブやら教会やらで歌うと知っては、こっそり聞きに行った。彼女は気さくで愛らしい人で、2人でご飯に行くくらいには普通に仲が良かった。可愛がってもらっていたからそんなに遠慮する必要はなかったのだけど、でも、彼女が歌っているところを撮ることはできなかった。終演後に話しかけに行くことすらできなかった。

歌う先輩は「音楽」そのものだったから。いつも惚けて逃げるように会場を出て、一人きりの場所を探した。息を凝らして、自分の中に残った「音楽」の欠片を抱きしめていた。


それくらい特別だった。今もずっとそう。ずっと特別なままだ。


先輩は卒業するとき、最後に小さなコンサートを開いた。天井の高くて綺麗な食事ホールで、グランドピアノの伴奏で歌う、小さな小さなコンサート。ささやかな感謝と愛を伝える場にしたくて、と直接声をかけて招待してくれた。

「いつも聞きに来てくれてたの、知ってたよ。ありがとう。最後に歌うから、よかったら来てね」

そのときに一大決心をして、最前の席で録音をしていいか、初めて聞いた。後輩の緊張の面持ちが可笑しかったのか、先輩は目を丸くした後、「なあにそんなの!したいようにして」と言って大きく笑ってハグをした。


「おんがく」という合唱曲がある。

かみさまだったら
みえるのかしら
みみを ふさいで
おんがくを ながめていたい

「おんがく」木下牧子

神様にしか見えないはずの音楽が、先輩が歌うと見えた。

眺めることのできない音楽が、雲間から光が差すように、天から降ってくるのが見えた。

触れられるはずのない旋律が、頬を撫でるみたいに優しく降って滑り落ちていった。

耳を塞ぐなんてそんなことは死んでもできないけど、きっと耳を塞いでも光が降るんだろう。


小さなコンサートは、彼女が愛した人と、彼女の音楽を愛する人でいっぱいだった。先輩は海外に進学する。たぶん、戻ってこないかも、と大きな口で笑っていた。

最後に聞いた音楽は、そこで見た光の欠片は、心の奥に焼き付いている。そして震える手で録音した彼女の歌声は、今でも、録音の電子データの中でも、泣きたくなるくらいの光で、ずっとずっとお守りなんだと思う。


先輩が最後に歌った歌:home by Gabrielle Aplin

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