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ホモ・サピエンスの涙 鑑賞感想 -終わりの無さ/無限について-

『ホモ・サピエンスの涙』(原題直訳: 終わりの無さについて)観た。

ずっと映画館で観てみたかったロイ・アンダーソン監督の「動く絵画」とも名高い映画。淡々と連綿と各々の日常が連続的に続くところに、私がこれまで持っていた「永遠」の概念とは全く異なる「永遠(終わりのなさ)」を見た。


印象に残ったシーン覚え書き(順不同)

バーのシーン。
雪が降る外を眺めながら突然男が問う。「素晴らしいよな?」
別の男が答える。「何が?」
男は讃歌する。「すべてだよ。すべてだ。すべて素晴らしい。」「そう思わないか」誰にともなく何度も語りかける。

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駅のシーン。
電車で帰ってきた父親を待つ少女とその母親。父親が降りてくると少女は駆け寄り、抱き合って再会を喜ぶ。夫婦はハグを交わし、3人は帰路へ。
最後に降りてきた1人の女性。
「ある女を見た。自分を迎えに来る人は誰もいないと感じていた。」
電車から降りた人たちが去って、無人の駅のベンチに独り腰掛ける。遅れて迎えにきた男性。抱きしめて彼女の背中を擦る。深い溜息のような至福。2人は駅を出て行く。

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親子のシーン。
豪雨の中、野原で傘を差した父と小さな娘。娘は立ち止まり、靴紐のほどけた足を差し出す。父親は雨の中、傘を投げだして小さな足に向き合う。傘が転がり、父親は追いかけた。娘はじっと待っている。綺麗な格好をしていた。誕生日パーティーに向かうところだった。傘を引き寄せ、靴ひもを結び終えた父親は娘の手を取り、歩き出す。

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若いカップルのシーン。
少年が少女に説明する。熱量学の理論によると、全てのものは形を変えて別の形で存在し続けるという。
少年「どんな物も今とは違う姿で現れるかもしれない。君も生まれ変わったら次はジャガイモになるかも。もしくはトマトか」
少女「私、トマトの方がいい」少年は頭を抱えた。

「私、トマトの方がいい」...作品のタイトルに使ってもよかったくらいだね。タイトルだけで相当観客数を伸ばせただろう。美しくて愉快な表現だ からね。
(ロイ・アンダーソン監督コメント抜粋)


感想・レビューのようなもの

ほかにも印象に残ったシーンはたくさんあるのだけど、多くが孤独や悲哀、絶望、憂鬱を描いていた。問題のある現状をひっくり返すような動的なことは起きない。ほんの時折ひとしずくの喜びを湛えたシーンが混ざりつつも「そこにある」人間たちを描く。

終わりのない人間の営みに思いを馳せたとき、そこに在るのは一種のファンタジーと破壊的なロマンで、それが恋人たちが空を漂う宣伝ポスターのシーンに集約されていたように思う。

不思議で陰鬱で静かな映画と言えばそこまでなのだけど、今のわたしにはこの人間の織りなす非喜劇を描いた映画、とても良かったです。

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映像の魔術師 ロイ・アンダーソン

作品の中身(構成や内容)も良かったのだけれど、何より「映像の魔術師」と名高いロイ・アンダーソン監督の映像世界、本当にすごかった。

背景と動的対象物が切り離されて見える。静止する空間(空・背景)と、動作物がまるで別の世界のよう。絵画を見ているのとも動画を見ているのとも違って脳みそが混乱してバグるという体験をした。

ワンシーンワンカットの構成も、モチーフとなった千一夜物語を彷彿とさせてよかった。個々の営みが少しずつずれたり重なったりして連なっていく連続性に永遠という概念を見た、そんな感じです。

本作もこれまでの作品同様、ミニチュアの建物やマットペイント(背景画)を多用するなど、アナログにこだわった手法で作られているが、その制作技術は年々進化。これまでは監督のスケッチや図面からイメージを創りあげてきたが、最近ではコンピューターを使ってシーンの3D画像を作成し、構図や模型の位置をミリ単位にいたるまで計算。今回のメイキング映像でも、そうした制作の舞台裏が映し出される。何度も何度も撮影テストを行い、構図・色彩・美術の微調整をして、完成へとたどり着く唯一無二の映像世界。ぜひ、大きなスクリーンで堪能してほしい。
https://cinefil.tokyo/_ct/17409662 より)

メイキング映像も見てみましたがめちゃくちゃ興味深かったです。結局観れていない『さよなら、人類』も観るべきだなあと思いました。

この度到着した『ホモ・サピエンスの涙』のメイキング映像は、店の前にある植木に霧吹きをかける理髪店の少女と、それを目で追う少年のシーンの制作現場を収めたもの。何気ない街角のワンシーンだが、これらはすべて、監督が所有する巨大な制作スタジオ〈Studio24〉で、一からセットを組み、撮影された。
理髪店から出てきた少女が佇むのは、店先と道路も途中までしか作られていないセット。しかし、カメラの位置を綿密に計算し、遠近法を駆使して手前に置いたミニチュアと併せて撮影すると、そこには奥行きのある「街」が出現!現実とセットのつなぎ目が完全になくなった映像を想像して、監督自身も「この段階で既にいいね!」とスタッフに太鼓判を押す。
https://cinefil.tokyo/_ct/17409662 より)


終わりの無さ・無限について

この映画、どんな作品だったか説明するのはとても難しいのだけれど。

例えばリアルな生活の中で、さっきすれ違った人、カフェで隣の席だった人、病院の待合室で居合わせた人、街行く人たちの、それぞれが考えていることや思っていること、事情や環境や人格、抱えているトラブルなんて何一つ知らないわけで。

映画や小説は、その登場人物の感情やら事情を第三者(観客)に明示しつつストーリーが進むのが定石だけど、この映画ではそれぞれの人間の事情について詳しいことは何もわからない。ただ在るのは今見ているそのシーンだけ。それだけ。

ただこの映画は、断片だけでなく、数々の愛おしい人間の営みとしてなぜかぼんやりと見えてくるつながりが不思議だった。時代も、場所も、事情や性別や年齢、何もかもが違う人たちの、とある時間。世界のどこかで繰り返されてきた、ありふれた悲しみや虚しさ、少しの幸せ、怒りの出来事は、これからも形を変えて別の形で存在し続け、繰り返されてゆく。少年が語ったエネルギーの法則のように。

断片性と絵画性を映像で表現しつつも、時折挟まる「千一夜物語」の語り部シェヘラザードのような女声のナレーションによって、独立した個々の人間の話に連続性を持たせ、一つの大きな絵巻物のように包括的に描いている、そんな映画だった。

それが不思議と心地よく、陰鬱で静かな類の映画なのに引き込まれて見た。

ただ苦手な人は寝るだろうし、動的展開の物語や起承転結を楽しむタイプの人には向いていないので、必ずしも万人にはお勧めできないのがちょっとつらいな〜と思いました。

でも良い映画だったので年末に観れてよかったな!

おわり


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