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学校教育について考えた結果開けてしまったパンドラの箱

大学三年生の戯言です。昨年(2019年)の6月のことなのですが、僕はひたすらあるビジョンの実現に向けて挑戦をしていました。

そのビジョンとは、「数十年後に学校はなくなり、やがて親は子供たちに5人程度の家庭教師をつけて教育を行う」というものです。

今ではこれはおかしいとはっきり言えます。でも、その理由に関しては完全にパンドラの箱というか、僕が今まで生活の大半を費やしてきた学校という構造の根底にある仕組みと密接にかかわっていると考えています。

僕ははっきり言ってこの学校という構造の受益者です。いわゆる受験戦争を切り抜け、さらに現在もなお大学生家庭教師として一般的なアルバイトよりも高い時給をいただいております。また将来教育産業に従事する可能性も0とは言えません。このnoteの旗印となっている家庭教師の掲示板でさえ、教育業界の範疇を出ません。しかしながら、現在様々な場所で起こっている教育関係の議論は見るに堪えません。僕はこの議論に一石を投じ、また自分自身もこのような搾取体制に簡単には安住するまいと自戒を込めて、この文章を書くのであります。

余談ですが僕の作っているサイト「SHELF-TEACHER」はこうした議論におけるアンチテーゼのようなものです。従来高額を費やされることが当たり前となっていた家庭教師紹介会社、ひいては塾や予備校の代わりに掲示板を用いて個人契約の家庭教師を雇うことで、徐々に教育産業のウェイトが小さくなり最終的にはSHELF-TEACHERもろとも消滅していく、というのが理想のビジョンです。


学校が解体され家庭教師が教育を担う

それでは本題に入ります。サービスのテーマは「オンライン近所のお兄さん」です。どういうサービスかと言うと、基本的には親が青年を雇って報酬を渡し、子供とLINEなどで友達にさせます。その中で自由に会話をしたり、週一回や月一回などのペースで家庭教師として訪問したりして、従来学校がやっていたような教育を行う、というものです。内容は基本的には現在の高等教育程度までのものを想定しました。こういうスタイルの教育方法は古代ギリシアの哲学者のアリストテレスを家庭教師として教育を受けたアレキサンドロス大王や江戸時代の朱子学者の新井白石を家庭教師として教育を受けた徳川綱吉などに実例が見られます。

現代社会は情報があふれ、教科書や学校の先生などよりもGoogleやWikipediaなどのインターネット上の情報のほうが参考になるという見方が一般的になりつつあると考えます。また知識を教える教育自体の価値が下がってきているとも言われています。こういう状況を鑑みた時に学校という教育システムはとても効率が悪く、文部科学省のカリキュラムではなく個々人の知的好奇心をベースに家庭教師がサポートするという体制がはまり、日本中の親がそういう方針に乗り換えていく、という可能性があると考えました。もちろんそういう未来の教育の形が実現する可能性は100%ではなく、あくまで可能性の一つとしてその紹介プラットフォームを作りたいと考えるようになりました。


自分が新しい家庭教師の第一号に

そのようなことを考えていたある日、新しい家庭教師の依頼が来ました。そして偶然にもその内容は、「LINEで勉強の進捗管理と受験相談をしてほしい」というものでした。僕は今後のロールモデルになりうるその案件をむしろ好んで受け、月15000円という契約で始めました。

ところがそれは失敗に終わりました。LINE上で何度か質問を受けたり高校三年生なので現状確認と、医学部受験の進路相談のようなものを電話でしたりしましたが、こちら側からの働きかけが少なかったことなどを理由に一か月程度で打ち切られてしまったと記憶しています。この時のことは自分の家庭教師としての態度がよくなかったのだと反省しています。また同時に、これまで自分がやってきた数件の家庭教師の経験とは違うものを要求されていると感じました。

その後、Twitterで案件を募集してみようと考えました。とはいってもどういう人がこういうサービスに食いついてくれるかというものが全く分からなかったので、ホリエモンが手掛けたことで話題の通信制高校であるN高校の生徒のオンライン勉強相談アカウントを作りました。もう一つのターゲット候補は富裕層の子息でしたが、そちらは知りあいもいない上、そもそもTwitterから発見することが困難なのでやめました。

このアカウントを3か月程度勉強相談案件を獲得するために使ってみたのですが、まったく効果がありませんでした。無料で相談を受けるとしていたのに全く反応がなかった主な理由は活動媒体がTwitterのみであることによって信用を得られなかったことだと考えています。N高校生にできるだけリーチできるよう多少ツイートやリプライを行った結果、怪しい情報商材屋認定をされたこともありました(笑)。


学校は勉強する場ではなかった

上記のような活動を友人に一部話してみたりすることもありました。反応は決まって、「ありえないw」みたいな感じでした。それに対して僕は、「日本国の義務教育体制が存在する限り不可能かもしれないが、可能性としてはある」「現在不登校児童が増えていて、そのような人や日本の学校教育を見限った人から徐々に家庭教師にシフトする可能性はある」という風に答えていました。こういう問答の中で特に興味を持った部分は、学校とは日本国憲法を基準に運営される日本国が存続する限りそれとセットで切り離せない関係にあるのではないか、ということです。

そもそも日本における学校は明治維新の富国強兵の文脈で始まっています。それ以前の江戸時代では子供は寺子屋や丁稚奉公、私塾などで同様の教育を受けていたと思います。それが全国一律で学校を作ることになったのは軍事の目的だと考えています。全国で均質な兵隊を育てることで強力な軍隊を作ることが学校の裏テーマであると考えます。

そもそも学校で勉強する内容は社会に出てからほとんど役に立ちません。僕は高校三年生まで、学校の先生の「社会に出てから勉強した内容は役に立つ」という言葉を信じていました。信じていたというよりはその真偽に興味がなくて疑ったことがなかった、の方が正確かもしれません。しかしながら、明らかに学校の先生は勉強した内容のおかげでいい人生を送れている人たちには見えません。これは誰かが指摘していて気づいたことですが、重大な矛盾だと思いました。つまり勉強する内容は割とどうでもよく、上記の軍事教育機関としての機能を踏襲した構造が学校教育を規定しているということです。

もちろん令和2年現在は日本国憲法第九条の規定により軍事教育の存在は想定されていません。では学校がなぜ存続しているかというと、それが緩やかな階級制社会を維持するのに役立っているからです。よく言われていることですが大学受験は公平ではありません。少なくとも統計的には家庭環境や親の収入に結果の大部分が依存しています。そして大学受験の結果が社会人になった後の年収を大きく左右します。表向きは誰にでもチャンスがあり平等が実現されているように見えるが、実際には非常に安定した階級制度となっている、とてもうまく設計されたシステムだと思います。

同時に考えたのが、学校でマネーリテラシーを教えないことについてです。「実生活で役立つ教養」のように謳ってカリキュラムが決められているはずなのに、本当に役立ちそうなマネーリテラシーは教えられません。経済学というれっきとした学問があるにもかかわらずです。(ちなみに医学も役に立ちそうですが、これは経済学に比べたら小さい問題だと思うので割愛します。)マネーリテラシーについて基礎的な部分すら学校教育で触れず、むしろ進んで避けているかのように見えるのは、上記の階級制度の安定性を損なう恐れのある知識だからであるように思います。

以上から言えることは、学校教育というのは現代社会の社会構造と密接に結びついているということです。従って学校のみ、もしくは国家のみを破壊することは不可能だと考えます。さらに言うと、仮に現代の日本国の体制が破壊され新しい秩序が出来上がったとして、その時に学校の代わりとなる教育システムは必ずしも多くの人のためになる仕組みとしてデザインされるとは限らないということです。


パンドラの箱

「オンライン近所のお兄さん」が教育の標準的な形になる可能性は0ではないと考えます。しかしながら少なくともいえることは、日本で革命のようなものが起こり政治体制が変わらない限り、普及することはないということです。なぜなら、現時点で考えているモデルでは親の関与度合いが大きすぎるからです。「お兄さん」を複数人選定する親のオペレーションが複雑すぎて、現代社会の根底にある「一億総中流」的な思想と相容れないと考えます。大学受験を通過儀礼とする一億総中流のイデオロギーは資本主義・民主主義を体現した社会の一つを形作る思想という点で宗教と同じ機能を果たしていると考えます。よって、学校教育に代わるシステムが出来上がるとしたらそれはその時代の政治体制と共犯関係にあるような仕組みであり、現代の我々から見たら多分に宗教みを帯びていると言えます。

最後に現代の教育業界についてですが、これは100%利権の奪い合いということで説明できると考えています。ここまで書いてきたように教育に実利はないと言ってよく、教育が行われている真の目的は階級制社会の維持です。従ってこのような構造には必ず搾取する側とされる側の人々が存在します。

この事実に気づくまで僕は20年かかりました。僕の親は子供にスマホやゲーム機を与えず中学から私立の進学校に入れて勉強させたので、とても合理的に振る舞ったと思います。なんだか上から目線な言い方になってしまいましたが、自分が盲目的に(一応真剣に)取り組んできたことの意味を認知したことの衝撃があったので一年弱たった今文章にしています。最後まで読んでくださりありがとうございました。

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