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【第3章】高学歴女性の「男並み化」の歴史

本論文は2018年度東京大学文学部社会学研究室でクローネ賞を受賞した学部論文です。研究室ならびに指導教官からの許可を得て公開しています。

※加筆修正したい点もありますが、敢えて執筆〜提出当時(2018年1月5日)のまま掲載します。私人についてはイニシャル表記のままとします。

第3章 高学歴女性の現状と展望

3-1 高学歴女性の「男並み化」の歴史

 本論では女性がいかにして高学歴を手にし、労働市場に進出して男性との性差による社会的不利益を克服していったかについて先行研究やデータを用いて分析し、中でも積極的に女性の地位を向上させることとなった東大卒女性が戦後いかにその数を増やし、人生の転換点においてどのような経験をしてきたかについて女子同窓会さつき会の資料やインタビュー調査によって明らかにした。

 女性の高学歴化・労働力化は「男並み化」の反復の結果であった。1-1で述べたように、明治以前の女子教育は男子にあったような学問の修養は二の次であって、賢い女性が「内助の功」「良妻賢母」として家を支えることを目標とする教育が良家の子女に施されていた。また女性の労働も戦時中に男性労働力が不足するまでは、家の手伝いなどの家族労働が多かった。戦後の経済成長によって女性が専業主婦となる家族形態を前提とした雇用形態となる一方で、高学歴を得た女性たちは男性同様の待遇を求めて労働市場でも「男並み化」を進めていった。

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 生涯独身、または出産をしないというならば、女性労働の完全な「男並み化」はおそらく可能である。しかし、女性は生物学的理由から出産に関しては男性と代替不可能であり、また共働き世帯の女性に専業主婦に再生産労働の多くを委託することのできる男性世帯主と同様の働き方を求めることには明らかな限界がある。(八代 2009)少子化は女性が出産・育児と労働を両立できないことにかなりの要因があるために、女性の「男並み化」は一定を過ぎると歪な構造を生み出す。そもそも、天秤で釣り合っていたとみなされている生産/再生産活動という性別役割分業の一方のみに比重が移れば、バランスを崩すのは至極当然のことでもある。男性もまた、再生産活動の比重を増やす「女並み化」が必要ではないか。

 高学歴女性が能力を活かせず低スキル職や家庭に吸収されているという事態は、女性だけの自己実現の問題にとどまらない。高学歴男性は卒業前までは同様に知識技能を身につけていた潜在的ビジネスパートナーを失い、多様性のない職場へと吸収されていく。そこでは無期限に労働力の提供を要求され、家庭や社外での自己再生産活動に割ける余裕がなく、うつや過労死といった弊害を生み出した。(竹信 2010)女性が働けない労働市場は、やがて男性に重くのしかかる負担にもなっていく。濱口(2015)は、本来働く期間や場所が制限されていることが契約として健全なのであり、無限定性を前提とする従来の日本型雇用システムは労働者にとって非常に非人間的だと主張した。本人の意志に反して昇進昇格から外れるという点ではマミートラックは推奨されるべきものではない。しかし男女が共に働き手となり自らや次世代、老後世代を養うこれからの社会においては全ての労働者が再生産労働をする余裕のある生産労働活動の仕組みが整えられなければならない。また平均寿命・健康寿命の延長により、長期化する労働可能年数をずっとフルタイムで働き続けることには体力的にも現実的ではない上、同じ分野で陳腐化せずに働き続けることも困難になるだろうと言われている。(グラットン&スコット 2016)総合職で無期限にジョブローテーションをしながら企業特異的なスキルだけを伸ばしていくよりも、職能ごとに職場を変えて「ジョブ型正社員」(濱口 2013)として労働市場の流動性を高めることも検討すべきではないか。高学歴を手にするメリットは、卒業生らが性別・人種などの差なく自己実現を継続できるようになってはじめて最大化されるだろう。

3-2 東大卒女性が担うべき社会的役割

 東京大学憲章前文には「東京大学は、これまでの蓄積をふまえつつ、世界的な水準での学問研究の牽引力であること、あわせて公正な社会の実現、科学・技術の進歩と文化の創造に貢献する、世界的視野をもった市民的エリートが育つ場であることをあらためて目指す」とあり、自らの先導性を宣言している。別の言葉では、平成21年度大学院入学式式辞で当時の濱田純一総長はこう述べている。大学の公共性は権威ではない。新鮮な知恵と多様価値、開かれた議論が支配する空間であって、「新しい時代の公共性を生み出す、最高の装置」である。(濱田 2011: 69)これはどちらもここ10年ほどの間に明文化されたものである。この「エリート」という身分について、麻生(1977)は様々な定義の比較検討の結果、①威信グループであり、②他者を自分の意志にそって動員しうる可能性をもった権力グループであり、③優れた技能を持つ技能グループであるという共通点を見出し、「社会のなかで、威信と権力と優れた技能を持ち、一定の領域と水準における意思決定の働きを通じて、社会的指導力を発揮する機能集団である」(麻生 1977: 67)と定義した。この定義に「市民的」という意を添えるならば、「市民的エリート」とは、社会的指導力を持つ特権的立場にありながらも、広い視野を持ち、公共の利益を高め導くような、社会に貢献する人材であり、ある意味でノブレス・オブリージュと重複し得る概念である。濱田総長は「市民的エリート」について、「歴史的、社会的な自己の使命・役割を自覚する」ことと「自分が培った力を社会的参加を通じて他の人々と共に生きるために活用する」という含意があると解釈し、その上で「逃げない」という基本的姿勢が求められるとした。(濱田 2014 :304)高学歴女性に許された狭い進路の先で、法律の整備や社内の女性登用を推し進め、世間一般の女性に対しても労働市場への活路を拓いてきた東大卒女性らは、まさにこの「市民的エリート」を最初期から体現していたと言えるだろう。

 集団内の少数派ははじめ、多数派に迎合・適応することでしか生き残れない。集団が変わらずに少数派が増えて行く段階では生きにくいルール内で少数派同士の競争だけが厳しくなり、息苦しくなるばかりだが、その少数派が3割を超えると、少数派が生きやすいルールに向けて集団全体が変わる力になる。国連の文書などで少なくとも3割以上の女性比率が求められているのは、この限界を克服するためであるという。(竹信 2010)東大卒女性らが歩んできた道のりは、まさにこの少数派が集団を変えるに至るまでの道のりでもあった。はじめ働き方の「男並み化」によって男性社会であった企業に適応し、生きにくいルールの中で柔軟にキャリアを積み上げてきた。そして集団を変える立場に辿り着き、少数派の生きづらさを軽減する方向に進ませてきた。耐え続けるだけでなく、柔軟に変革しながら組織を変えてきた卒業生はさつき会発行物からわかるように、数多い。濱田前総長は社会において重要な素質として、「タフネスtoughness」ではなく「レジリエンスresilience」という言葉を用いた。「何かを跳ね返したり突破したりするだけのハードなタフさではなく、環境を自分の中に柔軟に取り込みながら力を発揮していけるしなやかなタフさ」が求められるという。(濱田 2011: 28)東大卒女性たちは既に、レジリエンスをもって社会で活躍してきたのである。そしてこの事実は、女性が高学歴を手にすることの社会的メリットの証明となる。

 一方、個人にとっては、少数派として社会で変化し続けるのは決して易しいことではない。高学歴女性が活躍する社会は、女性全体のみならず、共に働く同僚としての高学歴男性、さらに多様な働き方・生き方を求める男女にとっても活躍しやすい社会となる可能性が大いにある。だからこそ、未だ労働市場で少数派に甘んじている高学歴女性の生きづらさの克服に対しては、社会全体の力強い支援が必要である。さらに言えば、その支援を引き出すために道を拓き続けることは、東大卒女性が引き続き担うべき「市民的エリート」としての社会的使命ではないだろうか。

(終)

謝辞(全てイニシャル)

 本論文を作成するにあたり、丁寧かつ熱心なご指導をいただいた指導教官のN教授、D准教授に感謝いたします。また、さつき会の過去の資料を閲覧許可・提供をいただいたさつき会幹事のO様、インタビューを快く承諾いただいたY様、K様、S様にも感謝いたします。

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