SNS上の「一芸」で承認される社会の生きづらさと可能性
自分をアピールするための「モノ」から「コト」へ
最近、周りの友達がinstagramからTwitterに戻ってきた。みんな呟かずにはいられないのだ。人との会話が減り、特定の人とわざわざ話しに行くことも億劫で、特段出かけないからイベントも起きなくて、生理現象や、政治や、社会の不安、会社への愚痴について雑に私見を述べる。
その中でも特に目立って変わってきたことがある。それは、自分の持つ「一芸」のアウトプットを、こぞって皆がし始めている、ということ。〇〇チャレンジという名目で、同じアクションを自己流でやってみて、次の人に回していく。自分はこんな人間なんです、こんなことを考えているんです、と、無数の投稿が叫んでいる。ダンス、料理、イラスト、昔の失敗動画、セルフネイル、演奏、筋トレ、ゲームのやり込み具合、そしてビジネスマンの間で流行る読書チャレンジもまさにその典型だと思う。
私もやろうやろうと思ってやれていないチャレンジの一つ。
本棚は自分の脳内がダイレクトに出るので、色んな人の投稿がとても興味深く、楽しみで仕方ない。
今までは「どこにいたか」「誰といたか」「どんな見た目だったか」「どんなモノを持っているか」がこうしたアウトプットになっていた。「映える」という大義名分が、自分の個性の間接的なアピールに繋がってきていたから、皆こうした「外で得られる何か」を必死に見つけ、獲得し、自分を象徴させてきた気がする。逆にそんな空気の中で、ダンスや料理など「自分が何をしたか」で直接自己アピールする行為は流行らなかったし、一部の秀でた人の特権感すらあった。あくまで私の個人的な感覚だが。
ところが、今このパワーバランスが崩れている。引き続きオンライン飲み会で「誰といたか」をアピールする投稿はあるものの、前より格段に「自分が何をしたか」をアピールする投稿が増えた。今までしていなかった人たちが参入している。
「おうち○○」が増え、stay homeのタグと一緒にみんなでやってみる投稿が増えた。連帯感や、安心感も与えてくれるムーブメント。
明らかに、承認欲求を満たす解決策が「モノ」から「コト」に移行している。見方によっては「モノ」を媒体とした「イミ」価値の創出ができなくなり、「コト」を媒介して「イミ」、というより「自分の存在証明」が行われているのではないか。自分はこんなコトをしている、そんな自分には価値がある。こんなコトをしている自分を見てほしい、認めてほしい、こんな創意工夫をしてみた、思いついた自分を認めてほしい。
(褒められたいとまでは思っていないのが自慢とは違うところ。だから独り言が猛スピードで流れていくTwitterやInstagramの24時間で消えるストーリーに投稿する)。
別の言い方をすれば、自分を「測る」ものが、消費活動から生産活動に変化しているのではないか。
「一芸」を見つけ、育て、増やす社会
かくいう私も、それまでも自分の考えを出したり下手くそな演技動画をクリップしたりしていたが、この自粛期間に入ってからは今までから比にならないくらい、「自分が何をしたか」をアウトプットするようになった。簡単な体操、イラスト、読書、作った料理、整えた部屋…一時は美容系Youtuberを始めようとすら考えた。どれも「自分が何をしたか」示すテーマだった。
そして、これはスキル型社会が私たちにまで浸透してきているという示唆を与えているようで、ある種の生きづらさを感じてしまう。スキルがない人、スキルに自信がない人はこの状況をどう感じて、水を得た魚のように投稿している人たちのことをどう思っているのか。達観している人だけではないはずだ。なんとか自分も「一芸」を見つけなくては、そんな焦りを感じる人もいるのではないか。私は、このタイミングで新たな商材や、新たな提案や、新たな取り組みを生み出せる人たち、いわば「金銭的・社会的にも評価される、トップオブ自分が何をしたか」を持っている人たちを見上げて、焦りを感じた。そして焦った結果、自分ができる「一芸」をなんとか人から見れるくらいのレベルにしようとした。
「自分が何をしたか」で評価される社会は、常に何かを会得・研鑽し続けなければその優位性や技術は陳腐化する。アスリートの世界と言ってもいい。誰かに追随される前に、少しでも自分の持つ「一芸」を磨き、オンリーワンとして見てもらうために「芸」を増やし、発信し、自己イメージを更新していく。正直そのサイクルに嵌まり込むと、大抵の人は恐ろしく生きづらい。だから趣味程度という言い訳が必要になる。(私は何回この魔法の言葉を使ったか…)
「一芸」を持つことで承認される社会は、「一芸」を持つための努力の結果を否応無く可視化する残酷さも持っている。しかも、外からは結果しか見えない。だから趣味程度という言い訳で、自分の精一杯を投稿する。正直、質のいい「モノ」を持てば評価されていた時よりずっとヘビーだ。質のいい「コト」は相応の努力がなければ決してできない。しかも、本当にトップの人は開けかすことはないから、そういう歴然とした行動の差にもちょっとした言い訳や自虐を交えながら、精一杯を投稿する。
自己満足で終えられるうちが華、これが承認欲求に結びついた時に、これまでよりも苦しくなるんじゃないか、と要らぬ心配をしてしまうのだ。
「一芸」で評価されるようになることの可能性
しかし、私は「一芸」で自己アピールがしやすくなった今、逆に生きやすくなるかもしれない一面も感じている。
例えば冒頭言及した読書系チャレンジや、映画紹介の類の、「こんなコンテンツが魅力的」という紹介系のアウトプット。これは「こんな魅力的なコンテンツを視聴・体験した自分」をアピールする手段だが、みんながこれをやり始めることで、今まで検索しようとも思わない、サジェストもされなかった新しいジャンルに触れて興味を持つことができた。データが全部取られて個人に最適化された提案が、広告や検索順位に反映されていくと、どうしても自分の興味の範囲外のことには触れなくなり、豊かな体験がしにくくなる。
必ずしも趣味や好み、バックグラウンドが一致しない、緩い繋がりの知人たちが、自分の興味のあることややってみたことを垂れ流してくれればそれだけ自分の世界が広がるチャンスが増える。新しい一面に気づいて何かが動き出すかもしれない。
そして、自分がしたこと、成し遂げたこと、失敗したことを積極的に開示していけるということは適度に自己肯定感にも繋がる。今まで「モノ」だけだった承認軸に、決定的に「コト」という軸が加わった。これはきっとすぐには消えない。「モノ」依存していた自己アピールに乗れなかった人たちが、自己表現する手段が増えて、ハードルが下がったという見方もできる。少しでも自分ができることを増やし、外から付与される価値ではなく、自分自身から生まれる価値を見出し、レッテルを剥がした生身の自分自身に自信が持てるようになるかもしれない。
だからこそ、今このSNSでの「一芸」発信ムーブメントは私たち自身がポジティブに解釈し、かつ、発信していない人へのまなざしを忘れずにいることが大事だと思う。これを決して歪んだ承認欲求にしないように、自分たちを生きづらくしないために。
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