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【第2章2-2-2】東大卒女性のライフストーリー

本論文は2018年度東京大学文学部社会学研究室でクローネ賞を受賞した学部論文です。研究室ならびに指導教官からの許可を得て公開しています。

※加筆修正したい点もありますが、敢えて執筆〜提出当時(2018年1月5日)のまま掲載します。私人についてはイニシャル表記のままとします。


2-2-2 東大卒女性のライフストーリー

 東京大学が女子学生の受け入れ始めてから約70年が過ぎた。終戦後から現在までの戦後日本の歩みと、最高学歴を背負って社会に生きてきた高学歴女性の最先鋒集団としての東大卒女性の歩みには全く関連性が無いとは言えないだろう。法という大枠を積極的に変革した卒業生もいるが、そうでなくとも、時代の波の中で臨機応変に生き方を選びとってきた数多の卒業生の生き方にも、世代共通性があるのではないか。この仮説を元に、本節からは卒業年代ごとの卒業生らの典型的なライフストーリーを、各ライフイベントでの社会背景や回想録から描き出し、同じ東大卒女性でも世代間で生き方が異なる点や、逆に世代を超えても変わらずに在る共通点を浮かび上がらせたい。

 下表では卒業年代を大まかに50年代から便宜的に10年刻みで分類し、また別軸に6つのライフイベントを設定した。例外の存在は当然あるが、各コマには該当年代卒業生が該当イベントを体験した際の特徴的傾向を記入した。縦割では各年代での典型的なライフストーリーが、横割では各世代のライフイベント体験の変遷が読み取れるようになっている。

 なお、2014年8月時点で1258名のさつき会会員のうち(さつき会会員名簿より)、00年代卒の発行物への投稿が非常に少ないことや、10年代卒が現在約20名のみであること、10年代卒は現在17卒までしかいないことなどから、各年代の代表性を担保しかねることは断っておかねばならない。

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以下、各世代のライフストーリーを概観していく。

・50年代卒(48〜59年卒)
 この世代は終戦を迎え、新たな男女共学の時代の幕開けに期待した女性が多い。今まで男性の根城であった最高学府・東大に、勉強も好きであることだし入ってみようと受験を決意、なんと合格してしまった。比較的簡単だと言われた文学部か、他大に比べて質の高さと学費の安さがメリットの医学部が多い。在学中は女性が圧倒的少数派であり、授業の場所の近い女子学生たちは休み時間によく集まっては大学の女性への配慮を求める動きを起こしていた。就職の際に社会の男女差別に真っ向から直面。そもそも女性が働ける場所がほぼないため、唯一細々と門戸を開いていた官庁の労働省や通産省、教諭や研究員になった。大学時代にであった東大生と当時としてはやや遅い28歳で結婚し、良き理解者として生活。2人の子供をもうける。その際に多くは勤務形態を余儀なく変え、子供が自立するようになると新たに仕事を再開したり、自分の興味関心のある活動を精力的に行う。やがて親の介護が始まり、夫と共に老い、先立たれ、退職しても知的活動は積極的に続け、豊かな余生を送る。

・60年代卒
 受験前後は女子大生が急激に増えた時代で、旧世代の男尊女卑教育観に引きずられてかマスコミでは感情的な反発も見られた。しかし本人たちはそれほど気にすることもなく、力試しで受験し、合格。文・医に加えて新制大学改革で設置された教養学部も多い。相変わらず少数派である。61年の安保闘争や68年の東大紛争など、学生運動にも積極的に関わる女子学生がいた。(さつき会 1987)就職期は戦後復興や東京五輪などで好景気であったが、依然女子学生の就職は募集自体があまりに少なく、50年代卒同様労働省や通産省がエリート女性の選べる数少ない道であった。大学時代にであった東大生と26歳で結婚し、良き理解者として生活。2人の子供をもうけ、勤務形態を変える。子供が自立するようになると新たに仕事を再開したり、自分の興味関心のある活動や企業を精力的に行う。やがて親の介護が始まり、夫と共に老い、先立たれ、退職しても知的活動は積極的に続けて豊かな余生を送る。

・70年代卒
 女子大生への反発もやや薄れ、高度経済成長期に受験。育ちと頭の良い女子学生たちが、何となく受けてみたら合格した。理学部にもやや学生増。在学中に東大紛争を経験し、学問への興味関心が薄れ、学生結婚を選ぶ生徒が周囲に多かった。就職では経済成長がほぼ終わり、石油ショックで経済が停滞して就職難にあえいだ。公務員や、法曹界などの専門職、外資系に人気が集まる。大学時代にであった東大生と28歳で結婚し、良き理解者として生活。2人の子供をもうける。復職後両立に苦労するが、子供に手のかからなくなる時期となり、新たな知的挑戦を試みている。

・80年代卒
 将来的な自立を考えて受験。85年卒以降は均等法施行で民間でも大手は就職可能になるが、男社会の風土の残る企業では引き続き苦労する。バブル期には就活の苦労もなく就職するが、結婚・出産で企業によって明暗が分かれる。公務員に就職して大学時代にであった東大生と28歳で結婚し、良き理解者として生活。1人か2人の子供をもうける。育児休暇を取って復職し、子供を独立させてからは定年まであと数年働き続けようと思っている。

・90年代卒
 女性の雇用が一時的に増加したバブル最盛期または安定した職につけなかった女性が雇用機会を失うバブル崩壊後の不況下で受験。この頃東大の女子率は初めて1割を超え、キャンパスに女子学生を見かけることが当たり前になる。不景気のため公務員志望が増加。大学時代にであった東大生と28歳で結婚し、良き理解者として生活。育休制度が遵守される公務員であるため、1人か2人の子供をもうけても退職せずに休業を取り、復職。夫婦共働きで子供を育てている。

・00年代卒
 受験前に阪神淡路大震災、オウム真理教事件を経験。バブル崩壊やアジア通貨危機など、不況下で中高生時代を過ごす。将来の安定を求めて受験。公務員以外にも民間が多数派となり、大手総合職に就職。大学時代にであった東大生と27歳で結婚し、良き理解者として生活。1児を育てる。

・10年代卒(10〜17年卒)
 ゆとり教育を小学生の頃から受ける。受験前後にリーマンショック、東日本大震災を経験し、社会不安も。女子率はほぼ20%で、部活やサークル内にも女子学生が多い。震災復興が進むとアベノミクスによって景気がやや回復し、少子化のため就職活動時は売り手市場。公務員以外にも大手総合職やベンチャー企業にも選択肢を広げ、キャリア形成に意欲的。

2-2-3 世代ごとのライフイベント経験の差

 ここではさつき会が70年間にわたって出版してきた年会報『さつき』や記念事業として編纂されたエッセイ集『さつき2』『さつき3』、データやアンケート調査を収録した『さつき会データ集』、さらに全てを入手することは叶わなかったが本部倉庫に保管されていたものから2017年10月までに発行された『さつき』第46号から第53号、『たより』No.33からNo.53までを元にしている。東大に入学した女性が受験以前から就職し、社会人として数十年間を過ごす中で、各ライフイベントを迎える際に周囲の環境がどのようであったか、当時自身がどう考えていたのかを、約60期分の卒業生のエッセイやアンケート回答結果を通して描き出していきたい。当然全ての卒業生・全ての代の証言が残っている訳ではないので、各世代の代表性を完全には保証できなかった。しかし、さつき会の性質上やはり女性が社会で直面した問題についての記述が特に多い点で、女子卒業生を取り巻いてきた時代の流れというものがいかにその人生に外部要因として強く働きかけてきたかを浮かび上がらせるには十分であろう。また最大の転換点であった男女雇用機会均等法制定がそれまで「本人の力の到底及ぶところではなかった外部障壁」を、まさに本人の力によって決定的に取り払うことができたという象徴的偉業であったことを痛感することができるだろう。

受験

 全世代に共通することは、「東京大学」という所謂大学ブランドに過剰に期待する学生はあまりいないということである。少なくともさつき会に回想を寄せる卒業生たちのほとんどは自分の積み重ねてきた努力の延長線上として東大を目指した。特に初期の卒業生たちは女性に高等教育の機会が開放されたことに呼応して意欲的な姿勢を隠さなかった。(さつき会 1987)一方で力試しやせっかくの機会にという動機も多く見られた。

 後に法務大臣となるM.M(50法)は、「終戦時、私は津田塾専門学校の生徒でしたが、GHQの男女平等のかけ声によって友人だちの何人かが東大を受けるという噂を聞きました。私も話の種にと興味を持ちました。入学試験は法学部が一番易しいというので、法学部を受けました。今まで男ばかりで固めていた東大も試験会場までなら入れる、でもにわか勉強でまさか合格しないだろうと思いましたが、何故か合格してしまい、驚きました」と述べた。(『さつき』第50号 2011: 2)M.Mと同年に入学した1学年600人中、女子はたった2人であった。K.M(50経)は2児の母となった後に東大へ入学した。以前より「男女差別に怒り狂っていた」という久保は、まだ東大に女子が受け入れられていなかった1938年に文学部事務室にかけあい、西洋史の今井登志喜教授の紹介で、大学院のゼミに出席し法律哲学とイギリス経済史を学んでいた。「私は大正デモクラシーの人間でね、家は自由主義で、また娘ばかり五人でしたから、(中略)女も経済力があれば男と同じだといって育てられたんです」「パイオニアであるという気負いは全くありませんでした。むしろ入試を受けにいったら、経済学部を受ける女の人はパラパラと一〇人足らず、あまり少ないのに失望しました。」(『さつき』第20号 1981: 4)また労働省婦人少年局長として男女雇用機会均等法制定に多大な貢献をしたA.R(53法)は1学年800人中の女性4名のうちの1人として入学した。「社会に出たとき、できる限り男性と平等になれる条件を整えておきたかった。競争するには、平等の出発点から出ないと面白くない」(女の転職@type 2007)と思ったという。A.Y(55文)は女学校に無試験入学した「本来できのわるい学年」であったが、東大への可能性に気付くと父親が「芝居なんて大学へいったって出来るぞ。ダメでもともとだから最高学府を狙え!」と熱烈に焚き付け、親類知人らの「お嫁に行けないぞ」という圧力を跳ね飛ばして受験まで辿り着いたという。(さつき会 1986: 17)

 K.F(56文)は学問の修養に惹かれた訳ではなかったという。「本当は東大に入りたくはなかったのです。役者になりたかったのです。(中略)「芝居に近い仕事で食べて行きたい」「そのためにNHKに入ろう」「そのためには大学を出なければ」と考えたのです。」(さつき会 2001: 32)「卒業資格が目的で、共学だから学生芝居で女の役ができるだろうという期待もあって入学しただけでした。」

 東大から女性が卒業し始めて10年弱経ち始めると、志望動機に女性として社会で働くという現実を見据えたリアルなものが増えてくる。W.M(59法)は戦後の男女平等教育に衝撃を受け、一生働き続けるために司法試験を通って弁護士になりたいと考えていた。「先生方は優秀そうだし短期間で試験に合格する学生が多かったのでそんな環境で勉強する方が有利ではないかという甚だ現実的な理由で選びました。」また弁護士とは別の国家資格を要する医学の道を志したM.S(67医)は、「中学3年で父を亡くし、通学可能な国立の医学部は東大のみ。日本中が貧しかったから、奨学金とアルバイトで暮す苦学生は珍しくなく、大学生活は楽しかった」(『たより』No.47 2011: 23)と振り返っている。この頃は高度経済成長期前の貧しい日本で専門職を得るための教育を享受できる場の中では最も費用対効果が高い大学として、他の私学と並列で検討されていたようだ。中にはS.K(60文)のように、中学卒業後、家計を助けるために昼は公務員、夜は勉強の定時制高校に進みながら、1浪までして「やっとの思いで東大に入学した」という有志の苦学生もいた。(さつき会 1986: 66)H.K(64年度文Ⅱ入学※掲載当時学部1年)も専門職を前提としてはいなかったが、「思い切って飛び出すからには、日本で一番難しいといわれる「天下の東大」にアタックしてみようかなんて気持ちだった(中略)人間として独立した自由な生活をしたければ経済的に裏付けがなくてはならない、東大なら幸い女子の就職率も良いそうだし(中略)社会に出るための一手段であり、その一コースとしての東大受験でした」(『さつき』第3号 1964: 8)と述べている。女性が社会で働き続けるには厳しかった当時、東京大学で得る教育の質の高さや学歴という保証書は、卒業後の未来を早くから構想する女子学生にとっては魅力的だったのだろう。O.A(67薬)は「進路の選択を「一生続けられる仕事を持つこと」を念頭において行った」。(さつき会 1986: 103)

 卒業年度が60年代後半に入ると、「なんとなく入学」と呼ばれるタイプの学生が現れる。I.A(65文)は「国語の先生の勧めと、わたし自身の何とない憧れの気持とで、東大受験を考えるようになったのは、高三の秋も終わり頃だった」。(さつき会 1986: 85)F.E(65文)は初めは「四年間遊んで結婚相手を見つけるのが目的だった」という。(さつき会 1986: 86)K.M(72養)は自身の受験までについて、「中学は続けて日本女子大学附属に行ったが、女ばかりの学校に息がつまり、高校は都立新宿へ。そこは男女比3:1の男の世界。秀才ぞろいの中、男子に負けずと張りあったら、流れで東大文Ⅲストレート合格。何を勉強したいという望みもなく、なんとなく入学の典型だった」(『さつき』第53号 2014: 3)と表現した。Y.M(75理)も「ただただ、東京へ出ていきたかった。それだけで、東大に入ってしまった」(さつき会 2001: 98)という。Y.J(79文)も「たまたま、出身校が受験校であり、友だちがみな行くというので受験したにすぎない」と述べた。(さつき会 1986: 143)学問への期待というよりは課外活動に志望動機があった学生もいる。S.M(72農)は高校でオーケストラに参加し、東大オーケストラの演奏を聴きに行った際「信じられないほど上手に聞こえ、私も是非あそこで、と受験勉強に励んだ」という。(さつき会 2001: 91)T.M(79理)は「駒場には野田秀樹率いる劇研があり、小さいころから劇が大好きだった私は期待に胸を膨らませて扉をたたいた」という(さつき会 2001: 108)。
 東京・関東圏出身の学生が多い一方、地方から入学する学生もいた。Y.K(82法)は「地方から浪人してやっと入った東大で、東大生たるべき意慾にも能力にも欠け、劣等感を抱き続けていた」という。(『たより』No.47 2011: 27)

 どの世代にも共通して言えることは、両親の反対を押し切るタイプの学生がごく少数であることだ。最初期の第Ⅰコーホート(49〜64卒)でも父親は11.0%、母親は10.9%しか反対しておらず、賛成したのは全体で父親86.8%、母親90.4%と、圧倒的なサポートがあったと考えられる。(さつき会 2011)

在学中

 東京大学内の女子学生は現在も20%を切るが、初期には10%にも満たなかった。その中で女子学生は圧倒的少数派としてどのように振舞ったのだろうか。前述した同期600人中2人の女子学生であったM.M(50法)は「何をしても目立った。全くの子供だった私でさえ、いつどこで誰としゃべっていたなどとつまらぬことを覚えられて閉口した」という。(さつき会 1986: 2)M.K(59文)は「私のころは女子の在籍数は定員の3%位で、何となく付け足しでいるような気が(私だけかもしれませんが)していました」と回想した。(『たより』No.47 2011: 21)I.Y(57文)は白金寮創設を契機に1953年11月結成の「女子学生の会」に参加し、2代目事務局長として全国の女子学生の声を代弁し、「行動を通して社会にふれていく」活動を行い、精力的に活動した。(さつき会 1986: 36)

 K.T(57医)はその後長野県看護大学学長となったが、「東京大学と看護学教育」というタイトルでさつき会に宛てて医学部衛生看護学科1回生であった在学中を以下のように回顧した。「そもそも、エリート集団と自負する人々の多い東京大学に、医師の手足として考えられ、しかも、女の仕事と思われてきた看護学をそうでないものとして位置づけようと考えた人が50年以上も前に、東京大学医学部に居たことを今も不思議に思う。いまだに90パーセント近い東京大学医学部の人々は、看護学を歓迎しているとは思えないからである。」(『さつき』第50号 2011: 9)同じく看護学科1回生のY.A(57医)は、当時定員40名のところ入学者は32人と割れ、卒業したのが23人、臨床看護婦として就職したものは横田を入れてもわずか3人しかおらず、「波乱万丈の創成期」であったという。K.K(59医)も看護学科卒であったが、「こともあろうに権威ある東大で」「女性なら誰でもできる仕事」だとみなされていた看護をすることに対して「大学のなかには戸惑いの気配がいっそう濃かった」という。(さつき会 1986: 59)しかしその後やや遅れて看護が学問としての立ち位置、医学との相補的関係を確立した。「東大は少し早まったのではないだろうか?」

 T.M(79理)は憧れの劇研究会に仮入部した際、他大女子の多さと眼差しの冷ややかさに一時失意したが、その後結局入部した女子バスケット部のメンバーを中心に東大女子学生だけで当時大人気を博していた、池田理代子作、宝塚歌劇団が74年舞台化した『ベルサイユのばら』を演じた。76年5月に工学部の教室内で4回行われた公演の初回は池田理代子本人が観るなど、毎回超満員を記録し、複数のマスコミにも取り上げられ大成功を収めた。「生真面目なガリ勉」という女子東大生のステレオタイプを突き崩したいという思いもあったという。(さつき会 2001: 108)

 1978年の文化祭ではそれまでの、どちらかといえば「男並み化」の方向性を持っていた女子学生の姿から一変し、バニーガールに扮した女性性を押し出す女子学生たちが現れた。

 80年代が分水嶺だったのかは不明だが、これ以降の卒業年代のさつき会会員の投稿に在学中に女性として苦労したことなどの記述が激減する。多くの女子学生にとって、大学は就活を除いては身近な友人たちと交流して満足のいくものであったと推測される。K.M(50経)は、『さつき』第20号(1981)の記念対談会の中で、「意識の低い、無自覚な女子学生が出てきたら、これで普通になったと思うの。男の学生をみてごらんなさいよ、自覚していないのが大部分ですから。かなり平等にというか、当たり前になった証拠でしょう」とコメントした。(『さつき』第20号 1981: 11)

就活

 『さつき会データ集』によると、初職として選ぶ職業は世代によって大きな差があった。第Ⅰコーホート(49〜64卒)ではもっとも多いのが大学教員・公的研究所の研究員で33.7%、次いで公務員が22.7%、民間企業17.8%となっており、小中高教諭と合わせると教育界に進んだ卒業生は圧倒的多数の44.6%に達している。第Ⅱコーホート(65〜74卒)では公務員・ジャーナリストの割合はそのままだが、高度経済成長を反映してか民間企業が31%と第1位に躍り出た他、専門職が10.3%に急増し、研究職・教職が割合を大きく減らしている。第Ⅲコーホート(75〜85卒)では公務員が7.9%に下がる一方民間企業就職がついに52.3%に達し、その他の割合はあまり変化していない。雇用機会均等法が施行された直後の世代である第Ⅳコーホート(86〜92卒)では公務員の割合が特に下がり3%未満になる一方、6割以上の卒業生が民間就職している。この世代は専門職や大学研究員も多い。第Ⅴコーホート(93〜98卒)ではバブル崩壊による不景気の影響が出たのか、公務員の割合が増え民間企業は46.8%に大きく低下した。大学教員・研究員の割合も第Ⅰコーホートに次いで高い。第Ⅵコーホート(99〜06卒)では公務員は8.3%と変化がないが民間企業が70.8%と全世代で最大の割合となり、ほとんどが民間就職していることになる。専門職や大学職員の割合はこのアンケートにおいてみられないが、母数から言えばこの世代が5つのコーホート中最も大きいはずなので、この7年間で全くいないというのはありえないだろう。その他の割合が最も大きいのもこの世代である。

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 各世代の初職内容を俯瞰してみると、時代背景によって高学歴女性の就職事情が大きく左右されてきたことが瞭然である。

 以降はさつき会発行物から、彼ら1人1人の目線で当時の就職状況を語ったことばを抜き出して考察する。同職種内での就職状況の変遷を分かりやすくするため、職種ごとに女性への待遇の差が大きく投書も多かった均等法施行以前の世代では民間企業・マスコミ・国家公務員・その他の4種類に大別し、法律制定によって雇用差別が禁じられた均等法施行後の世代は一括りに、各項目内はおよそ就職が早かった卒業年度順に並べた。

均等法制定以前(〜1985)

民間企業

 民間企業は均等法施行以前の女子学生にとって、最も男女差別的な採用を行っていたようだ。東大を卒業した学生であっても、性別による格差は何十年もの間埋まらずにいた。以下はさつき会発行物より、東大卒女性が直面した就活の現実を抜粋したものである。

 I.M(56経院)「女性の大学卒の就職活動は大変困難でした。女性に門戸を開く職場が少ない上に「大卒女性などは、わが社に必要ありません」と追い返されることがしばしばありました」(さつき会 2001: 33)

 S.K(58法)「“女子学生”ときけば私はあの暗かった晩秋のことを思い出す。構内の舗道に散りしいた銀杏の葉は秋雨にぬれ、踏みしめて一人で辿る私の心は暗かった。男子学生と女子学生はこれでも同じ学校の学生かといぶかる程明暗の差があった。男子学生は就職も決まり意気揚々と闊歩し、女子学生の多くはうつむいて辿る道だった」(さつき会 1961: 7)

 W.M(59法)「学内に張り出されている会社案内の殆どには「女子学生は除く」と堂々と書かれてあり、女子学生にとっては就職難以前の問題でした」(さつき会 2001: 136-137)

 S.N(61工)「とに角、景気は良かった。応化の学生は引張りだこであった。私は—採用するという会社はあったが、他の学生とは条件が異った。短大卒と同じ、ひどいところは高卒並の待遇だがぜひ来てほしいと言ってきた。この時はじめて、自分が女性であること、世の中男女平等でないことを強烈に意識させられたのである。」(さつき会 1987)

 H.K(62養)「男子学生には求人がワンサとくるのに、そしてほとんどが七、八月中に内定してしまうのに、女子学生で十月以前に決まるなんてことはまずない」この年の文学部の女子の就職状況は、就職希望者15名のうち、10月末までに決定していたのはわずか3、4名のみであった。(さつき会 1961: 8)

 後に女性初の事務次官となるM.N(64養)は、学生当時は民間就職を考えていた。しかし、「内定をもらった企業で渡された念書のようなものに、「結婚したら辞める」という項目があった(中略)頭にきて、この会社の内定を辞退しました。」松原は留年して公務員試験を受け、再び女性採用の少なさに苦労しながら労働省に入ることとなった。

 U.R(70文)「高度成長期の最後に当たり、企業も多数採用していました。私は社会学科ですが、文学部でもここは需要が多く、求人のダイレクトメールが山のようにくる。在学生名簿で私だけきれいにとばして、皆にきている。私の名が“洌子”ではっきり女性と分るからです」これと同様の企業による姓名差別は均等法第一世代にまで続いていたようで、筆者がインタビューした卒のYさんの同級生で中性的な名前の男子同級生には、資料請求した企業のうち半分しか資料が返送されてこなかったという。(さつき会 1987)

 K.T(79育)「第二次石油ショック後の不況のもと、女子学生を採用する企業は少なかった」(さつき会 1987)

 H.N(81文)「女子総合職という言葉もなかった一九八一年当時、跳ねっ返りの女子学生をおもしろがって次々と新しい仕事をさせてくれる社長と直属の上司に恵まれ、知らず知らずのうちに総合職第一号になっていた」(さつき会 1996: 128)

マスコミ
 エッセイ中に社名が散見されることの多いマスコミでも、高学歴女性たちは相当な苦労を強いられてきた。

 F.T(55文)は1955年に読売新聞社に採用された22人の編集記者のうち、唯一の女性として入社した。そこで深尾は今からは考えられない差別的発言を受ける。「新聞社は原則として女性は採用しないんだ、女は役に立たんからな—入社初日、正力松太郎社長から私への最初の一言だった」(『さつき』第50号 2011: 6)

 日本を代表する報道局、NHK(日本放送協会)にも卒業生が多数輩出されてきた。しかし1961年のNHKの女子採用はアナウンサー以外シャットアウトされていた事実があるように、女性の雇用に関してはここでも厳しい現実があったようだ。(さつき会 1961: 9)M.Y(67文)が回想するように、「高度経済成長期の当時、公共放送NHKは女性を正式職員として採用しておらず、長期臨時庸員という身分だった」(さつき会 2001: 67)。女性職員は文字通り景気による人事調整のための人材に過ぎず、不況に陥ると解雇されることを前提とした非正規社員であるという扱いを「長期臨時庸員」という単語はよく表している。

 記者の世界からシャットアウトされ続けた女性だが、例外的に受け入れられた時期がある。それは1964年開催の東京五輪に向けた女性選手に対する取材要員としての採用である。女性選手村には女性記者しか入れないため、新聞社を始めとするマスコミは女性記者を雇用せざるを得なかった。O.Y(63養)の卒業年次は東京五輪を翌年に控えており、「女子選手はニュースの花ですが、男が入れないから仕方がない、女を採ろうと各新聞社が思った、そのときに採用されました。その証拠に、私の入社後6年間は女性を採っていません」「そういう状況でしたから、女はだめだと言われては大変ということだけで、この何十年かをやってきました。子どもと夫には迷惑をかけるけれども同僚には迷惑をかけないという、昔風のやり方でやってきました」という。(さつき会 1996: 190)

国家公務員・地方公務員

 均等法施行以前から高学歴女性の就職先として人気なのが、国家公務員や地方公務員である。公務員試験を受験し合格すれば官庁訪問することができ、憲法順守が特に厳密な職場であるために、雇用の男女差別は民間企業ほどではなかったようだ。さつき会発行物を通して読んでいると、東大を卒業しても民間企業で自分の能力が発揮できないと考えた女性は多く、もちろん国家の仕事に携われるという積極的理由もあるが、それよりもむしろ消極的理由で国家公務員を選んでいた女性が多いように感じる。

 M.M(50法)「1950年に国家公務員になりました。女子も採用するという所は全くなかったのです。男性中心の官僚の世界で女性で初という幹部候補生になり、女性として初の仕事を幾つもやりました(中略)いつも理解ある上司に恵まれ、協力的な同僚、部下に助けられて、なんとか責任を果たすことができました」(『さつき』第50号 2011: 2)

 T.H(53経)の労務省入省動機は「ほかに行くところがなかったから」。「国家公務員は憲法十四条の規定があるため、細々と門戸を開いている、という感じであった」(さつき会 2001: 18)後にT.Hは女性初の最高裁判所判事となった。(さつき会)

 S.G(58養)「私が大学を卒業した頃は、大学に来る企業の求人のほとんどは男子のみを対象としていた。私は、国家公務員試験には合格していたが、当時の官公庁はほとんどが女性を採用していなかったので、毎年1人か例外的に2人採用していた労働省に入った」S.Gは入省後5年ほど経つと労働省内でも婦人少年局にしかいなかった女性職員が他の部署でも男性と同じチャンスを得るように変化してきたと報告しており、労働省は省庁の中でも比較的女性に開かれた職場であったと思われる。

 ただし、その憲法に従うべき国の職場でも、女性に開かれている官庁は初めごく一部であったという。通産省や労務省がその代表的な例であったようだが、それでも女性の採用人数は男性に比べて少なかった。

 H.K(62養)は「筆記試験では成績がよければ合格だが、そのあとの各省の面接でしめ出される。二、三の省では女子一人という枠があるが他の所はいい人がいれば採りますという。表向きは平等に扱うようにしながら、本心ではあまり採りたくないのではないか」と述べ、上級職国家公務員試験で男性を越えて62人中トップとなったにも関わらず、面接で女性であるために振るい落とされたことを明かした。この年は女性の合格者が倍に増えた年であったが、採用はほぼ変化せず、女子や東大以外の男子は厳しい東大卒男性優遇採用の前に苦労したという。

 Y.H(65文)は専攻した心理学を活かしたかったが、「当時、青田刈といわれて男子ばかりが民間から引張りダコ、女子で特異な才能も持合せない私などには公務員くらいしかありませんでした」と、家庭裁判所調査官となった。(さつき会 1986: 87)

 U.E(68養)「多くのさつき会の先輩後輩と同様に就職困難を体験し、この理不尽を何とかしたいという思いと重なって旧労働省に入省した」(『たより』No.47 2011: 24)

 T.M(79経)「(昭和54年当時)民間企業の多くでは正社員でも女子は結婚退職の慣行等で今(2009)の派遣社員よりも不安定なところが多かったこともあり、国家公務員試験を受けた」(『さつき』第48号 2009: 5)(()内は筆者の注釈)

 K.M(82法)「国家公務員を目指したのは、お会いした先輩の方が楽しそうに仕事の話をされるのに惹かれたからです。男子学生に多数届けられる民間企業からの求人案内は、女子学生には全く関係なく、女子の就職と言えば、法曹界か公務員という時代」(『さつき』第48号 2009: 6)

専門家・外資

 公務員同様に、男女の差があまりなくその能力次第で活躍できるとされた職業には、弁護士や公認会計士など国家試験を要する専門家や、男女平等に比較的近いとされた外資系企業があった。

 I.S(54法)は卒業後弁護士となり、女性であることで周囲から気を遣われることは多いとしつつ、「仕事の上でも官庁機構の上でも全く男性と同じ扱いを受けます」と満足している。(『さつき』第1号 1961: 10)家庭の事情で仮に一時職を離れても、資格を持っている限り弁護士の仕事はいつでも可能であることも長所であるという。

 W.M(59法)も生涯働き続けたいとの思いから受験前から志していた弁護士になった。就職先の事務所長が男女の能力に偏見を持たない人であったため全力で業務ができたという。またW.Mは上記のI.Sと共に1977年国籍法違憲事件の原告代理人を務め、旧国籍法第2条の違憲性を訴えて上訴審まで争い、その途中の1984年、国籍法は改正された。

 F.E(65文)は前述のように初め結婚相手探しのために入学したが、男女に「人間として本質的な差はないことを確信」して自立して働きたいと思った。しかし、「仲間の男の子はどんどん就職するのに私には就職口がなかった。やむなく法学部に学士入学し、一年半猛勉強の末、司法試験に合格」して弁護士となった。その年に司法研修所の同期と結婚したという。(さつき会 1986: 86)

 H.M(77医)は公認会計士になった理由を、「一九七七年に大学を卒業した時は、オイルショックによる不景気と医学部保健学科の専門性に関する問題点のため、就職については本当にひどい状況でした。(中略)いろいろとやってみた後で、価値を認められている資格でもとらない限り、均等な機会は与えられないと思い、公認会計士の資格をとりました」と振り返った。(さつき会 1996: 116)H.Mは外資系のビッグ6に入り、機会を均等に与えられたため、キャリアを積み様々な仕事上の経験を得た。「今まで男性の中で、男性の価値観にあわせて仕事をすることが、仕事のチャンスをもらい、プロフェッショナルとして教育してもらうにあたり、不可欠でした」(さつき会 1996: 116)公認会計士として20年近く働く中でH.Mは、均等法の効果を「そこまであからさまな仕事への女性参入拒否はなくなった」と認めつつも、女性経営者・上司に対する抵抗感については「長い間、「女性はこのくらいでいいだろう」という“常識”とされてきたものが払拭されていない」という。(さつき会 2001: 103)

 外資系企業ブームが始まる前から、高学歴女性にとって外資は重要な選択肢の1つであった。U.Y(71理)は「一生働くつもりでしたので「男女に給料差があります」と言われた日本のメーカーはお断り」して、日本IBMにSEとして入社した。特別キャリア意識が高いわけではなかったというが、入社12, 3年目についたアメリカ人上司に退社時の具体的目標を高められたことを契機に、初の女性取締役にまで登り詰めた。

 ただし、外資系だからといって当時日本企業で当然視されていた女性蔑視的風土が存在しないというわけでもなかったようである。女性初の東京大学理事となったE.M(80養)は、「国際的な仕事をしたいと考えてシティバンク東京支店に就職した。しかし、外資系でも日本で100年以上の歴史を持つシティバンクは、日本的な企業文化を取り入れていたので、女性に研修を受けさせない、泊りがけの出張に行かせない、などの制約があった」(『さつき』第50号 2011: 24)という。K.S(84文)も、外資系保険会社に入社し女性初の社外研修に参加した。残業が1ヶ月に100時間以上もしばしばあったが満足していたという。しかし2年目になると入社前男女同待遇と聞かされていたのに差がつき始め、お茶汲みは女性のみ。何より不満だったのが、会社側に女性を長期的に育てていこうという姿勢が欠けていたことであった。K.S自身も会社全体を見る広い視野や長期的ビジョン、意欲が明確になく、夫の米国留学を機に退職した。(さつき会 1996)

 研究職や翻訳家も多い。ただし、研究所によってその待遇は多様であったようだ。T.A(67理)は教務系技官として東大医科研に勤め始めてすぐ結婚し、2年後に出産すると「教授から「もちろん、しごとを辞めるのだろうね」と云われた時は本当にビックリした」という。これは促すという意味ではなかったが、10数年経った時点では「四〇才以上の研究者を見ていると、これからの私の将来の見通しは暗い」「女性が助手以上に昇進できない」と不安を抱いていた。(さつき会 1986: 100)対照的にT.Aと同学部同期のS.S(67理)は田舎に嫁ぎ家庭では苦労したものの、「たまたま先輩の紹介で修士修了と同時に就職できた国立の研究所は(中略)勤務時間はあまりうるさくなく、女性の職員も三分の一位いて、女性の立場への理解が深かった」と、職場環境の良さに感謝していた。(さつき会 1986: 101)S.K(70文)は「青雲の志を抱いて」氏入学したが、在学中に東大紛争を経験し、「果てしなく思われた討論と集会の日々のなかで、大学に残って研究することで果たして学問ができるのかとの思いが強まり」、資料翻訳の仕事に就いた。(さつき会 2001: 82)

均等法施行後(1985〜)

 男女雇用機会均等法が施行されたのち、前述したように露骨な雇用時の男女差別は大きく減った。しかし法律が変わった瞬間企業や国民の意識が変わるわけではない。

 T.J(87農)「雇用機会均等法は1985年法だそうですが、まだ私の時までは就職案内書は男女別でした」(『さつき』第48号 2009: 7-8)

 均等法第一世代であるインタビュー対象者のYさん(86育)も、女性とも取れるような中性的な名前の男子同級生は企業から他の男子学生と比較して明らかに差別的な書類上の対応をされていたという。Yさんは女性でも働き続けられるという理由から、警視庁の専門職として就職した。

 民間で生き生きと仕事をする卒業生もいた。N.N(89文)は新卒でリクルートに入社し、「自ら機会を作り出し、自らを変えよ」との社訓の下、人にも仕事にも恵まれ充実した社会人生活を送っていました」と報告している。(『さつき』第48号 2009: 11)

 一方で、均等法施行後はバブル景気が就職活動に楽観的な雰囲気を運んできた。筆者のインタビューしたSさん(91養院)は「当時は就職活動という概念もなかった」という。均等法施行翌年の86年からバブルが崩壊した数年後の94年まで、20-24歳の女性就業率は70%を初めて超えた。(国土交通省 2012)これ以降70%を超えていない背景には短大の不人気と女性の四年制大学・大学院進学率の上昇があると思われる。この一時的な若年女子の就業率の上昇は女性がバブルの好景気において需要が増加したことを示している。東大卒女性の就活でも同様であったようだ。K.S(89文)は「学生時代はバブル景気真っ盛りで、自分の職業展望など深く考えたこともなかった」(『さつき』第48号 2009: 9)という。時代の空気を感じる回想である。また、N.J(91法)は「90年夏に就職活動を始めた頃は、男女雇用機会均等法施行後数年たっていたこともあり、選択肢は多数あるように感じていた」(『さつき』第48号 2009: 14)とあるように、均等法の効果はたしかに現れていたことが伺える。

 しかし入り口ができたことと、会社の受け入れ・教育体制が万全になることの間にはタイムラグがある。施行されてから数年後、バブル景気も崩壊して就職活動に暗雲が差していた時期の卒業生からは、社内にロールモデルとなりうる先輩女性社員がいないことへの不安があったという回想が寄せられている。

 M.M(93法)「真剣に就職先について考えるようになったのは、大学4年の春から始めた企業への就職活動の中で、想像以上に厳しい現実に直面してからでした。世間知らずだったこともあり、就職活動で女子学生は男子学生とは全く異なる扱いを受けること、訪問した企業で30代後半以上の女性の先輩に出会えるケースはほとんどないという現実は大いにショックでした。平成4年当時はバブル経済後の不況が実感されてきた時期であり、男子と同様の感覚で企業を回るとあっさり門前払いになることが多く、自信を失うやら、焦るやらで大変でした。また、企業訪問で会える女性の先輩はだいたい20代くらいで、それよりも上の女性は採用していないか、辞めているかのどちらかという状況も判明してきました。こうした体験を通じて、女性を戦力として育成する意思のある組織で働きたいという気持が非常に強くなり、早くから女性を採用し、育成している公務員の世界に関心が高まってきました。(中略)すでに10数年働いている先輩を筆頭に、魅力的な女性の先輩方が生き生きと働いているところを見たのは、私の経験した企業訪問では出会えない光景でした」(『さつき』第48号 2009: 15)

 M.Mの訪問先に年配の女性がことごとくいなかったことへの戸惑いと失望がよく分かるが、それも当然で、均等法制定以前に民間企業に入社し30代を迎えた世代の多くは雇用差別を甘んじて受け入れ、年齢や結婚を機に職場を退いていったのだろう。

 雇用機会均等法によって、雇用の入り口だけでなく既に入社していた女性も恩恵を受けたようだ。検事であったM.H(77法)は「形だけでも女性を登用するべしとの潮流にのせていただき、女性初の大臣秘書官、初の法務省民事局付検事など、先輩諸姉からみると、厚遇され」たという。(さつき会 2001: 101)筆者がインタビューしたYさん(87育)の職場である警視庁でも、女性比率は30年間で30%前後と変わらないが、入庁当時は巡査・一般職(役職最下位)が女性職員の約70%を占めていた。しかし現在は巡査・一般職は女性職員の約40%ほどまで下がり、警部補まで女性が多く見られるようになっているという。ただしそれ以上の警部や警視になると1,2人しか女性はおらず、そもそも昇任する意欲を持つ女性自体が少ないという。

 これ以降の世代の就職時の回想はさつき会発行物からはほとんど見つけることができなかった。男女雇用均等法の効果がいよいよ現れ、東大卒女性の社会進出がスタート地点で妨げられることがほぼなくなったからだろうか。変わって育児や仕事の話題が増えているところを鑑みるに、就活時点での世代間での共感はもはや東大卒女性には必要なく、その後の人生で直面する悩みの方が比重が大きくなっているのかもしれない。

主婦

 もちろん、東大を卒業した後就職の道を選ばずそのまま専業主婦になった人も一定数いる。さつき第3号(1964)の第1面は「主婦という名の職業」というエッセイが掲載されており、主婦を1つの職業と表現する一方で、その孤独さと閉鎖性、社会的地位の低さが大学卒専業主婦に劣等感を抱かせ、鬱屈とした心情につながると指摘している。特に東大卒の主婦は「教育という社会的投資を受けながら家庭の底に沈んでは申しわけないという責任感のようなもの」や「東大出の肩書きを生かせないという焦り」を感じるという。

 O.S(72文)「私は大学を卒業して専業主婦になるまで、自分が男性ならまず受けることがなさそうな期待、女性であるというだけで受けている期待があることに気づかなかった。いわく、「東大出なのにハンバーグも上手に作れないのか」「普通の家庭婦人がやっていることを全部やってのけた上で働くのでなければ、尊敬するに値しない」(中略)この手の言葉をわが嫁ぎ先のめんめんから聞いた。売られた喧嘩はみな買ったつもりである」(さつき会 2001: 88)

 学生結婚したS.H(84経)は「当初は何の迷いもなく就職を予定していたのだが、“既婚”という二文字は企業にとっては鬼門だったらしく、悩んだ末に結局、家事・妊娠・出産・育児という全く“私的”な職に従事することに決めた。」しかし「今は女として最も創造的な仕事を手がけている」と「頼りない日々」を肯定もしている。(さつき会 1986: 158)

 さつき会データ集(2011)によると、仕事をやめた理由のうち結婚・妊娠・出産を挙げた卒業生は無回答の回答者も含めると全体の19.4%でしかなく、現在就職しておらず専業主婦あるいは無業者となっている割合も16.3%と、比較的低い。しかし東大の現在の女子学部生比率が2割弱であることを鑑みると、この19.4%という数字は決して軽視すべきものではない。東大卒主婦は東大卒女性の中ではマイノリティーであるが故に、さつき会が彼らを疎外することはあってはならない。これからも、総会や発行物などを通して職業の有無を問わず同窓生同士の第二次的集団として機能していくことが期待される。

転職・独立・再入学

 さつき会員を含め、転職が決まるきっかけは東大卒女性のネットワークであることも多く、ここでさつき会自体やさつきヒューマンリソースなどによる連帯の効力が感じられる。さつき会データからも、現職入職経路は1社目である可能性の高い第Ⅵコーホートを除いても全世代で東大の先輩・先生・大学の紹介によるものが20%〜40%と高く、「転職や仕事探し」のプラス感が57.6%、マイナス感は2.9%、「新しいことを始めたり、何かを相談するときのツテを見つける」ことに対してプラス感が46.3%、マイナス感は1%未満と、東大卒の効果を実感している。(さつき会 2011)

 H.K(56文)はキャリア初期に結婚・出産によって退職したが、その後バイト、出版社での活躍を経て政府の審議会の委員や東京家政大学名誉教授としての地位を得るまでになった。「一物書きにすぎない私が登用されるとき「まあ、東大出だから」が一種の信用状になったに違いない。」(『さつき』第50号 2011: 9)

 独立・起業する卒業生もいる。多くは弁護士や医者、会計士といった三大国家資格を要する専門職だが、中にはベンチャー企業を立ち上げて経営者となる人も、確認できる最初期では58卒から80年代卒までが見られ、それ以下の年代でもさつき会以外で起業し社長を務める東大卒女性は複数人いる。以下は特筆すべき例の一部である。

 W.T(58文)は高学歴主婦の働きやすい場を作るため、1987年に受託編集会社を興した。「仕事もしたいが家庭も大事、地域活動や趣味も豊かにという再就職希望者の願いをできるだけとり入れ」、第3次産業の振興をいち早くキャッチした事業を展開した。(さつき会 1986: 46)F.K(72文)はインテリアマートを経営する傍ら集合住宅の設計も行った。(『たより』No.33 1997)M.Y(86経)は97年GMを辞め紅茶の輸入販売会社を起業した。(『たより』No.33 1997)

 また、英語運用能力を培ってきた学生が多いためか、勤め先の留学制度だけではなく、海外で職を見つけて働いたり、修学のために留学する卒業生も全年代を通して数多く見られた。さらに、社会人になって何年も後に大学機関に再入学して専門を持つ卒業生も、同様に全年代を通して存在する。中には働きながら博士課程に在籍する人もいた。東大卒女性は受験以降も自らの勉学に励むことが多く、自己研鑽の習慣付けがされている人が多いように思われる。

結婚

 さつき第1号に掲載された1961年実施の卒業生800名を対象にしたアンケートでは、その約半数いた未婚者のうち、職業と家庭生活の両立を客観的には困難だったとしても消極的に望んでいるものを含めて希望している割合は95%を超えた。当時既に既婚者であった卒業生では、しかし、現実に両立できているのは66.4%と積極的に両立を希望する未婚者の割合(60%)よりも高いが、両立していない既婚者のうちで就職を希望している割合は71.5%にのぼっており、当時の世間一般の女性よりは案外両立できたという卒業生が多いとはいえ、自ら望んで両立しないという人はかなり少ない。全体を通して、卒業生の就業意欲がかなり強いことは特筆すべきことである。育児についても未婚・既婚を問わず母親が「必ずしも家庭にいなくてもよい」という回答は約40%前後であり、「母親の社会での成長は子供の教育に大切」だという回答も12%を超える。ただし、「家庭にいるほうがよい」は10%強、「幼児期はいた方がよい」も約20%前後存在した。アンケートに寄せられた声には家庭を「口実」にして社会から撤退すべきでないという厳しい意見もあったが、職業生活と家庭生活を総合した結果充実していればよいという意見が複数あり、複数の居場所での自己実現に積極的な東大卒女性の姿が浮かび上がった。

 さつき会が2011年に行ったアンケート調査では、既婚率は49卒から74卒までの第Ⅰ・Ⅱコーホートで90%を超え、92卒(調査当時30代前半)までの第Ⅲ・Ⅳコーホートでも75%以上が既婚者であった。初婚年齢はどの世代も27、8歳と時代による大きな変化がない。配偶者と知り合った年齢も全世代共通して22、3歳であり、きっかけのおよそ半数が大学である。特に85卒までの第Ⅰ-Ⅲコーホートでは55%を超え、大学で将来の配偶者を見つける者が多かった。配偶者の最終学歴も70%が大学院を含めた東大卒業生である。子供は第Ⅰ・Ⅱコーホートでは85%以上が平均2人以上持っているが、第Ⅲコーホート以降は大体15%ずつ減少していく。子供の数は平均2人未満だった。

 配偶者への満足度に関しても全体的に非常に高い。「配偶者は私の心配事や悩みを聞いてくれる」が当てはまるが約8割で、特に若い世代ほどよく当てはまると回答した比率が大きい。「私の能力や努力を高く評価してくれる」「私のキャリア作りを応援してくれる」も全世代を通して約85%が当てはまり、配偶者が良いサポーターとなってくれている夫婦がかなり多いことが分かる。同時に、「私は配偶者の心配事や悩みを聞いている」も86%、「私は配偶者の能力や努力を高く評価している」も88%と、互いに認め合い、高め合うことができている理想的な関係が築けていると言えるだろう。以上から、東大に女性が入学し始めた最初期から懸念材料として言われているような「嫁の貰い手がなくなる」「東大女子は結婚できない」という言説は間違いである。配偶者への満足度も非常に高く、互いのキャリアにも理解が得やすい。むしろ「女子大学無用論」「女子学生亡国論」時代に揶揄されたように、東大で「婿探し」をした方が高学歴女性は幸せな結婚が可能になるのではないか。この場合大学は確かにある意味での「花嫁学校」である。ただし、東大卒女性は結婚や出産で働くことをやめる割合が非常に少ない。あくまで自分のキャリアをできる限り優先しつつ結婚・出産を両立しているだけであり、このライフプランを実現するために必要な理解と応援を提供してくれる配偶者を得るためには同じ学歴を得て互いに稼得能力を認めることができる相手を見つけるのが確かに効果的なのかもしれない。

 「女が高学歴だと嫁の貰い手がなくなる」と言われた時代もあり、さつき会の寄稿からも東大を志す女性の多くが社会で自立していくことを考えていたことがわかる。さつき会のアンケート(2011)でも、東大卒であることが結婚相手を見つけることに対してはプラス感とマイナス感が全体では拮抗、若い世代ほどマイナス感がやや優勢となっている。しかし、東大卒女性の既婚率は決して低くはなく、むしろ結婚した際の満足度も非常に高くなる傾向が全世代を通して見られた。90年代の白波瀬(1999)による調査でも、高学歴者の結婚年齢は高いが、最終学歴終了後からの移行期間はそれほど長くなく、大卒の結婚移行率が低いということではないと結論付けられている。女性が高学歴を手にすると結婚できなくなるという学歴仮説は事実に基づくものではないことは明らかである。

 東大卒女性の結婚年齢の平均は最初期から一貫して28歳前後である。日本全体の女性の平均初婚年齢が低かった時代は「東大女子は結婚できない」という言説は真実味を帯びていたかもしれないが、未婚率が上昇した今となっては、東大と他大学或いは中高卒との間に露骨な結婚年齢差はなくなりつつある。共働き世帯が半数以上の多数派であることも鑑みると、稼得能力のある者同士の結婚になりやすい高学歴を手にすることはメリットの方が大きいと思われる。

子育て

 年会報やエッセイの近況報告にはこれまで多くの子育て体験談が寄せられてきた。保育所送迎の苦労から娘が東大に入学したという報告まで年代も多岐にわたるが、多くはやはり手のかかる年少期の子育て話である。また子供が東大に入学した、という報告も一定数ある。息子と共に東大に通うという卒業生もいるなど、教育に熱心な母親となる人が多いように思われる。

 子育てや介護が原因で職場で阻害された差別体験を吐露する投稿もあった。H.R(57理)は立教大学助教授となったが、2児を育て姑の介護を抱え、夜型の教授に合わせられなくなったことを発端に話し合いもないまま職場いじめが始まったという。発言の無視や研究室内の決定に全く参加させてもらえず、卒業実験の学生の配分も無く自身の研究が進まなくなった。「私は次第に暗くなり大学に出るのが苦痛になった。何度か退職も考えた。しかし不条理な圧力に負けて職を捨てる事には抵抗を感じた。結局私は講義や実験指導などの授業の時以外は大学に出ないという、いとも安易な」、しかし「無念」な道を選んだ。(さつき会 1986: 41)

 子供が逆に勉学の励みになったという投稿もある。M.K(71理)「子供の存在は生活に歯止めを作り、人生に重石とはげみを与えてくれて大変よいことでした。東大での不完全燃焼の六年間をとり戻そうとするかのように熱心に講義を聞き、医師になるという単純明快な目的に向けて自分を投入することができました」(さつき会 1986: 125)

 子育てをする会員の投稿には一時期でも専業主婦となった体験や仕事との両立に励む内容、また成長した子供の進路報告など様々である。さつき会の存在意義の1つとして、孤軍奮闘になりがちな育児と仕事の両立に関する葛藤体験の共有が挙げられるかもしれない。

介護

 最初期の卒業生らが90代に差し掛かり、故人も多くなっているが、介護について寄せられることは子育てに比べると非常に少ない。だが確認できる数少ない介護関連の投稿の中からは、その苦労が伺える。特に働くことを望むことの多い東大卒女性にとって、自分や配偶者の親、或いは夫の介護は大きな障害となっていることが見えてきた。

 K.K(57養)は介護を「暗夜行路の嵐」と苦く振り返った。「ガンで死ぬ運命にあった姑の介護の為、再留学・再就職という長年の夢をも捨て、乞われるまま恩返しと思ってベストを尽くした。しかしその後隣家に一人残った舅の、古風な家風を押しつけてくる世話の難しさ。」(さつき会 1986: 39)

 K.Y(68薬)は大学院時代「大学紛争の真只中でもあり、余り研究にも情熱が持てず」に学生結婚して専業主婦の傍細々と研究を続け博士となったが、子育てがひと段落してフルタイムで働こうという矢先に父親の自宅介護が始まり、「四十歳すぎで、寝たきりの父の世話をしながら、責任ある研究を新たに始めるのはとても無理だと思い、非常勤講師をしながら無給の研究員として東大で仕事を続けることにした」という。(さつき会 1986: 109)

 T.T(75文)は翻訳業の傍ら、卒業後23年で両親が一度に倒れ「独身の私はどこで、どう死のうかと、改めて真剣に考え」たという。(『たより』No.33 1997: 9)

 子育て体験記に比べて介護体験記は明らかに少ない。ポジティブな内容にならないからだろうか。さつき会の今後を考えたとき、現会員が介護者となり育児同様に仕事との両立に悩んだときの体験を共有する場を提供することは、高齢化時代の若年者のキャリア選択の参考ともなるだろう。

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