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【第2章2-1】東京大学とさつき会と女子学生の70年間

※本論文は2018年度東京大学文学部社会学研究室でクローネ賞を受賞した学部論文です。研究室ならびに指導教官からの許可を得て公開しています。

※加筆修正したい点もありますが、敢えて執筆〜提出当時(2018年1月5日)のまま掲載します。私人についてはイニシャル表記のままとします。

第2章 東京大学とさつき会と女子学生の70年間

 第2章では高学歴女性の最も先鋭的な例として、東京大学を卒業した女性について戦後70年間の彼らの歩んだ道のりを俯瞰したい。東京大学はその成り立ちから、国家の中核を担うと言っても過言ではない官僚の養成学校の側面を少なからず持っており、それは学生の就職先が多様化した現在も大きく変わらない。また研究機関としても国内トップレベルの人材・機材を抱えており、最高学歴と言われる。ところがその学生の男女比率は全体で8:2と、凡そ憲法で規定された男女同権社会において不均衡な比率であり続けている。

 その東大史上常に少数派でありつづけた女子学生のために、女子学生のみの同窓会が半世紀以上前から存在している。東京大学に女子学生が入学を許可されたのは戦後GHQの指導があった1945年からであったが、女子卒業生の累計が数十人に達した頃、1954年卒の影山裕子らを中心に女子卒業生の同窓会を作る動きが生まれた。当時名簿も作られていなかったところから呼びかけを行い、1961年6月3日に東京大学女子卒業生同窓会として「さつき会」が誕生した。当時の総卒業生500人中、結成会に大蔵省第二食堂に集まったのはおよそ170人、実に3割を超えるOGが連帯を求めて集ったことになる。会場では元東大総長の南原繁もスピーチを行い、その場でさつき会顧問となることを快諾した。初代理事は50年卒の久保まち子が務め、以降様々な活動を行いながら今日まで存続している。

 女子学生たちは皆、男子学生同様親の金には頼りつつも、入学試験に関しては100%自分の力で入学資格を勝ち得たし、大学側も女性だからと排除することは不可能であった。ところがそれぞれの4年後、彼らが社会にいざ出ようというときになって、「女性である」という本人の行動では如何ともできない先天的理由で、女子学生は企業や多くの職場から排除されてきた。東大卒女性も全く例に漏れなかった。むしろ周りの男子学生が「就職戦線のサラブレッド」(さつき会 1989)とまで呼ばれ、他の大学出身者よりも大幅に社会での選択肢を持っていた故にますます、女子学生らは自らの「女」としての性を強く意識せざるを得なかっただろう。均等法制定前は大学の募集要項にはっきり「女子学生を除く」と書かれていたというのだから、もはや「ガラスの天井」という生易しいものではなく、「鉄の天井」といっても過言ではなかった。それでも国家公務員など極限られた職種では女性も就職することが可能であったため、当然優秀な女子学生たちはこぞって公務員や資格を要する専門家への道を選んだ。故に初期から東大女子卒業生には官僚や公務員が非常に多く、それに理由があるのかは不明だが、さつき会の結成会も大蔵省内で行われた。そして彼らがそれぞれの高スキル職のパイオニアとなって、男女平等な職場作りのために地道な開拓の努力を続けてきたのである。

 本論文では高学歴女性の代表として東京大学の卒業生、特にさつき会と呼ばれる女子学生同窓会に所属する卒業生を選んでいる。その理由として、以上に述べたように、東京大学の入学制度が性別や親の影響力に関わらず、個人のパフォーマンスに拠ってのみ入学資格を得ることができること、国家予算面から見ても日本を代表する国立大学であること、そしてその女子卒業生らが70年間にわたって常に「ガラスの天井」を突き破ろうと多業種で活躍してきたこと、その活躍の中に日本の労働市場の男女平等を大きく推し進める契機となった「男女雇用機会均等法」制定があったことなどが挙げられる。数十年前とは違い、大学数や大学進学率が増大し、大学間のレベル差も大きくなりつつある現在、一括りに「大卒」を語ることは非常に困難である。そこで「女性が学歴を手に入れると何が起きるのか」を最も顕著に体現する例として、東大卒女性の体験談を検討することが最適解なのではないか。なお、本文中に引用する発行物からの抜粋は私人が多いため、理事などの代表者以外はイニシャル表記とした。同年卒同イニシャルの場合のみ、数字をつけて区別した。また、敬称も略している。

2-1 連帯の組織としてのさつき会

 東京大学に女性が入学するようになって約70年が経つ。終戦と共に始まった東大女子学生らの歩みは、はじめ非常に険しい道のりであった。圧倒的少数派であった初期の東大卒女性同士を繋げていたのは、1961年に結成された東大女子学生同窓会であるさつき会であった。さつき会自体は政治的活動に関係していないが、そこで培われた世代を超えた女子卒業生間の議論や交流は確実に各々のパイオニアとしての生き方に影響を与えていた。

「財力には無縁のさつき会が、人材の力だけで四十年間も当初の目的を目指して活動を継続してきたことは、大いに誇りとすべきことでしょう。」(さつき会, 2001, 『さつき3 東京大学女子卒業生同窓会40周年記念エッセイ集』より「はじめに さつき会代表理事若菜允子」)

 さつき会は地道に、自然体で会員の業績・体験・情報の交流をはかることにより会員の社会的活動の基盤作りに取り組んできた。本章では、さつき会が東大卒女性を繋げたことの意義を確認し、組織としてどのような位置付けであったか、雇用差別が若年層の脅威とならなくなった現在に求められるポストさつき会の形はどのようなものかについて考察する。

2-1-1 連帯の必要性・理念

 「東大閥」という言葉は特に戦後の占領時代に米軍関係者が用い、世間にも流布していたというが、ボート部などの一部の運動会を除いて同窓のよしみで特別目をかけるということは少なく、さつき会結成当時の東大総長であった矢内原忠雄も「東大の卒業生くらい閥の意識の少いものはない」と述べた。(『さつき』第1号 1961:1)確かに、全学共通の集会は今もそれほど多くはないが、各研究室や学科内の繋がりは存在する。しかし、当時男性が9割以上を占めている小集団内で、女性が同等にその連帯の恩恵を受けられることは難しかったのかもしれない。全学を結びつける東大卒女性の組織は、数少ない同志を引き合わせることを可能とし、当時大きな意味を持っていたのだろう。N.R(58文)は「世の男性諸氏は同郷であるとか、同大学の卒業生であるとか理由をつけては派閥をつくり互いに力になり合ってうまくやっている。我々女性はともすれば親分子分的関係からはじき出されるのだから自分達も派閥をつくろうではないかという極めて性のわるいものであった」と茶化して結成趣旨を回顧した。(さつき会 1986: 44)

 組織の性格として、出自によって自動的にメンバーの資格が付与される第一次集団では「唯一の忠誠心」「全身全霊の参加」が求められる。(中根 1967)都会の男性にとってこれは「社縁」であり、女性にとってはイエや地縁組織であった。つまり性別役割分業観の支配する集団内では、社縁社会での男性の連帯に女性が「割って入る」ことは非常に難しく、「女性としての役割を放棄」しているとみなされる。第一次集団では社会関係の「垂直的、役割による拘束、押し付けられたコンセンサス、個性の抑圧」が支配している。この二重の身動きの取れなさから離れるために結ばれるのが「任意団体」、第二次的組織である。個人が自らの意志で参加する二次的組織は周縁的であるために広義性を持ち、上野(1987)は縁が選べるか否かの分類を、他の研究者らは目的思考的か価値思考的かでの分類を主張している。(井上 1987)文(2003)は第二次的集団の価値思考性に着目した。

 さつき会はこの価値思考的第二次的集団であると言えそうだ。綾部恒雄(1976:14)によると、この人間関係の特性はメンバー間の平等、任意、局部性、選択性によって特徴づけられる。脱退の自由を必然的に奪うことになるため、参加目的は生計ではない。局部的で私的な組織であり、意図的に自由で個人的な人間関係を追求し、階級的束縛、厳しい規制、厳格な対人関係を避けようとする。また、メンバーシップが自立的な個人によって構成されていることも大きな特徴であり、イエに基づく伝統的結社(宗教的・経済的結社)とはこの点で異なる。メンバーシップの資格はイエの中で引き継がれない。さつき会でも母娘が共に入会する場合、娘本人の自立意志によってしか入会し得ない。こうした集団ではリラックス、自由、円満な完全さを享受することができ、同時に関わるフォーマルな組織からのプレッシャーに耐える助けとなる。(文 2003)本論文内で引用したさつき会会員の所感も、高学歴女性として社会である種の生きづらさと立ち向かう中でさつき会が支えとなったというものが非常に多く、会員にとっては第二次的組織として十分に機能してきたことが分かる。

 ただ、さつき会に目的思考がなかったというわけでは決してない。矢内原総長は、さつき会結成について、男女平等は形式上だけで実際は人数も少なく、そこに発生する「女子特有の問題」を当事者間で解決するための集まりだと説明を受けたという。(『さつき』第1号 1961: 1)この「当事者間で解決する」ことが期待できる理由について、第19代さつき会代表理事の若菜允子は、「さつき会の会員は総合大学の全学科を網羅しているため、男女平等の実現という基本テーマに対しても常に多角的なアプローチ、複眼的な考察ができる」ことと、「会員の発想力の豊富さ」を挙げた。「会員はそれぞれの立場で社会の前進のため地道な努力を重ねており、いわば生活密着型で発想力が触発されやすい立場におかれている」と述べた。(さつき会 2001: 4)また、第14代さつき会代表理事橋本静代も、「女性だけで集まることの意義に懐疑的な議論がなされたこともありますが、時として四面楚歌とも思われる社会構造の中にあって、「さつき会」を唯一の開放的な語らいの場とし、ここでまた新たにエネルギーを充電して帰る人は絶えることなく、さまざまの形で私たちに活力を与える場となってきたことは事実」(さつき会 1991)だと主張した。57年に医学部衛生看護学科の第1期生として卒業し、後に岩手県立大学看護学部教授となったY.M(57医)は、さつき会について、「同じマイノリティとしての苦労をさつき会の存在によって励まされ、またそれをバネにして、看護学の基礎を創り、その発展を支え続けてこられたのだと思う」と評価している。(さつき会 2001: 37)均等法の立役者となったA.R(53法)は、「旧制東大卒生は俊才ぞろいだが数も少ないので、時折食事を一緒にする程度で、静かなネットワークだったが、54年組は新制初めのせいか、そんな程度では気がすまず、タテ・ヨコきちんと糾合して会を作ろうと呼びかけてこられた」(『さつき』第50号 2011: 3)と振り返っている。61年発行の『さつき』第1号にも、当時学部2年生だったT.Jが「東大には今一学年九〇人以上の女子学生がいながら、女子同志集って共通の問題を話し合おうとする事はほとんどない」と述べているところをみると、「54年組」が特別連帯感の強い世代だったのかもしれない。「さつき会は種々の会合の場を通じて、数ジェネレーション及び多分野にわたる、知的レベルの高い友人の供給源になってくれました」というA.Rは、さつき会を「宝の山」と表現した。(さつき会 1986: 8)

 「女子特有の問題を解決する」という結成理念に外れず、さつき会から外に飛び出る運動もあったようだ。K.F(56文)はさつき会で男女平等の問題について大いに話し合うことができた上に、「家庭科の男女共修をすすめる運動では、大勢の会員の方に協力していただきました。国籍法改正、民法改正、男女雇用平等法をつくる運動なども、会員といっしょにすすめることができました」と述べ、さつき会に所属したことで社会問題に実際に行動を起こすことが可能になってきたことを明らかにしている。(さつき会 2001: 32)このK.N自身非常に社会意識の強い人物で、その後さつき会の発行した「たより」には何度も、社会のためにすべきことを自分がしなければならないという思いの伝わる文章を寄せている。さらに、介護保険法(2000年施行)の提案者の一人であるというH.M(77医)は「ここに書かれていた先輩の経験から、身につまされて、私が提案した政策」だと『たより』No.47(2011)の投稿コラム「北から南から」で明言している。さつき会自体はその会員に数多くの官僚や社会的地位のある人間がいるにも関わらず、政治的活動を全体としてすることは無かった。しかしそのネットワークから「女性」に関する問題に関しては、政治的活動と全く無関係というわけではなかったのかもしれない。少なくとも教育的背景、価値観を一にした個人の存在を確認し、相互に鼓舞しあう場としては機能していただろう。

活動内容

 さつき会の活動は設立当時から続く年1回の総会、年会報『さつき』の発行、隔年の東京大学女子同窓会名簿発行、在校生向けの就職懇談会・ガイダンスの他に、年会報『たより』の発行、東京大学女子卒業生名簿の発行(1968, 1982, 1988)、1983年以降年2回のさつき回フォーラム、2007年以降の新年会、2009年以降年1回の東京大学ホームカミングデイでの卒業生講演会の開催に加え、2011年の東日本大震災被災者・さつき会奨学金(一時金)、2013年以降のさつき会奨学金の給付など、その活動は年を追って幅を広げてきた。

 初期のさつき会では会員同士の自発的交流も多く、1964年以降1972年まで3度にわたって開催された「日本古典研究会」、1968年から1979年まで活動が記録されている「グルメ会」など、非常に活発な私的交流が見られる。また年表には詳しく記されていないが、IT革命に伴ってパソコンが1984年に導入され、さらに1996年に運用を開始したメーリングリストは翌年には約150名が参加し、様々な議題について自由闊達な会員同士の議論が交わされたようである。K.M(69工)はこのメーリスについて、「コミュニケーションの革命的変化を感じ」たという。「議論は時に空回りしたり、先鋭化したりすることもある。でも自分が考えて書いたことに対して、反応を得られることは貴重だ。文章を書くことを職業にしている人はかくあらんと思える程の経験だった。言いっ放し状態から、議論が集約する可能性を感じることができた。」(さつき会 2001: 81)メーリスが運用を開始した翌1997年10月に発行された『たよりNo.33』には、女子保護規定を巡って「若い方達の活発な討論」がさつきネット上であったことに「新鮮なエネルギーを感じ」たという投書がある。年に2度という高頻度で会報を発行するさつき会だが、この頃はさらにIT革命によって東大女子卒業生の時事問題に関するオンタイムの意見交流の場も提供されており、会員はより身近に同窓生同士の連帯を感じることができただろうと推測される。

 東大卒女性間での庇護移動機能を果たす活動も行われている。1983年設立の人材銀行では、OGとの連絡や職業紹介に繋がるような相談が可能であった。1997年人材銀行はさつきヒューマン・リソースと改名した。

 東大女子学生が対象の就職ガイダンスも結成当時から断続的に行われてきた。女子学生の就職が困難を極めた世代の経験から設立されたさつき会らしい行事である。2011年には東日本大震災被災者・さつき会奨学金(一時金)を迅速に設け、大学を通じて募集・選定の結果、学部・修士・博士から各1名の3名に15万円が給付された。これを機にさつき会奨学金創設の決定・さつき会奨学金制度検討プロジェクトが発足し、2013年返済の義務を課しない給付型の「さつき会奨学金」が設立された。自宅外から通学せざるを得ず、経済的支援を必要としている女子学生に対して選考を経た若干名に学部の4年間(6年制課程では6年間)月額3万円を給付するものだ。これは2016年から始まった東京大学の修学支援事業の一つとして位置づけられ、入学前予約型から在学中学生にも対象が広がった。

2-1-2 均等法制定以降のさつき会

 東大の女子学生数が73年度以降急増していくのに対して、1961年に結成されたさつき会の会員数は58年度以降150名前後で横ばいであり、1996時点で260名を超えたことがなかった。(さつき会 1996: 168)現在約1200名という会員数(さつき会HP)が東大女子卒業生に占める割合は年々低下している。インタビューに答えていただいたYさん(86育)も、知っていれば入ったかもしれないが、卒業当時はその存在を知らなかったという。東京大学を卒業した女性の連帯のために設立されたさつき会は、現在もその機能を果たしているだろうか。

 既に60年代後半頃から、東大女子の受験動機には「成績が良かったからなんとなく」が増えていた(後述)。当時開かれたさつき会主催の就職講座では「後輩の反応が今一つだったのか」講演した卒業生の1人が「東大の女子学生も変わりましたねぇ」と「溜め息まじりにつぶや」いたという。(さつき会 1986: 96)この時期は概ねさつき会会員数が伸び悩み始めた時期と重なる。均等法制定以前であったが、既に大学入学へのハードルは下がり始めていたことにも関連があるかもしれない。当時四年制大学に進む女性は激増しており、女子学生亡国論がメディアを席巻していたまさにその時代であった。

 T.M(83理)は在学中からさつき会の存在は知っていたが、「なぜか興味がわかなかった」という。しかし卒業後10数年経ち突然父親を亡くして「ぼおっと」していた頃、同窓会に出ると元気が出るという話を読み、さつき会に参加した。「会合で、六十歳を過ぎた先輩の皆様が元気に活躍されているのを見て、励みになりました。」(さつき会 2001: 114)それから理事も務めるなど精力的に活動を支えるようになり、重要なコミュニティとして認識するようになっていったようだった。

 M.M(90工)は「卒業当時工学部に女子は少なかったが、サークルで男女の数の差を感じることが少なく、さつき会入会当時には、もう女子だけで集まる意義はあまりないのでは、と感じた。(が、)自分の軌跡を大きな流れの中で再確認できる貴重な場である」(『たより』No.47 2011: 30)(引用内括弧は筆者の補足)と会報に寄せており、学部内外で同世代の女子学生の連帯がすでに保証されていたことがわかる。当時は均等法施行後5年が経っており、その効果が現れ始めた時期でもあった。

 ここで言及しておくべきことは、さつき会が設立以降現在(2017年)まで56年間、実に半世紀以上にわたって東大卒女性の人生を語り、社会問題の議論の場として開かれていたことである。年会報には常に卒業生らの近況報告、仕事の成果、回顧録や時事的関心に基づく意見などで溢れており、これ程の規模で最高学歴女性の生の声を記録し続けた媒体はないのではないか。女子大学の同窓会は国公立・私立を問わず数多いが、男女共学大学の女子のみの同窓会は、旧帝大では他に九州大学の「松の実会」があるだけである。松の実会は1968年、さつき会結成の7年後に結成されているが、これは第1章で触れた、66年の九大の薬学部への女子入学規制問題に端を発して設立されたものだった。現在も会報を年に1回出版し、総会を行うなど精力的な活動がされている。会員数は2012年には2万人を超えており、さつき会の約1200名(さつき会HP)の16倍以上もの会員数を誇る。

 逆を返せば、東大卒女性が連帯する必要を感じない程度には彼らが社会的に置かれる環境が改善されたということではないだろうか。そしてその環境を作り出すことに貢献したのは明らかに均等法を始めとする女性問題の解決に具体的実践を行ってきた、さつき会に所属していたような超少数派時代の東大卒女性たちである。さつき会に入らずとも周囲に女子学生が多く、男子学生とも差別されなくなってきた現状で敢えて「東大卒女性」の連帯の必要性を感じる機会は少ないだろう。

 また、日本社会全体が自助組織に対して消極的になっていったこともさつき会会員数が伸び悩む社会全体としての時代背景ともとれる。日本のNGOにかつてあった「草の根」活動への高揚は今や失われ、経済状況の悪化や会員数の減少、寄付額の伸び悩みを抱えている。社会全体でも内向き思考が広がった。井上(2009)は、これが状況の急速な変化と活動理念や存在意義の問い直しが行われたことと、認知度が増しても個人の行動に結びつかなかったことが原因であると分析した。個人単位の支持基盤は脆弱で流動性が高く、輪が広がりづらいのは自明である。この状況を打開する策として、情報を流し、報告会で啓発活動をすべきで、さらに対象を関心が高い人以外にも広げなければならないという。

 その点さつき会は、はじめ一部の総長を含めた大学職員から個人的にしか支援を受けていなかったが、近年東京大学基金にさつき会奨学金制度を加えるなど、組織として大学と密接に関わるようになっている。他セクターとのネットワーク構築は活動の質的向上や相互理解の促進、多様な資金源の確保のメリットをもたらすため、有効な活動方針であると言えるだろう。(井上 2009)

2-1-3 ポストさつき会

 これからのさつき会として、若年層を取り込み、組織の新陳代謝を高めていくことは個人にとっての第二次的集団や人的資本関係の担保のために重要である。では、どうすればよいのだろうか。また、男女平等が進んでいくであろう今後、さつき会はどのような文脈で価値を持つだろうか。

 2000年代に入り、東京大学自体が男女共同参画に向けて動き出した。その中でさつき会は2016年に奨学金を大学の修学支援事業に組み入れられるなど、母校との連携を強めている。これは会員数の急増には結びついていないが、その目的の1つである後陣の女子学生への支援という点では有効である。奨学金を給付された学生とその周囲への認知も広がり、潜在的な入会希望者を発掘できる可能性もあるだろう。

 さらに、さつきヒューマンリソースやさつき会自体の有するネットワーク力は今後、転職市場の拡がりと共に重要性を増すと考えられる。会員同士の交流や情報交換を初期のように活性化させることができれば、より多くの東大卒女性が彼らの強みを活かせる労働環境への移動が期待できる。転職があたり前、1人が複数社で働くことがあたり前になるまではいまだ法や現場の整備にも時間がかかるが、それが一度整えば、さつき会はその真価を発揮することができるのではないだろうか。

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