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【第1章1-1】女性に開かれた高等教育【卒論】

※本論文は2018年度東京大学文学部社会学研究室でクローネ賞を受賞した学部論文です。研究室ならびに指導教官からの許可を得て公開しています。

※加筆修正したい点もありますが、敢えて執筆〜提出当時(2018年1月5日)のまま掲載します。私人についてはイニシャル表記のままとします。

第1章 女性の高学歴化と戦後の日本社会

1-1 女性に開かれた高等教育

1-1-1 女性が高等教育に進出するまで

 日本で女性に大学進学の道が開けたのは戦後GHQの占領下での指導によるところが大きい。男女の教育上の機会均等までは思い至っても男女共学化を課題として認識していなかった文部省に強く男女共学制実施を求めたのはGHQ内部局の一つ、CIE(民間教育情報局 Civil Information and Education Section)であった。(小山 2009)マッカーサーの「人権確保の五大改革」における「婦人の政治的解放」政策を下地として発令されたという「女子教育刷新新要綱」には、大学教育における共学制の採用、女子大学の創設、高等女学校や女子青年学校の教育内容を中学校や男子青年学校と同程度にすることなどが挙げられていた。

 それ以前はどうであったかというと、明治の女子教育は表向きは教育による「女子の自立」が唱えられてはいたが、高学歴女子の社会での活躍場所は内助の功、良妻賢母しかなかった。この「良妻賢母」という言葉を学校教育において最初に用いたといわれる中村正直の意図は本来は近代日本の担い手としての女性に一定の地位を与え、国家形成に貢献させることであったというが、その後女性の行動規範とされた用法とはニュアンスが変わってしまったようである。(佐々木 2008)家事・裁縫という科目もあり、女子教育はさながら金と時間のある上流階級向けの花嫁修行といった様相であった。その後下田歌子が中流階級女性に教育を広めた。戦前の女子高等教育にはおよそ4つの象限があり、それを分けるのは自立・人格養成主義型と良妻賢母型の2つの潮流と、上流階級向けと庶民階級向けという対象階級であった。(水月 2014)いずれも男子教育とはその性質を異にしており、学問の修養という観点が第一に出てくることはなかった。それが戦後GHQの国家改革に伴い、現在の男女平等教育への一歩を踏み出すことになるのである。

 1947年、教育基本法第3条で教育の機会均等、第5条で男女共学が規定された。また学校教育法で単線型の学校体系も成立した。この結果、男女共学でも別学でも、男女は同一の教育内容を学ぶことが可能になり、女性の大学進学も制度的に保障されるようになった。理念的・制度的に教育の原理が一本化し、男女平等な制度が実現した。ただし進路選択や履修様式に男女のジェンダー差が存在したことはいうまでもない。あくまでこの時点では制度としての平等が実現したに過ぎないが、戦前の状況を鑑みれば画期的であった。(小山 2009)

 戦後の共学論議はジェンダー秩序というより、教育内容・機会の均等で語られる。具体的にはそれまで同年齢における教育程度に差のついていた「女子教育の男並み化」であり、一方で男子学生側からの共学化の意義は語られていない。共学化はあくまで女子学生の問題としてのみ語られたのである。また、女子の特性教育という視点はあっても男子の特性教育という視点はない。戦後推し進められた、男女の性別を意識しない「平等教育」とは、実質的には男を基準とした教育であったといえよう。この男女平等教育において、女子は女であること(特性教育)を求められるときも女でないこと(男並み化)を求められるときもあり、男子にそれは起こらない。共学化は、その発端当初は男子を主眼において構成された、男子生徒により親和性があるものだった。(小山 2009)全年齢を通した女子教育へのこうした一方的な性の有徴化は、共学化10数年経って巷を席巻する「女子大学無用論」「女子学生亡国論」に繋がる価値観にもなっていただろう。

 女子教育の量的増加の1つ目のターニングポイントは1960年代半ばから70年代にかけての家政学部、女子短期大学、女子大学などいわゆる「女性専用軌道」の充実による学生の増加であり、2つ目は80年代半ばからの男女雇用機会均等法(1986)育児休業法(1992)の施行・改正、男女共同参画社会基本法(1999)次世代育成支援対策推進法(2003)の施行などの、女性が働きやすい条件整備(高等教育へのインセンティブ)だった。(水月 2009)しかし質的拡大は未だ進んでおらず、専攻分野は人文科学と教育が主流であったが徐々に減少、社会科学が増えているが、理系学部への女性の進出はそれほど進んでいないのが現状である。(脇坂 2001)

1-1-2 女性の大学進出に対する反動

 女性が大学教育に進出し始めてすぐに、世間ではこの革命的な変化に対しての反動も起きた。「女子大学無用論」や「女子学生亡国論」といった、感情的で論理の錯綜した議論が大衆向け報道媒体に流行ったのである。女性の高等教育が男性と同等になった制度改革後の日本社会では、内実の男女差はすぐには埋まらなかった(現在が同等であるかはここでは論じない)。その二重基準の問題や、女性にとっての大学教育の意味を考えるにあたって、女子学生批判の顛末をみることは有意義であると思われる。以下は小山静子著『戦後教育のジェンダー秩序』(勁草書房、2009)の議論を元にした。

 「女子大生亡国論」という言葉は『週刊新潮』1962年3月5日号掲載の「早大国文科の美人の級友」という記事の中の見出しが初出である。女性と大学教育との関係を象徴する言葉として60年代に一世を風靡し、主に一般向けの週刊誌や月刊誌などでセンセーショナルに、また殆どが感情的に論じられた。議論の発端は『婦人公論』1962年3月号に早稲田大学教授の暉峻康隆が発表した「女子大生世にはばかる」だと言われるが、既にジャーナリズムでは50年代後半から、女子大学や女子大生を批判的に論考した女子大学無用論が出始めていた。その多くがジャーナリズムで展開された「八つ当たり気味の反発」(小山 2009)であったが、1966年熊本大学学長が薬学部で増加する女子学生の入学者を制限したいと発言し入試要項に「女子が薬学部製薬学科を第1志望にすることは、学科の性質上好ましくない」と但し書きがつけられるという教育政策上の問題にも発展した。新制大学発足が基本的には1949年であるので、わずか10年足らずで女子大学や女子大生の存在が話題となったことになる。

 女子学生批判は学問的な議論でなく感情に任せたエッセイが多いため、論理が錯綜している。女子学生の定義も、女子大学に通う学生か大学に通う女子学生か、短大生も含むのか、特定の学部(文学部、薬学部、家政学部など)の女子学生なのかも統一されておらず、また女性が大学教育を受けることを問題視するものも、大学教育を受ける女性が増加することを問題視するものもある。或いは女子大学や共学の大学などの特定の教育機関を問題にするものなど、議論は全く整理されておらず、それだけ当時の世間は女子学生に当惑していたのかもしれない。この議論がおよそ10年間もの間注目され続けていたことは、女性が男性と平等になる地位向上手段としての大学進出が社会的には亡国につながるという主張が、女性にとっては納得しがたく、急増する女子大生の現状としては看過できないものであったからだという指摘もある。(神田 1977)

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 学校基本調査で性別・大学種別進学率の統計が記録されているのは1954年、新制大学の制度が定着し始めた頃からである。文部省「学校基本調査」によると、女性の4年制大学進学率(大学入学者数/3年前の中学卒業者数)は60年2.5%、70年6.5%(男性27.3%)、80年12.3%(男性39.3%)、90年12.5%(男性34.2%)、00年31.5%(男性47.5%)と急上昇し、2017年現在は過去最高の49.1%を記録している(男性55.9%)。短期大学を含めると既に64年には1割、71年に2割、75年に3割を超え、そこから停滞し、92年にようやく4割を超える。(文部科学省 2017)

 ジャーナリズムで女子学生批判が掲載され始めた1950年代後半という時期は、短期大学が女子教育機関としての性格を明確にしていった時期と重なる。大学進学率が男女共に上昇するのは60年代からだが、特に女子学生自体の進学率の伸びが著しい。1960年から1970年にかけて、男子の進学率が1.97倍になったのに比べ、女子は3.22倍と大きく伸びている。その伸びの主な要因は短大への進学であり、「女子は短大、男子は四大」という進学状況が生まれたのもこの10年間だと言えよう。しかし四年制大学での女子の割合も同時期に増加していることは間違いなく、女子学生亡国論がとかく話題になった60年代前半はまさに女子学生の割合が増加している時期であった。

 さらにその四年制大学のうち、国立・公立・私立では私立大学に通う女子学生が特に増加している。当時は私立大学新設ブームによって大学数も増えていたので私大の割合が高くなるのは当然であるが、私大における女子学生の割合の増大傾向は顕著であった。さらに、増えた私大は共学よりも女子大学が多く、全大学に占める私立女子大学は1955年に26/228校(11.4%)だったものが10年後には54/317校(17.0%)に増えていた。国公立女子大学を合わせても1955年の14.0%から10年後19.6%になっており、ほぼ私立女子大学の影響であった。女子学生の数を国公立・私立、共学・女子大に分けて統計から明らかにすることは困難であるため断言はできないが、女子大学に進学する女子学生は増えていただろう。また青山学院大学や学習院大学など一部の共学私大では60年代文学部の女子比率が8,9割を超えるようになり、まだ大学教育が男子だけのものだった戦前の記憶が人々の中で鮮明だった時代に、この急激な逆転現象が起きたことになる。加えて50年代後半からは短期大学が女子用の高等教育期間であることが短期大学関係者によって自ら自信を持って語られていた。一方では女子用の教育機関であることを明確に打ち出す短期大学がありながら、他方で四年制大学に進学する女子も増加し、私立女子大学も新設されていった。彼らは主に文学部に進学し、特に私大では男子学生の数を圧倒的に上回るまでになった。
 これが女子大学無用論や女子学生亡国論の社会的背景である。

女子大学無用論
 女子大学無用論の先駆けは、東京大学の教員であった中屋健一が2年間の女子大学で非常勤講師として勤めた経験をもとに展開した「女子大学無用論」(『新潮』1957年3月号)である。当時旧帝大での実質的なトップであった東大と比較していることは念頭に置きつつも、女子大学について述べた考察は興味深い。中屋は女子大学の校舎やキャンパスの美しさを認めつつ、図書館の蔵書が貧弱で、教員の給与や研究費も少ないなど、教育・研究環境の貧しさを指摘している。また落第も出すことがなく、「甘やかした教育」であるという。「女子学生でも男子学生よりも優秀な素質を持つている学生がいる。しかし、このような女子学生も、婦人専用車的な女子大学で教育されれば、いかに優秀な素質を持つていても、その特性を伸ばす機会に恵まれず、結局は、男性に比して知的に劣る女性となつてしまう」。中屋の視点は後述するように東大で圧倒的マイノリティーでありながら男子学生と同等(時にそれ以上)に知的活動に勤しんだ有志の女子学生を目にしていたからかもしれないが、とにかく彼は女子学生自体が根本的に男子学生より能力が劣るものだとは考えていなかった。むしろ女子大学では優秀な女子学生を育てきれないことを憂いており、「花嫁学校」「前世紀の遺物であって、男女共学があたりまえとなつた今日、有害無益な存在」「とうてい男女同権は女性にとつて無理だとあきらめて、低い知的水準の工場に積極的に努力しようともしない男女共学反対論者の子女の避難所」など、かなり強い言葉で非難している。ただ一方で、家政学部のような「女性に特に必要な教育を行う」場合はその存在意義を認めている。(小山 2009)中屋にとって男女同権の教育は共学によってのみ可能であった。それはそれまでの男子教育に女子がジェンダーを捨てて参入することを意味していた、戦後の「男女平等教育」の価値観と一致する。そして短大の学長たちが自信を持って宣言した花嫁学校という言葉は、中屋を含めた当時の複数の論客から否定的な意味を持って批判されている。

 ただし注記すべき点は、中屋が自身の勤める東京大学の女子学生については、従順で勤勉な「点取虫」であり、負けず嫌いで女性としてはギスギスしたドライな面が出てくることが多いと批判もしている。結局女子学生は女子大にいようが共学にいようが批判的な眼差しで見られていたのだった。

 もう1つの女子大学批判は大宅壮一による「女子大学という名の幼稚園」(『文藝春秋』1959年6月号)である。大宅は女子大学の学問が「遊戯と大して違いない」と厳しく批判し、その筆頭が家政学であった。「婦人雑誌に出ているようなことをいくらか体系づけたものにすぎない。あくまでも消費本位で、その消費に必要な金をもうけることは、ちっともふくまれていない」から、というのが批判の理由である。大宅の価値判断には明らかに「男の経済学」、つまり家庭で無償の再生産労働の貨幣評価を全く考慮せず行政と市場の生産活動だけで経済を評価する考え方が透けて見えるが、大宅は「女性がほんとうに男女の完全な平等を求める」ために必要なのだと主張した。ジェンダー化された教育ゆえに女子大学を認める中屋とは対照的だが、両者ともに「標準」の大学教育は男子教育であるという前提のもとで女子大学のあり方を批判している点では共通する。

 これらの論に対して、批判された側である日本女子大学の新聞部員らは『週間女性自身』1959年5月29日号に「“家庭に帰れ”はごめんだ  女子大無用論にもの申す」という文章を発表している。彼らは巷の女子大無用論の大部分が「古臭い観念と俗悪な印象に満ちている」と批判した上で、女子大の転機を示しているという意味において受け止めるべきでもある、と極めて冷静に反応した。また女性を家庭に閉じ込めるような方向性の女子大有用論にも抵抗感を表明しており、花嫁学校という言葉にも反感を持っていた。ここで大変興味深いのは、「女子にとっての大学は、“花嫁学校”であると同時に、男子にとっての“就職学校”であるようです。これではどちらも本当の“大学のあり方”からはずれているのではないでしょうか」と述べた文があることである。繰り返したように、男子教育を標準として絶対視してきた有識者や社会に内面化された男女の非対称性を鋭く指摘したものであり、「本当の大学」がどうあるべきかについては述べられていないものの、男子学生も就職後の人生に箔をつけるためにアカデミアを蔑ろにしているのではないかという、現在では全学生に当てはまるような大学と社会の接続の問題提起もしている。男女の非対称性、大学教育と就職活動の微妙な関係など、現在も盛んに議論される問題点が当の私立女子大生から出たことは注目に値する。

 1958年には後の女子学生亡国論に近い議論が東大職員の尾崎盛光から『婦人公論』に発表されている。尾崎は共学大学の女子学生が直面する就職難(これは東大卒女性も漏れなく辿ってきた道でもある・後述)、有名大学における上層階層出身者の多さ、その結果として女子学生の就職の必要性が弱くなっていることを述べた上で、性別役割分業観を前提に、大学教育自体を性別で異なる意味を持つものであるとし、東京大学でさえ女性にとっては花嫁学校であると主張した。つまり共学であっても有能な花嫁を育成する機関を兼ねており、従って女子大学は必要性を失うという論であった。尾崎は1963年東大女子卒業生同窓会であるさつき会の年報『さつき』第3号にも、東大文学部が「女子大化」しない理由を男子の就職率の高さによって男子の意欲が損なわれないこととしている。(さつき会 1963)この尾崎の結論を「だから女子学生は大学教育にふさわしくない」と排除する方向にしたものが、次項に述べる女子学生亡国論である。

女子学生亡国論
 1950年代後半の女子大学無用論は結果として、女子大学が共学大学の下位に序することを社会的に認識させることになった。一方男子教育を標準とみなした大学教育を行う四年制大学でも、女子学生は増加していた。60年代に入るとマスコミの論調は大学機関ではなく女子学生そのものを批判するようになっていった。

 冒頭に紹介した女子学生亡国論の発端とも言われる暉峻康隆にとって、大学での女子学生の増加は男子学生の減少も意味していたため、性別役割分業観を固持しているならば由々しき事態として受け止められていた。暉峻は、男性は卒業後の就職が必須であるのに、そうでなく結婚する選択肢を持ち、ほとんどが家庭に入る女性が「学科試験の成績がよいというだけでどしどしと入学して過半数をしめ」、その分就職一択の男性が「はじき出され」ることはあってはならないと主張した。女子大学というジェンダー化教育が行われる花嫁学校があるのだから、女子学生は共学で男子学生の枠を奪うべきでなくそちらに入ればよろしい、ということである。50年代の女子大学無用論では女子大が「本来の大学」でない故に否定されていたが、60年代の女子学生亡国論では共学大学が「本来の大学」であるがために女子学生が排除されている。暉峻は他の亡国論支持派と性別役割分業観を強調したおよそ科学的でない感情論も多く発言しており、税金で維持される国立大学で教育を与えられた女子学生が家庭に入って社会に還元しないことも根拠の1つに挙げていた。確かに当時女性はまさにその性別役割分業観に基づく就職差別によって有名大学出身でも就職難に苦しんでおり、否定はできないが、結果論ではないだろうか。或いは1962年4月号の『婦人公論』には慶應義塾大学の池田弥三郎が「大学女禍論  女子学生世にはばかる」の中で、女子学生の父兄や当人が大学に寄附する金額の低さを私学経営にとって問題であると論じた。果たして女子学生の父兄の寄付額が男子学生のそれと比較して明白に低額であったかは確かではないが、経営の視点からも女子学生の増加は批判されていた。池田は他にも男子学生同士の卒業後まで続くホモソーシャルなOBネットワークにとっても女子学生が脅威となるという見方をしており、これも真偽を確かめようがないことだが、女子学生の存在感はそれほど意識されていたことがわかる。

 この女子学生亡国論には反論も多かった。『毎日新聞』では1962年11月19日から12月20日までに24回にわたる特集「女子学生亡国論を考える」を企画しており、女性の大学教育について多様な視点から論じられていた。暉峻の主張が掲載された第1回には1087通の投書があり、そのうちの2/3が反論であった。紹介された投書の中には、女子学生亡国論の前提に性別役割分業観があることだけでなく、それが近代家族の形成や産業界の女性労働政策とも相関しているという指摘もあった。

 女子学生亡国論は1966年以降マスコミから途絶える。ただしこの年は実際に一部の共学大学側が女子生徒を排除しようとする動きを見せた年でもあった。1966年4月30日に柳本武熊本大学学長が記者会見において、このまま女子の比率が増えると大学に後継者が育たず学問が危機に瀕すると考えられるため、激増する女子入学者を「締め出す」方策を考えたいと発言した。マスコミの論調はあくまで実効性がなかったのに対し、学長の会見の場での発言は他大学に波紋を及ぼし、実際に九州大学では学生募集要項に「薬学部製薬化学科は男子学生に適した学科である」という注意書きが加筆された。これに対し文部省は「男女の平等、共学という教育理念からみて問題がある」と反応したが(『毎日新聞』1966年5月1日付)、学長は女子差別の意思はないが学問を守るためであるので憲法には触れないと強気の姿勢を示した。柳本自身は否定しているが、彼の論理は女子大生亡国論で繰り返し語られた論理であり、当然その背後には、学問を継承するのは男子学生であって、女子学生は学んだことを社会に還元する役割にないということを自明視する、性別役割分業観があっただろう。

 これに反応してか、この年には再び多くの亡国論に対する反論も雑誌に現れたことに言及しなければならない。『時』の1966年8月号の特集「女に大学はホントに必要か」では、同様の論調で女子学生亡国論を主張する文章がある一方、本田顕彰の「女子学生“興国”論」は亡国論には女子学生へのやっかみがあることを指摘し、十返千鶴子の「亡国の責めもご同権で」は男子学生が女子学生と比べてそれほど差をつけて優秀なのかと皮肉を返している。また女子学生亡国論をよく取り上げていた『婦人公論』でも、熊本大学の方針を「こういう女性締め出し方策の基盤をなしている男尊女卑的発想法の存在」と批判する文章を掲載した。

 他方、全く別の観点から女子学生増加の問題を論じたのが『朝日ジャーナル』の同年12月18日号だった。1つは地方国立大学の女子大学化が、地方都市の優秀な男子学生の多くが都市圏の大学に流出し、女子学生が地元の国立大学に進学するために、地方大学では数でも成績でも女子学生が男子学生を上回る傾向となって女子大学化するのだという、地域差の問題によっても引き起こされているという視点。もう1つは文学部などの産業界との繋がりが弱い学科では、女子学生増加の影響は産業界に対してはあまり現れないのに対し、熊本大学で取り上げられたような薬学部など、産業界に技術者を輩出するという目的も少なからずある学科にとっては、女子学生の急増は性別役割分業観がある限り「大きな問題」となるであろうという視点であった。この2つの視点からは、ジェンダー規範の価値観の問題と社会構造や大学と産業界の関係性の問題が絡み合っていることが推測できる。


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