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夫婦別姓のルサンチマン

今日は趣向を変えて、『ルサンチマン』という切り口でパートナーシップを考えたい。かなり前に山口周氏の『武器になる哲学』を読んで、ルサンチマンという視点は面白いなと思ったから考えてみるだけだ。

イソップの酸っぱいブドウ甘いレモンの話はよく聞くが、ルサンチマンは酸っぱいブドウの時の狐の気持ち。「あの高いところにあるブドウは取れない。どうせ酸っぱいに決まっているから、取らなくても良いんだ。」と、自分を慰めるのが酸っぱいブドウの寓話だ。要は「やっかみ」だという。

ルサンチマンとは、弱者が強者に対して抱く「恨み」や「嫉妬心」のことである。日本語では「怨恨」と訳されることも多い。ドイツの哲学者ニーチェ(Friedrich Neitzsche)の道徳哲学を特徴づける重要なキーワードのひとつとして知られる。
ルサンチマンは、社会的な弱者・被支配者が抱く、強者・支配者に対する怒りや憎悪、嫉妬などの感情である。ニーチェはルサンチマンを「弱者側の道徳観」と捉えた。弱者は強者に対する憤りを行動に移せない。そのため弱者は、想像の中で復讐心を膨らませて心を慰めるのだという。

ルサンチマンを抱く人にとって非常に厄介な問題は、次の2点に集約されている。

1)ルサンチマンの原因となる価値基準に隷属、服従する
2)ルサンチマンの原因となる価値判断を転倒させる

つまり、ブランドバッグに憧れる人はブランドバッグを買うことでしかやっかみは解消しないし、それを無理に解決しようとすると「安物の方が良い、あんな金を払ってブランドバッグを買うのは無駄遣いで阿呆らしい」とか、一方を下げないと自分を肯定できない、みたいなことが起きる。


ルサンチマンは、「自分と同じ」とみなす人間に対してより起きやすい。思うに、男性の生きづらさというのは同性へのルサンチマンが強いから起きることが多いんじゃないか。

パートナーシップの議論をするとき、夫婦別姓の議論をするとき、なぜか「男性側のメンツが潰れる」という感情的な反論が散見される。男性はどっちにしろ96%は名字を変えないそうなので、別姓になろうが手続き含め全く自分の生き方に変化はないはずだが、「嫁(ここでは敢えてこの言葉を使う)に姓を変えないわがままを認めることは沽券に関わる」「職場でどう思われるか」「親が嫌がる」というお気持ちによる反論がなされる。

この「周りにどう思われるか」という気持ちがなぜ起きるのか考えた時に、まさしく「成功している社会人男性という概念」に対するルサンチマンが関わっているのではないか。

成功している、という定義は非常に曖昧で、多義的で、それでいてバケモノ級にやっかみを煽る形容詞であることは間違いない。誰だって成功したいし、成功している人間は注目を浴びて、誰よりもやっかみを受ける。

日本では長らくこのロールモデルは終身雇用社会で誰より長く勝ち残り、地位と年収を上げ、妻子を養い、生活費のかかる暮らしをするサラリーマンだった。人生ゲームのように、生まれて、良い会社に就職し、良い伴侶と結婚し、子供を何人か持ち、自分の家を買い、上りは生命保険満期。要は、基本のレールは同じだった。今でもその価値観は残っているが、実際に平均年収は下がっているし、専業主婦家庭より共働きの家庭の方が多くなったし、東京の土地は高くて一軒家なんて買えないし、会社は大手ですら終身雇用の時代ではなく、未婚率は上昇、子供を持つにも自分のことで精一杯。しかも昔は女性が就職差別されてスタートラインから排除されていたが、今は入り口の差別は少なくなり、女性が働き続けると今まで下駄を履いていた分が少なくなるので、競争相手は増える。必然、「同じスタートラインだったはずの他人がレールの先を走っていることが気になる」と感じる機会は増えるだろう。

当然、過去のレールはもはや現実的ではないから、横にはいろんな道がひらけている。独立、専業主夫、大学再入学、全てを捨てて開拓地へ・・・などなど。そこで本当に自分が幸せになる道を見つける人も増えている。しかし、「成功している社会人」へのルサンチマンに囚われた人はそのレールを手放しに選べない。自分が同じレールか、同等の地位を得なければやっかみは解消しないからだ。或いは「レールに乗り続ける奴はバカだ。さっさとレールから外れて生きるのが賢い」と、真面目に頑張る人を下げてから自分を上げないと気が済まない状態になっている。(リベラルは逆にこうならないように注意しないと、誰も味方がいなくなる。)

夫婦別姓だったり、パートナーシップを本当に対等で自由にしていこうと思った時に、このルサンチマンが邪魔をする時は結構多いと思う。

「周りの理想的な成功者は専業主婦の『奥さんを養って』仕事に打ち込んでいるのに、自分はなぜ『譲歩』しているんだろう」
「私は『腹を痛めて子供も産んで1人で育て上げた』。そんな努力もせずに楽しようとしている若い人たちは怠け者だ」


自分の幸せと他人の幸せを比べなければいいのに、「成功者」へのコンプレックスが残る人にとっては自分が他人よりも幸せだと証明することでしか認めてあげられなくて、だから「あなたの努力も幸せも私には必要ない」と言われた(ような気がした)主張に対してはまさしく地雷を踏み抜かれた気持ちになるのかもしれない。

例えば、クラスの東大に入ったガリ勉が「自分は寝る間も惜しんで勉強して東大に入ったのに、クラスメイトのあいつは高卒で起業した。勉強もせずに金儲けなんてどうせすぐ倒産するに決まってる」と、大学での自分の生活に全く関係ないことを言い出したとき、ガリ勉は「学歴を否定して名声を得た同期」を否定することで、自分の東大という学歴獲得による『幸せ(と本人が思いたいもの)』を確認して安心したがっている。「自分で勝ち取ったと思ったものが、本当は誰かに負けているのではないか」という不安や成功者へのルサンチマンから、信じられなくなっているのだ。他人が不幸せになっても自分が幸せになるとは限らないのに、自分の幸せを自分で判断することができなくなっているのだ。


自分の幸せを他人に依存させることは幸せか。

本人が幸せならばいいのだが、他人の幸せを否定しなければ、自分の幸せや「自分の人生の正しさ」を確認できないのであれば、それは不幸だと言わざるを得ない。そういう人は自分の幸せを自分で決めることが難しい。なぜなら周りの人はものすごくいろんな「幸せ」を自分で持っていて、それをいちいち否定しないと自分の幸せが証明されないということになるからだ。現実的に、自分が一番幸せだと思える日は来ない。SNSで成功者の投稿を見て、また同じルサンチマンに囚われてしまうだろう。以下、無限にリピート。


自分の人生に自信を持とう。自分の「理想像」を追いかけすぎて、それを追いかけている自分を守ろうと他人の理想像にケチをつけるような、無駄な時間をなくそう。

他人の幸せな生き方を否定して、あなたの人生はそれで昨日より幸せになれたか?自分で変えられるのは自分だけだってドラゴン桜でも言ってた。人のことを気にせず、自分が幸せを掴むための行動を起こせる人が増えればいいなと思っている。

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