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祖父と最後に目が合った日のこと

高熱が出た。
38度3分、寝ているのも苦しいが、食べるものは食べたい。
夫に運んでもらったご飯を、ものぐさに寝ながら自分で口に運ぶ。意外と固形物は食べやすい。
水をコップから飲む。どの瞬間にフチから口に流れ込むのか読みづらく、これは難儀だぞと思いながらマグカップを傾けた。

かつん、と前歯にマグカップのフチが当たった。
もう12年も前に、祖父の口から同じ音を聞いた。
というより、私が音を立てたのだった。
あの頃祖父は寝たきりで、私は夏休みの勉強場所を祖父母の家の座敷にしていて、だからその年は隣の部屋に祖父が寝ていた。

広い座敷の真ん中に置かれた低めの机に参考書をめいっぱい広げて、私は数学の問題を解いていた。
祖父が寝ている部屋は廊下に近く出入りしやすいという部屋に無理やりベッドを置いて、それ以外がほとんど入らない。寝室は別にあった。
喋らない祖父に時々水を飲ませてあげて、と祖母か母から言われていたが、どのタイミングがいいのかさっぱりで、たまに声をかけに行ったと思う。本当に今水を欲しがってるのかよく分からなかった。水は、スプーンですくって飲ませた。

あるとき、うっかり勉強に集中しすぎて祖父が私の名前を呼んだ。名前を呼ばれるのは多分久しぶりだった。
みず、くれんか、と祖父は言った。
私はごめん!と謝って、スプーンにペットボトルから水を入れた。
慌てたので、水が溢れた。
スプーンの手元が狂って、祖父の前歯からかつん、と音がした。
何回かすくって、あげてを繰り返して、祖父がもうええ、もうええ、と言った。
私はまた、あ、ごめん、これでいいな?と謝った。

祖父の目が私をまっすぐに見ていた。
それから、ありがとう、ありがとうな、と私の方を見て掠れた声が言った。
目に、座敷から差し込む光が反射してうるんでいた気がする。

祖父と最後に目があったのも、ありがとうと言われたのも、私がそれに当たり前やでと答えたのも、それが最後だった。
私はその後一向によくならない祖父の病状に少し疑問を持ちながら、お見舞いに行くのを面倒くさがっていた。
少しの死の匂いがするのが怖かったのかもしれないが、あの日のことが結局最後の印象に残る思い出になってしまった。

マグカップから寝た状態で水を飲むと、かなり飲みづらい。あのときの祖父も、スプーンからの水は飲みづらかっただろう。
それでも目を合わせてありがとうと言ってくれたのが忘れられない。
前歯のかつん、という音を立ててしまうと、私はいつもあの日の祖父の前歯とスプーンのことを思い出すのだ。

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