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【第1章1-2】女性と日本の労働市場

1-2 女性と日本の労働市場

 労働市場の世代効果として、学校を卒業する直前の労働市場の需給状況は、賃金や離職に関して長期的影響を与えることが、複数の研究により明らかになっている。(玄田 2010)就学時の労働市場の状況は本人の自助努力の及ばないところにあることを考えると、就職における社会的格差を考察する上で各世代の労働市場の背景を追うことは重要である。
 ここでは女性の就業を取り巻く法制度や経済・労働市場がどのように変遷してきたか、それによって特に高学歴女性はどういった文脈で社会進出してきたかを明らかにしたい。

1-2-1 女性の就業規定を巡る法改正
工場法と労基法

 以下は奥山(2009)の議論もとに女性を取り巻く就業規定史を概観するものである。
 戦前の労働法政策としてその後の基盤となったのが1911制定、1916施行の工場法である。これは当時の過酷な女工の労働条件の改善が目的で、女工の長すぎる労働時間が彼らの疲労や結核を中心とする疾病の原因となり、次代を担う年少者や女子の健康が害されることに対して問題意識を持ったものであった。(濱口 2015)そのなかで「女子」は満15歳未満の「年少者」と並んで「保護職工」と位置付けられていた。1日12時間を超える労働の禁止、毎月最低2日の休日付与、1日の就業が6時間を超える場合30分、10時間を超える場合は1時間の休憩付与を定めるもので、また運転中の機会や電導装置の危険な部分の掃除や注油、検査又は修繕などの危険業務の禁止、砒素、水銀、黄燐、鉛などを扱う有害業務と、粉塵、蒸気、ガスなどを発散する場所での業務、多量の高熱物体を取り扱う業務については、「工場法規則」で満15歳以上の女性についても禁止されていた。1923年の改正工場法では、1日の上限労働時間が11時間に短縮され、深夜業の定義も午後10時から1時間延びて午前5時までとされた。また1928年には鉱夫労役扶助規制の改正によって原則として女子の坑内労働が禁止された。

 母性保護については、以上に加えて工場法12条で「主務大臣は病者又は産婦の就業に付き制限又は禁止の規定を設くることを得」とし、これを受けた工場法施行規則9条は産後5週を過ぎない者の就業を禁止していた。その後1923年の工場法改正では「産婦」が「産前産後若しくは生児哺育中の女子」に改められ、就業制限期間を産前4週間及び産後6週間に延長、ただし医師の意見による産後就業は4週間経過後からとした。また生児哺育中の女子に関しては生後1年に満たない場合就業時間中に1日2回、各30分以内で哺育時間を請求可能とし、該当時間中はその労役使用を禁止した。

 戦後、1947年制定の労基法は、基本的には工場法における女性保護規定を継承していた。「女子・年少者」は一括して保護対象であり、1日8時間、1週間48時間の男女共通の労働時間規制を軸に女性の時間外労働の上限を1日2時間、1週6時間、1年150時間に設定し、一部の必要な業務を除いて休日労働の禁止(61条)、深夜業の原則禁止(62条)も定めた。また危険有害業務についても工場法時代の規制に加え、重量物運搬業務も禁止された。坑内労働も例外なく禁止された。(64条)母性保護についても基本的に同様で、産前6週間の任意休業と産後5週間の強制休業を定めた。(5条1項)また妊娠中の女性が請求した場合は産前6週間以前であっても他の軽易な業務への転換を認めた(65条3項)。育児期間についても工場法と同様である。さらに生理日の就業が著しく困難な女子、または生理に有害な業務(女子年少者基準規則11条)に従事する女子が請求した場合、当該女子を就業させることも規制されていた(67条)。

 以上の規制から読み取れるのは、当時、女性とは満15歳未満の年少者と同列に保護するべき労働市場における弱者であり、妊娠・出産という身体的特質に配慮すべきで、かつ家庭では育児を担う性別として保護対象であったということだ。これは今日の男女同権意識からも、また法意識からも完全に合理的で説得力のある論拠に基づいているとは言い難いが、当時は労働環境の整備自体が進んでおらず、機械化も発展途上であったことを鑑みれば、労基法のような強制法規による就業制限が女性の職場での健康や安全の確保に果たしたところは大きかったと考えられる。ただし、この同じ規制が、その後労働環境や機械化が進み、女性の社会進出も急速に拡大したにも関わらず、女性自身の能力や意欲を無視して総じて男性より低賃金、定型的、補助的な「女の仕事」の範囲内に閉じ込めることで性別役割分業を固定化させ、長期雇用や年功序列制のもとでの男性中心の雇用や人事管理とも不可分に結びつき、雇用上の男女差別問題を引き起こし、深刻化させる原因になったことは見逃してはならない。新聞社に同期唯一の女性として入社した東大卒女性の、「国際ニュースを扱う外報部(現在国際部)を志望したが女性は夜勤ができないからダメ、と却下された。当時は女は夜10時から朝5時までは労働禁止という法律があった」(『さつき』第50号 2011)という証言もあるように、希望職種に能力ある女性が就けないという問題も生じるようになっていた。

職業婦人と女性の社会進出

 以下は特に記載がなければ濱口(2015)の議論を元にした。
 「職業婦人」という言葉はすでに第1次世界大戦後に大きく進んだ女性の社会進出と共に用いられはじめていた。女性事務員達は、女工と比べると出身階層や学歴も高く、1894年に龍ヶ崎町役場と三井銀行大阪支店で女性事務員第1号が現れてからは全国で男性に引けを取らない仕事ぶりを見せた。「サラリーマン」という言葉を世間に送り出した前田一は1929年『職業婦人物語』の中で、男性の就職事情が年々厳しさを増しているのは職業婦人が男性の職域を侵食しているからだと嘆いている。

 同じ1930年代には後に戦後女子労働問題の焦点となる結婚退職制、女子若年定年制が銀行や大企業中心に導入された。1936年に定められた退職積立金及退職手当法ではこの結婚退職制を規範として認めた故に、女子労働者が結婚を理由に自主的に退職を申告した際でも自己都合退職とはせず、退職手当の支給義務対象とされていた。これに関して興味深いのは、経営者側が「退職奨励になる」と反対したのに対して、全日本労働総同盟婦人部などの女性側が「家族制度の維持」を理由に賛成していたことだ。この頃には女性側にもジェンダー規範意識が強くあったことを示している。

 第2次世界大戦に向けて体力のある男性労働者が多数派である重工業が重要視されるようになったが、徴兵によって男性が不足しており、女性の進出が国策として勧められることとなった。1940年代には未婚女性の労働力化を進め男性をより多く徴兵するために、「書記的または軽易な業務等、女子で代替するのが適当なものについては男子の就業を禁止または制限」するようにもなった。(国民動員計画 1942)翌年労務調整令改正によって事務補助者や現金出納係、店員売り子、車掌など17職種で男子の就業禁止制限が法制化され、ホワイトカラーの女性の増加を促した。これによって女子若年定年制の維持が一部難しくなったところでは、例えば住友銀行が女性事務員の定年を男性同様55歳に引き上げるなどの措置を取っている。戦局が進むとブルーカラーにも女子勤労動員が雇用されるようになり、「国民皆労」のイデオロギーの元に女性の労働市場進出が進んだ。終戦時300万人に達した女性労働者の意識変化は、戦後の労働組合婦人部の活発な活動にも影響を与えたとされている。

 戦後政府は男性復員者の失業対策として、戦時中就職していた女性を「家庭復帰セシメ」るという政策をとり、国鉄では女性を中心に人員整理が行われるなどして、女子労働者は激減した。さらに共産党系の産別会議で青年部や婦人部が急進的な行動部隊として活動していたがために、1948年にはGHQの指導で政府は青年部、婦人部の解体を指示した。ただしGHQは女性の地位向上を民主化の一環として重視していたため、1947年新設の労働省には婦人少年局が設置されていたし、同年制定の労働基準法ではホワイトカラーの女性労働者にも労働時間等の保護規定が適用されるようになった。しかし一方で男性には労基法で設定された労働時間の上限が第36条の労使協定によって無制限となった時間外・休日労働が許容されており、この結果、事実上無制限に働かせることができる男性と上限が設けられた女性という差別の根拠が維持されてしまったという見方も可能である。

 1950年代には職場の女性労働者は短期就業型事務員として、経営側から意識的に排除されていった。彼らは当初「BG」(和製英語・ビジネス・ガールの略)と呼ばれたが、この呼称は東京五輪開催に際してBGが英語で売春婦を指すという噂が流れ、来日外国人に誤解させてはならないということで週刊『女性自身』が代替語の誌上公募によって「OL」(和製英語・オフィス・レディの略)を発表してからは使われなくなった。どちらも幹部社員に昇進することが前提の男性事務員とは全く別の身分としての、結婚退職を前提とした短期雇用の女性事務員を指す言葉であることには変わりない。この慣行を破るような中高年女性社員に対しては家族賃金制や家事との両立によって勤労能力・態度が低下するという主張を理由に男性や、場合によっては若年女性よりも低賃金で出世することもなく雇われていた。この男女差別的労働管理観は既婚女性に対してはもちろん、未婚女性に対しても強く働いた。結婚すれば「家事責任を負担することが多く」「勤務に支障を生ずる」ために結婚退職制によって排除し、未婚のまま勤続したとしても「職務が特別の技能、経験を必要としないので、短期間にこれに習熟して能力的に伸びる余地がなくなり、また業務上の責任も軽く、昇進、昇格することもない為、責任感に乏しく、自主性がなく、積極性がなく職業意識に欠ける等々そのモラル及び生産能率は低下することとなる」ために女子若年定年制によって排除された。そもそも女性労働者に男性同様の職務を与えて育成することもなく昇進させないのは企業側であるにも関わらず、このような女性側に責任を転嫁するというのもおかしな話であるが、当時はこのような理論がまかり通っていた。

 戦後復興時の経済成長期に続き、60年代後半からは高度経済成長期に入った。企業の生産経済活動活発になったこの時期、特に既婚女性の労働市場への参入が加速した。女性の雇用者は65年に913万人、70年には1000万人へと急増した。重化学工業化と技術革新の進展で機械化が進み、女性に不向きとされていた電気、機会、金属などにも女性の職域が急速に拡大したことが大きい。(奥山 2009)

 昭和40年代から50年代にかけては配置転換や女性パートタイム労働者に対する契約更新拒否や賃金差別をめぐる問題で訴訟が起きた。当時労働条件の差別を禁止する法規定は労基法3条、女性であることを理由の差別禁止規定は労基法4条のみでしかも賃金差別禁止だけであった。その中で、裁判所が憲法14条や24条の人権保証規定を用いて「公序法理(民法90条)」を積極的に適用して雇用条の不合理な男女差別に対する法的救済を積極的に認めたことは、のちの均等法制定につながるような男女雇用平等法政策に確実に弾みをつけた。(奥山 2009)

男女雇用機会均等法制定

 戦前から始まっていた女性の社会進出を、戦後さらに高スキル職にまで進めたのは大学卒という高学歴を手に入れた女性たちである。女性が雇用の入り口で排除されていた状況を打破したのはその中でも東大を卒業した女性たちであった。彼らは女性に厳しい労働市場において、その第1期から数々の先駆的な業績を残してきた。特に、それまで全ての女性が苦しんできたであろう採用での男女差別を決定的に変えたのが、1985年5月17日に成立した男女雇用機会均等法であった。この法案の成立・施行にあたっては、森山真弓(50年法卒)、高橋久子(53年経卒)、赤松良子(53年法卒)など、歴代の労働省婦人少年局長をはじめとした多数の東大卒女性官僚たちと彼らを応援した同級生らの努力があった。この法案は、40年もの間就職難民として生きてきた東大女子学生たちが自ら法律を成立させ、後陣に切り拓いた「突破口」であった。(さつき会 1987)

 赤松良子(53法)元労働省婦人少年局長が2011年5月発行の『さつき』第50号に寄せた「均等法を目指しての職業人生」には、その制定までの苦悩や覚悟が綴られている。「その頃の女性の状況、特に働く女性の状況は、憲法の男女平等の規定があるにも関わらず、俄然大きな差別の下におかれていた。量的には日本経済の好調の中でどんどんと増えていたのだが、長期間働き続けることは歓迎されず、昇進昇格の道は閉ざされ、結婚退職は当然のことと思われていた。結婚相手になる男性の方は、毎年のベースアップと定期昇給システムのおかげで、収入の水準は上昇を続けていたから、専業主婦とパートタイマー女性が社会に定着するようになっていた。」さらに当時は「一九六〇年頃から戦後の女性解放への反動の波が労働省にも打ち寄せて来て、「靴下と女」はもう充分強くなっているから、これ以上強くするなという風潮が支配していた」(さつき会 2001)という。

 赤松が雇用機会均等法の必要性を強く意識した事件があった。「中国地方の大企業が30歳定年退職制という結婚退職を補完する制度を考え、これを不当として女子労働者が婦人少年室(当時の婦人少年局の地方機関)にかけこみ、本省婦人労働課としての対応を考える役目が私に与えられた。私は真剣に取り組んで、「女子のみの若年定年制は憲法の男女平等の趣旨にかんがみ、公序良俗(民法90条)に反し、無効である」という理論構成で行政指導の通達案を書いた。が、当時の局長は、法律の根拠がないならそんな通達を出すのは無理だと主張、決済が得られなかった。」(『さつき』第50号 2011)この悔しさから同様の解釈をしていた憲法や労働法の専門家らの論文を編集し、65年に『女子の定年制』という論文を別名で発表した。この民法90条の公序良俗違反を適用して男女の雇用差別を無効化するという法理は、翌年の住友セメント結婚退職制事件判決(1966)や日産自動車男女別定年制事件判決(1981)など、均等法制定前後にも裁判によって何度も用いられ成功してきた。(辻村 2016)さらに住友セメント事件の判決はこの赤松の論文を参考にしたという。「この判決を出した裁判長ととあるパーティで会い、『女子の定年制』を参考にしたと言われたときは、仕事冥利に尽きると思いましたね」(女の転職@type 2007)それにも関わらず、この判決が出る前の赤松の提案は上司の一存によって日の目を見ることができなかったのだった。「私は残念でたまらず、女性の差別を職場からなくすための法律が必要と痛感した。」(さつき会 2011)

 70年代に労働法規は女性の保護から男女の平等に軸足を転換する。国際的背景には国際連合やILOの動向が、国内的にはそれを踏まえた政府関係機関や当事者を中心とした男女平等法制の確立への迅速、積極的行動があった。赤松が課長に昇進した後、国連は75年を国際婦人年、メキシコシティーでの世界会議で85年までの10年間を国連婦人の10年として加盟各国の世界行動計画を定めた。(奥山 2009)1979年には国連第34回総会で女子差別撤廃条約が採択され、その批准のためには職場における女性差別を禁止する法律が必要という論理が説得力を持ち、均等法制定の追い風となった。「長い間待ち続けてきてのチャンス、ここでやらなければ生涯悔いを残すとの思いで、長丁場の過酷な時期を乗り越えた。」(『さつき』第50号 2011)

 この均等法制定に尽くしたのは勿論赤松だけではない。松原亘子(64養)は均等法について「目指したのは、当たり前のことが当たり前に行われる社会です。(中略)自分はこう生きたいと思っているのに、女だからあなたの道はこれしかありません、こっちの道は男性しか通れませんというのは、おかしいと考えた」(さつき会 2001)と振り返った。佐藤ギン子(58養)もその1人であり、国会での答弁に立った回数は群を抜いた。「当時18あった委員会すべてで答弁したのは全省庁を通じて私だけだったように思う。」(『さつき』第50号 2011)佐藤は79年当時労働省婦人少年局婦人労働課長であり、均等法作成について審議すべき公労使三者構成の婦人少年問題審議会事務局責任者となった。前年、学識者による労働基準法研究会の報告で基準法の時間外労働制限・深夜業禁止等の「女子保護規定」の見直しを提案したことに対して労組の婦人部が猛反発していたため「議論できる状況ではなかった」ので、別に設けた男女平等問題専門家会議で男女平等の具体化について2年間審議し、1982年5月に報告書が出た。均等法立法の必要性と母性保護以外の女子保護規定見直しについては意見が一致していたが、具体的内容については労使間の意見が対立し、再開した審議も難航。その後日経連の均等法法制化反対の決議の阻止や、経営者など使用者側への根回し、女性団体などからの女子保護規定廃止反対の陳情への対応、国会での答弁などを経て、ついに1985年、国連婦人の10年の最終年、「男女雇用機会均等法」は成立した。労働省が労使公益代表の参加する審議会に「雇用における男女平等を実現する方策」の検討を要請してから実に6年の歳月が経っていた。(さつき会 1986)

 しかしこのオリジナルには雇用者に対する法的拘束力がなく、努力義務規定であって、施行後数年は「名ばかり」という認識を持つ企業や労働者も多かった。赤松自身もオリジナルは「労使との妥協をせまられ、望んでいた姿とは異なるもの」だと述べている。(さつき会 2001)竹中(1991)もこの均等法を「一定の意義をもちつつも、女子雇用に対して、「結果の平等」をもたらすだけの抜本的改善効果を生んでいない。「男女雇用平等法」ではなく、「男女雇用機会均等法」に堕した結果」だと厳しく評価した。ただ、この初期の均等法も四大卒女性の優良企業への就職は明らかに増加したという成果もあった。(労働省 1990)その後97年に改正された法案では、募集・採用、昇進・配置、福利厚生、定年・退職・解雇などに関する差別の禁止や、事業主のポジティブアクション(積極的改善措置)を規定した。またこれに違反した事業主が厚生労働大臣の勧告に従わない場合はその公表を認めるなど、実効性も高められた。(辻村 2016)

 均等法は86年4月施行だが、同時期施行された法案に労働者派遣法(同年7月)、労働基準法改正(88年)、パートタイム労働指針(89年)などがあり、これらも女性の労働環境に影響を与えた。女子労働は従来型の縁辺労働として一括されていたものから、男性正社員と同様に働く「エリート」とパートなどで補助的に家計を支える「マス」の二極に再編されていった。(竹中 1991)

 1991年に育児休業法が制定され、95年にはこれは育児介護休業法に改正された。さらに2001年には子の看護休暇などが導入された。2009年に男性の育休取得を促進することを目的として育児休業法は再び改正された。2005年には「次世代育成支援対策推進法」が施行されており、育児休業法を上回る制度の導入や男性の育児休業取得などを含む一般事業主行動計画の策定が、従業員301名以上の企業に対して義務付けられ、300名以下の企業に対しては努力義務とされた。これは2011年に101名以上の企業にまで義務化範囲が拡大され、厚生労働省の認定マークが定められた。(辻村 2016)

 1999年には男女共同参画社会基本法が制定された。この「男女共同参画」という概念は、差別撤廃(平等)から人権・参画へ、という世論の理論動向を踏まえての面と、「差別禁止」「男女平等」といった文言を避けることで受容されやすい表現に抑えるという面の2面があった。(辻村 2016)同基本法は「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」(2条)を男女共同参画社会と定義した。他にも「男女が、互いにその人権を尊重しつつ責任も分かちあい、性別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮することができる」社会(前文)、「男女の人権が尊重され、かつ、社会経済情勢の変化に対応できる豊かで活力ある社会」(1条)とも表現した。1996年に男女共同参画審議会答申において「男女共同参画」の観念は旧来の「女性問題解決・女性の地位向上」から「ジェンダーの主流化」にパラダイム転換した。それを受け、この法では社会の制度慣行上での固定的役割分業の変革によるジェンダー・バイアスからの解放が目指されている。ただし基本法には性差別や女性の人権侵害の現状分析が欠けている他、諸外国の性差別禁止法や男女平等法とは異なり、性差別や平等侵害に対する制裁措置が明記されていない。国と地方団体に男女共同参画社会形成促進に関する施策の総合的策定と実施の責務があり(8, 9条)、国民にこの社会形成に寄与する努力義務がある(10条)のみである。

 2006年に再び改正された男女雇用機会均等法では、これまでの女性差別禁止という片面的な文言ではなく性差別禁止という両面的性格に変更された。また、性差別禁止を定めた募集・採用、昇進・配置、福利厚生、定年・退職・解雇の項目に加え、労働者の職種・雇用形態の変更、退職勧奨、労働契約更新が追加された。ポジティブアクションに関しては片面的性格が維持された。そして新たに関節差別禁止規定も盛り込まれ、「実質的に性別を理由とする差別になるおそれがある措置として厚生労働省令で定めるもの」について禁止した。結婚・妊娠・出産などを理由とする不利益取り扱いも禁止され、妊娠中及び出産後1年を経過しない女性労働者の解雇も無効とされた。他にも指針作成とその公表や、セクシュアル・ハラスメントを対象の性別に関係なく予防する事業主の雇用管理上の措置を講じることや指針の公表の義務化、調停対象へのセクハラの追加、報告拒否や虚偽報告に対する20万円以下の過料の創設、女性の坑内労働規制の緩和などが行われた。(辻村 2016)

 女性の再就職を支援する過程では性差別というよりも年齢差別を排除すべきという意見もある。(大槻 2015)高学歴を得て個人の能力がいくら高く、キャリアを中断する前にいかに仕事上の達成やスキルを積んでいても、数年ないし数十年のブランク或いは前職勤務期間を理由にそれらの知識や経験のない他の人々と全く同様の職務能力であるとみなされることは教育費用対効果を著しく下げることになるだろう。2007年、求職者に対する年齢制限原則禁止が施行された。この例外としては以下の6点が設けられている。⑴定年年齢の上限未満を無期限の労働契約対象として募集採用する場合、⑵労働基準法その他の法令の規定により年齢制限が設けられている場合、⑶長期勤続によるキャリア形成を図る観点から若年者などを無期限の労働契約対象として募集採用する場合、⑷技能・ノウハウの継承の観点から特定の業種において労働者数が相当程度少ない特定の年齢層に限定し、且つ、無期限の労働契約対象として募集採用する場合、⑸芸術芸能の分野における表現の真実性などの要請がある場合、⑹60歳以上の高年齢者または特定の年齢層の雇用を促進する施策(国のものを活用しようとする場合のみ)の対象者に限定して募集採用する場合である。ところがこれらは実際の非正規雇用では機能していない上に罰則がなく、形骸化している。(大槻 2015)

 2015年には「女性の職業生活における活躍の推進に関する法律」(女性活躍推進法)が策定された。これは自らの意志によって職業生活を営む女性の個性と能力が十分に発揮されることを目的とし、「女性に対する採用、昇進等の機会の積極的な提供及びその活用と、性別による固定 的役割分担等を反映した職場慣行が及ぼす影響への配慮が行われること」「職業生活と家庭生活との両立を図るために必要な環境の整備により、職業生活と 家庭生活との円滑かつ継続的な両立を可能にすること」「女性の職業生活と家庭生活との両立に関し、本人の意思が尊重されるべきこと」の3つを基本方針とした。(内閣府 2015)これによって女性の活躍推進に向けた数値目標を盛り込んだ行動計画の策定・公表や、女性の職業選択に資する情報の公表が国や地方公共団体、民間企業などの事業主に義務付けられ、労働者が300人以下の民間事業主については努力義務とされた。(辻村 2016)

 非常に残念ながら、世界経済フォーラムが発表した2017年度の国際ジェンダー格差報告書の男女平等度の順位において日本は先進国・途上国の大多数に及ばない114位の低位に甘んじている。(World Economic Forum 2017)教育・健康面では男女平等は進んでいるが、経済面や、特に政治面において平等度は著しく下がり、これが日本の順位を大きく引き下げる原因となっている。しかし、結果には未だ結びついていないが近年こうした法律の整備や議論が増加してきているのは確かであり、この傾向は歓迎し、さらに進めていくべきものであると考える。

1-2-2 戦後日本型生存保障システムの成立と崩壊

 経済的観点から男女の労働分担の歴史を見ると、男性働き手が核家族一家の大黒柱となり、女性が家庭の一切を切り盛りして支えるという構造は戦後の経済成長によって作られ、維持・強化されてきたものであるということがわかる。これを戦後日本型生存保障システムといい、このライフスタイルに合わせて政策や企業の手当てを含んだ社会と家庭の相互関係が築き上げられたのである。

 日本における生存システムは、戦前・戦中期における労働・雇用体制と戦後の社会保障を結合させて作られてきた。ここで大前提となったのが戦後の経済成長であり、雇用を創出することで失業保障を兼ねていた。これは終戦直後はインフラが未整備で民衆の生活必需品への欲望が尽きず、生産性を上げて働けば働くほど経済成長できたからこそ可能であった。(小野 2012)具体的には、万が一のための社会保険をかまえつつ、経済規制によって産業を育成・保護し、公共事業支出によって増えた雇用を配分された男性働き手が家計を支えることができるようになっていた。賃金制は「同一労働同一賃金」ではなく、「同一労働力同一賃金」であって、労働者の再生産費用=生活給が前提となっており、当然男性稼ぎ主モデルを前提としていた。(濱口 2015)一方障害者や老人・子供など、働けなくなった人々には残余的に生活保護などの保障が与えられた。このように、戦後日本型生存保障システムはミドルクラスへの普遍主義的保障・アンダークラスへの選別主義的保障の二元体制で成立しており、その成立根拠は経済成長であった。(天田 2004)また、日本的正社員の雇用契約の特質として無限定性、とりわけ場所の無限定性が挙げられる。急激な技術革新に対応するために、労働者側の合意の下に大規模な配置転換が進められたことが背景にあるのだが(濱口 2015)、これが男性働き手の転勤に伴い、家庭の再生産労働を引き受ける女性が夫に随行する、或いは単身赴任で空いた家に残り完全に生産労働と再生産労働の役割分担を分けるという家族形態が主流となることに一役買ったのは容易に想像できる。

 しかしバブル崩壊後は不況となり、継続的な雇用創出が難しくなった。男性働き手を想定した終身雇用制度を継続するためには不景気のときに景気弁として切り捨てられる非正規・パート雇用は企業側にも都合がよく、そこには女性が夫の下がった給料の穴を埋めるための補助的労働力として参入した。また経済成長期に発達した家庭電化製品や乗用車の普及、保育所の拡充によって家事労働時間が短縮されたことに加え、出生率の低下によっても時間的余裕が生まれ、さらにマイホームや進学率の向上など、高度化した生活様式を実現・維持するために収入の増加が必要になったことで、既婚女性がパートとして労働市場に進出するようになったという側面もある。(竹中 1991)そこで性別役割分業体制は大きな制度改革の痛みを伴わずに経済効率を保てるシステムとして機能したのだった。(竹中 2011)またこれは、企業も不況で賃金を下げざるを得ず、働いても生活資金には足りないというワーキングプアを生み出すことにもなった。残余的社会保障の1つである生活保護を受けるために求められる貧困の度合いはあまりに高く、ここで正規社員家族たちの普遍主義的保障にもあやかれない「どこにも引っかかれない」アンダーミドルクラスの人々の存在が問題となった。これが今なお解決されていない、戦後日本型生存保障システムの綻びである。(天田 2004)

 日本社会の「空洞化」、生産拠点や資源調達地の海外移転による日本社会の第3次産業化の動きも注目すべき構造変化である。プラザ合意以降の円高進行や日米貿易摩擦、ヨーロッパの経済統合を見越した動きなどを背景に、80年代後半から90年代半ばにかけて海外生産比率が上昇したことで日本の産業は空洞化した。(鈴木 2014)第3次産業では第1次産業や第2次産業に比べると男性の体力や熟練は必ずしも必要でなく、低賃金で解雇しやすい女子労働者の導入にメリットを見出す企業が増加する。またサービス業の多くは女性が担ってきた家庭内労働を社会化したものが多く、女性に「向いている」とされやすい。雇用機会均等法や人材派遣法が生むのは、そのような戦略的判断のもとで女子労働力を採る企業でもあった。(加納 1991)しかしこれは高学歴女性にとって社会進出の追い風となったとは言えず、依然高スキル職では男性優位である。家事育児負担を当然視される性別役割分業観は変わらず、尚且つ女性の労働能力への頑迷な偏見がある職場において、「無制限の労働義務と引き替えに職業人生の安定を得てきた日本型雇用システム」(濱口 2015: 211)における男性正社員モデルにそのままはめ込まれる形となった総合職女性は結婚や出産・育児そして自分と夫両方の親の介護に直面するたびに、或いは直面するに違いないという前提を押し付けられるたびに、非常に居心地の悪い思いをしたであろう。出産後は配属地域の限定や昇進・昇格と無縁のキャリアコースにいつの間にか進められているという、いわゆるマミートラックに入り込むこともある。(濱口 2015)戦後日本型生存保障システムにおいて、一般に女性はあくまで景気調整弁としての臨時労働力であるが故に、社内教育機会も男性ほどは与えられず、従って昇給・昇進のためのスキルアップもしにくい状況であった。(大槻 2015)近年増加傾向にある非正規雇用のうち、バイトでは低学歴女性が多いが、派遣社員となると短大卒や大卒といった高学歴女性が多くなることもその証左であろう。大学を出て学歴が高くなったとしても、正規雇用から漏れて非正規雇用の学歴上層部にいるのは結局女性であって、高学歴男性ではない。彼女らは雇用形態とライフスタイルの柔軟性を兼ね備えた非正規雇用の元で、一定レベルの一般教育や職業訓練を受けた「数量的柔軟性と機能的柔軟性」を持つ労働力として働くのである。(ホルトグレーヴェ 2015)

1-2-3 バブル崩壊後の労働市場の変化

 以下、特に注記のないものは玄田(2010)の議論に沿って1990年代以降近年までの日本経済の動向を概観したものである。
 バブル崩壊後の不況は戦後日本型生存保障システムの崩壊を招いた。新しく現れた福祉国家のリスクとして、仕事と家庭生活の不調和、ひとり親、近親者の加齢や障害による要介護化、低い熟練・熟練の陳腐化、「非典型的」なキャリアパターンのために社会保障から部分的にせよ排除されるリスクが挙げられる。(大沢(2007)『生活の協同』日本評論社;玄田 2010)不況による失業率の上昇によって、日本は欧米の労働市場に近づいた。これを背景に雇用機会の拡大が優先され、派遣労働を容認する方向の労働市場改革が必要だという議論が高まった。これを期に、非正社員という働き方は大きく広がった。(八代 2009)

 90年代以降、長時間労働化も進んだ。男性正社員で週60時間以上働く人が急増し、その4割以上が継続就業を望みつつも労働時間は減らしたいという不本意な長時間労働をしており、離職を望む比率も増加していた。特に30代と大企業で長時間化がみられ、勤続10年未満の短期勤続層で週60時間以上労働する傾向がみられた。短期勤続層は元来転職志向が強く、長時間労働は離職傾向に拍車をかけていた。この時期は企業の採用テーマとして「即戦力」が言われ始めた時期と重なり、その実態が「長時間労働を即座に担い得る人材」(玄田 2010: 203)へのシフトであった。長時間労働化は20代から40代、特に女性に対して性行動を抑制するという分析もされており、少子化を推し進める一因となっていることが伺える。さらに情報化によって家庭ですら職場になり得、実質的な労働時間はますます長くなっている。(森岡 2005)

 2000年代には就職活動自体をしない「ニート」(NEET: Not in Education, Employment, or Training)という呼称も社会的に話題になった。(小杉(2004)、玄田・曲沼(2004) 『日本労働研究雑誌』2004年12月号特集「若年無業−−NEET」など: 玄田 2010)その後サンプル数の限られた質的調査や『就業構造基本調査』による大規模標本に基づく量的調査によって、ニートに関する事実がいくつか明らかになった。ニート状態の若者の回答者の半数以上が過去にいじめや精神科・心療内科の受診の経験がある。また高校中退など低学歴者の割合が高く、就業経験を過去に一切持たない者も相当数いる。また、家族や学校、地域などに固有の問題との密接な関連もあることが示唆されている。これは低所得世帯の若年就業における期待収益率の低下とも関連がある。また、就業希望はあるが求職活動をしていない非求職型無業者には年長者、女性、低学歴者、長期無業者など、就業による期待収益率が低いと考えられる属性を持つ人々が多く、高収入世帯の若年無業者ほど就業希望を表明しない非希望型無業者が多いという所得効果も認められている。

 キャリアパターンから不本意に「外れる」人々を把握する目安の1つは完全失業率である。日本の完全失業率は他の先進諸国と比べて低水準を維持してきたが、1990年代以降大きく上昇し、2002年に調査実施以来最高となる年平均5.4%を記録した。特に若年層で上昇が著しく、2000年代初頭に25歳未満の失業率はおよそ10%前後となった。(総務省『労働力調査』)同時に1990年代以降は労働市場の規制緩和が進み、人材サービス業が成長し、転職市場の整備も進んだ。これは市場での評価を通じて労働力の効率的な資源配分を実現し、労働者の移動コストを引き下げ、一部の職場に限られてはいるが、満足度・納得度のより高い就業機会を提供することにつながった。

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 2008年に世界で不況を引き起こしたリーマンショックと2011年に発生した東日本大震災は、日本社会に再び深刻な不況をもたらした。それまで完全失業率は低下傾向にあったが、08年リーマンショック直後の09年に全ての年齢階級で完全失業率が0.9%〜1.9%上昇しており、特に24歳未満の若年層で変化が著しい。震災直後の12年まで失業率は高いが、その後景気回復に伴い徐々に低下、2017年9月までの完全失業率は全体で2.9%、最も高い若年層でも4.7%にまで低下した。(総務省『労働力調査』)

 正社員雇用が当然視されなくなってきたことも近年の大きな変化の1つである。日本の就業者数は2000-2010年で男性が女性に部分的に置き換えられながら全体として減少した。正規雇用者は321万人の大幅な減少でそのほとんどを男性が占める。正規雇用者における女性割合は30%から31%にわずかに上昇した。就業時間も総量は減ったが、女性の比重増大が結婚年齢中心に進行している。女性の経済力を前提とした結婚形成が進み、男性稼ぎ手モデルを前提とする家族形態を成立させにくくしている要因であると考えられる。経済力のある女性は従来結婚に不利と考えられてきたが、女性の稼得力がむしろ結婚に有利になるような価値観の変化が生じている。(廣嶋 2014)

 非正規社員の構造も変化しつつある。かつて非正社員全体でパート・アルバイトの比率は1999年に8割を超えていたが、2007年には7割弱までゆるやかに低下した。(『労働力調査特別調査』)3人に1人はパート・アルバイトではない非正社員である。彼らの雇用形態や賃金、労働時間、仕事の納得性や満足度なども多様化している。雇用の柔軟性が高く人件費の節約にもなる非正社員への需要は2000年代半ば以降、景気回復や少子化による労働力不足もあって強まっている。非正社員も組織運営に不可欠なスキルを身につければ定着し勤続に応じた報酬も出るという、内部労働力化の動きもある。これを労働市場二重構造論という。(石川・出島 1994)無配偶者非正社員の内訳で最多数から派遣、アルバイト、契約、パートとなっており、8割が親と同居している他、現住所が卒業中学校の地域と同一である人は7割強と、地元志向も強い傾向にある。

 総務省統計局『労働力調査特別調査』(2月調査)および『労働力調査(詳細結果)』によれば、役員を除く雇用者のうち「正規の職員・従業員」の割合は一貫して減少しており、調査の最古、1984年の84.7%であった正規雇用者比率は2007年に約60%にまで低下した。非正規雇用者は1700万人を超えるが、同一企業内勤続年数は上昇しており、一概に低賃金で不安定とはいいくるめられない実態がある。ただし非正規雇用から正規雇用への離脱は非常に困難だと指摘されており、大都市ではフリーターから正社員に離脱しようと試みる若者の割合が2000年代に低下したという研究もある。(堀 2007: 124)一方で非正規雇用から正規雇用への年間転職者数はゆるやかに拡大しており、移行は困難ではあるが不可能ではない。IT化による技術革新に対応する能力の求められるようになった正社員には高学歴層の方が転職しやすい傾向にある。移動の学歴間格差はこの20年間で拡大し続けており、学歴による効用は濱田(2015)の指摘するようにますます高まっていると言える。


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