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【第2章2-2-1】東京大学と女子学生

本論文は2018年度東京大学文学部社会学研究室でクローネ賞を受賞した学部論文です。研究室ならびに指導教官からの許可を得て公開しています。

※加筆修正したい点もありますが、敢えて執筆〜提出当時(2018年1月5日)のまま掲載します。私人についてはイニシャル表記のままとします。

2-2 東京大学女子学生史

2-2-1 東京大学と女子学生

 以下の記述は特に注記のない場合さつき会出版の『東大卒の女性—ライフリポート』(1989)に依拠した。東京大学が初めて女性に受験資格を認めたのは1946年で、戦後最初の旧制東京帝国大学入学試験を経て女性19名が入学した(入学者総数は1026名)。これはマッカーサーの「人権確保の五大改革」における「婦人の政治的解放」政策を下地として発令されたという「女子教育刷新新要綱」(二月一日)による変革だった。女子受験生は108名で、法16(4)医12(1)文49(8)理17(2)農5(1)経9(3)であった(括弧内は合格者数)。女子合格率は17.6%と、男子専門学校卒9.7%よりはるかに高かった。これらの女子志願者は既に学歴のあった人々で、女子高等師範学校11名、女子師範学校専攻科1名、私立大学女子部4名、私立女子専門学校及び私立大学専門部88名、官公私立高等女学校専攻科及び高等部5名である。また既に女子高等教育を受けたのち就職し、結婚生活に入って子供を育てていた女性もいた。いずれにせよ、「かつての良妻賢母型女子教育にあきたらず、なみなみならぬ闘志を秘めた若い女性たち」であった。当時は失業時代、東大文学部卒でも就職率5%(1950/2/23付東京大学学生新聞)であり、女子の大学進学は親も祝福しきれなかったが、学生本人たちは「なにかカラリと明るい、そしてピンと張りつめた空気」を感じたという。

 その後女子入学者率は漸増した。女子学生の人数としては64年に100名を超え、80年に200名となっているが、男子も合わせた入学定員が激増しているため、女子が全入学者の10%を超えるまでに40年もかかっている。

 女子入学者を増やした第一の要因は学部の創設である。49年の新制移行にあたり創設された教養学部(駒場)が後期課程として設けた教養学科(53年)、そして本郷の教育学部(49年)薬学部(58年)の3学部はいずれもその後の女子進学率が高い。『ライフリポート』発行当時87年度の女子卒業生比率は既に教育学部21%、教養学部16%、薬学部20%、文学部25%と、極少数派ではなくなっていた。後述するが、2017年現在女子学生比率が20%を超える学部は、教育学部34.8%、教養学部34.1%、薬学部23.1%、文学部29.3%、また農学部が24.0%であり、一部の学部では30%を超えるようにもなった。(東京大学 2017)

 当時の学生は男女共に勉学を続けるための経済的困窮に悩まされていた。文部省学生生活調査(1949)では大学生の80%が内職希望、就職率は60%。育英資金の希望者は67%で下宿生に多く、下宿は不安定で23%が不安を訴えていた。多くの学生はアルバイトでなんとか生活費や学費を工面していたが、男子学生には死体処理や血液売却など割のいい仕事もある中、女子学生は軽作業や家庭教師などが多く、中には夜行列車で東京大阪間を往復して商品見本の運搬役をする者もいた。戦時中の栄養失調に加え、厳しい学生生活のために肋膜炎や肺結核などに倒れる女子学生も少なくなかったという。

 この窮状を訴え女子寮創設を決断させたのが、51年当時の矢内原忠雄教養学部長に便箋9枚にも及ぶ直訴状を著し、後にさつき会創設者となる54年卒の影山裕子であった。影山は地方から上京した裕福でない女子学生たちが単身東京で勉学を継続することの困難さを説き、「アンビションを抱く女子学生に、安心して住める寮を」と、女子専用の学生寮建設を訴えた。この直訴が実って2年後の53年9月、港区白金三光町に白金寮が開設され、14名が入寮した。当初教養学部生のみであった対象者は増築を経て56年から後期課程の女子学生も入寮できるようになった(定員26名)。その後女子入学者増加に伴い、66年4月には新女子寮が開設された。寮の管理問題はしばらく議論があったが、本郷の学生部の所管となった。

 女子入学者を再び急増させたのは、1953年医学部衛生看護学科が「社会福祉に奉仕する指導的女性を養成する」ことを目的に創設されたことだった。65年保健学科に改組され、男子学生も受け入れるようになるまで、計314名の女子卒業生を輩出した。

 女子入学者の増加とは関連がないが、東大の歴史においても、東大女子学生史においても、安保闘争と樺美智子の死は避けて通れない。国会構内で警察隊とデモ隊が衝突した際、東大文学部の学友会副委員長であり、闘争に積極的に参加していた樺美智子は警察隊らの下敷きになり死亡した。この悲劇に対して、1500人の学生が全東大学生抗議集会に、500人の教授・助教授・講師らが教官集会に参加し、キャンパスに憤りの声が湧き上がった。6月18日に新安保が自然成立したとき、東大では合同慰霊祭の後全員が黒い喪章をつけて国会南門まで行進した。運動は失敗に終わり、1人の女子学生の死が主義主張や立場を越えて学生と教官を結びつけた。またこの闘争には女子学生も積極的に参加して議論や演説も行っていたというが、デモに加わることはほぼなく、「銃後」の役割を担わされていた。

 1961年に東大は入学時の科類と募集人数を変更し、文科1、2類を1、2、3類に、理科1類を1、2、3類に再分割した。定員の割り振りも変わった。これによって、文科学生数には変化がなかったが、理科学生数は13%増員し、この定員数差は年々拡大した。しかし女子学生は理系では遅々として増えなかったため、この改革は女子学生増加にはあまり影響がなかった。

 同年には本論でも大きく取り上げる東京大学女子卒業生同窓会である「さつき会」が結成された。54年度の女子卒業生らが中心となり当時の東京大学卒OGの約3割が結成式に集う、大規模な取り組みであった。

 60年代、前章で詳しく述べた「女子学生亡国論」は東大にもその影響を及ぼしていた。高学歴社会と大学の大衆化に伴い、合格には高額な塾通いなどの教育投資を要するようになっていた。当時の東大女子学生は「ほとんど無視」していたが、東大男子の1人は「女子大生プチブル論」を唱え、「現在の女子大生増加が大学を亡国的な退廃に追いやっているのではなく、女子大生の増加そのものがプチブル層の教育の独占的傾向という大学教育のまさに亡国的な状況を表していると言えるのではあるまいか」と記した。この頃から進学率上昇によって「東大を頂点とするピラミッド型の進学競争」という構図が明確になっていった。

 結成間もないさつき会でもこの一連の議論は注目されており、1964年発行の『さつき』第3号には尾崎盛光東大文学部事務長が「東大非文学部論」と題し、亡国論を「妄論」と片付けた上で、東大文学部が他大の文学部と異なり女子学生の割合が遅々として増えない理由を、学資だけはかかるが就職が困難な他大文学部に比べれば東大文学部は求人難にあっても「同じ東大なら法学部・経済学部の底辺学生よりは文学部の上澄みを」という企業に人気で、「大の男がエキサイトして突入してくるにふさわしい対象」(『さつき』第3号 1964: 4)であり続けていることだと分析している。ただしこの論理には飛躍がある。これは「男子の受験者が減らないから女子が入る余地が生まれない」という論理であって、東大が解決すべき問題としての「女子の受験者が増えないから女子が入らない」ということではない。むしろ就職難にあっては男女双方の大学志願率は上昇するので(濱中 2013;荒井1998)、東大においては女子の志願率だけが低く抑えられたままである理由は就職に有利かどうかでは説明不十分である。女子学生に東大が「男子学生の行くところだ」と敬遠されているからこそ女子学生の割合が増えなかったのではないだろうか。

 1968年に始まった東大紛争の後に行われたカリキュラム改革も女子学生増加に寄与することとなった。紛争後、分析とカリキュラム改革が行われ、教養課程での英語の各種クラス分け、総合コース新設、ゼミ形式の少人数授業の開設、学生の希望により開設する演習などの新しい試みがなされた。また駒場での「新入生オリ」の行事がイベント化し、これによって女子学生は飛躍的に増加した(71年度前年比30%増の170名)。またこれを機に、女子学生は理系学部にも進出しはじめた。また社会では70年代前半はウーマンリブ運動が盛んであり、女性の社会進出を訴える人々が増加していたことも後押ししたのかもしれない。

 1977年、東大広報委員会は初めて女子学生のみを対象とした「学生生活実態調査」を実施。この結果から俗に言う「東大女子お嬢さん説」が出現した。東京大学に通学する女子学生の出身地は東京周辺が多く、自宅からの通学者が多い。父親は管理職か自営業が多く、家庭の年収平均は男子の517万円をはるかに上回る633万円。6割がバイトをしていおり、家庭教師が多数を占める。その月額収入は平均2万7千円。支出は女子が雑費と勉学費に多く充てるのに対し、比較対象として男子は専ら食費と教養娯楽費に充てていた。また受験の動機に関しては、高校時代によくできたので結果として東大を目指した学生が多かった。授業には出席して成績もよく、「激しい受験戦争のなかにあっても男子学生ほどは汲々とせず、自然に東大に入ってしまった、勉強好きの、よくできる、家庭も悪くないお嬢さん」像が浮かび上がった。

 この時期、1975年は国際婦人年、76〜85年は「国連婦人の十年」など、国際的に婦人問題の大きな動きが始まり、世界中の女性が社会進出を始めた。私大人気も高まっていた。女子学生は就職に有利な学部学科を国立私立にこだわらずに選び、その結果、逆説的だが、東大にも流れ込んだ。また女子学生の雰囲気も一変する。1978年の駒場祭では女性性を前面に押し出した「バニーガール・クラブ」が出現した。それ以前の女子学生が女性性を押し殺して男女平等に近づこうとしていたのに対して、彼らは女性性を押し出すことで男女平等を主張しているようだったという。(さつき会 1987)

 1979年、大学受験において共通一次試験を導入したことで偏差値が可視化され、女子学生の東大進出を高度成長させた。これは数字で自分の男女問わない位置づけが明らかになったことで、より「自分にも目指せる」というモチベーションの高揚に繋がったのだろう。1987年には国立大の複数受験が可能となり、女子学生はさらに増え、ついに女子が入学者の1割を占めるようになった。東京大学が女子学生を受け入れるようになってから実に40年後のことである。

 女子学部生比率が初めて20%を超えたのは2004年の21.0%で、その後再び2006年に20.1%を記録してからはわずかに20%に届かない数値を記録し続けている。(東京大学 2017)10%を超えるまでに40年かかったとすれば、20%を安定して超えるまでにはもう数年待たねばならないのだろうか。東京大学第29代総長の濱田純一氏は2020年までに女子学部生比率30%達成を目標に掲げ、女子高校生への母校訪問や女子寮の創設などに取り組んだが、まだその効果は目に見える形では現れていない。(東京大学 2015)

 現在学部ごとの女子学生比率は、前期教養学部19.7%、法学部19.4%、医学部18.9%、工学部11.0%、文学部29.3%、理学部11.9%、農学部24.0%、経済学部17.4%、教養学部34.1%、教育学部34.8%、薬学部23.1%であり、一部の学部では30%を超えるが、学部全体の合計では19.4%と2割に満たない。なお留学生は男子127名に対し女子が150名と、女子学生の方が多くなっている。(東京大学 2017)

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