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【第2章2-2-4】東大を志し、東大で志す

本論文は2018年度東京大学文学部社会学研究室でクローネ賞を受賞した学部論文です。研究室ならびに指導教官からの許可を得て公開しています。

※加筆修正したい点もありますが、敢えて執筆〜提出当時(2018年1月5日)のまま掲載します。私人についてはイニシャル表記のままとします。

2-2-4 東大を志し、東大で志す

女性の社会進出を促した業績

 さつき会メンバーを含む東大卒女性が成し遂げたガラスの天井に突破口を開ける法律改正の最たるものは1985年施行の男女雇用機会均等法であったが、この裏に実はもう1つ、東大卒業生が関わった女性差別撤廃のための法律改正のドラマがある。それは子供の国籍を父親の国籍にのみ依って決定していた旧国籍法の改正であり、79年国連で採択された女子差別撤廃条約の批准のためには均等法だけではなくこの法改正も不可欠であった。1984年5月日本の国籍法(昭和25.5.4法律147号)の一部改正案は国会で可決され、翌85年1月1日から施行(昭和54.5.25法律45号)。これによって旧国籍法(明治32.3.6法律66号)以来の父系優先血統主義を廃し、父母両系血統主義への改正が実現した。以下は同じく『さつき』第50号(2011)に掲載された、Y.T(55経)の「ほんの25年前の国籍法」という回顧録を元に記述したものである。

 Y.Tが国籍法に関心を持つきっかけは、当時の旧国籍法が「冒頭で明確に女性差別を表明しているのに驚いた」ことだという。具体的には、国籍法2条は出生により日本国籍取得を認められるのは「出生時に父親が日本国籍をもっている場合(母親の国籍は不問)」で、「母親が日本人でも父親が非日本人の場合は原則として取得できない」という「違憲状態の法律」であった。Y.Tらは均等法同様に79年の女子差別撤廃条約の採択を追い風とし、条約批准に向けて国籍法研究の勉強会の垣根を越えて改正に向けて動いていた。国会でも女性議員を中心に国籍法の違憲性が激しく議論されており、新聞でも大きく報道されて世論に注目されることになった。しかし与党は、国籍法の父系優先主義、雇用の男女不平等、家庭科教育の女子のみの必修を定めた指導要領などの関係国内法の整備に時間がかかるために女子差別撤廃条約の批准は不可能だと、80年まで頑迷に主張していた。これに対し、市川房枝元参議院議員を中心にこの関係国内法を早急に整備・改正して批准するよう要求するために国内の約50の女性団体に呼びかけた複数回の大集会が行われ、決議文や要請書を出すなど、世論を盛り上げた。その甲斐もあって政府与党は80年7月に国内法改正に着手することを表明し、コペンハーゲンの国連女性の10年世界会議で条約批准を前提とする署名を行ったのである。Y.Tらはこの結果に満足して気を緩めることはなく、83年2月「国籍法改正のための中間試案」を法制審議会が公表した際も、不十分・不明瞭な点や女性差別的に運用されかねない曖昧な表現などと逐一検討し、改正法案を施行するに至った。

 民間でも活躍した東大卒女性は多い。女性学発祥の数年前、H.K(56文)は育児後再就職した出版社で評論家として活躍した。「1970〜80年代のメディアによる女性論を牽引したのは、俵萌子、吉武輝子そして私、樋口恵子の3人、と言われるようになった。」(『さつき』第50号 2011: 8)この女性学を日本で1974年に提唱したのがI.T(64文)である。アメリカでのWomen’s Studiesの萌芽をいち早くキャッチし、「女性学」という訳語をあて、女性社会学研究会を発足させ、就職2年目の和光大学に日本初の女性学講座を開設したのが始まりである。直後、75年の国際女性年と「国連女性の10年間」の追い風を受け、女性学の研究者たちは女性行政に関わっていった。(『さつき』第50号 2011)

意志

 本章ではライフイベントに沿って東大卒女性らの生き方を追ってきたが、彼らはなぜ東大へ羽ばたき、東大から羽ばたいていったのだろうか。外部要因ではなく、内的な価値観や思考、信念はどうであったのだろう。これについても、さつき会発行物に寄せられた投稿の数々からうかがい知れることが多くある。

 M.M(50法)元法務大臣「これらのことは好奇心がいつも私を動かしたと言えると想います、従来、女子は女子であるというだけで排除されていた場所や仕事にせっかく機会をあたえられたのだからやってみよう、それはどんな世界なんだろうという気持ちです」(『さつき』第50号 2011: 3)

 Y.M(55文)「かなり気張った組織人間だった。男と同じ土俵の上で、女の能力を発揮すること—(中略)根底からゆるがすようなフェミニズム的発想を、その頃の私はまだ、知らなかった。」(さつき会 1986: 24)

 H.S(57理)「手さぐりで辿る道はまだまだ続きそうである。だが、こういう時代に女性として生まれたことの何とすばらしいことであろう。そこにはいつも「創造」があるからだ。」(さつき会 1986: 40)

 S.K(58法)検事「私達にはモデルがない。私達の生き方は、私達一人一人が手さぐりで辿る道より外にはない」(『さつき』第1号 1961: 7)

 Y.T(59育)「まだインテリゲンチャが意味を持っていた時代でした。(中略)男子学生を含めて、大学出の率がまだ少なかったから、大学卒はインテリゲンチャで、労働者階級の先頭に立たなければならない、大衆に奉仕しなければならないという位置づけが社会的にありました。」(『さつき』第20号 1981: 9)

 S.K(60文)「私にとって自分の糧を得るために仕事をするのは極当り前」「結婚、出産、転勤という場合でも二者択一の問題として考えたことはなかった。」(さつき会 1986: 66)

 I.T(64文)和光大学教授「特別な才能も野心もない、ふつうの女が、自然体でやれるところまでやってみようというのが、実は私の秘めたる志であった」(『さつき』第50号 2011: 16)

 O.M(69文)「二〇代、私の中で、自分は何者かという問いは、女であることの意味への問いになっていった」(さつき会 1986: 111)

 S.S(71文)「「団塊世代は一生、競争の中」と教師が言った。裏返せば、連帯して社会を少しでもマシにする力が発揮できる。老人はさっさと消え去るのではなく、怯まずに未来への知恵を世代間で分かち合う責任を果たしたいものだ」(『たより』No.51 2015: 18)

 U.R(71文)「私が入学した頃は、使命感ふうの感覚がまだ残っていました。ところが私が大学三年生のとき、大学紛争が起き、(中略)建前がいかにもろいかを感じ、完全に使命感がなくなりました。(中略)以来、私は建前で生きるのをやめて、その時々のやりたいことを忠実に生きようと思いはじめたのです」(『さつき』第20号 1981: 10)

 H.H(84経)「「たかが東大、されど東大」の気持ちで、人間としてのやさしさ、思いやり、犠牲的献身の心を身につけるよう自分を戒めながら、人生をあじわい深いものにしていきたい」(さつき会 1986: 160)

 特に上の世代ではその体験してきたところによるのか、男女平等のテーマに関して敏感である。(さつき会 2011)既に20年前、1997年の『たより No.33』では、毎号投書企画「北から南から」に夫婦別姓についてのコメントが2つ同時に掲載された。この議論自体は1950年代に始まっており、70年代からは女性たちによる運動も始まっていた。(『たより』No.53 2017)

 A.N(82理)「夫婦別姓選択制や婚外子差別の廃止を柱とする民法改正がまた延期されようとしています。女性が継承権を得にくい状況を女性がもっと怒らないといけないのではないでしょうか?」(『たより』No.33 1997: 11)

 T.J(87農)「夫婦別姓がなかなか認められないので、今の職場では戸籍上の「M」を使っており不便です」(『たより』No.33 1997: 12)

 2017年10月発行の『たより』にも、夫婦別姓制度違憲訴訟の顛末に関わったさつき会会員による記事が一面を飾った。「夫婦別姓訴訟について」と題された記事は、2017年度の総会でのU.S(90養)による講演を文面化したものだ。打越は別姓訴訟弁護団の一員として2010年から2015年まで民法第750条「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。」という条文と対峙した。メディアにも取り上げられた注目の判決はしかし、2名の弁護士出身の男性裁判官と3名全ての女性裁判官が違憲判断をしたにも関わらず、10名の男性裁判官の合憲判断によって退けられた。U.Sは「女性たちが司法、政治に進出することが必要である。夫婦別姓訴訟で私たち弁護団は、女性が少ない司法の現場で、性差別が公平に判断されるはずがないことを痛感した」と訴え、講演を締めた。(『たより』No.53 2017: 9)

 男女雇用機会均等法、国籍法、介護保険法、女性学の創設など、東大卒女性が日本における女性の地位向上のターニングポイントに関わった実績は数多い。いずれ夫婦別姓が認められるようになるとすれば、さつき会会員の社会変革への関与実績の1つとして加えねばならない。

 一方で、東大卒であることへの重荷を感じる卒業生も少なからずいる。特に上の世代では世間の高学歴女性に対する偏見まじりの目線に戸惑い、何とか適応するために自虐的な振る舞いを身につけたという話は多い。以下はその一例である。

 A.Y(55文)「東大出の女であることが仕事に有利であると思ったことはない。かえって「そんな風に見えない」と言われる場合に概ね対応が上手くいっているということだし、卒業以来職場でも地域でも或いは家庭でも東大卒であることを笑いとばし、まぐれの代表みたいな顔をしつづけることが習性になった。」(さつき会 1986: 17)

 Y.J(79文)「東大出であることが知れた後で、相手の男性におこる微かな変化、相手の女性に現われてくる敬遠の表情、そんなものにも最近は慣れてしまった。(中略)多くの日本人にとって、一種の「魔法の言葉」になっているように思われる」(さつき会 1986: 143)

 少数派であるが故の生きづらさを、東大卒女性をはじめとした高学歴女性、社会的地位の高い女性たちは背負わざるを得ない。性別役割分業観がいまだ卒業後の社会に蔓延るとあっては、この偏見から完全に逃れることはできないのかもしれない。しかしながら、その中で道を切り拓き社会を変える側に回った先人たちは少しずつその固定観念や、ガラスの天井を打ち崩してきた。さらに、今なお多方面で活躍し続ける東大卒女性1人1人が「草の根」レベルで周囲の「女性」「東大卒」といったレッテルを書き換えることができるのではないか。やや強引ではあるが、前半で紹介した活躍への意志を持つ卒業生らは、「女性ながら実績を残している」、後半の東大卒を自虐してしまう卒業生らも、「東大卒ながら人当たりが良い」というレッテルの打破を試みているという点では共通している。彼らは、大なり小なり自らの少数派としての生きづらさを乗り越えながら卒業後の人生を生きてきたのだと言えよう。

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