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過剰な気遣いは気遣いではないという話。


母親は、とても気配りの出来る人だと思う。
場の空気を察知して、盛り上げたり、優しく声をかけたり、そういうことをとてもよく出来る人で、根本的なボランティア精神の強さみたいなのを感じることがある。

ただ悪く言えば非常に自己犠牲的で、相手の気持ちや場の空気を最優先する余り自分を潰してしまう人だなとも思う。

母親のあぁいった空気を読む力と周囲への過剰とも言える気遣いは、複雑な家庭環境で育った経緯や、結婚してからの旦那によるモラハラで形作られたのだろうというのは察するに余りあり、気遣いのできる優しい人、というよりかは、見ていて痛々しい人、という印象が勝る。

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母親を見ていて思うのは、過剰な気遣いというのはとても自分勝手であるということ。

元々母親は家事も仕事も育児も全部しっかり一人でこなしてきた人で、母親が全てやるので僕も姉も家事などろくにしたことがなかったし、もちろん父親も出来なかった。

お菓子作りはしていたけれど僕は当時料理だって一切出来なくて、母親が病気になったのをきっかけに家事を色々するようになって、それから出来るようになった。

自分は当時から働くことが上手くいかず家にいることが多かったので、自分なりに母親の代わりに出来ることをと模索した結果が家事をすることで、少しずつ色んなことを出来る様にしていって、ほぼ全ての家事を出来るくらいにはなった。

これは自分にとって良い作用が多くて、色々と思い悩む自分の中で自分なりに出来ることを見つけ、身につけることが出来て、最終的にはそれを仕事にも出来たくらいなので良かったと思っている。

しかし、母親はとても責任感が強く、「病気とはいえ主婦なのに家事をやらないなんて申し訳ない」という気持ちと常に折り合いがつけられないでいる。

これが非常に厄介なのだ。

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僕の中ではもう母親は家事をしなくて良いと思っている。

今まで充分一人で頑張ってきたし、病気と闘いながら仕事もしてるのに家事までやってたら明らかにキャパオーバーだし、僕が出来る以上やる必要なんて全くないし、そもそも母親がやらなくて済むように僕は家事を覚えたのだ。

それは僕なりの母親の闘病生活に対する支え方のひとつであり、僕は僕でその役割を果たそうと努力しているのだ。

しかし母親は、「やらせてばかりで申し訳ない」と、僕がやるからやらなくていいよ、と
言っても何かやろうとする。

これが物凄くストレスなのだ。

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やらなくていいよ、と言ったことをやられるのというのは、すごくストレスがかかる。

しかし、自分が病気だからと何もしてないのは申し訳ないという責任感からその行動が成されているということを理解しているから、あまり強くは言えない。

イライラをぐっと堪えて、優しく、やるからやらなくていいよ、と言う。

そうすると、一度の忠告で聞いてくれたらいいものを、「やらせてばかりで申し訳ないから」と強行しようとする。

こちらはすでに、やらなくていいことをやろうとしやがることに対してストレスが溜まっているので、ツーアウトでイライラが出てしまう。

やらなくていいから、と語気を強めると、「お前が大変だろうからやろうと思ったのに」などと始まってしまう。

このやりとりは本当に不毛なのだ。

これがごく稀にある話なら、この人は相変わらず責任感の強い人だなぁ、子供に負担をかけまいと気を遣ってるんだなぁ、で終わるのだが、約10年、毎日のように繰り返されてみろ。

狂うわ。

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これのポイントとして、母親は「あなたの負担になっては悪いから、気を遣って私がやろうとしてあげている」と思っているところである。

なので母親はそれを拒絶されると、「私が気を遣ってあげているのになんで分かってくれないの?」になる。

それが膨らみに膨らんで、酷い時は「皆私の病気のことを理解してくれない」「助けて欲しいのに何もしてくれない」と始まってしまう。

残念ながら、母親の行動の根本は相手への気遣いではなく、自分自身がやりたいことをやって安心したいという気持ちであり、そのためなら周りがいかに自分のために動いていようが関係ない、相手を優先している気になっているだけで非常に自己中心的な感情なのだ。

過剰な気遣いというものには必ずエゴがついて回り、しかしそれに対して本人は無自覚なので常に被害者意識で相手を責め立てる。

これに巻き込まれた人間はとてもメンタルを消耗するのだ。

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そしてこれは信頼問題にも発展する。

僕の発するやらなくていいよ、を、母親は信用していない、ということなのだ。

これは恐らく父親のせいで、父親は常に口では良いよと言っていても態度で明らかに良いよと思っていないことが非常に多い。

母親は常に父親の顔色を見て動いてきたので、いいよ、と言いながらも本当はそうではないんでしょう?私がやらなきゃいけないんでしょう?と、先回りして父親の機嫌をとってきたので、これが抜けないのだと思う。

何が腹立つって、やらなくていいよと言ったことをやられることは、僕が本当に心から母親を想って家事を引き受けたこの気持ちさえ否定されたことになるからで、「お前も父親と同じで本当は嫌なんだろ?私にやらせたいんだろ?」と言われているのと同じだからなのだ。

僕は毎日、母親を想う気持ちを母親自身に否定されているのだ。

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毎日の家事が負担じゃないとは言い切れない。

仕事しながら家事をするのは本当に大変なことだし、両立が上手くいかずにメンタルのバランスが崩れたり身体を壊したりは何度もあった。

それでも家事をやるのは当たり前で、母親の代わりに何かしてあげたいという気持ちも本物で、僕の「やらなくていい」は本心からの「やらなくていい」なのだ。

けれど母親は、僕がそう本心から思ってない前提で、家族を気遣っているというフリをして、自分自身がやることで不安を解消したいという一心で動くのだ。

これに対しては父親も同じようにイライラしていることが多く、なにか母親が手伝おうとして、やらなくていいよ、と言ったのに強行しようとすると父親もまた尊厳を傷付けられ、声を荒げる。

そうすると母親は声を荒げられたことに対して傷付き、「なんであなたを想ってやろうとしたのに怒鳴るの!?」と始まるのだ。

自分自身で相手の尊厳を傷付け、怒らせたという自覚が全くないのだ。

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そしてこれらの言動は気遣いの押し付け、信頼問題に加えて、僕らの努力を全て潰す行為であることにも気付いていない。

何故僕らが家事をするか?それは母親の負担を少しでも減らして怪我や病気がいち早く治るように、進行しないようにというのが第一なのだ。

しかし母親が家事をしてしまうと、今まで僕らが家事を引き受けてきた分がパーになってしまう。

僕らの努力を全て水の泡にされた上に、「手が痛い」「無理したから体が痛い」などとのたまわれては頭を抱えるしかないのだ。

なんのために僕らが家事をやっているのだろうか?

何故勝手に動いておいて、「私がやってあげたのになんで怒るんだ」「お前らがやってなかったからやってあげたのに」「見てみろこんなに身体が痛い、しんどい」「なんで分かってくれないんだ」と僕が責め立てられないといけないのだろうか。

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それは本当に、自己中心的な心理だと僕は思う。

自分自身も含めての話だが、メンタルを病む人間というのは人に気を使い過ぎる真面目な人間に見せかけた究極的に自己中心的な人間なのだと感じている。

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僕は、気遣わないことが気遣いになる場面もあると思う。

例えばお土産のお菓子なんかをどうぞと言われた時に、「わーい!」と真っ先に自分の好きなものを取る人も居れば、「どうぞ自分は後で良いんで好きなもの先に取ってください」と譲る人も居る。

この時に後者のタイプばかりが集まると、延々と譲り合いをして一生誰も手に取らないということが起こり、結果的にお菓子を持ってきた人が「皆本当は食べたくないのかな?余計なお世話だったかな?」と思わせてしまう一因になりかねない。

こういう時に、「じゃぁ自分はチョコ好きなんでチョコのやつにします!」とか言えたら良いなと思うのだ。

真っ先に自分の好きなものを取ることで安心する人も居れば、周りの人がそれぞれ好きなものを取ってくれたら安心する人も居て、両方の安心感を上手く尊重出来るように、気を遣わない選択を出来たら、と。

レジの前で延々と、私が出すわ、いいや私が出すわ、と押し問答をしている可愛いおばちゃん達も、お金を出したいという気持ちの押し付け合いでレジを滞らせるので、気を遣わず出してもらう気遣いと勇気を持て。

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最後はちょっと話がズレたが、気を遣わない、ということは相手への信頼の証であり、時として最大の気遣いだと僕は思うのだ。

母親の過剰な気遣いが、今日も僕の首を締め上げていく。

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