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悟り、不老不死、キリストの永遠の命、仏陀の空と色について

悟った人間はいても、不老不死を実現した人間はおそらくまだいない。
と書くと、永遠の命を与えるとキリストは言っていた、釈迦だって同じようなこと言ってたじゃないか、きっと、たぶん…と思うそこのあなた!
ってそんなやついねーか、はは、なんてなつかしいネットスラングを交えつつ、永遠の命とはなんなのかについて考えてみるには、というか究極、この世界のあらゆる問いについて考えるならば、どの入口だろうが、まずかならず自分を考えるところから出発しなくてはいけない。

自分、とはなにか?

我思う、故に我あり。とデカルトは言ったが、ではその「我思う、故に我あり」と思っている我を見ている人物は誰なのか?
瞑想系の本にはだいたい書いてあるが、あなたはゆっくり目を閉じる。それから、なにも考えないでおこうとする。そうすると、それがほとんど不可能なことにあなたは気づく。
そう、浮かび上がる思考はコントロールできない、それは勝手にやってくる、そしてもしもあなたがそれを「勝手にやってきている」とだけ思えば、つまりそこに喜怒哀楽などの意味を読み込まなければ、それはただ去ってゆく。嵐のように。
あなたと関係なくやってきて去っていくものが、はたしてあなたそのものだと言えるだろうか?

そう、思考はべつにあなたそのものではない。思考は完全にあなたではない、とは言えないかもしれないが、それは複合的なあなたの中からほとんど自動的に選択された一つのあなたであり、だから同じ雨を見ても、日によって嬉しかったり哀しかったり苛立ったりする。

瞑想を続けよう。そのまま目を閉じて、息を数えるのに集中していると、でもやがて考えが浮かばなくなってくる、気を抜けば夢のきざしのようなものがちらちら現れるが、そこでふとあなたはあなたの思考を見つめる存在に気づく。わたしは喜んでいる。わたしは怒っている。わたしは泣いている。
でもそれを見つめている存在、つまりこのわたしはどうともなっていない。ただ見つめている。あるいは感じている。これこそがまさに永遠の命である。

どういうことなのか。説明するにはカントを援用する必要があるが、カントの「もの自体」という概念、つまり、当たり前なのだが、たとえば人間が見ている世界と二枚貝が見ている世界はぜんぜんちがう。人間は視覚で世界を認識するが、二枚貝は触覚で認識している。同じ視覚同士でも、赤外線が見えるような目を持つ動物なんかもいる。というか、そもそも人間同士でも、視力の強弱含めて見える世界はもちろんちがう。
ということは、「もの自体」つまり「世界それ自体」の正しい形というのは、存在したとして、誰もそれを認識することはできないわけだ。
ということは、わたしたちにとっての世界とは結局、「わたしに見えている世界」でしかないということだ。
で、この「わたしに見えている世界」に映る景色とはつまりもの自体=真実の世界それ自体ではなく、「わたしだけの、わたしの意識が作り出したまぼろし」で、それを仏陀は「空」と呼んだ。
その「空」に、心はなにか意味を与えようとする。それは「まぼろし」なので与えた意味もまた「まぼろし」にすぎないのだが、たとえば同じものや人をきれいと思ったりきたないと思ったりする。そのそことを今度は仏陀は「色」だと言った。
空即ち是れ色、イコールで結ぶのであればその反対も無論成り立つ、色即是空、悟るとは「空」になることだと思っている人もいるが自分はそうは思わない、悟るとはただ空が色であり、色が空であると気づくだけだ。
だから悟りなんてのは実はむちゃくちゃ楽勝で、むずかしいのはそのあと。それを知ったあとでどう生きるかなのだが、その話はおいといて、じゃあ実際永遠の命って言っても、そんなの屁理屈で、死は存在するじゃん! という話に答えるには、今度はスピノザの話をする必要があって…(続きは家で、酒を持ってきてくれたら、先に音楽を聴いて、明日覚えていないような、深く静かな夜の中で)


すべて酒とレコードと本に使わせていただきます。