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美しいと思える心と、感謝の心

◎いつもの道が紅葉した

10月末から11月頭にかけて、1週間ほど川崎町を不在にしていた。
10月末はちょうど葉っぱが色づきかけていた時期だったので、「紅葉が綺麗な時期を逃しちゃうかなぁ」と少し心配しながら、川崎町を発った。
11月頭に1週間ぶりに川崎町に帰ってきたら、1週間前よりも冬の気配は濃くなっていたけれど、「明日の朝は温泉へ行った方がいい、なぜなら紅葉が最高に綺麗だから」という友達の言葉から、シーズンは逃さずに済んだことが分かって、少しほっとした。

翌日、友達に言われた通りに朝いちで温泉へと向かった。
温泉に通じるいつもの山道を車で走ったら、確かに、本当に、紅葉が美しかった。
紅葉の美しさに圧倒されて、ひとり運転をしながら、「わぁ」と感嘆がこぼれたぐらいだった。
その圧倒的な紅葉からは、単なる美しさだけではなくて、「いずれ散るのよ」という儚さと切なさ、「これは寒い冬を迎える準備なのよ」という強さと緊張感も感じられた。
儚さ、切なさ、強さ、緊張感、ひとつひとつがひしひしと伝わってきたし、ひとつひとつが"美しい"を裏付けているような気がした。
また、紅葉に対して"美しい"以外の感情を抱いた自分に小さく驚いたりもした。

「いつもの道」が紅葉していて、堂々とした美しさと圧倒的な姿を見せつけられると、「あぁ、木々も冬に向けての準備をしているんだなぁ」とか、「彼らのようにわたしもどんと構えて冬を迎えたいなぁ」とか思わずにはいられなかった。
初めて迎える川崎町の冬に対してびびる気持ちを少なからず抱き、川崎町に帰ってきたから、紅葉する木々から励まされたし、心がふぅっとほぐされた気がした。
紅葉する樹木に吸い込まれるように圧倒される、紅葉を見てたくさんの感情が掻き起こされる、そういった初めての経験をしたのは、移ろうこの自然が、いつの間にか"わたしの暮らし"の一部、そして、"わたし"の一部になっていたからなのだと思った。

◎"美しい"は希望だった

11月中頃、いつも作業をしている百の山で、軽い山登りハイキングをした。
いつもは山のふもとで作業をしていたので、山頂まで行くのは初めてだった。
ふもとには主に杉や松が生えているのだけれど、杉山を抜けて奥へと山を登っていくと、そこに広がる世界は全く異なっていて、正直とても驚いた。

ふと足元を見ると、小さくて真っ赤な紅葉がぴょこっと生えていた。
まつぼっくりが、ころっと落ちていたりもした。
赤、紅、橙、黄、山吹、緑、深緑、茶、など、いろいろな"色"が目に飛び込んできた。
追えないぐらいにたくさんの種類の樹木や草木が、そこで生きていた。
まさに感無量という言葉がぴったりで、歩いているだけで楽しくて、楽しくて、美しくて、自分の心がすっごく喜んでいるのが分かった。
山登りをこんなにも楽しんだのは、初めてだった。

多様な広葉樹や草木を見て、体感する中で、その多様性を「あぁ、美しい」と思えること、そして、ほっとした心地良さを感じることが、人間が自然であることの証であり、人間の希望なのだと思った。
わたしたち人間は、というか、少なくともわたしは、「多様だから」という理屈や言葉によってではなく、ポジティヴな心の震えによって多様性を好んでいるような気がして、そして、このポジティヴな心の震えが希望なのだと思って、ただただ嬉しかった。

◎写真と、言葉と、心と

山登りをした次の日は、友達である秀海くんの写真展に行ってきた。
秋保にあるガラス工房「尚」で開かれた写真展には、秀海くんの空と海の写真が展示されていた。

ひとつひとつの写真が美しく、そして、色んな感情や思考を湧き上がらせる余白と、色んな解釈を委ねてくれる感じがとても心地よかった。
写真そのものも、写真に添えられている言葉もあたたかくて素敵で、だけどそのあたたかさは決して甘くはなくて、シンプルで端的で、どこか緊張感もあって、だけど圧倒的な優しさとあたたかさがやっぱり伝わってくるものだった。
また、その写真に込められた秀海くんのメッセージや思いもひしひしと伝わってきた。
でもそれらは決して押し付けがましくはなくて、写真と添えられている言葉を通じて秀海くんと会話をしているような気持ちになって、だからこそ、ひとつひとつの写真に対する感情や思考がより深まったんだなぁと思う。

展示されている写真や、写真集の写真を見て、そこに写っている花の匂いがふわっと漂ってきた気持ちになったのは、初めてのことだった。
鳥のさえずりや草木が風に吹かれている音が聞こえるような気持ちになったのも、初めてのことだった。
すぅっと写真に見入っのも、初めてだった。
連続した初めての体験に驚き、すごく不思議な感覚になったのだけれど、これがプロってことなんだろうと思って、心から尊敬の気持ちが募ったし、幸せな気持ちになった。

どの写真も素敵だったのだけれど、中でも1番響いたのは、「ピンクに染まる要塞」というタイトルが付けられたクロアチアで撮られた写真を見た時だった。
ありえない!ってぐらいに綺麗な、オレンジ、ピンク、白、紫のグラデーションの空と、手前にぼうっと浮かび上がる要塞が、不協和に共鳴している写真だった。
また、この写真には「見たものを美しいと思える感性と、全てに感謝できる心。それだけあれば、十分なのだ。」という言葉が添えられていた。

この写真と言葉を見た時、はっとせずにはいられなかった。
"美しい"と思える自らの感性に喜ぶだけではなく、同時に、感性を呼び起こしてくれる自然と他者に対する感謝の気持ちを忘れてはいけない、忘れたくはない、そう思った。
未熟すぎて、自惚れて、ついつい忘れそうになる他者への敬意と感謝の気持ちを思い出させてくれて、ありがとう、と心から思った。
そしてもちろん、この写真を撮ってくれた秀海くんにも、ありがとう、と思った。

温泉への道のりで見た紅葉や山登りで掻き分けた多様な草木を、美しいと思えること、感動できることは、そもそも、彼らがそこで生きてきた(生かされてきた)からだ。
また、この自然と景色にわたしが出会ったのは、多くの人たちとの出会いがあり、偶然とご縁が重なったからであり、今わたしがここで生きている(生かされている)からだ。
わたしの感じる"美しい"は"全て"によってできていて、だから奇跡で、やっぱり美しいのだと思った。
そして、"美しい"を感じて生きることは、全てに感謝しながら生きるということなのだとも思った。

今はまだ11月だけれど、これから冬がやってくる。
雪が降るのか降らないのか、今度は木々は何を見せてくれるのか、畑のお野菜たちはこの寒さの中でどう過ごすのか。
小さな未知と奇跡が連なっていく中で、美しいと思える心と全てへの感謝の心は、ずっと、そっと、しっかりと、これからも抱いていきたいな、と思う。

 

写真:2020年11月14日@重雄さん家の前
足元に広がる秋がかわいくて美しかった。本当は、温泉への道のりや山登りの時の写真を載せたかったけれど、写真フォルダに1枚もなかったので。

 

(おわり)

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