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鬱映画

昔から鬱映画が好き。

胸糞悪ければ悪いほどいい。バッドエンディング最高。
このことを友達に言うと全く理解されない。何でせっかく映画観るのに気分悪くならないといけないんだと。
本当にその通りだと思う。だって好きで観てても気分はちゃんと毎回沈むし。

じゃあ何で自分はそれでも鬱映画を観るのか。そして好きなのか。以前に考えたことがある。

それはきっと主人公がどん底に突き落とされたり、救いのない結末を迎える姿を見てどこか無意識的に安心しているのだと思う(もちろんフィクションであるというのを大前提に)。
自分に影響が及ぶことは決してない無関係な立場から、画面の向こう側で起こってる出来事に対して高みの見物をするかのように。その安心感が癖になってる節があるのかもしれないと、こんな考えに行き着いた。

自分が少し怖い。ゾッとする。

学生時代、いじめられっ子を遠くから見て自分じゃなくてよかったと安心したことがきっとあったはずだと、振り返ってみて気付く。
助ける勇気は1ミリも湧いてこなかった。せめてものにすらならない、可哀想とだけ心の中で呟くことしかできない卑怯者。
あの頃は学校という小さな箱の中で生き抜くために事を荒立てずにやり過ごすことだけで精一杯だった。変にはみ出てしまうといつ標的になるかも分からない残酷な世界。当時は小さな箱そのものが世界全体であると信じて疑わなかった。

見過ごしてしまったことが加担となったことも多々あったと思う。
そのことを思うと胸が苦しいだなんて安易には言えないどころか、口が裂けても言ってはいけない。卑怯者だった自分がそこにはいた。ただそれだけのこと。

一人一人が生きてる人生そのものを映画とするならば、辛い境遇に置かれてる人を傍観して安心なんかせずに、ヒーローには当然なれないとしても卑怯者だった頃よりは何ミリか成長できたはずの自分で、脇役としてスクリーンにカットインする気持ちだけは常に持っていたい。その気持ちがまやかしなのだとしても。

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