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書く技術と、書きたいことを思い浮かべる力

何を隠そう、文章を書くことが好きである。

いや、何も隠してはいないし、隠れてもいない。

気がつけばほぼ毎日PCに向かって、一銭にもならない駄文をつらつらと書き綴ってしまう。

これまでnoteだけでも300万字以上の文章を書いていて、仮に文字単価5円の仕事だとしたら1500万ほど稼げていることになる。(そんなうまい話はない)

文章を書くことが好きなので、同時に言葉についてもこだわりをもっている。

文章の校正が甘いので、noteの記事では誤字脱字の類いが多いのだが、それでも言葉については、きちんと取捨選択して、書きたいことをきちんと表現できるように心掛けている。

そして、この「書きたいことがある」ということが、実は一番重要なんではないかと思う。

文章や言葉にこだわりを持っているのは、自分の書きたいことを、きちんと表現したいからに他ならない。


自分の子供の話で恐縮だが、まだ低学年の男の子ということもあって、自分の考えや思いを文章に落とし込むことがそれほど得意ではない。

昨今の受験事情は、書き問題重視の傾向があるとかで、奥さんはこれは何とかしなくては、と早くも焦っていたりする。

ただ、僕が思うのは、書くことは技術であり、それなりの訓練や慣れで力はつきそうだが、書く内容を頭に浮かばせることの方が重要かつ難しいことなのではないかと言うことだ。

ここでは「書く技術」に対して、「書きたいことを思い浮かべる力」とでも呼んでおこう。

書きたいことが浮かんでこなければ、いくら書く技術だけ磨いていても、あまり意味が無い。

まずは書きたいこと、心の中の思いが重要なのだ。


では、書きたいことや思いは、どうやって浮かんでくるのだろう。

自分の考えは自然発生的に浮かんできそうなものだが、実はそうではない。

何か身の回りに事象があって、そのことについて思い巡らせることで、考えが浮かび、まとまっていくものなのである。

あくまで自分の外側に対象物があり、そのことについて自分の内側で思いを馳せることで、言葉や文章が浮かび上がってくるのである。


少々抽象的になってきたので、少し具体で考えてみる。

子供の頃、読書感想文に苦労した思い出がある。

何度読んでも熟読しても、全く「感想」はまとまらなかった。本を読むことは好きだったが、「面白かった」くらいしか感想の言葉が出てこないのである。

今考えると、本一冊を対象に感想文を書こうという大前提が間違っていたのだと思う。

考えや思いをまとめるにあたっては、対象物はグッと絞り込んだ方が良かったのだ。

なるべく限定したものであれば、もっと端的な感想が浮かんでくる。Aの小節は「可哀想だった」、Bの小節は「可愛かった」などと、感想を切り分けていくことがポイントとなる。

全体としては「面白かった」で良いのだが、枝葉の部分に注目していくと、もう少し具体的な感想が出てくる。

感想、つまりは思いが浮かんでくれば、あとはそれをまとめるだけとなる。ここからは「書く技術」の領分となるだろう。


藤子Fノートでは、個別具体的な作品のレビューの執筆に注力している。藤子不二雄論という形にしてしまうと、凄い人でした、などとつまらない感想文となってしまうからだ。

そうではなく、記事の対象を一つの短編に絞って、そこを掘り下げていく。その繰り返しによって、最終的に全体像が面白い形で姿を見せてくれるのではないかと期待しているのだ。


300万字、750本のレビューを書いてきたが、まだ完結は見えない。藤子先生の全体像はいつどんな形で浮かび上がるのだろう。

言葉と文章にきちんとこだわって、少しでも多くの記事を残していきたいと思う。



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