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自分しかできないことなど無いのかも知れない

今日は二つのMTG(というか雑談)があった。一つは昼間に、10歳程下の後輩と、さらにもう10歳程下の後輩の二人と。もう一つは、夕方に10歳程上のデザイナーさんとである。


後輩とのMTGは、かつて自分が担当していた仕事を、新しく彼女たちが担当することになったので、過去の事例を教えて欲しいというような相談だった。

今は少し立場を変えているが、彼女たちの仕事は今の僕の仕事にも関わっていて、協力できる部分が十分にあるので、力を貸すことにしたのである。

MTGの中で自分の経験を(多少偉そうに)語ったのだが、語りながらも、まあコツがわかれば大した仕事ではないな・・・とふと我に返る瞬間があった。

僕が自分だからこそ成し遂げられたと思ってきたことは、別に僕でなくてもできた仕事なのではないかと、そんな風に思ったのである。


時に僕は、今年の春から新しい仕事に着手しているのだが、さっそくこの秋に一定の成果を出すことができた。

初めて経験することだったり、普段使っていない頭の筋肉を動かしてみたり、単純に仕事量が多かったりと、それなりに大変な業務ではあった。けれども、今までの経験も活かすことができたし、やりがいも十分に感じた幸せな仕事でもあったのだ。

その一方で、着任わずか半年でそれなりに完成してしまう仕事に、自分ならではの貢献ができたのか、その点で、あまり手応えを感じていないのも確かである。

もっと言えば、別に誰にでもできる仕事を、たまたまやらされただけなのではないか、という疑念すら浮かんでいるのだ。


直近の仕事において、自分ではなくても良い仕事だったのではという気持ちを抱いていたところに、過去に取った杵柄の説明をしたわけだが、その流れで、これまでの自分の仕事は、別に誰でもできる仕事だったのでは、と感じてしまったというわけである。


そんな、モヤモヤした気持ちのまま、夕方の二つ目のMTGに臨んだ。

MTGの相手は、今回の仕事でお世話になった旧知のデザイナーさんで、本日は雑談混じりにその振り返りをしたのである。彼は業界の大先輩でもあるし、フリーで長らく活躍されている方なので、先ほどのモヤモヤをぶつけてみることにした。

「自分ならではの仕事って、実は何にもないのではないか」という趣旨の質問を投げかけると、彼はあっさりと「仕事はそういうものだ」と認めたのである。

例えば、今デザイナーの世界ではAIの活用が真っ盛りで、彼も要所要所で使っているのだという。で、使っている内に、自分ならではの仕事がAIに浸食されていく感覚があるのだと、彼は言うのだ。

常に仕事が途切れない大先輩であっても、自分の仕事が別の誰か(時にAI)に取って代わられる可能性を感じていることがわかったのである。


今日の二つのMTGを経て、僕は長いこと自分を過信してきたのかもしれない、と不安を覚えることになった。

今年取り掛かった仕事も、これまでのキャリアを生かした結果、多少の時間的ショートカットができたように思うが、それは単に時間の問題に過ぎず、結局誰が担当でも良かったのではないか。


ただ、である。

仮に自分しかできないことがなかったとする。今の仕事は、別の誰かに取って代われる仕事だとする。でもそれで、何がいけないのだろうか。

そもそも唯一無二の存在などにはなり得なくて、けれど一生懸命に自分の個性を輝かせようと努力する、その過程が重要ではなかったのか。


自分ならではの個性とは、実は、仕事の過程において発揮するものなのではないかと思う。誰がその仕事を担当したとしても、結果はおおよそ変わらないのかも知れないが、結果に至る過程は人それぞれであるに違いない。

そうであれば、過程で関わった人たちとの化学反応は、唯一無二のものであるだろうし、そこで僕自身の個性が輝く瞬間があったと思うのだ。


もしかしたら、僕は少し仕事の結果だけを意識し過ぎたのかも知れない。結果の側面だけを見て、「自分しかできないことなど無いのかも知れない」と考えてしまったのかも知れない。

そうではなく、仕事を成し遂げるまでの過程に、もっと着目するべきなのだ。いや、僕はずっとそうしてきたはずなのである。

会社や社会にとっては、仕事は結果が全てなのだろうが、個人レベルでは、仕事は過程が重要である。結果に至る過程にこそ、自分ならではが発揮できる場所があるのだろうし、やりがいが埋まっているものなのである。




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