見出し画像

臺灣で過ごした4年間まとめ1

皆さんこんにちは!

やっとこさ臺灣留学の話をしていく氣になったサリーです。

最近pooloでは今の話や、留学行く前の話、歴史の話などにフォーカスを充てることが多く、なかなか留学四年間の話をする機会がなかったので、
一度まずは文章起こしから始めようかと思います。

1.どんな環境下で生きていたの?

嘉義県というグルメ街台南の上にある県の
パイナップル畑に囲まれた丘の上にある国立大学。
大学の周りにはご飯街と学生寮しかなく、
下着や服を買いに行くにも、バイクで丘を下るか、
30分に一本のバスを待つか、タクシーを呼んで街まで降りる必要があった。

学部生活でいうと、
学部には4学年合わせても日本人0人。
華僑出身者以外の外国籍生も全体で二桁行かない程度。
学校全体でいうても、入学当時は日本人は10人もいなかった。
私が何かしでかしたら、それがそこにいる人たちの日本人の
イメージになってしまう。そんなプレッシャーとも勝手に戦っていた。

唯一の救いは、同期で入学した日本人女性二人と
一年半寮が同室だったってこと。
そこに+マレーシア人のルームメイトがいて、
なんやかんやで4人で仲良くしていた。
寮内は中国語が飛び交っていた。

そんな完全なる異世界で、
私はまず日本人ってだけで臺灣人に興味を持ってもらった。

私は日本人女性留学生ってだけで、臺灣人の輪に
入れてもらうことが出来た。

というか臺灣人があまりにもオープンで、
優しく、温厚で、親日家だった。

本当に私は何人の人に助けてもらっただろうか。

2.私の留学を一言で表すと?

多くの人に助けてもらった四年間。

本当にこれに尽きるなと感じる。

お金もない、知識もない、経験もない、言葉もわからない
若干18-22歳の自分に愛を持って接してくれ、
期待してくれた人たちがどれだけいただろうか。

本当に一人じゃ生きていけなかったし、
周りの物理的、精神的支えや、支援がなければ死んでいたと思う。

今この文章を書いているだけでも、
たくさんの人たちの顔が浮かぶ。

愛に飢えていた私がたくさんの愛をもらった。
それが私の臺灣留学。

3.留学で一番痛感したこと。

色々身に染みて感じたことはあったけど、
一番を選ぶなら、私。。。
日本の事何も知らなすぎる!

もうこれに尽きる。
学部に日本人が私しかいない都合上、
日本に関してのトピックはとりあえず一回は振られる。
しゃべられん、聞き取られんとか関係なく、振ってくる。
もうそんなことも知りませんでした。ごめんなさい。
ってことたくさんあったな。

天皇制や、社会問題、捕鯨問題や、広島原爆の事。
はたまた観光、グルメ、サブカル、ファッション、エンタメ。
そして日本語に関してのあれこれ。
もうあなたたちの方が日本人ですか?ってぐらい
逆に私が教えてもらうことの方が多かった。

ただ一言言わしてほしい、十数年前の漫画の話や
AV女優について平気で我に聞いてくるのはどうかと思うぞ?(笑)

そして臺灣という環境は戦前日本に根づいていた考え方を
肌で教えてくれた。

今振り返ると、私は臺灣の街、臺灣人の生き方に、
わびさびと自然法則に従って生きる感覚を味わっていたのかもしれない。

確かに臺灣での私の生活は日本に比べると物資もなく、不便で、貧しかった。(臺灣が貧しいってわけじゃないよ。)
けどストレスフリーで、ありのままに生きることが出来た。
人の温かさ、優しさを感じて生きていた。

そんなところに憧れを、懐かしさを、羨望を抱いていたのかもしれない。

私は胸張って言える。
人として癒されて、パワーを貰いたいなら臺灣に行け。
臺灣人と話してこい。
あの人達の氣はものすごいエネルギーを持っている。

1のまとめ

正直書いていたら止まらないので、
一旦今回はこれまでにしておこうと思います。

情熱の國、臺灣。
國を通り越して土地だな。
嘉義は私の第二の故郷です。

また皆さんのリクエストにも答えながら、
留学の話をまとめていきたいなと思います。

もし興味を持った人がいてくれたら、
コメントでこういう話を聞きたいって
リクエストしてくれたら、うれしいです。

なかなか自分でトピック見つけて書くの難しい。。。(笑)

ではまたお互い自分を大切にしながら、
元氣で楽しく豊かな光ある一瞬一瞬を過ごしていきましょう。

ではまた。
サリー。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?