見出し画像

HSPに対するなぜ?

皆さんこんにちは!
今日も引き続きなぜを探求したい日みたいなので、
最近身近でよく話題に上がる、HSPに対するなぜを
考察していこうと思います。

なぜ今日本でHSPが注目を集めているのか。

私自身もHSPに該当する氣質を持っている方で、
18歳~22歳のころ、生活の中で繊細な氣質に対する
悩みを抱えている際に、HSPの概念に出逢い、
氣持ち的に救われた経験があります。

私が臺灣でHSPという概念に出逢ったころ、
日本でもこの氣質の話が徐々に有名になり、
日本の友人たちとの会話の中にも
出てくるようになりました。

そしてよく聞くようになったのが、
タイトルの問い。
なぜ今日本でHSPが注目を集めているのか。

これ私も考えました。
なんでHSPの考えかここまで広がり、
それを主張する人が増えたのか。

色んな人とこの問いについて話していくにつれて
私の中には一つ答えが出てきつつあります。

まずHSPの中に含まれる繊細さという特徴は
人間だれしも持っている。

それが人それぞれで強弱があるだけのこと。

ただ戦中社会や、
また戦後の世界では、
元の生活に戻るための戦いが、
今でも繰り広げられており、
その社会で生き残ろうとするには、
その繊細さは邪魔だと、
なくさないといけない。
悪だと判断されてきた。

実際その繊細さを鈍らす製品が
求められていることもある。

ただ今はおかげ様で衣食住は回復し、
豊かな生活が送れるようになったなかで、
繊細さを隠す必要がない人たちが増えてきた。

ただ人の思考習慣というのはなかなか変わらないもので、
すでに戦う必要がなくなっているにもかかわらず、
わけもわからず繊細さは悪と判断されたままで、
わけもわからず戦わさせられている。

そこに抗うために、
もう戦わなくていいよ!
本来の人間の姿に戻ろうよ!

その声が形になったのが、HSPという概念で
また日本で広がった根本的な理由ではないでしょうか?

もともと豊かな資源が沢山ある日本は
戦わなくてもお互い分け与えれば生きていけるのです。

それが社会システムや日常にあふれている常識が
人々をむやみな戦いに馳せ参じさせてしまっている。
戦う原因はすべて一人一人の脳内にある常識が
創りだしている。そう思えてならないのです。
だからこそ、一度その常識を疑え、捨ててみろ。
私はそう思っています。

人間それぞれ形は違えど繊細さはある。
あるものをあると認めてあげられるようになれば、
HSPという概念で自己防衛する必要もなくなるのではないでしょうか。

私はそう考えるようになって、
自分自身で自分の繊細さを受け入れられるようになってからは
自分自身がHSPなのかどうかはあまり氣にならなくなりました。

ほんの2,3年前まではつんつんとがり、
脳内の常識に縛られていた私ですが、
豊かに生きていくうえでは、
ありのままで生きるのが一番だなぁ
そう思う今日この頃です。

後書き
今日はHSPについてのなぜ?についてまとめてみました。
今回書いた目的としては、未来の私に向けた備忘録なのかなと感じています。

これから社会人として生きていく中で、必ずどこかで目の前のことに集中しすぎて、この考えをふと忘れてしまう時も来るかもしれません。
ただこの備忘録を残していれば、壁にぶちあったたとき、
必ず何かのヒントになってくれると信じています。

人生は長い。
氣づいた大事なことさえ、忘れることもあるかもしれない。
だからこそ、氣づいたことは記録として残しておく。

それがまた一つのピースとなり、必要な時にまた現れ
人生を創っていく。

いま自然に書いてみたけど、確かにこの考えは
小中学生の時に、聞いたことあるな。

あぁだから私はいろいろと至るところにメモを残しているのかもしれない。

もしよかったら、最後まで読んでくれたあなたも、
ふと氣づいたことをメモしてみてほしい。

今日も最後まで読んでいただきありがとうございます。
お互い日々頑張ってくれている自分に感謝して、
元氣で豊かで幸せで光ある一瞬一瞬を生きていきましょう♪

ではまた。
サリー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?